かってに源氏物語 帚木(楠木)編
源氏物語の中でも超難解の部分です。
でもその割には難しくなかった。と思っておりませんか。でも面白かったですよね。
やはり紫式部の源氏物語は素晴らしいです。
難解な部分は皆さんが解析して下さい。
かってに源氏物語 帚木(楠木)前編
古語・現代語同時訳
上鑪幸雄
原作者 紫式部
一
光源氏様は十七歳になられました。役職は近衛兵の中将という位まで昇進しましたが、今だに見習いで、自分の意志で兵を率いて行動することは許されません。
光源氏小将と呼び捨てにされ、名のみ事々しう大物と言い伝えども、さして何の功績も示せず、御年も若ければ、御前様会議においては主張を言い消たれ、否定され給う咎め多かなるに、なかなか自分の意見を押し通すことはできません。
いとど、藤壺の女御様に係る好き事どもを笑われ、
「桐壺帝の末の世にも残る恥さらしよ」
と聞き伝えて、軽びたる二人の名をや、世間に流さむと、隠しろえ、幼い事の親子の愛でをさえも、ふしだらに伝えけん人の物言い、ひどく悪者にしたがる、ふがいなさよ。
さる話の本当の所は、いと痛く世をはばかり、まめに誠実立ち賜いけるほど真面目で、女御様に対する礼儀正しさは、とても色事に関わる二人とは思えません。
世間の噂になよ引かぬ程おかしき事はなくて、昔話の片野の少将に言わせれば、
「あんな親子の睦まじさが、男女の愛の絡み合いだとは、呆れて物が言えぬわい。高官者どもこそ、あの程度の愛で満足しているのだろう。
男のたくましさを知らぬ。弱虫どもめが。ぶち太い俺のこれを見よ。てめえ等は、雀のあの程度のいちゃいちゃで満足しているのだろうめ」
とさげすむほど、色事に於いてはとうてい及ばぬと、笑われ給いけむ微細なことになりかし。
光源氏様はそんな高官の好奇心を、『恋愛とは自らが楽しむもので、他人の恋愛に異常に興味を示し、けなして楽しむは異常性愛だ』と、思っていましたので、
「他人の性に興味が持てなくなるまで、御自身が楽しみなはれ」
などと。一言言ってやりたかったのですが、新米の身の上ではそうすることもできません。
「若君こそ、葵姫との夫婦関係がしっくり行っていないではないか」
などと指摘されたら、それこそ面目丸つぶれです。
その葵姫の事でございますが、 まだ光源氏様が近衛府中将などにものし賜いし見習いの時に、内裏の狭い御所のみさぶらい、近衛府勤めは別としても、
「我が家に寄り付かず宿直官舎を寝暮らとし、日常の用向きをし賜いて過ごすとは何事ぞ。左大臣が住まう我が大殿には絶え絶えにして、たまにしか、まかり出賜う訪問などけしからん」
などと嘆き賜う。
葵姫は大殿を避けたがるのは、藤壺の女御に忍ぶの恋心ありて、
「男女の恋愛沙汰やあるやも」
と疑い、心を乱していると聞こゆる事もありしかれど、事実はともかくとして、光源氏様の差しも刺されぬ、こうも浮わ突きあだめきたる軽々しき行動に、日頃目慣れたるその場限りの、打ち付けたる物の言い訳、とても許す気になれません。
「人目があるのです。藤壺御殿へ参上するのは御控えなされませ」
とて言えば、
「準中宮は母上同然の御方です。何の遠慮が入りましょうか」
「二身等級以外の親戚は、恋愛関係とみなされます。光源氏様とて、女として惚れているやも」などと咎め賜う。
女に対する好き好きしさなどは、好ましからぬ御本性にて、まれには帝王様の女に愛嬌を振りまくなど、あながちに外面のみ良きにして、本音とは裏腹に引き違へ、御気遣い尽くしたる姿は軽薄あるのみ。
何の取り得のない相手に心尽くしなる事を、また過去の女を心に押し留むる未練の癖なむを、あや憎くにして、葵姫はさるまじき
「こん畜生」
と下品なる御褒むるまじき振る舞いも、時々打ち混じりける。
一方光源氏様の方は、二条の改修の住み家も気になって、時々そちらでも寝泊まりしておりましたが、相変わらずの貧乏暮しです。
家具などの調度品も元服の祝いでいただいた品があるぐらいで、大きな家財道具や生活用品もほとんどありませんでした。
光源氏様は桐壺帝の第二王子と言っても、母方が貧しく、しかも亡くなられておりましたので、そちらからの援助は全くありません。狭い領地とわずかな給金だけでは、財産は一向に増えないのでした。
ただ宮中の女官や町人の間では光源氏は大変な人気でした。時々宮中の豪華な食事が懐かしくて、帝王様や藤壺御殿の女御様を尋ね歩いていると、女官が足を止めて見詰めていたり、
知らせを受けた他の御殿の女御や侍女が、御簾の影から武官になった勇ましい美青年を、浮き浮きしながら覗いたりしていました。
帝王様が町を行幸されますと、大勢の町人が集まって、光源氏を人目見ようと大騒ぎになります。光源氏様は食事処で武官の仲間とお酒を飲んだり、好きな食べ物を注文したりしていましたので、
最近では御顔もふっくらとしてきて、首筋も太くなりました。髪も後頭部に強く結んでおりますと、額の両目脇も反り上がり、ふくよかで色白なのでとても良き青年です。遊び仲間は、
『若君の体は柔らかくてとても気持ちが良い』
と、指先で腹を突っついて遊んだりしていました。
二
五月雨の長雨しとしとと降り続き、晴れ間無き頃、内裏の者は御物忌み差し続きて外出を控える風習ありて、光源氏様とて、近衛府官舎で長居寝泊まりさぶらう暮らしとなる。を、
葵姫は大殿には参らぬと分かっていながら、おぼつかなく他の女と寝泊まりしているのではないかと恨めしく思したれど、よろづの婿殿の御身支たくを装い、暮らしに困らぬように贈物し賜う。
それは御年若きに似ず、何くれと不自由なきよう珍しきまでに調じて整え、家臣の者を出でさせ給いて世話させつつ、左大臣御息子の君達を、ただ心配の余り遣わす。
この者はあたかも御宿直所に宮仕えを装い、源氏の君に悟られぬように、家の者を監視役とて出で立て勤めさせ賜う。
あるの夜でございました。
以後略
三
「こいつはな、ずるいのだぞ。俺が好きになろうとする女に、すぐちょっかいを出す」
楠木様は、脇息に持たれて笑っている光源氏様に言いました。光源氏様があぐらを崩しているのに対し、頭の中将と左馬頭が正座したままです。この様子を見ますと、
役職は下でも生まれによる身分は光源氏様の方が上のようです。それもそのはず、光源氏は帝王様の二番目の皇子なのです。財産さえ引けを取らなければ、このような無礼を許すはずはないのですが、貧しい身の上は悲しいものです。
「ちょっかいを出すとはひどいですよ。好きな女を見つけると『中流の女はお前向きだ。俺は身分が高こうて相手にできぬ』といって私に様子を探りに行かせるのですよ」
草尾は若君に、楠木を叱って欲しいような眼差しを向けます。
「違うわな。わしは生真面目で高貴な生まれだから、めったに中流の女に手を出すわけに行かぬのだ」
「ははん、あの夕顔様の時はどうなのですか。私が自慢して見せたばかりに、横取りしたではないですか。左大臣家ともあろう上流貴族の御曹司が、下の中流の女に手を出すなんて、頭の中将様も落ちたものでございますよ」
草尾は頭の中将に、正面から向き合って言います。
「違う、違う。お前は陰からこつそり覗いていればそれで満足していたであろうが。あんな女など、どうでも良かったのだ。
こいつはそばに居るだけで、相手が好意を示しているのに一向に手を出そうとしないのですよ。俺は可哀そうに思って、自分の心に忠実に従って、こいつの代わりに実行したまでのことよ」
頭の中将は草尾の腕を掴んで、今にも友達の口を塞ごうとします。
「中流以下の私が、あんな高貴な女を囲むなんて出来ませんよ」
左馬頭は、楠木の手を振り払って言いました。
「ほらな」
そう言いながら、楠木様は草尾の顔を指さして、笑い顔を光源氏様に向けます。
「その上流、中流の区別はどうやって分けるのですか」
光源氏は不思議に思って尋ねました。
「あくまでも感覚的な問題だとお考え下さいませ。国守や、頭の中将・楠木様と光源氏様は上流。私目程度の役人や藤式部の丞、受領階級、貴族で地方に留まったものは中流と言えるのではないでしょうか。宮廷の各部署の長官や次官も中流でございますよ」
左馬頭は丁寧な言葉で言いました。
「そしたら下流とはどんな身分を言うのだ」
今度は頭の中将が聞きます。
「下流とは兵士や侍女程度の階級を言うのですよ。もっと広く言えば職人とか地頭とか。商人でも金持ちは下流とは違いますね。学者の師匠ともなれば、やはり上流でしょうか」
「でも私は屋敷が狭くて財産もないですからとても上流とは言えません。地方から京へ戻って、立派な寝殿造りの大きな家を建てた受領などを見ると、あちらの方が私などよりよほど上流に思えるのですが」
受領とは国守の代理として地方へ下り、地方での政治、年貢の取り立てを直接行って、俸禄を京の役人に送り届ける次官クラスの役人のことを指します。
国守が京に住まいを抱え俸禄のみを受け取る長官であるのに対し、こちらは現地で指図する家来筋の長なのです。たとえば紀伊守と言えば、紀伊の国の国主・国守のことで、次官・受領は紀伊の介という名前で呼ばれていました。
地方へ下った受領及の中には税金をごまかして、自分の懐を肥やす役人も多かったようです。光源氏はそうした受領階級の役人や、目の前の二人より財産が少ないことに不満がありました。
「そうなのです。その受領階級の姫君に良い女が多いのでございますよ。金に糸目をつけず高価な衣装や化粧道具を与えたり、
名高い学者に学ばせたり、琵琶や琴を与えて練習させておりますから教養も高いですよ。しかも、ある程度は世間に出歩いていますから物知りです」
「そうだよ。あの夕顔にしても、話しているだけで実に楽しい」
「そうですよね。楠木様を前にしてお勧めするのも何ですが、そうした受領の娘を御側女としてお迎え下さいませ。出世のためのわいろを提供したり、立派な家を建て直したり、いろんな援助が引き出せますよ。
桐壺帝の第二皇子ならば、大臣にまで出世できるでしょう。そしたらいい役職を欲しがる部下の献上品が、否応でも多くなりましょう。瞬く間に大金持ちですよ」
「私にそんな、ふしだらなことが出来るでしょうか」
光源氏様は頭の中将を見て言いました。
「できますとも。金と女が手に入る遊びは最高の快楽だ。相手の女に貢がせたとなると『してやったりだ』。征服感が何とも快感だぞ。心身もともに癒される」
「ひひひ・・・。ですが間違っても。下流の女に手を出してはいけませんぞ。惚れて女に貢いだとなれば、財産は減る一方ですからな」
光源氏様はおぼろげですが、世渡りについて分かったような気がします。
「世渡りが下手で部下を守る余り、上官と喧嘩して出世の出来ない貴族は下流も同然です。世間体を気にしすぎて、義理人情に溺れ過ぎてはいけませぬぞ」
「そうそう中流の女は財産だと思って、どんどん釣りあげればよいのです」
頭の中将と、左馬頭は若い光源氏をはやし立てるように言いました。
「ですが、葵様のように私の家にお越しならないとなると、どのような女人を招いて家を守らせれば良いのでしょうか。正妻のある私にそのような者に、都合の良い女人が見つかりますでしょうか」
「できますとも。帝王様の第二皇子ともなれば、京で一番の美人だって思いのままですよ。ですがいくら若い美人と言っても、浮気好きな女は困ります。後で殺し合いの波乱がおこりますよ」
「左馬頭には思い当たる節があるようだな」
くくく・・と笑いながら楠木が言いました。
「とんでもございません。私は飽きてしまった故、追い出したまでです。あれは美人で色気はありましたが、家の掃除や整理整頓がまるで駄目なんです。障子が破れ放題でも、庭に雑草が茂っていても一向に気にせず平気なんですよ。
化粧の仕方や着物の選び方が上手でも、家事に専念できない女人は駄目ですな」
「ですが、化粧を全くしない女人も困りますぞ。髪がぼさぼさで一向に櫛で解かそうとせず、掃除で汚れた衣服を平気でまとっていては下女も同然ですぞ。
そこへ自分の友人や上官が尋ねて来て御覧なさい。面目丸つぶれです」
「その通りです。それにそっけない女も困ります。せっかく男は役所勤めで女房のために働いて疲れて帰っているのに、困ったことを話しても、外で見聞きして楽しかったことを話しても、まったく相手にしない。
他人事のように上の空で、
『あ、そうでしたか。それが私と何の関係があるのですか』
と他人事のように言うだけで、感動しないとがっかりです。美しい新緑の山の景色や、咲き乱れる花を見せても、眠たそうにあくびをしていたのでは、せっかくの楽しい旅行も台無しですよ。
楽しい夕食の時ぐらい愛嬌を振りまいて欲しいではないですか」
「そうだよな。だが情が深すぎて、あれこれ詮索するのも困ったものだぞ。少しでも浮気がばれると、毎日泣き崩れて床に伏せたり、
『実家に帰ります』とか、
『いっそ川に身投げて死にとうございます』とかわめきちらして、そこら中の人に同情を求めてを歩き回って御覧なさい。屋敷内は大騒ぎですよ。なだめることに精一杯で、おちおち夜も眠れないぞ。
疲れて宮殿へ登庁しては仕事さえ差し障りが起こりかねない。家の中が暗くて、息が詰まりそうになるぞ」
「結局は賢くない程度の学識があって、気真面目で、物事に余りこだわらない大らかな女人がよろしかろうかと存じます。
出来ますればそうした素質のある女のお子様を見つけられて、自分の好みにあった女に育てるのが、間違もなくて、一番楽しかろうと存じますよ」。
「なるほどのう」
左馬頭が余りにも気真面目に言うものですから、光源氏様は確かにその通りだと思いました。今まで接した女人は、どれもこれも一長一短あって世話女房には向かないのです。
「所で、頭の中将様、その夕顔という囲い女は、その後どうなりました」
聞きたいと思っていることから逸脱していましたので、光源氏様はたまらなくなって聞きました。
「あれは突然いなくなってしもうたのです。家財道具一切もすべて無くなっておりますから、ある程度は前から準備万端にしておいたと思われるのだが、私にはこのような事が起ろうとは夢にも思いませんでした。
あれは私の援助なしには何も出来ない女です。少ないとはいえ、あのような家財道具を持ち運び出せるとは夢にも思いませんでした。なぜあのような大胆なことをしでかしたのかどうか、今も信じられないぐらいです」
「前触れもなく出て行ってしまったのでございましょうか」
草尾は心配そうに顔を曇らせます。
「そうだ。『北の方様が恐ろしゅうございます。どこか遠くへ移して匿って下さいまし』
とは言っていたのだが、これほど押し迫っているとは考えても見なかった。わずか一日通わなかっただけですよ。大勢で手伝わなくては、こんな簡単に引越しはできません」
「それでその後も音沙汰なしでしょうか。どこへ行ったのかわからないのですか」
光源氏様は不安そうに聞きました。もしかしたら、
「殺されている」かも知れないと思ったからです。
「そうなのです。ただ、置き手紙が残されておりました。垣根の門の横に、私と夕顔しか知らない木の箱をこしらえてあったのですが、その中に短い手紙と撫子の花が添えられてありました」
「手紙には何と書かれていたのでしょうか」
山がつの 垣ほ荒るとも をりをりに あはれをかけよ 撫子の露
あばら家の 屋根荒るるとも 時々に 情けを掛けよ 撫子の雨
山奥にあるような汚い家であったとしても、私達は茅葺の屋根に守られて幸せに暮らしておりました。この垣根が朽ち果てようとも、時々は私達のことを思い出して下さい。
撫子の君に落ちる雨露から、私たちを守って下さいませ。
『石で押えた屋根が崩れて、私と娘の玉鬘が死んでしまいます』と、そう書き残してあったのです」
「本当に悲しい手紙ですね。本当は別れたくなかったのでしょうに」
左馬頭が言いました。
「そうなのです。私の援助なしでは満足な暮しが出来るはずはない。娘の玉鬘がお腹を空かして倒れ込んでいないかどうか。
しくしく泣いて私の名をを呼んでいるのではないか、とても胸が苦しくてたまらんのですよ。あの娘は私に懐いておりましたから」
「こちらの思いを、伝えられないのが歯がゆいですね」
光源氏様も心配そうに言います。
「そうなのだ。『何も心配いらないから私の前に姿を現しなさい』
と、手紙を書き残したのですが、相手が何を言いたいのか、返事もないのではどうしようもない。
咲き混じる 色はいずれと 分かねども なお常夏に 敷くものぞなき
咲き混じる 色はいずれと 分かねども 我が子に勝る 愛嬌ぞなき
私は夕顔の子供が一番かわいいと伝えたくて、思っていることを和歌に託して手紙を残しました」
「例の連絡用の箱に入れたのですね」
「そうです。二三日して、その箱を覗きにいったのですが手紙は無くなっていました。しかし一向に相手から連絡の返事がないのです。私は心配やら、連絡をくれないことに腹が立つやら。
正妻に遠慮して身を引くのは良いが、余りにも弱気で心配掛けるのも困ったものです。家庭を守る女は強くないと困ります」
「まあまあいいじゃないですか。そのうちふらりと訪ねてきて。何でもなかったように姿を見せますよ」
頭の中将がめずらしく弱気な話をしましたので、左馬頭と式部丞は慰めました。
「だといいんだがな。俺のことはそれぐらいにしておこう。左馬頭、お前も相当、今の正妻のことで悩んでいるようではないか。どうしたいきさつで、今の妻と一緒になったのだ」
とて言って、楠木様は話しをすり替えました。
四
「そうでございますね、私も草尾殿のお話を聞きたいと思っておったところです。何とも深い因縁があるような。どんな些細な事でも良いから、御聞かし給うれ」
光源氏様も勉強になると思われまして、御聞きになられました。
「私が大学寮の文章生の時でした。私は式部省の先生をお慕いしておりましたので、御自宅にもよく遊びに御伺いしていたのです。そしたら、そこに身なりの雑な若い娘がおりました。
草花を写生したり、和歌を書いたりして、いかにも勉強しているように装うのです。
『どうしたのですか。勉強ごっこでもしているのですか』
と、私はいつもからかっておりました。
始めの内は逃げ出してすぐいなくなったのですが、そのうち話すようになって親しくなったのです。話をしているうち、その娘は地方へ時々旅行していたらしく、
物知りで学識も高い女だと分かってきました。
以後略
五
「ちょっと、ちょっと、紫式部殿、帚木後半のこの内容は何事ですか。まったく理解できませぬぞ」
「ほほほ・・・私の知った事か。もし文句があるならば大納言様に言え。酔っぱらいの屁理屈な論法などには付き合っておられぬわ。
上鑪殿も子供の頃、大勢集まった酔っぱらいの席で、大人に絡まれ、無理やり難解な理論を教え込まれた覚えがあろう。
あれと同じだ。内容などどうでも良い。酒を飲みながら暇つぶしできるなら、この連中はそれで良かったのだ」
「そんな、読者に何と説明すれば良いのです。納得してくれませぬぞえ」
「わしは降りる。ごまかして物語を書くのは、そなたの特技であろうめ。後の事はそなたに任せる。さらばじゃ」
そんな・・・」
「ただ上辺ばかりの情けにあわてて手走り書き、折り節の優等生らしき答えを心得て、気安く相手の思うままに打ち従うばかりは、随分によろしき暮らしも見給う例も多かれど、楽しいばかりとも言えぬ。
誠にその方を取りい出む選び方に『本当に好きだったのか、一生添い遂げて悔いはないか』などと、必ず漏るまじき不利な条件が出て来ては、いと後悔の念固しや」
「それでは楠木殿は、四の姫との結婚を悔いておられる」
「いや、そうばかりとも言えぬ。右大臣家の支援は、わしにとって有利な条件じゃ。しかも我が心得たる自己主張ばかりを、己が自身の考えだとばかりに相手にぶつけやりて、母君を苦しめるなど俺にはできぬ。
身内の人をば不幸に落としめするなど、肩払い憎まれたき事多かりき」
「楠木様は家族が多くて幸せでございます。父君と母君がおられます上に兄弟が八人も、うらやましい限りです」
「そなたも帝王様と言う立派な父君がおられるではないか。それに弘徽殿の女御の子供など、兄弟は何人もおろう」
「よそ腹は敵ではあっても味方ではございません」
「確かに」
親など立ち添いて仲人なども持て崇めて、生い立ち先華々しいと噂を振り撒き、、内なる籠の鳥のごとく匿われる姫君ほどは、礼儀もわきまえて決して悪くはない。
ただ片かど噂だけを聞き伝えて宣伝し、人の心を動かす誇大広告めいた誘惑事も有るめり。容貌、姿、形を賢く打ちお誉め説き、『若やかにて美人』と、噂の中に紛るる無責任な事は無きほどに用心せよ。
それを真に受けて身の世話をさせる女房としたならば、浮気女だったという話もある。そうなるど、はかなき荒び心を人真似して、遊び更け入るることも有るに、自ずから一つ二つ由比付けて飲み歩き、堕落し出ずることも有りつるぞ。
外見の悪い姫君に限って、面倒見る世話人の侍女や、気後れしたがる身内の方をば言い隠し、さて、有りぬべき大袈裟にほめる方をば、繕い従えて招ねび出すに、大袈裟な誉め言葉は用心すべし」
「しかし、私に取って左大臣家の人々は、真正直で良い人ばかりですぞ」
「いやいや、わしの家族のように、世の中はそんな良い人ばかりとは限らぬのだ。それしかあらじと説明を真に受けて、そら似の美人だといかがばかりかは、思い勘違いして破談を下さむこともあり得る。
正妻以外の世話女房などは、しかと本人を見極めたうえで集めなければならぬ。
万が一疑いて、その話は誠かと見持て調べに行くなどして、平均的な美人に見劣りせぬよう、自分の家族としては恥ずかしく無くなむにして暮らすべき」
と、頭の中将の女性論が熱を上げてうめき口説きたる気色も、光源氏様にすれば自分の事のように恥ずかしげなれば、いと押しなべてそうばかりとは思うもあらねど、我も最近、たまにはそう思し合い、女中女房を求めているやもあらむ。
この楠木様さえ、自分と同じ境遇なのかと打ち微笑み賜いて、
「その片角もなき執り得のない姫君を襲った、間抜けな人はどこにあらむや」
と、光源氏様がのたまえば、
「いと、さばかりならぬ間抜けなその男どもの心当たりは、誰かとは透かされ言えず、この近くには住み寄りはべらむ。
取る方なく口惜しき絶世の美女の極めと言うなりと、覚ゆばかりに優れたる人とは、千人に一人未満に等しくこそ、この世に存在しはべらめ。
人の品位、位が高く生まぬれば、人に持て賢づかれて何不自由なく身の世話を受け、奥の館で隠るることの暮らし多く、自然にその高貴な気配、こよなく愛する姿に育ちなかるべし。
中程度の品位、位になむ。娘人の心心に己が自身の主張を立てる趣見えて、物事の道理分かるべき他人への思いやり事や、芸事の趣味、多方面に優れたる方々多かるに、注目されるべき。
下の刻みという市民階級の極になれば、我々の身分の高い者にとっては、ことに耳立たず気にすべきもあらずかし」
とて言って、頭の中将は、いと隈なげなる隠し事せぬ気色なるも、ゆかしく人懐っこく見えて、
その身分の分かるべき位の品々や、いかに判断すべきぞ。いずれの女人をを三つの品位に置きて分別し、上流、中流、下流に分くるべきぞ」
「難しい論議だぞえ。一口に言えぬなむ」
頭の中将は頭を強く掻き、ひげ面の目を大きく開けて困った顔をする。
「元の品位は高い身分に生まれながら、家が落ちぶれて身は沈み、位短くて終わる人は、それでも高い身分の品とは言えげもなき。
また平凡な位の家に生まれながら、出世して直人の上達部などまで成り上り、朝廷も我が物顔にて操り、家の内も貢物で飾り立て、権力も財力も大臣に劣らじと思える成り上がり者など、その身分のけじめをば、いかがに判断し分くるべきぞ」
と、光源氏様が問い賜う程に、
「おうおう若君と頭の中将様、なかなか活発に議論なされておいでですな」
とて言って、草尾左馬頭と藤式部のが物忌みの日にて、自宅に居ては不吉な災い起るやもと心配し、近衛府の大殿に籠らむとて参れり。
中略
と、藤式部の丞は言い、若君の考えを求めるべく、上座を振り向きました。
光源氏様は眠くなられた様子で見脚を崩し。白き御衣どもの肌着、なよなよ涼しげなるに、軽く直衣ばかりをしとげなく小ざっぱり着なし賜いて、腰の紐なども緩めたままに打ち棄てて足を広げ賜う。
袴も付けず脇息に添い臥し賜える御姿は、ふんどし姿の老人と同じなまめきて、明かりの御火影に揺らめいて、いとめでたく、女に見奉ら欲しく御脚の奥の物見え給う。
この御種溜めには、上が上の品を選りい出てても、形といい、太さといい、長さにつけても、なお飽くまじく立派に見え給う。
頭の中将と、草尾と藤の丞は、それを見ながらにやにや笑い、顔を見合わせながらため息を突いておわします。
後編へつづく
かってに源氏物語
帚木(楠木)後編
上鑪幸雄
六
「何と言うはしたない」
左馬頭は、更に話し続けました。
「ここに居る私どもが、様々の人の上の品々ども、男と女について好き勝手に語り合わせつつ論議しても、大方この世に付けて誰からも咎めることは無きとしても、我が妻の者と打ち頼むべき特別な女をも選ぶには、
あまた多かる中にも、『これこそは』と思えなむ我が思い、なかなか特定して『この女』とは定むるまじかける。
男の公け事に使う身分として奉り、はかばかしき世の堅めと宣伝なるべき妻も、誠のうつわ物となるべき上流貴族の娘を盗り出さむ事には、姑の肩に寄せ掛かるべし機会もなかなか有らずめかし。
我々中流の者は、高官の娘を嫁にしてこそ、出世の道が開けるというものよ」
と草尾は言う。
「しかし草尾は、上級教官の娘を手に入れたとしても。なかなかうだつが上がらぬではないか。いくら上流娘をめとったとしても、本人の努力と才能がなければ『どうにもならん』と言うことだ」
とて頭の中将が笑いながら、光源氏様を見て顎で指すと、
「人には能力の差と言うものがあるのです。楠木様のように万能に優れた方は滅多におりません。それも左大臣家と言う名家に生まれたからこそ、才能が発揮できるのですよ」
とて言って、更に話を続ける。
「されど幾ら才能に優れ賢し方とされても、一人二人にして世の中を祭りごちにして政治を仕切るべきならば、様々な良き考えが取り入れられず、わいろのみが蔓延る社会になります。
上の者は下の者に助けられるとしても、下は上の人になびいて胡麻を擦り、事広き役人の心まで意のままに操り、誤った政策だと分かっていながら、譲ろう事の政治になりらむ」
「なるほど、左馬頭の言う通りかも分らん」
「また狭き家の内の、家事ごとの主とすべき人一人を思い巡らすにしても、優しさに足らず、暴力的に言い合い、悪かしるべき大事なことども、思いやり無む無神経な方々多かる。
失敗しでかしたとあれば夫に食って掛かり、合うさ着るさどっちにしても、悪者にしたがる。なのめならん性格にさて置きても、妻と言う者、大らかに包み慰めありぬべき人の、少なきを覚悟なさりませ」
そう言いながら草尾が若君を諭すと、
「どうもそれは、そなたの家庭の話のようじゃのう。わしの北の方は良い女御じゃ」
とやり返す。
「ははは・・・」
「好き好きし夫婦愛の餓え渇きし欲求不満のすさびにて、人の有様を羨ましがる妻はあまた数多く見合わせむ。覗きの好みならねど、
『あそこの旦那を御覧なさい。いつも優しく尽くしているではありませんか』
『いやいや、あの家は嫁がおっとりとして、主人を立てるからうまく行っているのだ』
などど、一重に思い定めるべき偏見に寄る見比べとするばかりに、連れの良き性格に目が向かず喧嘩になるのです。他所の家のように『同じくはうまくいかなし』とすべし。
妻を迎える者は我が力入りし主張を考え直し、引き繕うべき意地を通す所なく『相手の心に叶うようにもや』と、多くの趣向から選り抜き、妻に染めつる人の定まり難き理想の優しき人となるべし。
必ずしも我が思う通りには叶わねど、見染つる愛の契りばかりを捨てがたく大事に思い留まる人は、もの豆やかに尽くすなりと見えて、さてまた平穏に保たれるる女の為にも、心憎く推し測るる幸せな家庭なり」
とて馬頭が言えば、
「されど何か、世の中の一般的な有様を見給え。情報を集むるままに行動したとしても、妻の心に誠意が及ばず、いと忌々かしき事も少なくなしや。なかなか思い通りには行かぬぞ」
と、頭の中将言う。
「それはそうです。公達の上なき光源氏様のような御妃選びには、ましていかばかりかの少ない王族の人か、たぐいまれな名門の貴人を賜わむ事となります。
そうなりますと、かなり我儘な権力者の娘しかもらう事はできません。光源氏様も楠木様も、帝の御許しなしには、好き勝手に女を選ぶ訳には参らないのです」
と、草尾が申す。
「ただ家を守る女房頭は二人とも自由なのですから、どうぞ自分の好みに合った方をお選び下さいませ。容貌かたち汚げなく、若やかなるほどの誠実な人であらねばなりません。
己が自身の主張は塵も付かじと謙虚に身を持て成し、文を書けど才女ぶらず、御程のどかに柔らかい言葉選びをし、眉の御墨付き、ほのかに心もとなく思わせつつ振る舞い、
また爽やかにも見えて、純真しがなしと断るすべなく待たせ、
『嫌です。人が見ておりますからお辞め下さい』
と、わずかなる声聞くばかりに言い寄れど、恐怖心を息の下に引き入れ言葉少なくなるが、いと良く男好きの本心持て隠すなりける。そういう女は家事女房として向いています」
とて言って草尾が頬ずりをし、女の真似をすれば
「ほほう、草尾はそんなしとやかな女人を家に入れて世話させて居るのか。良く学問院式部の丞の娘が黙っているものよのう」
とて言って、楠木様が笑う。
「とんでもない事でございます楠木様。我々下っ端の者がそんな女を呼べる訳などないではございませぬか。光源氏様と楠木様の御話でございます。ご勘弁下され。
なよ引かにか弱い女の不遇にして、可哀そうと見て同情すれば、余りにも情けに引き込められてこちらも仕事ならず、相手の意のままに取り成せば、ますます相手は図に乗って強欲にあだめく。
女とはそういう者です。これを始めの難関とすべし。ご注意下さい」
草尾の話は更に続けます。
「事が中に、なのめなるまじき大臣家などの高貴な後見の方は、物の哀れ知り優し、はかなきついでの情け有り。おかしきに婚姻を勧める方なくても、良かるべしと見えたるに、独立した女です。
まめまめしき家柄の筋を立てて、信頼できる人の話を耳に挟みがちに、美装なき平凡な相手にも、一重に打ち解けたる後見世話ばかりをして、相談にも応じます」
「そうか、そうした大殿の女房を我が家にも一人迎えたならば、家の規律が正しく保てるか」
「そうでございますとも。朝夕の来訪者のの出入りに付けても、公け事、わたくし事の所用で集まった門前のたたずまい、良き事、悪しき事の区別、目にも耳にも留まる早業で仕分けする有様を御覧なさいませ。
大殿の古女房の裁きは大した物ですぞ。疎き人にはわざと早めに打ち招きばむやは、
『ここはそうした要件には応じられません』と、簡単に追い払い、近くで来訪者見む人の話に聞き分き入るに、
『何事があったのですか』と、思い知るべからむに語りも合わせばや、さも内も心から同情したかのように結い微笑まれ、涙も差しぐみ、悲しみを分かち合う。
もしくは、あやなき不条理な公け事に腹立たしく意見を合わせ、心を一つにして思い集まる事など多かるを、果たして何について真剣にかは聞かせむと思えば、打ち急かれて人知れぬ思い出話を聞かせて、
『実は私もそのように疑われたことがあったのです。でも自分を信じて毅然と立ち向かいなさい。疑いはいつか晴れるものですよ。
得意げに捕えた犯人が、実は無罪だったという話は幾らでもあります。人違いて分かって、役人の間の抜けた顔、見せたかったですわ。あなた様の夫もきっと無実です』
と、笑いもせられ、
『少し様子を見ましょう』とも言い、打ち一人他人事たるるに、
『何事ぞ』などと、泡付かに真剣な自分の事のように天を仰ぎいたらむは、いかがは、世話奥女房にするには口惜しからむ」
「そうですとも、なかなかのやり手でございますな。世の中には身分は低くとも、そのままにするにはもったいない女人が数多くおります」
「ただひたぶる無心に、稚児めきて柔らかならむ人を、とかく引き繕いてはなどか積極的に面倒見らざむ。こうした無知な妻は、心もとなく当てにならなく見えるとも、教育によってこれから直し所ある心地とすべし。
現実にに差し向いて教育して見む程には、人の才能なと分かりません。さても、らうたき見習いの方には罪許し甘く見るべきを、古株が多い中では立ち離れて様子を見た上で決めるべき。
妻には、さるべき必要な事も言いやり、折り節の要所要所に失敗しい出む仕業の、仇な大事にも、些細な豆事にも、我が心の出来事と思い得て、捨てる事なく深い骨折りなからむ事には人は育ちません」
「いやいや、また始まったよ」
「いと口惜しくいらいらし、頼もしげ無き咎めばかりでは、世話してくれる女房もや、なお一層苦しからむ生活事なり。
常は少しそばそばしく離れて心付き突き放し、近寄り難く愛想なき人の女房まで、折り節に付けて、何か、い出張えする小さな用事も有りかし、たまには遠巻きに声を掛けねばなりません。
まして我が本妻となれば尚更でございます。光源氏様、何を遠慮しておいでなのです。たまには大殿へ赴き、お見舞いせぬ事には、可哀そうではありませんか」
などと、左馬頭の隈無き無遠慮な物の言いも、誰の事とは定め兼ねて、痛く打ち嘆く。
「俺は自分の妹の事を引いきに見て言うのではないが、公平に見ても光源氏様の仕打ちは可哀そうに思えまするぞ。たまには葵姫に会って優しい言葉をお掛け下さいませ。 そうすれば葵も随分と心が落ち着くと思います」
とて言って、楠木様は、源氏の君の意向を伺う。
「どうもそれは胡麻を擦るようで恥ずかしいのよ」
「その遠慮がいけないのです。この草尾を見て下さりませ。出会う女ごとにこまめに挨拶し、機嫌を取ろうとしているではないですか。夫婦の事は恥を掻き捨ててこそ、うまく行くものです」
「そうです。そうするべきです。でもなあ、夫婦間のことになると、なぜか照れ臭いのは事実だ。素直にお世辞など言えぬではないか」
言葉数の少ない藤式部の丞も同情します。
「ははは・・・確かにそうだ。照れくさい物よ」
「しかし、そうばかり言って甘えていては、新婚の夫婦仲はいつまで経ってもうまく行きません。光源氏様は勉強中の身の上ですから。馬鹿げたお世辞でもどしどし言ってやって下さりませ。
誰だって恥ずかしくて、馬鹿げた優しさだと御思いでしょうが、その内に相手に誠意が伝わります。私だってそうでしたから。その内うまく言えるようになります」
「ははは・・・草尾は生まれ付きの、お世辞の天才だと思うがな」
とて言って頭の中将がなじれば、
「そのようですね」と言って、源氏様も御笑いになられます。
「今はただ身分高い品の位にも頼らじ。容貌形、器量の良し悪しをば更にも言わじ。学問の有る無しに関わらず、いと口惜しくひねくれて、ねじれ氣がましき嫌みの御覚えだに無くなればそれだけで良い。
ただ一重に物豆やかに地道な、静かなる暮らしが恨めしい。心の趣きならむ平穏な夫婦愛の寄るへき姿こそをぞ、ついの住み家の頼み所にしてはと、今更ながら思い置くべかりける」
左馬頭を取り囲む三人は、今度は何を話すのかと、にやにや笑いながら聞いております。
「余りにも教養ゆゑ良し過ぎても困るが、合う人ごとに心張せ、微笑み打ち添えたらむ愛嬌をば喜びに思い、少し気後れたる遠慮深い方あらむを解きほぐし、満足していただけるよう持て成す。
あながちに、孤独な人を自分から進んで仲間として求め、加えるを拒わまじ。後ろ気安くのどかに見受けき所だに、初めての人には強くは主張せず安心させる。
上辺の情けは自ずから持って付けつべき恥の業をと思い、艶に色気を振りまく者を恥じて、恨み言うべき事も見知らぬ他人事の様にと、とぼけ忍びて耐え抜く。
上辺は冷たくして純真に操をづくり、連れと心一つにして思い余る時は、ただ一人書物など読むして静かにして過ごす。私の母はまさに良妻賢母でした」
「嘘を突け。そんな満点の女などおらぬぞ」
「まったくその通りです。私には草尾殿の母は、雑で落ち着きのない女だったと思いますが」
とて式部の丞が言えば、
『そうした母上が突然堪忍袋が切れて爆発してしまったのです』
と、草尾が言う。
「一体どうしたと言うのです」
「分かりません。誰と言わむ事なく凄き言の葉で怒鳴り散らし、少し落ち着いたならば哀れなる歌を詠み置き、心配忍ばるるべき文の形見をば部屋に留めて、深き山里や、世離れしたる遠くの海づらなどに這い隠れぬる。
『私の母じゃは、時々そうして身を隠すのです』良妻賢母と言っても、余りにも辛抱し過ぎては身が持ちません」
「しかし噂に聞くと、草尾の母上はそんな教養に満ちた方だとは聞かなかったぞ」
「そうですよ。私も田舎者の無骨な小母はんとしか記憶しとらんのですよ」
とて言って、頭の中将が横から見下せば、光の君と式部の丞は、前後から口を押えて笑う。
「何を言っておいでですか。私には立派な母親です」
「そうか、そうか」
「こうした折、童にはべりし幼い時の思い出として、母に仕える女中女房などの物語読みじお話を聞きて、いと哀れに、
『安寿と厨子王の心深き兄弟愛の、何と素晴らしいことかな』と、涙をさえ浮かべてなむ、母のいない家にてはべりし聞きなむ。
今思うには、いと軽々しく事更びたる母の衝動的な行動事なり。心差し深からむ考えで当て付けがましく、男を置きて家事を投げ出すなど、言語同断だと思いなされ。
見る目の前の現実に辛きこと有りとも、人の心を見て知らぬように逃げ隠れて、周りの人を惑わし、心配させらるる子供心をも見むとする程に、これほど自分勝手で迷惑な親はありません。
これから長き世の物思いに、笑い者となる。いと味きなき軽率な行動だと思うなり」
「しかし、女を怒らせると怖いぞよ・何をしでかすか分からぬぞよ」
「そうよそうよ、俺は鋏を背中に突き付けられて、危うく傷を負わされそうになったことがある」
「えっ、楠木様もですか。私の女房も包丁を振り回して追って来たことがあるのです。軽い冗談で言ったつもりなのに、よほど虫の居所が悪かったのでしょう。
光源氏様も気をお付け下さいませ。普段は笑い飛ばして受け流している妻が、突然豹変するのですぞ」
「あるある。若君も用心して下され。女は弱いと思っても、寝ている間に、突然首を切られるかも分かりませんからな」
「そんな・・・」
「はははは・・・冗談ですよ」
「特に物思いに沈む弱い女には気を付けなされ。特に両親のどちらかが亡くなった後では、『心深しや』などと誉め立てられて、仏門に哀れ進みぬれば、尼になりぬかし。
思い立つぞ初め程の頃は、いと心清く澄めるようにて迷いはないが、いざとなって現世に帰り見、今までの生活がどれほど自由で楽しかったか、知るすべなく後になった今も、元に戻る思い求めても何も得られず。
『痛でで、あな悲し。かくも現実は、はたはた辛い修行の身の上に置かれるとは思いも依らなかった』と、悲しみになりにけるよ。
『浮世の方が、よほど楽しかった』などこのように、後悔しないとも限らないのです。
あい知れる昔の友が見舞いに寄りてとぶらい、ひたすらに失うとも思い離れられぬ連れの男が、
『どうだ、元気でやっておるか』などと、安否尋ねて来たと聞き付けて涙落とせば、身の世話に使う人、古御用人達の女中女房など、
『夫君の御心は、いとも哀れになりける物を、あったらかしか、恵まれた身の上を、どうして捨てたのです』などと言う。
額髪を掻き乱し探りて、あえ無く落胆し心細ければ、尼君自ら内心潜み泣いて嘆きぬ事多かし。夫を忍ぶれど、涙こぼれ袖染めぬれば、季節の折々ごとに後悔さえ念じえず、
『私とした事が、どうして前後も顧みず、尼になってしまったのでしょう』などと、悔しき事も多かめるに、仏様もなかなか心汚なしと見賜い、引き入れても、元へは戻さぬと覚悟しつべし。
濁り欲望が占める現世よりも、生半端な仏門の道から浮かび苦しからむ。自分の理想とは程遠い苦難の世界に居ては、
『夫がもっと優しかったならば、こんな事には成らなかった』と、返って憎みよりて、悪しき道にも迷い込んだと、煩悩は漂いぬべくぞ、空しい人生に覚ゆる。
絶えぬ宿世へ思いを寄せる覚悟浅はからで、
『あなたと私の縁は、前世の約束として決められたこと。互いに死ぬまで添え遂げようぞ』と、覚悟決めずして幸せなどあるものか。
尼にも成り切れなさで仏門を尋ね、決意の悟り取り足らむも、子供染みた甘えで、やがて生まれ変わり、別な人とあい添いて暮らしあらむ折りにも、うまくゆくとは思えじ。
宿命に掛からむ刻みをも甘く、互いの良さを見過ごしたらむ夫婦仲こそ、前世からの契り深く結ばれて、別れるに別れられぬとは哀れならめ。多少の浮気ぐらい大目に見てやった方が、夫婦仲はうまく行くというものです」
と、左馬頭は長々と夫婦愛につてい説明します。
「しかし草尾、それはおまえの自分勝手な言い訳ではないか。おまえの浮気と惚れっぽさは、日常茶飯事ではないか」
頭の中将は、余りにも大真面目に持論を説く左馬頭に呆れて、肩を揺り動かし笑いながら言いました。
「違いますよ、私は色目を振りまく女を無視しては、失礼だと礼儀を尽くしているのです」
「しかし、隣の式部の丞を見ろ、軽く会釈をしてやり過ごし、通り抜けてしまうぞ」
「こいつは薄情なんですよ。まったく女の気持ちが分らんとです」
「しかし、宮中の女房連中には、式部の丞の方に人気があるぞよ」
「そりゃ、器量よしだし、学問もありますから当然です」
「それならお前も遊び呆けていないで、本でも読んだらどうだ」
「今さらこの年でそんな気持ちにはなれません。光源氏様、どうぞ何か言ってやって下さいませ。このままじゃ、わたくしが悪者になってしまうではないですか」
「それはひとそれぞれに、自分に合った生き方をしているということだろうよ。草尾のように人目を気にせず、自分勝手な暮らしができたならば、人生は楽しいだろうよ。のう式部の丞」
「若君まで何をおっしゃるのですか。私にだって大きな悩みはいっぱいあります」
「嘘だろ。おまえの悩みがどんな物か、さっぱり理解できん」
と式部の丞が言うと、草尾は横の男を
「なぬっ」と言って、頭に拳骨をぶつけました。
「我自身も、共に暮らした人も、後ろめたく心置かれ、悲しみに明け暮れじ未練がましく過ごしやは、不幸な人生なむ。私のように気楽な考えで生きた方が、妻とて楽しくなると言うものです。
また、光源氏様や楠木様のように高貴な身分の方は、名のめならん絶世の美女を好きになり、心が移ろう方が有りとも、やむを得ぬ事で、人を恨みて気色張み、好き勝手になされまし。
連れ合いに背むかんことがあったとしても、はたはた奥がましかり情欲と言うものは、高貴な人には仕方のない事なん。
心は移ろう方有りとも、見染し心差し、いと欲しく堪らない思いは、さるべき方、玄宗皇帝の寄すがに思いても有りぬべきに、人である限りね何が起こるか分かりませぬ。
北の方様が、左様ならむたじろきに振り回され、家族を捨てて仏門に入るとは、聞くに耐えぬべき軽率なわざなり。あの方に限ってそんなことは有りません。その前に楠木様が殺されてしまいます。」
「しかし、気に入った女を自分の意のままにできるとは、それが上の上の特権階級にだけ許されるとは、随分不公平な話でございますな」
とて藤式部の丞言うと、
「式部の丞はそうしたくても、先立つ金がないではないか。良く言うよ」
と、草尾がやり返します。
残りの二人はそれを見ながらにやにや笑っています。夜は静まり、油灯りがゆらゆら揺れ動いておりました。
「すべてよろずの事、万事何事も平穏なだらかに、怨ずべき不幸な事をば相手に見知れる様にほのめかし、恨むべからむ夫の節操をも憎からず、遠巻きにかすめて怒りを緩めさせなさば、よろしかろう。
それに付けて寛容な哀れみの心も生まれ、怒りに勝りぬべし豊かで笑いに満ちた人生になりますぞ。多くの人は我が心も、見る周りの人々からも、
『あの夫婦は幸せになったようだ』と、安心して眺めていられるように、治まりもすべし
余りに無下に打ち緩べ見放ちたるも、心安く労たき思いやりのようなれど、自ずから軽ろき方にぞ覚えられ、無視されたかのようで、生き生きと暮らしはべるは空しかし。
繋がぬ舟の浮きたるが如く、どこにたどり着くとも分からず、さまよい歩く例も、げに彩なし。
『男と言うものは、妻の内ゲバに苦しんでこそ仕事にやる気が起こり、遊びに歯止めが掛るというものよ』
さうと、はべらめ思わぬか、頭の中将殿」
とて言えば、
「ははは・・・てめえの言う通りだわい」
とて言って、楠木様がうなづく。
「差し当たりて、おかしく魅力的だとも、哀れに嫌いだとも心に入らむ人の、頼もしげ無き恋の疑いあらむこそ、夫婦にとっては大事な生きがいだと思いはべれけれ。
我が心に過ちなくて関係ないと見過ぐしさば、差し直し後になって浮気を疑いしても、などか現実を見らざらむと覚えて、無関心を装いたれど、それは差しも刺されぬ無理な未練となるにあらじ。
『嫉妬するは相手を好きな事と同じことぞ』とも言える。ともかくも、お互いが心を違うべき節もあらむと思えども、相手をのどかに見して解き放し、知らぬ振りをすべきなむ。
真実を知り過ぎては、返って夫婦仲が悪くなると、言えるでござろう。成り行きを先伸ばしせむ事より、他にやり増す事などあるまじかりけり。知らぬは最大の味方なり」
と言いて、
「我が妹の姫君、葵の上はこの定めに叶い給えり」と思えば、頭の中将は源氏の君の様子を見賜えり。
源氏の君、打ち眠りて目を閉じ、何も聞いてもいない様子で、三人の議論に言葉混ぜ賜わぬを、
「何事ぞ。私共が光源氏様のことを心配して議論しているのに、居眠りされるとは何事でございすか」
とて頭の中将が言えば、
「うるさ過ぎるぞえ」
と、騒々しく心悩ましと思うて言えば、頭の中将は、
「けしからん、聞いてなかったのならまだ増しも『うるさ過ぎる』とは薄情すぎますぞえ、若君」
と怒鳴る。
「若君、起きて下され。寝ている場合ではございませぬぞ」
と、式部の丞が指先で小突き起こせば、
「えっ、まだ何か大変な事でもお話するおつもりですか」
と、若君が驚いて周りを見回す。、残りの二人は
「ははは・・・」と笑いながら、光源氏様と、頭の中将の二人を見て顔を合わせなむ。夜は静まり、更けて参りました。
七
馬頭、世の中の道理、物定めの博士になりて、「わしが皆の者に、為になる話を聞かそう」と更にひひらき、多くの事を論じ始めるに至り前置きす。
中将はこの断りを聞き果てむと、
『くだらん』と心入れてあしらい、頭抱え賜えり。
「よろずの事に、何事も他所へ見比べて思せ。木の道に進んだ匠がよろづの物を心に任せて作り出す木彫りも、臨時に持て遊び心から生み出される仏像物も・・・・・
以後略
八
「さて、また同じころ」
とて草尾が話し始めると
「えっ、まだ他にもあるのかよ。お前も懲りないな」
と式部の丞がたしなめる。
「黙れ、わしがまかり通いし二番目の所は、人も香りしびれるほど前の女に比べれば器量が立ち勝り、心ばせ誠に由緒あり家柄と見えるべく、
四季の折々に和歌打ち詠み、掛け軸の文字の走り書き明瞭で、掻い引く琵琶のつま音、琴を弾く手つき、物語を話す口つき、皆たどたどしからずしなやかで、言葉が明確に見聞き渡り話しはべりき。
見る目も事もなく上品はべりしかば、この気品ある賢な者を打ち解けたる方にと思いて、時々隠しろえ、遠くから見はべりし観察の程は、こよなく愛する方になると心に留まりはべりき。
この人真保を失せて後、「我が妻として迎えるべき才女であった」と、後悔するとなればいかがはせむ。他に心当たりも無くて、世話する女中女房も雇えないと成れば、どうしようも無いではないか。
哀れながらも無気力に過ぎぬる暮らしは甲斐なくて、仕事を続ける気力もない。しばしばまかり通い、好き人として馴るるには少し眩ゆくて、艶に好ましき浮ついた事は目に付かぬ所あるに、
かれがれにふとした瞬間のみ色目を見せはべり悩めるほどに、 忍びて他に好きな思い人、心交わせる人ぞ有り氣らしく思えり。
神無月の頃ほい、月満月のごとく輝き屋根を照らす面白き夜、内裏より役所勤めを終えてこの家に、まかり出で様子を見はべるに、ある上人、高官が御車にて来ありて、門番に相槌を打つと、
やがてかの女出て来てこの車に相乗りはべれば、すぐに動き出し、やがて怪しき空き家にまかり止まらむとするに、この上人、こんなことを言うようなり。
「今宵人、そなたを待つらむ人の宿なむ。怪しく心苦しき偉い方がお待ちしておられる。失礼のないように致せ」
とて言って、その宿に送り込む。
この女の通いし家は、都の外れにて人影も絶えきぬ道なりければ
以後略
最終章
「式部の丞が所にもぞ、気色ある面白いことは無きしも有らむと覚えたり。少し綴り語り申せ」
とて頭の中将が言い、藤式部の丞が責められる。
「下が下の中には固い口留めの約束事がございまして、何でにどうした事か、聞こし召した噂所のお話は、他人には聞かせはべらむ決まりとなっております」
と言えど、頭の中将の君、真面目やかに
「遅し、人の恥ずかしい話を聞いて置きながら、てめえの話したくないでは済まされめ。つべこべ言わず話しやがれ」
と責め賜えれば、体験した多くの中から、何事を取り上げ申さむと思い巡らすに、
「私がまだ中等科の文章学生に在籍通いはべりし時に、賢き女の実に驚くべき出会いの例をなむ、それをお話することと致しましょう」
とて言って話し始める。
理知的で美しい女を見給えし、どことなく気に致していたのですが、かの馬頭の申し給えるように、私に気を引く女、学問院へ通う道の途中に有りなむ。
公け事の政治の批判をも言い合わせ、私ざまの世に住まうべき世渡りの心掟を説き、これから世の中がどう変わって行くのか。家族の暮らしにどう影響するのか、大衆の前で演説する有様なり。
心配事思い巡らさむ方への個別の思いやりも至り深く、才能の極めたる話しもなまなまの仙人のごとく、博士気取りで話すものゆえ、こちらも恥ずかしく成って、すべて口開かずべく、呆れて物が言えずになむ、そこにじっとし見てはべらざりし。
「何をぼさっとしているのですか、このびら紙を皆に配って下され」
とて言って渡すではないですか。
それは有る博士の元に、学問など指導受けはべるとて、まかり通いし程の通り道に起りしことでなむ。最初は師匠の教え子かと思っていたのですが、何回か話す内にお子様であったらしい。
この主の娘ども多かりと聞き給えて、はかなき暇を持て余したついでに、言い寄りて話しはべりしを、親聞き付けて何故か杯を持ち出でて、白楽天の婚儀の一節、
「我が二つの道、歌うを聞け」となむ。
聞こえごちに側に座り、空を見ながら照れくさく話しはべりしかど、おさおさと打ち解けて話すもまからず、かの親の馴れ馴れしい心を憚りて、さすがに娘を押し付けるに関づらい、娘を頼む意志はべりしほどになる。
「どうだ娘もさほど悪い女でもなかろう」
とて言えば、仕方なしに、
「そうですね」と、答えなむ。
いと私の事を貧しく哀れに思い、後見人になること、寝覚めの二人の語らいにも及んで、結婚したら楽しくなることなど、御身の学問や芸事の才能付きを育てるべく、蔭ながら応援するむね話す。
「どうだ、しばらく夫婦になるを前提に、文をやり取りし、互いに相手の様子を見るのも良かろう」
とて進めるものですから、仕方なしにそうしたなむ。
女は朝廷の公け事に仕え奉るべき道々しき決まり事も教えて、いと清げに私とのお付き合いが始まると、恋の消息文にもひら仮名という物書きき混ぜず、無ベ無べしく漢字のみで教材のような文となる。
漢文調の味気ない決まり文句を厳格に言い回しはべるに、こちらも自ずからそれを真似た文章を綴れるようになり、文章博士の家にも、えまかり絶えずして通い、その者を師としてなむ、教えを請うこととなる。
わずか初歩的なる腰折れ文ではありましたが、作る事など習い積み重ねはべりしかば、僅かずつ上達したではないか。今になってもその恩は忘れはべらねど、その女はわしの才能に愛想を尽かし遠ざかりなむ。
今は人妻となった懐かしき親子と時々会うぐらいで、文章の手本を打ち頼むに、この無財の人、なま悪ろならむ軽蔑した振る舞いなど見えむに、私も恥ずかしくなむ。
「今は幸せそうに見えはべりしも遠くから見守り、万が一不幸な事態になったならば、何時かは夫婦に成れるやもと思っています」
「何だ、それでこの縁談は終わりかよ。親の許しがあったのなら、一発、先にぶっ噛かませてやればいいじゃないか。そしたら女も相手の知識もこっちの物じゃないか」
「そうは言っても私にはそんな度胸はありません。こんな無能な男がそんなことをしたら、相手の女に迷惑ではないですか」
「それが余計なお節介なんだよ。わしに言わせれば逆に思いやりが無いと言える」
頭の中将様は歯がゆくて、今にも一発ぶん殴ってしまいそうな勢いです。
「そんな・・・」
「でも楠木様、式部の丞が言う気持ちも分かります。われわれ財産のない者は先の事を心配して、思い切った行動ができないのです」
「ほうれ御覧ください。草尾殿の言う通りです。それが出来るとしたら、光源氏様にお仕えしている惟光だけです」
とて言って、藤式部の丞は奥の源氏の君に顔を向ける。少しうとうととしていた源氏の君は、自分の名前を言われて『はっ』とした目を向ける。
「惟光がか。あいつはそんな人間か」
「それはもう有名な話でございますよ。目にする度に女に言い寄っています」
「ははは・・・知らないのは光源氏様だけです。なかなかの曲者でございますぞ」
「わしもそう思う。あれの好き癖は天才的だ。どんなくだらない女にも、献身的に言い寄っている」
「ほうれ、御覧なさい。用心して下さいませ」
「あやつ・・・」とて言って、光源氏様が怖い顔をすると、
「まあ好いではないですか。男はあれぐらいであった方が可愛い」
とて言って、頭の中将様がなだめる。
「まして世の中は、光源氏様や楠木様など公達の御為に動いております。はかばかしく頼りになる、したたかなる御後見人は、何にしても足かせ帝王様直径の御方に味方させ給わむ。女とて同じです。
下々の者は、はかなし口惜しく不平等とかつ見つつも、ただ我が心に付き宿世の運命に従い、互いに心を引く合う縁ある方が、何処かにおられると思いはべるめれば、男の子端くれとしての我もなむ。
良い縁談があるのをじっと待っております。いずれ誰かと結婚し、仔細なき弱い者には、それなりの生き方が有りまして、努力する者にとって、何の差し支えも有りはべめる」
とて、式部の丞が申せば、頭の中将、何かまだ隠していると思い、残りを言わせむとて、
「さてさて、おかしなりける、したたかな女かな。親の進めるに刃向かい、別な男と添い遂げるはなかろう」
とて、透かいし心を見抜き賜うを心得ながら、中将は藤殿の鼻の近く渡りを、小突きて語りを急がせなす。
「さて、いざ久しく恩師の家にまからざりしに、物の便りとにて近況を知らせるべくに立ち寄りはべれば、常の打ち解け居たる娘の方には会えはべらで、心悩ましき物腰にてなむ、老いた恩師に出で来て相手し話しはべる。
伏すぶるにやと痛くやつれて奥がましくも、また良き話し合いの機会なりとも思い賜うるに、この賢し人、
はたはた娘の軽々しきもの振る舞い、怨じすべき恨み事にもあらず、世の道理を思い取りて、『女心は移ろいやすいもの』、縁がなかったと恨みざりけり。あきらめてくだされ」
とて、声も早かりにて面倒臭がるように言うやう。
「月頃、痛風の病が重きにて苦しみに耐えかねて、極熱の草薬を服しておれば、吐く息もいと臭きにより今の姿なむ。これ以上え対面受け給わらぬ。居間の奥当りで改めて語りならずとも、さるべからむ軽い雑事ら相談は受け給わらむ」
と、いと哀れに同情して、むべむべしく誠実に言いはべりし。一重に何とかは理由も言わず、ただ、
「娘との破談の件、何とも説明受け給わりぬ」とて言って、立ち出で話しはべるに、騒々しくや困った事のようにや覚えけむ。
「この病の臭い香り失せなむ時に、再び立ち寄り給え」
と、高やかに威圧すべく言うを、聞き過ぐすさむべく不満に思いながらも、御気の毒に思え愛おし。
しばし休みらうべき体調の悪さに御気の毒に思えど、はたはた今話し娘を取り戻しはべらねば、げに娘の匂いさえ華やかに断ち切れて、今の男と添え遂げるもを止めるすべなくて、逃げ目の言い訳を使いて説得す。
ささがにの 振る舞い知るき 夕暮れに 昼間過ぐせと 言うがあやなさ
煮え切らぬ 男が言うや 夕暮れに 明日逢うぞと 言う臆病者
「如何なる優柔不断な男が、今頃になって娘を欲しかったとは、何に事付けて問いてぞや」
と、言いも、話し果てるるを待たずに目の前から走り出ではべりぬるに、追いてすがり、
逢うことの よをし隔てぬ 仲ならば 昼間も何か まばゆからまし
逢うことの 親も認める 仲ならば 昼間も夜も まばゆしからじ
などと静々控えめに申せば、「さすがに口説くなどは、ここで学んだ効果有り、見事な技にはべりき」
と、恩師が言いはべれば、隣の部屋に居た娘の君達、浅ましいと思いて、
「それはなかれめ。藤式部の丞は未だに、空豆ごとくの未熟者で有りなむ」
とて言って、笑い賜う。
「あの時の女に馬鹿にされた笑い声は一生忘れられません。何処の世界にか男を馬鹿にする娘を見ながら、立ち去って行く親がありましょうぞ。何時ぞや思い知らせ有るべき。
おいらかにあのような女は、鬼とこそ向かい暮らし居たらめ。むか付けきこと」
と、親子を爪はじきをして憎む。
「そうれ見よ、言わむ方なしではないか。一発、先にぶっ噛ませてやらなくては女になめられるのだ」
と頭の中将は、式部の丞を哀れ目憎みて更に、
「少し良しからむ自慢話の事を申せ」
と責め賜えど、式部の丞は、
「これより珍しき良き思い出事は、私にはさぶらい無むぞと思い給えや。申し訳ありません」
とて言って、話をこれ以上折りて話さず。
「すべて男も女の話も、話題の少ない悪ろき者は、わずかに世間に知れる方の事を、知る限り残りなく見せ尽くし、中将のご意向に添えさむと思えるこそ愛おしけれ。
三史五経、学問院で学んだ歴史上の人物、道々しき模範となる方の教えを悟り、いかに我々の人生訓になるか明かさむこそ、互いをいつくしみ愛行の思いやりとなからめ。
などかどうしてかは、女と居わむからに結婚して暮らせば、世にあることの公け事につけても信頼され、私事に付けても、無下に知らず知らずしも出世に至らしめ、必ずしも悪いことではあらむ。
わざと堕落し、女との色恋を先輩に習い真似ばして試さねばならねど、そうした行動は、先立つものが必要じゃ。わしら二人にゃ、真似しようと思ってもできぬ。
仮に背伸びし、気の進まないまま行動したとしても、その時に限って軽はずみな行動が発覚し、少しも好いことなどない。相手を責め立てるような角あらむ偉い人の、耳にも目にも留まり、ひんしゅくを買うべかる事自然に多かるべし」
「そうなんですよ。我々真面目な者がたまに悪いことをすると、その時に限って発覚し、世間で大騒ぎになる。頭の中将様はしょっちゅう悪いことをしているのに、どうしてばれないのですか」
「そうですよ、不公平です」
とて二人が言えば、
「てめえらは要領が悪いのだよ。遊びが足らんからそうなるのだよ」
とて言って、頭の中将は笑ってごまかすように聞こゆ。
「そんな」
「さる勢いに流されるままには、女が真名漢字を走り描きて、去るまじき男とも女とも分からぬどっちかの女文になりて、半ば自慢げに知識を振りかざし過ぎて書きたるはみっともない。
女は女らしく平仮名の草書体でなくてはならぬ。漢文を振りかざすは、あな歌て情けなく、この人のたおやかな優しさを見せましかば、謙虚でなお一層理知的で美しい女と見えたる。
心地には差しも、学者振っていると思わざらめども、自ずから恐々しき声に聞こえ読みなされなどしつつ、ことさら自慢げ浸り話す。上郎女房の中にも、こんな生意気な女が多かる事ぞ有りかし」
「そんな、左馬頭殿、それは私こと紫式部の事を指しているのではないかえ。ひどい話しでございますわ。私に隠れてそのような非難をされているなんて。中宮様に言い付けますぞえ。弘徽殿の女御様は怖い御方ゆえ、覚悟なさいまし」
「そんな、紫式部殿、私は一般論を申し上げているのです。紫式部殿の悪口を言っているのではありません。どうぞご勘弁を」
「これから申しますように、 歌読む素人と思える人の和歌は、やがて歌に祭われ踊らされて、おかしき古事の名言をも、初めより取り込みつつ、すざましき強調のみを折々に詠み掛けたるしつこさこそ、物々しき下手くそな文章となれめ」
「そうは言っても、下手でも和歌をもらったからには、御返しせねば人として情けなし」
「ただ、え背きざらむ有名な和歌を真似た人は、上手な歌と自慢しているが、まね事が見え過ぎてはした無からむ。さるべき朝廷の季節ごとの節会歌会など、五月節句の節に急ぎ参る明日、
何の菖蒲の歌も思いし書き積められぬに、絵にならぬ菖蒲の根を軒先に引き掛けて、太いと自慢するは愚かな事。
九月九日の長陽の満月の宴に、まず固き無難な詩の心を思い巡らせて、何を書こうかと暇なき忙しい折りに、菊の露をかこち寄せ、有り触れた無難な歌を詠もうとするは取り柄無し。。
ついでに顔のしわを伸ばそうと、露を寄せ集めて顔を洗うなどのように、尽きなき生活の営みに合わせさせながらでも、自ずから自然に目を向ければ、良き和歌は暮らしのついでに生まれるもの。
げに後に思えば、おかしくも憐れにも有りえかりける事の多いこと。その折り付きなく目に留まらせぬ日常などを、押し計らず和歌に詠み出でたるは、中々平凡過ぎると、心後れて恥ずかしく見ゆる。
よろずの何事かにつけても、などかどうしてかはさて置きても、学門に励み身を起こすと覚ゆる折から、時々優れたる考えが湧かぬばかりの心にては、良しばみて情けざたざらむ自棄を避けてなむ、目安やすかる気分転換をしするべき。
聞く者の心得として、すべて心に知れらむ習い済の事でも、知らず顔にて相手の意欲を失せぬように持て成し、言わま欲しからむ苦言の事をも、一つ二つの節は我慢して聞いて過ぐすべくにあるべし。
年下の者は目上の者を立てるべくなむ、そうあるべかりける。だから、わしが言うことはおとなしく聞け」
と草尾が言うも、
「うわー、もう我慢ならん。何だお前の理屈っぽい話は、理論ばかりで何をどうしたら良いのか、さっぱり分からないではないか。何を、どうしろと言うんだ」
とて楠木様は目を擦りながら渋い顔をする。
源氏の君は、人ひとりの御有様を心の内に思い浮かべ、藤壺の女御様に似たまだ見ぬ女性の事を思い続け賜う、
「私の知る限りでは、女性は奥深く遠慮深く思えますが。漢文に詳しい知識を振りかざして、帝王様や私を困らせる女など一人もおりません。藤式部の丞はどう思われますか」
「それは宮中での身分差がはっきりしているからでございましょう。私や草尾殿のように、女官女房よりも身分が低い者は、不当に学力が無いと馬鹿にされます」
「そうかのう」とて言いながら源氏の君は、これに飽き足らず、また差し過ぎたることもなく、
『藤壺の女御様や女中女房は、慈愛ものし賜いけるかなあ」と、有り難きにも特別扱いの自分の身分に、いとど胸塞がる。
いず方に結論は寄り合わないともなく、はてはて怪しき無駄話事ども成りて、夜を明かし賜う。
「頭の中将様、夜も白み始めましたよ。そろそろ御暇しなければ、北の方様に叱られますぞ」
「そうですとも、あの鋭い爪で顔を引っ掻き回され、そのぶかつい顔に傷か付きますぞ」
「何だと」
「これから子猫のように、にゃあにゃあ鳴きながら右大臣家へお帰りになるのですか。あな恐ろしや」
とて言って草尾がからかえば、
「こやつ」
とて言って楠木様は後を追いかける。
「痛い、なにするのですか」
「それぐらいで許して下され」
という三人の声を遠くで聞きながら、光源氏様は衛門府の詰め所で一人、にこにこしながら交代が来るのを待ちわび、夜を明かし賜いつつ過ごしました。
翌朝宿直も終わり雨も上がったので、明るい日差しに誘われて光源氏様は左大臣家の妻の家に行きました。葵の上の部屋へ案内されると、光源氏様は妻に挨拶をしました。
「御機嫌いかがでしょうか。お変わりございませんでしたか」
光源氏が言うと、葵の上は
「ええ、少しも。ご宿直、御苦労さまでございました。ずいぶん久しく顔をお見せなさいませんでしたね」
と、御簾の中からそっけなく言いました。
「宮中の行事で忙しかったのです。早く御伺しなければならぬと思うておったのですが、忙しいがゆえ、つい今日となってしまいました。
あのう、御簾の中に這入ってもよろしいでしょうか。久しぶりに御顔を拝見したいのです」
光源氏は、妻の御機嫌を取るには近くでお話しするのが一番いいと考えました。
「結構です。お構いなく。どうせ光源氏様は、私なんかより宮殿で過ごしている方が楽しいのでしょうから」
「そんなことはありませんぞ。今日もこうして御伺いしているではあらしゃいませんか。ははは・・・」
光源氏は妻の鋭い問いに動揺しまいと、耳の後ろに当てようとした手を、慌てて下しました。
「お噂によりますと、光源氏様は藤壺の女房の御殿へ入り浸りとか・・・・・・
中略
「葵姫もここへ来て、源氏の君のそばで一緒に蹴鞠を見物したらどうじゃ」
とて父君が言うと。
「女は恥ずかしくて外へ出られません。母上に『人前に出て顔を見せてはなりませぬぞえ』と、固く言われておりますゆえ」と返事す。
三人がかく打ち解け賜えれば、葵上は未だに白い布の御几帳の内側に隔てておわし、二人の御話し物語を聞き給うを、中々興味ありげに、首を動かして外の動きを覗き見し賜う。
「そんなに気になるなら、遠慮しないでお前もここへ来い」と誘うも、
「嫌でございます」と再び言う。
「この暑きに、どうしても几帳の影がよろしいのですか。風も吹き込まぬと言うに」
とて源氏の君が苦み賜えて申せば、そこにいた女房女中の人々も一斉に笑う。
「あなかま。何を失礼な真似をして笑うのです」
とて言って葵上は制しながらも、脇息に寄り添いにこにこ笑いながらおわす。葵の上にとっては、いと安らかなる御振る舞いなりや。
帚木終わり
方違え 空蝉の巻へつづく
あとがき
二巻の帚木の題名については詳しい説明はないのですが、頭の中将の生い立ちを綴った内容にしたかったのだと思います。生涯の友人でありライバルであったことから、源氏物語に於いては重要な人物です。
そもそも帚木とはどんな植物なのでしょう。物語に於いて男は木の名前、女は草花の名前が多いので、平安時代にもあったと思われるほうき草、別名コキアでない事は確かです。
辞書によりますと、信濃国、園原にあったと言われるほうき草のような木、
遠くからは見えるが、近づくと影も形も消えてしまう・・・そんな伝説の木のようです。
転じて男に気が有るように見えて、近づくと立ち去ってしまう。そんな男女の恋の例えに使われ、和歌として詠まれることが多い。
私は頭の中将の人名として紫式部が考えた人名ではないかと思っています。
帚木とは孟宗竹や唐竹のことで、その枝は庭帚として使われることが多かった。
竹は丈夫で成長が早く、京都嵯峨野の竹林を見ても見た目が美しい。紫式部にすれば孟宗竹の姿からして、頭の中将の名前にぴったりだと考えたのではないでしょうか。
竹の別名が帚木であったかどうかは分かりません。しかし、頭の中将にすれば、自分の名前が庭帚と同じである事を許さなかった。
「俺は庭帚のように使用人にこき使われ、泥まみれにされるのかよ」
と、腹が立ったに違いは有りません。
頭の中将は権力に物を言わせ、紫式部から原稿を奪い、自分の名前に相当する部分を消し去ってしまった。物語の途中に帚木の名前がない事からしても、そんな事があったと考えられます。
このことからして、私は頭の中将を楠木という名前に変えてみました。成長が早く勢力旺盛、今ではその勢力範囲を関東まで広げています。その後の歴史上の人物としても楠木の名前は活躍します。
頭の中将にこの名前を当ててみると、ぴったりであったような気がします。皆様はどのようにお考えでしょうか。
ちなみにコキアは夏に掛けての緑色が美しく形も丸く整っています。秋になると真っ赤に紅葉するようで、茨木県常陸那珂海浜公園では丘全体に栽培され、規模も大きく名所となっています。
上鑪幸雄
夜は眠いし、疲れるし、ふうー、もう疲れた。
でも終わりも見えかけたし、頑張りましょうね。
お休みなさい。ではなく
お読みなさい。ご苦労様でした。
この帚木編、中略の部分に付きましては、今年九月以降に販売される予定です
「かってに源氏物語 帚木・空蝉編」に掲載いたします。
気長にお待ちください。