かってに源氏物語 第九巻 葵 (前編一~三十五)
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ってに源氏物語
第九巻 葵編 前半(一~三十五)
原作者 紫式部
古語・現代語同時訳 上鑪幸雄
一
世の中変わりて桐壺帝攘夷の後、朱雀皇子が天皇になり賜えれば、右大臣家が宮廷を牛耳って、光源氏様もよろずの物、御身のやんごとなき権力のなさも添うにや、軽々しき御忍び歩きも慎ましうて、静かに過ごし賜う。
ここもかしこも多くの愛人を作りながら、おぼつかなさの支援の少なさに、嘆きを重ね賜う報いにや、今は誰からも冷たく追い払われてしまう有様なり。
「これまで遊び過ぎてしもうた。左大臣家を大事にせず、葵の上にも疎遠であった。これを良い事に、左大臣家は天皇家の後ろ盾を失ったと見て、右大臣は王子を天皇の地位にしたではないか。
朱雀天皇ならば弘徽殿の女御の思いのまま、右大臣の考えを押し通すであろう。
すでに宮廷の要職は右大臣家で固めてしもうた。これは葵の上を大事にしなかった報いにや。宮廷での要職を失うも当然にやあらん』
などと思い賜う。
「左大臣家の大殿で葵の上は、今頃どうしている事だろう。わしの落ちぶれた姿を見て『いい気味だ』と嘲笑っているのだろうか。
いやいや葵の上に取っても、わしが権力を失う事は望まぬはずだ。桐壺院と左大臣家の間を取り持つのは、わししかいないからな。葵の上と逢いたい。逢って『これからの対策をどのようにするのか』話し合いたい」
などと、今なお我につれなき人の、御心を、尽きせずのみ思し嘆く。
桐壺院の今は、これまでに増して朱雀天皇への引継ぎや、領地の再分配。新勢力と旧勢力の話し合いの仲立ちなど・・暇なう過ごし賜いて、藤壺殿へ戻れば唯人のように静かに過ごし賜いて、藤子様が添いおしわまするを、今妃は心やましう思すにや、
「そのようにぼんやりまさいますと、体に毒でございます。もっと庭を散策なさるなどして。活発に御動き下さいませ。そろそろ葵祭の準備も始まりましょう。加茂神社へお参りに行きましょうか」
などと慰め賜う。
隠居した桐壺院は内裏の奥御殿にのみさぶらい過ごし賜えれば、まだ朱雀天皇の立場も弱くて、藤壺の中宮に立ち並ぶ人も無うて、今妃は心安げなり。
「今は奥の院へ越されて御二人暮らしなれば、藤壺様は今までに増して暇なう旧帝の御近くで寄り添うように過ごしさせ賜う。二人が仲良く添いおわしまするを、御近くで拝見致しましても微笑ましゅうございます」
などと、風の便りに御聞きになられますと、光源氏様も自分の立場を考えて、そっと放って置くしか方法がありません。
桐壺院は季節の折節に従いては、好ましう舟遊びや行幸に御出掛けられて、世の響くばかりにはらはら施させ賜いつつ、今なお存在感を示して、皆を喜ばせ賜う。『今の御有様、過ごし方ももめでたし』と考えるべき。
光源氏様は御二人のようすを安心して微笑ましく思いながらも、ただ今妃の藤子様の御子様であられます冷泉王子が気掛かりで、朱雀天皇の東宮になられた今をぞ、恋しう思い、嘆きを聞こえさせ賜う。
「冷泉王子の後見人と決まっておるものの、桐壺院と藤子様の仲の良さを考えれば、度々藤壺御殿へ足を運ぶ訳にはまいるまい」
などと、参内を御遠慮なされて、東宮に世話の少なきを後ろめたう思い悔み聞こえて、近衛府の大将に抜擢されながらも、源氏の君はよろずに藤子様の御心を心配成されて、尽きせずのみ思し嘆く。
「今、もがいた所でどうにもならない。冷泉王子の世話明け暮れて、朱雀天皇を廃院に追い込む考えだと思われては、今妃の御子の立場も危ない。
『ここらでのんびり過ごし、人生を振り返るのも良かろう』という事か」
などと聞こえ、口実付け賜うも、片腹痛き悔いの残る物であるからにせよ、冷泉王子が次の世継ぎに決まった事は、嬉しと思すに違いありません。
「へっ。その話し誠にや。『かの六条の御息所の娘が伊勢の斎宮になられた』と言う話は。一体誰の子供よ。桐壺院か光源氏様か・・・・・
二
「えつ、誠にや。かの六条御息所の御腹の御子、前坊皇太子の姫宮が、伊勢神宮の斎宮に決まったとは。それでは御息所様が一人暮らしになられるではないか、寂しい物よのう。御気の毒に」
「伊勢に居賜いにしかば、新天皇の守り神として伊勢に遣わされるのも仕方があるまい。斎宮は天皇家一族の若い女御子と決まっておるのでの」
「だが待てよ。光源氏様が二十二歳ならば、斎宮はどう見ても二十五歳以上ぞや。その年で斎宮もあるまい」
「いやいや、女の歳は有って無いようなもの。二十五を十二歳と偽って良いのだとよ」
「いやー、幾ら何でも十二と二十五とでは違うぞよ。小娘と婆婆あの違いではないか。どう見ても納得が行かぬ」
「まあー、未婚の女ならば歳などどうでも良い事よ。もっとも皇族の家では、子供作りが盛んだからのう。奥方の御腹から生まれた子供ならば、その種は誰でもよいらしい。
御息所様はまだ若いからのう。訳の分からないお子様が何人もおると聞いておるぞ。もしかしたら大臣の御子か、宮中の将校の子供かも」
「それならば光源氏様の女御子とするならば辻褄が会う。光源氏様は御息所邸へ良く通っておるのでのお」
「ならば御息所様には十歳ほどの御子も御られるという事か」
「まあー、どれもこれも想像の世界ぞ。御年二十五でも秋子姫が斎宮になられるのが順当でござろう」
「そうだ、そうだ」
そんな噂が京の町に流れる頃、六条の御息所様は、
『源氏の大将が無頓着の御心ばえも、いと他人事のように装い、何の手立てもないまま、このまま伊勢へ押しやられるのか』
と、頼もしげなきを嘆き賜う。
斎宮に決まった秋子姫は、まだ十にも満たない幼き御有様の御姿で、どことなく源氏の君の面影が感じられれば、御息所は自分の犯した罪の後ろめたさに事付けて、
「このまま図々しく京の都で暮らす事は出来ない。伊勢へ下りやも、やむを得しなまし」と、兼ねてより思しけり心遣いにありて、半ばあきらめておいでだと聞こえさせ賜う。
桐壺院は、『院の面子にも掛かる事なむ』と聞こし召して、
「故兄宮が皇太子の頃、権勢もいとやんごとなく思い通りに振舞われて、
『ここに皇太子妃、六条の御息所あり』
と、宮殿で存在を時めかしていたた物を。今の隠居生活は御気の毒でならん。 軽々しう伊勢へ押しなべたる有様にするとは、如何に残忍に持て成す事か。これが現実なら愛おしき可愛そうな事」
と、悩み賜う。
『斎宮をも、ここの弘徽殿の女御、春子の御子同等の列に連なるにならん』
と思えば、
「いず方に理由を付けても、おろそかにならざむ扱いこそ良からめ。源氏の君は近頃の心の荒びに任せて、春子にかくも好き技にさせるとは、いと世の悪政もどきに負けいぬべき事なり」
などと激怒して、光源氏様に出向くよう命令の御景色ありしければ、
「我が心の心地にも『げに御息所様を御可哀そう』と思い、明らかに良心の痛みに知らるるければ、急いで参上致します」
とかしこまりて仙洞御所にさぶらい賜う。
「人のため、世のために、恥がましき事無く、いずれ方をもなだらかに怒りのないように持て成して、女の恨みなど負いてはならんぞ。御息所はそなたの母君の主方にある。その恩を決してわすれるでない」
とのたまわするにも、光源氏様とて同じ事で、
「御息所様を京より伊勢へ追いやるのは、心痛き事」
と、涙を流し賜う。また、
『女の恨みなど負いそ』とのたまわするにも、
「けしからぬ、右大臣の姫君に横恋慕するとは何事ぞ。右大臣家の姫君には朱雀天皇の御妃候補もおいでになる。間違いがあってはならぬ。お前の軽はずみな行動が女の一生を駄目にする。恨みなんぞ負いそ」
と、言われたような気がして、自分の心のおほけなさを、
『身分をわきまえよ。そなたは朱雀天皇の臣下に下った身ぞ。帝の御妃と間違いがあってはならん。万が一の場合打ち首ぞ』
と、聞き越し召し付けたらむ時のように思えて、いと恐ろしければ、
「決してそのような間違いはございません。右大臣家を訪ねたのは帝に命じられて花の宴に参ったまでのこと。酒に酔い任せて失態はあっても、右大臣の姫君に恋心を抱いた事はありません」
と、かしこまりて説明致し、急いで仙洞御所をまかり出賜いぬ。
三
またこれとは別に、かくこのようにも桐壺院にも聞こし召し、
「六条の御息所様は、最近私に冷とうございます。私が度々御訪ね致しましても
『体の調子がすぐれぬ。またの機会にして賜もうれ』と、申しまして、なかなかお会いして下さらないのです」
と、言い訳がましくのたまわするに、六条人の御名にも我がためにも、好きがましゅう寄り添い抱きしめたいほど愛おしきに、いとどこの上なお一層、やんごとなく心苦しき院の筋には、
「もっと仲良く振舞え。御息所様が御元気に成られる事が一番大切じゃ。世間体の事など気にするな。桐壺院は二人が仲良く振舞う事を望んでおるぞ」
との思い聞こえ賜えど、
「光源の君よなぜ参った。『ここには近寄るな』と、言うたではないか。秋子が斎宮に決まったからには、この家は潔白でならなければならぬ。私にはそのような気持ちはありませぬゆえ、御引取くだされ」
などと仰せになられまして、光源氏様の前に現れては、わざと他人行儀に冷たくあしらい、親しげな持て成しなど聞こえ賜わず。
女も、似げなき御年のほどを恥ずかしう思して、世間に、
「六条の御息所様は、御幾つになられても盛んよのお。うらやましい限りだ」
などと噂されるのを気にして、心溶け賜わぬ景色なれば、
「桐壺院へ伝えて下され。六条の御息所は斎宮の為に慎み深く過ごしております。ここで男と問題を起しては、斎宮の為に良くありません。どうぞ私に構わず、そっとして下されまし」
などと、それに合わせて慎みたる有様に源氏の君は持て成して、家から追い払い賜う。
「そのような事情でございますので、今は何もせずにそっとして於いた方が良さそうにございます。いずれ斎宮の任務が終わりますれば、心も開いて来られますでしょう。御息所様の事は心配に及びません」
と院に聞こし召し入れ、
『世の中も、二人の仲を知らぬ者なくなりたるを、今さら清純を装っても何になる』と、深うもあらぬ心のほどを、じれったく思いながら、光源氏様は斎宮家の人々を、いみじう御気の毒に思し嘆き賜う。
その後、御息所家に係る事を聞き賜うにも、付き人の人々は用心深く振舞う中で、朝顔の姫君だけは帚木の章で見せたように好意的で、いかで他の人に似じと情深う思せば、
「どうぞ光源氏様、御息所様の御様子は門番を通して私に御聞き下さいまし。門番の目の前で御話するのでしたら、一向に構いません」
と、耳打ちして光源氏様に好意的に持て成す気配なり。ただ朝顔の姫君が光源氏様に恋心を抱いているのかと言えばそうではなく、和歌の文を送れども、はかなき有様なりし御帰りの文等も、まったくをさをさなし。
朝顔の姫君は、斎宮の勤めのことを深く考えて、今は男女の色恋は不謹慎と考えり。さりとて、まんざら悪い気持ちもないらしく、人憎くはしたなく粗末には持て成し給わぬ御景色ながら、君を大切に持て成し賜えり。
源氏の君も、なお御息所家の人々とは、『異なる考え方なり』と、乙女の事を思し渡る。
大殿の方々には、かくこのように外面のみ良くて、妻の身内には定め無き無関心な御心を、心付きなしと思せど、
「浮気心は死ぬまで治らぬ。大殿を留守にするのは元気な証拠と喜ぶべきか。良しとしなければ」
などとあきらめて、余り慎しまぬ御気色の遊び心を咎めても言う甲斐なければ、無駄な気苦労にやあらむ。今さら深うも怨じ聞こえ賜わず。
ただ近頃右大臣家が朝廷を牛耳るようになって、光源氏様を邪魔者扱いにするようになると、葵家の人々の心苦しき有様の心地に目覚めるようになられて、
「わしが左大臣家を粗末に扱った報いにや。葵の上を大事にして、大臣の御曹司を朝廷の上の役職に送り込むべきだった」
などと悩み賜いて、物心細げに覚いたり。光源氏様にすれば、珍しく自分を哀れとの思い聞こえ賜う。
誰も誰も光源氏様の悔いた御姿を見て、嬉しき物から忌々しう、
『このまま再起できないのではないか』と思して、様々の御慎み、祈祷、祈願を施させ奉り賜う。
かようなるほど、光源氏様の御悩みの度合いは深くて、いとど他人に御心遣いのいとまなくて、六条の斎宮に思し怠ることはなけれど、御息所邸へ訪れる事も、途絶えたること多かるべしと考えるべきなり。
四
その頃宮殿に於いて、伊勢神宮とは別に加茂神社に遣わされる斎院もおり賜いて、弘徽殿春子きさき腹の女・三の宮、新天皇の即位に伴い、安泰祈願の責任者として奉仕する任務に決まり神殿に居賜ぬ。
桐壺の帝、春子きさき腹の、いと事に思い入れ聞こえ賜える愛おしい宮なれば、兄妹筋から斎院を選び奉りたるを前例と異になり賜うを、いと心苦しう可哀そうに思したれど、
「嘆くでない、春子。このことに限って外の宮家どもに適任のさるべき女御子がおわせず、役目を果たせないとなれば、寝殿の儀式など、常の三年間神儀技に奉仕する責務事なれど、朱雀天皇をお守りする役目として仕方があるまい。
そなたの三の宮が斎院として奉られるのは避けて通れない宿命ぞ。あきらめなされ、王妃よ」
「そうは言っても、三宮は婚姻の適齢期。その後朱雀天皇が任務を終えるまで役目が解けぬと成れば、女の人生は終わったも同然。結婚も、男を恋することもできないのでございますよ。余りにも可哀そうで・・・・」
と、いかめしう大声を上げてののしる。
「さりとて伊勢の斎宮が地の果てで孤独に暮らすのを考えれば、斎院は都に留まりて、多くの知り合いと話が出来るのじゃぞ。結婚はかなわなくとも暮らしに困ることはない。良しとしなくては」
桐壺院は更に慰めます。
この葵祭りのほどは、限りある公け事に限られた制約に添う事が多く、衣装や言葉遣いも古式にのっとって、厳格な華やかさがありますれば、見所こよなし。京の都人からは、日本最大の祭りと見えたり。
王族や大臣の北の方、女御子を始め、その他多くの上達部の奥方など、普段は滅多に姿をお見せしない方々が、見物に居出給う祭りなり。
その御禊の日に選ばれる従者役職は、上達部など数も少なう定まりて、儀式を仕う奉り賜う技なれど、覚え事に形ある限り前例の儀式に習いて、下重ねの白の袴、上袴の紋様入り厚袴、上衣の袍の色は身分に合わせて身に整え、冠や太刀、弓矢に至るまで見所多し。
まずは人の御姿、振る舞い、顔の表情、衣装と装飾具が最大の見所と見えたり。行列には馬や鞍まで皆、形や飾りを整え、御車も色とりどりの旗や布をなびかせて歩いたり。
何もかも新天皇様の即位に伴う行事なれば、
「十年、二十年に一度の祭りぞ。見逃してなるものか」
などと、誰もがこの行幸を心待ちにしているのでございます。
取り渡る桐壺院の宣旨にて、光源氏大将の君もこの祭りに奉仕しう奉り賜う。その噂は都中の人々に伝わり給いて、
「一目光源氏様の御姿を見てみたい。きらめく青空の下、黄金の輝きがみられるぞ」と、人々は期待に胸を膨らませていたのでございます。
「良いか葵姫、この時ぞとばかりが左大臣家の権勢を見せる良い機会ぞ。金は幾ら使っても構わん。華やかさと豪華が右大臣家に負けてはならん。
『ここに天下の左大臣家有り』と。都の人々に見せ示めよ」
左大臣は『自分こそが身分が上なのだ』と、見せたがっております。それは右大臣家とて同じです。
「良いか四の姫、そなたは右大臣家の女党首と同じ。決して左大臣家の葵姫に負けてはならんぞ。わしが物見事な御車を用意致すから、そなたは誰にも負けぬ十二単衣を身に付けて見物なされ。牛車の御簾から垂れ下げた十二単の袖口が、誰にも負けてはならんぞ」
と、弘徽殿の女御の本家に至っても大騒ぎです。
このように宮廷にお仕えする高官の奥方様は、かねてより見物席の大路の一番良い場所を陣取って、物見車から妻をお披露目させようと、御心遣い激しけり。一条の大路は隙間所なく、物見客に陣取られて、むくつけきまで騒ぎたり。
何もかもが、御所と禊の鴨川の距離が僅か三百間と短く、運悪く遅く駆け付けた者は、大通りには入れぬ始末です。
「おいっ、そこをどけ。俺たちの前に車を止めるな。俺たちの北の方様が見えなくなるではないか」
「少しぐらい見えなくても良いではないか。お互いさまぞ、我慢してくれ」
「ならんならん。駄目なものは駄目ぞ。この野郎、痛い目に遭いたいのか」
「分った。分かったよ」
その騒ぎは御車の従者にとっても同じです。所どころの桟敷が大きな木々の日陰となれば絶好の観覧場所で、従者どもも心心に仕尽くしたる仕つらい、御車は後ろ向きに大路に面して、御簾の影越しに通りが見通せるように整えたり。
それぞれの御車の後ろに垂れ下げた北の方様や、女御子の十二単の袖口さえ、豪華衣装の気配がしのばれて、いみじき見物なり。
大殿の葵の上にとっては、かようの賑やかな場所への御歩きも苦手で、おさおさもたもたして御出掛け仕賜わぬ性格に、
「葵の上様、早う御仕度を整え下さいませ。急がないと一条大路の一番良い場所はおろか、片隅にも陣取れなくなってしまいますよ」
侍従の女房どもにとっても気が気ではありません。
「そうは言っても何故か気分がすぐれぬ。身重で体がだるいのじゃ。万が一、今度も流産したら申訳が立たぬ。今日の見物はよそうかと思っているのじゃ」
などと御本人の御心地さえ悩ましければ、従者の人々は思し掛けざりける葵の上の消極的な態度に、歯がゆく思いけるを若き人々、
「居出や。何をしとる葵の上様は。葵祭の行幸に遅れるではないか。おのれが、どち引き忍びて夫の晴れやかな姿を見はべらむこそ、妻としての映えある喜びとて無かるべけれ。
おおよその人だに、今日の行列の見物には
『源氏の大将をこそは一目みたい』と楽しみに押しかけたる物を、怪しき山賊のような山がつの男さえ見奉らんとするなれ。妻の葵姫が見に行かぬとは示しが付かぬではないか。
遠き国々よりはるばると、妻子を引き具しつつ詣で来るなるを、御覧ぜぬは、いと余りにも薄情はべるべきかな。葵の上様がお出かけにならないとなれば、我々だけでも、下々の侍女女房を引き連れて見に行くぞ」
と言うを、母君の大宮様が聞こし召して、
「御心地にも、気候が宜しき暇な晴れ日和なり。この気持ちの良い五月の気候に、出掛けぬとは、葵に付き添いさぶらう人々も、騒々しげに騒ぎ怒りなめるは当然なり。
葵の姫よ、己の夫の晴れ舞台ではないか。とっとっと見に行きやがれ」
とて言って、にわかに激しく怒り出して、娘の内気な心を悩みめぐらしながら仰せ賜いて。その様子を見奉り賜う。
葵の上様は遅ればせながら、十五人の従者を従えて、仕方なく出掛けて行きました。
五
日猛け行ひて午前十時となりますれば、行幸の儀式もわざとならぬ本格的な始まりの気配さえ感じられて、一条大路は押し寄せた人々の熱気に包まれ、最高潮に盛り居出給えり。
案の定、一行が到着した頃には、通りは隙間なう車も立ち並び渡りたるに、豪華に装おしう御車を整えて乗り込んだ物の、車を止める場所さえなく、当てどなく牛車を引き続きて立ち止まり、
『どうした物か』と思い煩う。
右大臣家と言う権力にまかせて先着の車をどかそうと試みたものの、
『これほど気品に満ちた御車を押し退けるには気が引けるぞ』
と思えるほど、良き王族方の女房車多くて迷うばかりなる。
そうした一条大路の騒々しく動き回る人の中には、人無き隙間を思い定めて、そこに陣取ろうと皆差し除けて騒ぎを起す者さえある。そうする中に、竹の皮で編んだ外囲いの網代車の、少し使い古し馴れたる車があり。
車内のようす見るに、下簾れの絹の下がり有様など上品に仕つらい、良しばめる気配に、外側だけがみすぼらしい姿なり。しかもその御車は、痛う奥に引き入れて遠慮がちにたたずむなり。
下簾から外へはみ出したほのかなる単衣の袖口、引き布の裳の裾、汗衫姿の袖口など着物の色、いと清らかにて、御車だけがことさらにやつれたる気配しるく、成り上がりの町人らしく見えゆる車、二つあり。
大きな木の木陰で休み、平然と静かに過ごして居ます。葵様一行の車はそこへ立ち止まり、隙間に割り込めないか思案していると、
「邪魔だ、そこどけ。大路が見通せなくなるではないか」
と、怒鳴られてしまいました。
やはり車を止める場所は何処にもありません。それどころか、後から入って来た車も何台か居て、あわよくば先に留めようとさえしております。
「だから葵の上様に『早くお出掛けしましょう』と、再三に渡って申し上げたのに。これならば従者の五・六人を先に行かせ、場所取りをするべきであった」
と、従者の頭は後ろ髪を掻きながら後悔しています。
「それを今頃言っても始まらんぞ。どこかに停める場所はないかのお」
「こうなったら仕方があるまい。一番身分の低い車を後ろに追いやって、我々がその前に陣取るしかあるまい」
「争いになるやも知れんぞよ」
「構うものか、そのために我々は十五人もの付き人を伴って来たのじゃぞ。葵様が巡幸を見れなくて大殿に戻ったとなれば。われわれは殿様に大目玉をくらわされるぞ。三・四人の相手なら力づくでも押し除けてやるわい」
自慢げに黒い口髭を横に張り上げた男が言うと、
「それならば御頭、そこの木陰の特等席にみすぼらしい御車が止まっておりましたぞ。あそこはどうかのお」
と、やつれた年上の男が言います。
「いいえ、いいえ、駄目でございます。そんな特等席を誰も奪わないのは、何か訳ありの御車かも知れません」
四・五人が寄り集まって話しこんでいると、従者にしては身綺麗に服装を整えた若者が後ろから口を挟みます。
「構うものか。こちらは左大臣家の御車ぞ、天皇家か太政大臣でない限り、何も遠慮することはない。そのための身分制度じゃ」
「よし、分かった。皆の者行くぞ」
「へい」
一行は勢いよく木陰の特等席を奪おうと、網代張りの遠慮がちな車に近付いて行きました。
「何をする。これはさらに高貴な御方の御車ぞ。みすぼらしく見えしても、さように差し除けるなどすべき車にあらず、手出しする物なら宮中に使者を送り、処罰させようぞ。殺されたいか、この野郎」
と、口恐く言いて、御車に手を触れさせず。
網代車の二台のいず方にも、若き者ども端正に片膝を地面に突いて御車を見守り、酔い過ぎたる悪ふざけの事は一切、え行動にしたため合えず。町人とは異なり、宮中でお仕えする若き武官のような雰囲気です。
さらに御車の御簾の影にたたずむ大人おとなしき奥方様の御前でお仕えする年配者の女房は、さらに気品に満ちて、左大臣家の人々との争いを恐れて怖がっています。中の老婆が御簾を少し持ち上げると、
「掛くな。そのような荒くれ者どもに係わり会うでない。素知らぬ顔をしろ」
などと言えども、相手の行動は強引で、割り込もうとする行動は、え留め合えず。横に隙間が出来ないと分かると、強引に後手寺院の塀に向かって押し込んで行きます。そして『ガキーん』という音と共にぶつけてしまいました。
「きやー」
大きな衝撃と共に、中から悲痛な叫び声が聞こえて来ます。
「何をするそなた達、私が誰か知っての事か」
奥から北の方らしき人の声が聞こえて来ます。
「知るか、そのような事。俺たちはな、左大臣家の従者ぞ。文句があるなら左大臣様に言え」
葵の上の従者はまるで声の主を相手にしません。乱暴を働いた従者は目的を果たすと、急いで大路の前に出て巡幸を見物しようと去って行きました。
六
その網代車の持ち主こそ、伊勢の斎宮の御母。六条の御息所なり。その母君は物思し乱るる事多くて、少しや日々の慰めにやもと思い、忍びて葵祭に居出賜えるに成りける。
貧しい家柄の御車を装い、祭り見物に来た人々につれなしに控えめに作れど、御息所様の自尊心は衰えず、一気に憎しみが込み上げになりける。
「おのれ、葵の上の一行か、許しておけぬ。世が世ならば、左大臣家など取り潰してやるわ」
御息所様はその紋章から、自ずから源氏の君の北の方であることを見知りぬ。
それにしても、桐壺帝の兄君が皇太子であった頃の自分の立場を思い出し、自分がここまで辱めを受けねばならぬのかと、悔しくてたまりません。
「天の王子よ、何故早く天国へ召されてしもうた。私がここまで悔しい思いをしているのを御存じか。御存じならば、この状況を何とかして下され。左大臣家の後ろに追いやられては、かっての皇太子妃としての立場が立たぬではありませんか」
しかし、どんなにもがいても今の立場は変わりません。
「さばかりにては、さな言わせそ。そんなおんぼろ車が行列の前にしゃっしゃり出ては斎院様に失礼ではないか。くやしければ豪華な車に乗り換えて、せいぜいめかし込んで乗り込んで来ることだな。
豪華さで負けたら前の場所を譲ってやるよ。源氏の大将殿をぞ思い出し、それ以上の豪家には思い聞こゆらむ。今では御息所様と言えども、身分は源氏の大将の下ではないか」
など右大臣家の従者言うを、その源氏大将御方の付き人も混じりれば、更に勢い付いて横暴も止められず。
光源氏様の従者は、主の更衣様が御息所様に大変世話になったことを思えば、愛おしく可愛そうと思いながらも、せめて葵の上の御車にお越しいただき、隣同士で見物させてやれるならば
『争いも終わる』
と考えてみたものの、葵の上付の女房を御車の外へ追いやり、客の席を用意せむも煩わしければ、知らぬ顔を作る。御息所様は、
「事の起こりは右大臣家の四の姫に加担したのが始まりや。五条の幽霊屋敷で夕顔殺害に加わりなければ、源氏の君に見捨てられることはなかった。夕顔との遊びは一過性のはしかで、放って置けば良かったのだ。
なぜに源氏の君の浮気癖を直そうと真剣に考えたのか。あれは若い女に対する嫉妬であったのか。馬鹿馬鹿しい。四の姫の文と頭の中将の誘いに、うまく騙されてしまいおった」
御息所様は源氏の君にはこの所冷たくされ、夕顔殺害の一件でも、自分の関与を見破られたのではないかと密かに恐れておりました。
「源氏の君と夕顔との恋は確かに憎かった。だが殺すまでのことはなかった。頭の中将があれほど残酷なまでに裏切った相手を殺すとは思わなんだ。夕顔の死は朝顔の眠り薬ではなくて、
『確かに楠木の絞殺に因るものであろう』殺さずとも、度々逢いに行けば夕顔は大将楠木の手に戻ってきただろうに。気の小さい奴め」
六条の御息所はそう考えながら、頭の中将に味方した事を悔いております。
「頭の中将殿、丁度良い所に来てくれた。源氏の君が訪ねてきたそうだ。客を迎える東の廂で源氏の君を迎えに行こうではないか。我々の仲の良い所を、せいぜい見せ付けようぞ」
六条の御息所は事件の後、源氏の君に愛想を尽かして、若君から、頭の中将へ乗り換えようと考えた事がありました。
「源氏の中将でございますか。近衛府では私の部下と言えども所詮は帝の王子、武芸ではあいつに負ける事はございませんが、私はあいつが苦手でございます。できれば御免こうむりたい。帝のお叱りは避けなければなりません」
「天下の頭の中将に苦手な相手が居るとはのう。劣等感を払い除ける良い機会ではないか。今宵、そなたが源氏の君よりも上であることを見せ付けて進ぜよう」
二人は客人を迎える東廂に歩いて行きました。高欄干の上で待つと、車止めから庭に歩いて来た源氏の君が、まさに階段を登ろうとしています。
御息所は高欄の上から声を掛けます。
「源氏の君、何しに参った。この所わしに冷たい仕打ちをしおって、よくものこのこ来れた物よ。この方を見て下され。今宵はこの方が先客としておいででな、夜の相手をしてくださるそうだ。悪いが帰って下さらぬか」
御息所はわざとらしく頭の中将に寄り添って、
「ふふふふ・・・・」と笑いを浮かべます。
体格も大きく兵の統率に於いては誰にも負けない頭の中将は、この所、男の生気に満ち溢れていて、濃い鼻ひげや唇の肉厚、眠気顔に見せる油切って丸まった顔立ち、太い首、盛り上がった肩の丸みまでが抱かれたい男そのものです。
その男姿は光源氏様とて、到底立ちち打ちできぬ圧迫感があります。
「用がないのなら、私は失礼つかまる。そうとは知らず失礼した。先にお越しならば帰るしかあるまい。今宵は麻呂とて待っている女は大勢いるのでな。楠木の中将が御息所様を御相手して下さるならば、わしはそれで満足じゃ」
光源氏様は二条院の我が家に紫の上が待っていることを思い出し、去って行こうとしたのですが、頭の中将楠木は更に、
「その相手とは二条の末摘花の事でござろう、源氏の君。あんな不細工な女ならこちらは遠慮つかまつる。夕顔と言い、末摘花と言い、お前の好みは下女が好みらしいな。
俺は御息所様のような高貴な女が好きだ。御息所様のたっての願いならば断わる訳には参らぬ。悪く思うなよ、源氏の中将」
と言います。
「何々、源氏の君は赤い鼻の美人が好きなのか。天下の美男子と末摘花とは不釣り合いよのう。これは面白いおっほほほ・・・」
「わっはははは・・・・」
光源氏様は二人の笑い声を聞きながら去ってゆきました。とうていかなわぬ相手には立ち向かわぬのが光源氏様の生き方です。しかし、顔を赤く硬直させた後姿は、かなりの屈辱を受けたようすです。
光源氏様はそれ以上二人を見ようとはせず、
「さらばじゃ、衛門府の中将」
と言い残すと、ゆっくりと元の車止めに向かって歩いて行きます。冷静さを装っても、赤らめた顔の表情や、ムクゲの花を払い除ける様子など、怒りが込み上げてどうにもならないようすです。
その夜御息所様は夜を楽しんだものの、
『あれはやり過ぎであった。源氏の君との繋がりを残すべきであった』
と、今ではつくづく後悔しています。
何よりも頭の大将の女扱いは一方的、直ぐに終わると大いびきを掻いて寝てしまいました。大きな胸に顔を近付けて寄り添ったものの、肌はざらざらした濃い胸毛に覆われて好みではありません。
寝ている間にどんな持ち物なのかと触った下の物は小さくて、琵琶の実のような二つの物は、縮れた毛に隠されて光源氏様のようなしっとりとした柔らかさと、擦り抜けるような玉の硬さと、重量感がまったくありません。
『大男の見掛け倒しとはこのことか』と、つくづくいやになりました。
それに口の周りに食べかすの匂いが漂って、清潔感がまるでありません。密かに胸に秘めた恋心はそれだけで失せてしまいました。
いまさら源氏の君と復縁したくてもどうにもなりません。しかも源氏の君が訪ねて来ないと成れば、都では親戚も少なく、宮中との縁も今では薄く、改めて自分が孤独で有る事を思い知らされました。
『源氏の君に嫌われたのでは、斎宮と共に伊勢へ下るしかあるまい。せめて葵祭の前列で席で源氏の君の御姿を拝見できれば、
「それで満足じゃ」その思い出を胸に伊勢へ下ろう』
そう考えた矢先の葵祭の屈辱でした。
七
ついに御車ども二つも、目の前に立て続けに並べられて塞ぎつれば、人溜まりの奥に押しやられて、物の姿何も見えず。ただ歓声と共に斎院をお守りする従者の行列が、御車や観衆の間からわずかに見えるだけです。
「おおー、祭りの先導役は光源氏様と頭の楠木大将か。二人で並んでいる姿はりりしくて立派じゃのう」
「光源氏様は弓矢を持って、黒のけってき束帯姿とは立派じゃのう。宮中とて、これ以上の晴れ姿はないぞよ」
「楠木大将だって立派ではないか。鹿角の脇立ては最高の兜じゃぞ。金の兜はまぶしいのう」
「赤い首紐、青と黄色の大袖、胴衣の鎧には金糸が施してあるぞ。楠木大将の方が立派に見えるぞ」
「いやいや、武将姿はあくまでも帝と朝廷をお守りする役目ぞ、朱雀天皇直属の光源氏様の束帯姿には、身分に於いても負けるぞよ。光源氏様の天性生まれ持った気品にはとうてい及ばぬ」
「そうかのお」
群衆の感動する話し声を聞きながら御息所様は、『落ちぶれ貴族』と誤解されるも仕方が無いと、心やましき落ち度をばさる物にて感じながら、
「掛かるやつれた姿と言えども、先々代の皇太子妃のそれ」
と、知られぬる無礼な態度を、いみじう妬きことと思うも限りなし。御息所様は今まで見せた事のない恐ろしい顔で、前を塞いだ牛車の主を恨んでおります。
牛車の鞍に掛ける長柄の木材や、長時間留め置く支持台なども皆押し折られて、すずろなる壊れた車の胴体部分に掛けたれば、車は幽霊御車に思われて、哀れな姿になりぬる。
半分垂れ下がった御簾を、付き人女房のお元が急いで取り付けようとしています。
「これでは中の御息所様が丸見えぞ。こちらの方がよほどの見物になるわい」
などと騒いで、周りの人々も又なう人悪ろくて、
「悔しう思うぞな。この祭りに何しに来つらん。恥を見せに来たのではあるまい」
と思うに、馬鹿にされては何の甲斐性なし。
「これまでじゃ、お元。これ以上生き恥を晒しておけぬ。六条へ帰るぞ」
御息所様は軽々と御車から飛び降りると、御簾の影に居る侍女に呼び掛けます。
「せめて光源氏様の御姿だけでも見て帰りませんか。斎院様が通り過ぎるまで待つのが礼儀かとも」
「ならん」
しかし、せめて物見で帰らんと仕賜えど、通りの前に居出ん暇も隙間もなし。
「事なりぬ。通りに出ようと思うてもどうにもならん。帰ろうと思ったら行列の先頭が先に来てしもうたわい」
と言えば、さすがに見るも辛き人の御前渡りが目の前に迫り、夜を共に寄り添い過ごした光源氏様が通り過ぎるのを待たるるも心弱しや。大衆の中に埋もれてまでも、一目光源氏様を見ない事には帰れない気持ちになりぬる。
後の車を振り返り、長い髪を振り乱し逆立てながら、
「おのれ、葵の上、手前にこの御息所の無念が分るか。判るなら車から降りて土下座しやがれ。生涯かけても恨みは晴らしてやるぞ」
と鋭い目を光らせながら、
「おのーれ、おれおれ、天の悪魔よ、目を覚ましてやがれ。葵の御車に災いを振り掛けよ、この恨みを晴らして下され」
と念仏を唱えます。
「ああっ、ああああ・・・・何故か急に胸が苦しい。お腹が張って痛くてたまらん。ああーああ、あああ・・・苦しい」
と、 左大臣家の御車の中で葵の上は苦しみます。
「ああー、姫様、どうなされたのです。酷い汗をお描きになっておりますよ。何故急にこんなことに。行幸の列が通り始めたと言うに」
取り巻きの侍女ども女房は、誰もが祭りに夢中になって、斎院と光源氏様を一目見ようと夢中になっていたので、御息所様が恐ろしい剣幕でこちらを見ていた事など誰も気付きません。
「お願い、急いで三条の大殿へ連れて帰ってくれ。今にも死にそう・・・」
葵の上は腹を押さえながら言います。
「ああー、姫様。祭りが終わらない事には、帰ろうにもどうにもなりません。どうぞ横になって下さいまし。こうして暖かくすれば大分良くなりますよ。そなた達も打掛を脱いで、葵の上様に掛けてやりなされ」
老女の女房は他の侍女にも声を掛けます。しばらくすると葵の上の気分は大分良くなったようで。侍女は再び祭りの行幸に夢中になり始めました。
「源氏の大将、そなたは何をしている。六条の御息所がここにおるというに、知らん顔はなかろう。せめて
『六条の御息所様、お元気でしたか。ご無沙汰いたしております』と、声を掛けて下され。群衆の前で笑顔を見せて下されば、さすがに群衆も一目置いて無礼な振る舞いはせぬはず」
と呼び掛けども、光源氏様は大勢の観衆の中に御息所様がいることに御気付きになりません。御息所が晴れ晴れしい光源氏様の声、聞こえ待たるるは心弱しや。
ささの隈 檜隈川に 駒止めて しばし水替え 影をだに見む
ささの影 人混み川に 足止めて 手洗い水で 影写し見る
『自分の姿は人笹の隈にだにあらねばや。足元の水溜りにしか光源氏様の御姿は見えぬ』
大勢の中で光源氏様が御息所様に気付くわけでもなく、つれなく澄まし顔で過ぎ賜うに付けても、祭りの総責任者としてわき目も振れず、堂々と威厳を保ち続けて遠くを見る姿は、見る観衆に付けてもなかなか御心尽くしなり。
「さすがは光源氏様じゃ。遠くからはるばる見に来た甲斐があった。あのけってき姿の御着物姿も武将の姿も完璧じゃ。侍従官や王命婦の婦人の姿も初めて見た。まるで王宮の中を、のぞき見しとるようじゃ。満足じゃ、満足じゃ。皆、我々の理想に叶おうておる」
と観衆は大喜びです。
げに、常よりも花と刺しゅう入りの垂れ幕で飾り立てた好み整えたる車どもに、我も我もと狭い車に乗り込んだ関係者は多くて、奥方、御子の落ちこぼれそうになりたる下簾の隙間どもの陰からも、
「うわー、素晴らしい晴れ舞台じゃ。斎宮様の御顔を拝見できて嬉し」
と、見物する一行の表情も、普段は笑顔を見せぬ顔なれど、微笑みつつ尻目に横顔で振り向き、色気留め賜うもあり。群衆はそれぞれの北の方様の笑顔が自分に振り向けられたのだと大喜びです。
「どうどう。止まれ」
光源氏様が全体に声を掛けると、要所要所に配置された号令係が次々に合図を送り行列は止まりました。
「頭の大将、しばしの間待たれよ」
と源氏の君が楠木に声を掛けると、頭の大将は
「かしこまりました」と、頭を下げます。
源氏の大殿の馬が行列を離れて、左大臣家の御車に向かって走るければ、葵の上の御前に真面目立ちて渡り賜う、
「葵の上殿、祭り見物に来て下されたか。誠にかたじけない。行幸の一行はどうじゃな。お気に召されたか」
と、光源氏様が声を御掛けになると、左大臣家の御供の人々、皆打ちかしこまりて一礼をします。葵の上様だけに心映えありつつ、他には一切目をくれない総大将の渡りつるを、付き添い人は自慢げなる。
「それがどうもこうも、姫様の具合が良くないのでございます。とても苦しそうに御車に臥せっておいでです」
老女は申しわけなさそうに口に手を当て、小声で言いました。
「それはいかん。先導の馬を一騎待機させるゆえ、行列の最後尾について参れ。東大路から南へ向かい、本宅へ向かうのが一番良かろう」
光源氏様は急い行列の先頭に戻り一行を出発させました。
「かたじれのうございます」
老女が一礼する横で御息所様は、
光源氏様、六条の御息所でございます」
と声を掛けましたが、まるで素知らぬ様子です。一向に振り向いて下さりません。それどころか、見て見ぬふりをして急いで去って行きました。
自分に気付かない光源氏様を妬ましく思い、御息所様は願いを打ち消たれたる有様を、こよなう憎く思さる。
影をのみ 御手洗川の 連れ無きに 身の浮きほどぞ いとど知らるる
影をのみ 慕い求めど 連れ無きに 身の憂さほどぞ いかに知るらん
と、涙のこぼれ落ちるる人の、高貴な姿を見るもはしたなけれど、目も鮮やかなる妃様の容貌形は、いとどしう気品に満ち溢れていて、葵の上をしのぐ威出映えを、この世に見ざらましかばと思さる。
六条の御息所様が余りにも可哀そうでなりません。
八
それにしても、ほどほどに付けて行幸に参加した多くの人々の装束姿、人の有様は、いみじく新調した衣服で『体裁を整えたり』と見ゆるに、その中に於いても上達部どもは、いと他とは異なり、
「さすがは関白様や大納言、その他参議になると馬で御通りじゃ。格が違うのう。冠や上衣の袍の色まで重みがあるぞ」
と言われるほど、優美なるを自慢げに見せたり。
「しかし、そうは言っても、皆年寄りばかりじゃ。御体がしゃんと伸びておらぬぞ。祭りには子息が代役として役目を果たすのが慣例じゃがのう。年寄りはいらん。元気な若者がええ」
「それはそうじゃ。光源氏様と楠木大将の御光、華やかさには押し消たれめり。それにしても光源氏様の堂々としたお姿は立派じゃ」
「そうじゃのう。楠木大将も立派じゃが、気品で見劣りするのう」
「そうとも」
一条通りに押し寄せた人々は好き勝手なことを言います。
お祭大将御預かりの随身には、殿上人の式部卿、兵部卿、大蔵卿、民部大輔など六人の御曹曹子などすることは常の事ながら、今回は例年の慣習にあらず、
「珍しき行幸などの折り技なるを、今日は特別に、それぞれの右近の蔵人の御曹司が代役として、役目を仕う奉れり事にする。それぞれ殿上人の御曹司は、父君の馬の手綱を持って先導致せ」
と命じた事は、光源氏様が年寄りにお気遣いされた物と思す。
さらなる上達部の御随身どもも、形、容貌などの姿はまばゆく整えて 祭り全体が世に持てかしずかれ給える賑やかな有様は、木草もなびかぬはあるまじからぬ華やかさなり。御所の周りは騒然としております。
壺装束などと言う深笠に顔を隠し、鼠色の目立たぬ小袿で草履を履いた姿にては宮中で働く侍女女房どもの卑しからぬや、側室の女御とさえ思われる。規則を破り抜け出して来るのもけしからぬ。
また尼などの世を背きける人々、僧院の修行中の男衆、酒に酔い倒れ転びつつ物見見物に居出たるも、場所をわきまえず、あながちに有ってはならぬ事なりや。斎宮の行幸は神聖であらねばならぬ。
「あなあなどうしたことか、普段は宮中で下働きの女としてお仕えする者が、憎しと見ゆるほどに、今日は事割りにも着飾って見物しよる」
口打ち過げ見て真っ赤な口紅を差し、髪をかづきの覆面衣に隠し、身元を隠すように上衣を着こめたる怪しき者どもの、手を作りて大きく広げ、額に当てつつ顔を隠し、行幸をを見奉り上げたるも面白き姿なりや。
愚こがましげなる腹を露わにした薄着姿の恥ずかしき使隋人の男まで、最前列に座り込み、祭りを見物しては晴れやかな祭りに不釣り合いだと、己が顔の阿呆ならむ有様をば知らで、自己満足し微笑み栄えたり。
九
何とも見入れ給うまじき成り上がり者の、えせ受領、国司の娘などさえ、偽物貴族を気取り、心の限り尽くしたる金光りの車どもに乗り居出て、
「見て見て。光源氏様が御通りよ。二人で大声を上げてこちらを振り向かせましょうよ」
などと、あるまじき軽率な振る舞いを行う。
「まあー素敵、あれが噂の光源氏様ね。光り輝く星の王子様、まったくその通りだわ。光源氏さまー、光源氏さまー、こっちを見て頂戴」
「私だって負ける物ですか。光源氏さまー、光源氏さまー、私の方を見て頂戴」
二人ははしたなくも御簾を持ち上げて、大声を張り上げたり。
「あらー、うそー。私を見てにっこり笑って下さいましたわ」
「うそよー。私の方を見たのよ」
「そんなことがある物ですか。きゃきゃきゃ・・・」
などと嬉しそうにはしゃぐ有様、事更喜び得意顔なり。それにしても田舎娘の日焼け顔に白い粉を塗り、派手な赤の頬紅で丸く描きては、自己満足の心化粧したるだけになむ。
「もっと静かに見物なされよ。帝の王子様に気軽に声を掛けてはならむ。身分をわきまえぬか。たかがそなたどもは受領の娘ではないか。こうした娘などの粗暴な振る舞いは、おかしき有りようようの見せ物になりける」
と、私こと紫式部は思うのですが、弱き女の身分では、これらの娘を止める事はできません。
まして、ここかしこに打ち忍びて通い給う所の話では、多くの人々が品格を失い、下品な態度で行幸様御一行を笑い者にするなど無礼千万、
『人知れず嘆くのみ』と、少な数ならぬ多くの知性ある人々が、嘆き勝るも多かりけり。葵祭は様々な人々で賑やかなむ。
通りの一画には、王族が祭りを見物するための、にわか物見桟敷が設けられていて、床の高さは群衆の頭の高さより高い位置に組み置かれ、天井にはよしずが掛けられて、前方の竹の手すりの前には、薄布の垂れ幕が下げられております。
「行幸の顔ぶれが良く見えるように」と、心遣い多けり。
桐壺帝の七番目の王子、式部卿の宮、その桟敷にて巡幸ぞ見賜いける。
「いとまばゆくまでに、ねび行く人の容貌形かな。光源氏殿も御年を召されて立派になられた。細身な御体ながら、身長が高く、ふっくらとした顔立ちは健康その物だ。さぞや沸き上がる精力を押さえ切れぬであろう。
多くの高官どもはうらやましがり、権力が源氏の君に集中する事を恐れる。神々などは光り輝く君に目を留め賜い、天国の我がそばに置きたがるかも分からぬ。
『源氏の君はもう少し自分を押さえて、目立たぬようにしなければ禍の元になるやも。源氏の君よ、周りに目を配り、政敵も多いこそと気を留め賜え』
と、忌々しく思したり。
傍らに寄り添い賜う姫君は、年頃に聞こえ渡り賜うも評判の娘なれば、同じ年頃の娘どもに比べて御心映え秀でていて、並大抵の世の人々に似ぬ晴れやかさを、なのめならむ美しさにてだに華やかさあり。
その娘を見て光源氏様は
「あの娘は誰そ」と、手綱を持つ惟光に聞き賜う。
「式部卿のそばでこちらを見ております姫ゆえ、その娘かと存じます」
「そうか中々の美人ではないか」
「およしなさいませ。これ以上のごたごたがあってはなりません。まして誠実な御方の娘ですから、そおっとしておやりなさいませ」
「かうしも姫君はわしの方を見ておる。まんざらでもなさそうではないか。熱っぽい眼差しには答えてやらねばならぬ。いかで心に取り入るべきか」
と、御心に留まりけり。
されど行幸の最中にては、さすがの光源氏様も、いとど娘の御近くまで行くも叶わず『じっくり見えむまでは去り難し』とは思し寄らず。
『若き人々は聞き憎きまでに恋を楽しみ、御めでたき限りじゃ』
と、ねびたる人々に聞こえ、羨まし合えり。
十
祭りの日は光源氏様も御忙しくて、葵の上が御暮しになる大殿に物見伺いに行き賜わず。
「源氏大将の君よ、祭りの行幸の場に於いて『葵の上と御息所様とで大変な争いがあったそうだな』と、もっぱら評判になっておるぞ。
何でも御息所様の網代車が壊され、御簾は引き千切れられ、壁まで壊されて中は丸見えだったそうな。おまけに矢車の心棒が折れて、御車は無残にも傾いてしまったそうだ。大勢の前で、あれほど無残に壊された御車は見た事はないとの事だとよ。
御息所様はかんかんに怒り、
『おのれ、葵の上、この恨みは必ず晴らしてやるぞ。左大臣家などぶっつぶしてやるわ』と言い残し、唾を吐き捨てて馬で大通りを駆け抜けて、六条の本宅へ帰られたそうだ。
町の衆は、『必ず御息所様のたたりがあるぞ』と恐れているそうな。御息所様に謝りに行った方が良いのではないか」
などと、かの御車の見物所争いを、そのまま真似び伝え聞こゆる人ありければ、
『いと愛おしおしう憂鬱し』と思して、
「なお、有ったらしか。残念な事じゃ。この所『左大臣家隋人の横暴は過ぎておる』と注意しようと思っていた矢先の出来事じゃ。
『御息所様に無礼があってはならん『と言う事は分かり切った事ではないか。重り家におわする人の者に情けを掛け、大事にせねばならぬ。大臣家のすくすくしき威厳の見せ所と突き進め賜える余りに、
『自らは差しも悪気はなかった』
と思さざりけめれども、掛かる相手との仲らい関係は、情を交わすべき重要物とも考え、思い足らむ相手への横暴は、復讐の御掟に従いて、次々と良からぬ人の災いを施させ賜いたる事にならむかし。
御息所は心映せの気高い性格からして、侮蔑に対する憎しみがいと恥ずかしければ、分別をわきまえず御怒りになられる方である。普段は良しありて書を楽しみ、絵など描き賜いて静かに御暮しおわする物を、如何に思しうむ憎しむ事じぞ。残念に有りけん」
と愛おしく御気の毒になり、お詫びの品々を持って六条へ詣で賜えりけれども、肝心の御息所様は、
「ならん、ならん。ならんものは、ならん。源氏の君がたとえ訪ねて来ようとも、左大臣家の奴らなど許してやる物か。顔など見たくもないわ。葵の上にされた仕打ちは、一生忘れられぬ」
と、取り合えもせず。
まして斎宮の秋子様が、まだ本家の中に仮設置された伊勢宮におわしませば、御屋敷は男の出入り出来ぬ神聖な締め飾りが家々の要所、入り口に掲げられていて、榊の憚りに事付けて誰も立ち入れられず。
「伊勢の斎宮が我が家におられると知っての事か。ここは男子禁制の神聖な場所じゃ。たとえ光源氏様と言えども、黙って帰って戴かなければならぬ」
と言って、心安くも対面仕賜わず。
御息所の冷たい仕打ちを、分別をわきまえた事割りな事と思しながら、
「なんぞや。かくも固くなまで片身にそばそばしからで、もう少し友好的であっても良いではないか。何で片意地を張りおわせかし」
と、打ちつぶやかれ賜う。御息所様と光源氏様の間柄は、しばらくの間、疎遠になったのでございます。
十一
今日は二条院に離れおわして、帝の御近くや左大臣家にはお伺い仕賜わず。この所、留守がちに寂しい思いをさせた本宅の紫の君と、祭り見に居出給うべきか』と迷い賜う。
紫の君が暮らす西の対に渡り賜いて、
「せっかくの葵祭に留守番をさせておいて申し訳ない事をした。さぞや寂しい思いをしたであろう。祭りはまだまだ余興が続いておってな、今日は街衆の御輿が繰り出されるそうだ。
『帝から休暇の御許しが出たゆえ、罪滅ぼしに、そなたと見物に行こうか』と思うておるが、どうじゃ」
光源氏様は渡り廊下を歩いて部屋に這入るなり、
「まあー」と言う驚いた表情の葵の上に向かって言いました。
「それは嬉しゅうございます。是非ともお願いしとうございますわ。斎院様の行幸は無事に御済になられましたか」
上座を明け渡した紫の上は振り返り言います。
「一部で騒動もあったようじゃが、まあ、まあー、何とか無事に終えた。若い地下人の抜擢が行幸を生き生きさせ、評判も良かったようだ」
「その噂、私も聞いております。若武者のさっそうと馬に乗った姿は。祭り見物に来た女衆をわくわくさせたとか。それに御子息様が大臣の手綱を持って歩く姿もなかなかの評判ですよ。子が親に尽くす姿は町衆の御手本になったとか」
「それを聞いて世も安堵致した。活気あふれる祭りにしようと『努力した甲斐があった』と言う物だ」
「ご苦労様でございました」
光源氏様が床の間を背にして、葵の上と御話しされていますと、随身の惟光がやって参りました。
「お呼びでございますか」惟光は庭から声を掛けます。
「これから葵の上を連れて祭り見物に出掛けようと思う。そなたには申し訳ないが、出発の準備を致せ」
光源氏様は惟光に車の事仰せ遣わせたり。
「付き人女房も二人は居出発つや」とのたまいて人数を知らせ賜う。
若い姫君の、いと美しげに衣服を繕い賜いてさりげなくおわする姿を御覧になられて、
『そなたは何ゆえにそこまでに美しくなられたのだ。可愛いのう。気品に満ち溢れた表情は誰に教わったのだ。なかなかのべっぴんじゃぞ。天性の素質によるものか、生まれが良いのか、なかなか立派じゃぞ』
と、打ち微笑み笑い賜いて、じっと葵の上を見立て奉り賜う。惟光が庭から姿を消すと、
「紫の君は、もっと近くにいざ来賜え。麻呂もろともに、そなたの外出姿を見むよ」とて言って、
常よりも清らかに見ゆるしなやかな髪を撫で賜いて、
「前に髪を削ぎ落したのは何時じゃ」と聞き賜う。
「二十日前でございます」
「久しう削ぎ賜わざるめるを。前髪が少し乱れてきたようじゃ。今日は天候に恵まれて、良き日にならむかし。髪を切るには絶好の日よりじゃ」
とて言って、暦の占い博士を御前に召して、
「髪を削ぎ落す時刻は何時頃が良かろうかのう」
とて言って、縁起の良い時を問わせなど仕賜うほどに、博士が、
「今が調度良き時刻かと存じます。少し欲を申さば、半時後がよろしいかとも」
と言えば、
「まず付き人の犬君女房居でね。そなたが先じゃ」
とて言って、童の乱れた姿どもの、おかしげなる髪を御覧ずる。
「夕顔の右近よ、犬君の腰の先ほどに削ぎ落した髪の先が乱れておるぞ。縮れ乱れた部分を削ぎ落してやれ」
光源氏様は老女房に向かって言います。
「この子は少し、髪に縮れ癖がございまして、御櫛を通しても直ぐに乱れるのでございますよ。椿油を少し多くして、削ぎ落した後に透いてみましょう」
「よろしゅうたのむ」
右近は、まだ十五にも満たない乙女の、いとろうたげなる髪どもの裾を華やかに削ぎ渡して、浮き文様の図柄が華麗に浮かび上がった上袴に係れるほどに短く切り揃えると、
「この程度でいかがでございましようか」
と聞きます・
「おおー、なかなか上手ではないか。前よりも一層けざやかにくっきりと見ゆ。櫛の通りが良くなったようじゃ。紫の上の御櫛は我れが削がむ」
とて言って、右近に紫の上の御道具箱を持って来させて、葵の君を御近くへ引き寄せると、髪を眺めながら、
「うたて悩ませるほど、髪の数が所狭しゅうも多く有るかな。この恵まれた髪を生かして、如何に振り分け追いやらむとすらむ。髪を少なくして細くみせるか、小袿全体に広げて豊かな髪に見せるか思案のしどころだ」
とて言って、削ぎ煩い賜う。
「私はどのような髪になろうとも一向に構いません。どうぞ光源氏様の御好きなようになさいませ」
「良う言うてくれた。そなたは素直だのう。自慢のいと長き髪を持った人も、額髪は少し短うにぞ切り揃え、両耳前に振り分けあるめるを、そなたののは少し長すぎるようじゃ。短めに切ってしまうぞ」
「はい」
「無下におくれ毛を隠しては、せっかくの色気も失せるほどに。何たる美的感覚の無さ過ぎや。余りにも情けなくなからむ」
とて言って。削ぎ果てて終わらすらむ。
「光源氏様、そうおっしゃらないで下さいまし。私は今までの右近の髪型は気に入っておりました」
「それはそうじゃがな、髪型が子供過ぎるのじゃ。そなたの美しさはこの両手を広げた千倍の、千尋の美しさに等しいぞ。子供から卒業して、大人になってもらわなくては困る」
と、光源氏様の祝い言葉聞こえ賜うを、乳母の小納言は、
「あわれ、子供を捨てて大人に生まれ変わらせるとは、余りにもかたじけなし御言葉かな」
と、見立て奉る。
はかりなき 千尋の底の みるぶさの 生い行く先は 我のみぞ見む
果てしなき 海より深き この君の 生い行く先は 我のみぞ見む
と、小納言に聞こえ給えれば、
千尋とも いかでか知らむ 定めなく 満ち干る潮の のどけからぬに
永久の恋 口で言えども 定めなく 満ち引く潮に 変わりもあるに
と、化粧箱の物に誓約書を書き付けて、光源氏様の愛に喜びおわする有様は、いとらうらうじく利発的物であるからにせよ、紫の上の若こうおかしきあどけなさを、光源氏様は
『めでたし』と思す。
「:源氏の大将、出発の準備が出来ました」
庭の方から惟光の声が聞こえて来ます。
「おうー、おうー。そうじゃった。そうじゃった。さっそく出掛けるとするか」
光源氏様は急いで立ち上がります。
「はい」
乳母の小納言と犬君は、待っていました』と言わんばかりに快い返事をしました。二人の方が葵の上よりも嬉しそうです。葵の上は先を歩く光源氏様に向かって急いで駆け寄ると、腕を捕えて肩に持たれ掛かります。
「まあー、お二人は仲の良い事」
小納言と犬君は後で笑いながら見ています。四人を乗せた御車は、御所の北東方向にある加茂神社に向かって出掛けて行きました。
十二
今日も祭りは、都のどこ所もなく立ちにけり。光源氏様の御一行が、近衛府の乗馬練習場辺り、馬場の大殿のほどに差し掛かった頃、各地から押し寄せた牛車が一条大路に立て煩いて、行く手を阻み賜う。
「上達部の車ども多くて、物騒がしげなるこの一条渡りかな。加茂神社に向かうにも一向に動きません」
先導の惟光は前方のようすを探っていたのですが、馬をひる返して、御簾の外から光源氏様に報告致しました。
「前の車が動かないのであれば、待つしかあるまい。引き返して別の道を選んだ所で、そちらも混雑しておらぬとも限らぬ。加茂神社は目の前ぞ。しばらく様子を見るとしよう」
光源氏様は御車を止めて安らい賜う。
しばらく待たれるに、よろしき花飾り、派手な女車、こちらに近付いて来て、痛う乗りこぼれたる十二単衣の袖を振り散ら付かせながら、御簾を横に開くと、その間より扇を差し居出て、
「こちゃへ」
と、人を招き寄せ、光源氏様の随身に話しかける御車あり。
「ここにやは大臣、帝の御使いが多くて、そう長く立たせ賜わむ。馬場の護衛に、『所狭き大殿の前に長く居座るな。早く立ち去れ』などと怒る声多く聞こえむ。私共と御一緒に落ち着く場所へ立ち去りませんか」
と、聞こえたり。
都大路で昼間から女が声を掛けるなど『如何なる好き者ならむ』と思されて、車の多いここの所も、げに男を探すには良き渡りなれば、多くの男車の中から我に狙いを定めたと思えて、
「惟光、相手から誘いの声を掛けられたのであれば、どの様な女か確かめようじゃないか。近くへ」
とのたまい、女車を引き寄せ賜いて、
「いかで大勢が集まる祭りの中に、めぼしい男を得給える所ぞ考えるは、如何に好き者の策略とねたさになん。そなたは相当手慣れた遊び女ぞ」
とのたまえば、女は良しある扇の端を折りて怒り、
はかなしや 人の飾せる 葵ゆえ 神の許しの 今日を待ちける
はかなしや 人を選ぶも 葵ゆえ 神の許しの 今日を待ちける
「締め飾りのある内は、男女の色恋も自由のはず」
とある手に書き添えられた和歌を読み、思し考えい出づれば、かの有名な源の典侍なりけり。
「浅ましう古り難き習慣を語り付くも、今めかしう自由に振舞うめくかな。女多しと言えども、女が男を求めるはそなたぐらいぞ」
と、憎さに呆れて、はしたなしう思さる。
かざしける 心ぞあだに 思ほゆる 八十氏人に なべて会う意を
男好きも 心ぞあだに 思ほゆる 八十町人が なべて敬うに
と、返歌仕賜えれば、女は源氏の君にその意欲がないと読み解いて、
「女にここまで言わせておいて拒むとは薄情な男ぞな」
と言いながら、『辛し』と思い聞こえにけり。
くやしくも かざしけるかな 名のみして 人だのめなる 草葉ばかりを
くやしくも 見掛け倒しぞ 名のみして 男と言えども 雑草ばかりを
と、聞こゆる。
十三
源氏の君は紫の上やその付き人と相乗りして、お妾の姫君を隠すために、源の典侍に対し簾をだに上げ賜わぬを、貴族の礼儀作法からして、
『心やましう恥なる事にや。女が御簾を開いて顔を見せたのならば、光源氏様も顔をお見せするのが礼儀』
と思う人も多かる。
「ひとひ一日、最近の御過ごし方有様の麗しかりし御姿にしては、今日は打ち乱れて警戒心強く歩き賜うかし。よほど御気に召された女人と御一緒に、御車の中で過ごされていると思うかし。
誰ならむ。よほどの大事な方と思える。乗り並ぶ人は並大抵の人、けしうはあらじや」
と町の人々想像をめぐらし、推し計り聞こゆる。
「挑みましからぬ恋人のかざし争いかな。もし光源氏様の御供が、六条の御息所様や、大殿の葵の上であったならば、典侍も御簾を上げた相手の姿を見た途端、
『恐れ入りました』と頭を下げて退散した物を。
平穏でつまらぬ飾し争いかな。もつと派手な争いを見たかった」
と騒々しく語り会い、争いに発展して欲しう思せど、
「他人事の争いは大きいほどええ。典侍がかんかんに起こって光源氏様の御車から御簾を引き千切ったならば、怪しい愛人の姿が見えたかも知れん。この程度で引き下がるとは、源の典侍様も御歳を召されたのう」
と、町人は諦めたり。
「かようにいと、典侍の無礼を咎めぬ人、穏便で穏やかな人は誰ぞ。これにまで御簾の中で顔を隠し、面無からぬ人は珍しい」
光源氏様は女房三人と共に暮らす二条院の端人、奥を預かる気心知れた世話女房と相乗り賜える幸せに包まれて、その方々がはかなき典侍への無駄な御いらえ争いを心安く抑えられて、乳母の言う、
「光源氏様、あのようなあばずれ女のけしかけに乗ってはなれません。あの者は紫の姫君に恥を掻かせようとしているのでございます。ここはどうぞ御気を静められて、気持ちよく通り過ぎて下さいませ」
と言う声に同調して、
「惟光、女車など無視して先を急ぐのじゃ。帰りが遅くなるぞ」
とのたまい、御簾の間から扇を振り、先を急がせ賜う。
「典侍殿、今日のことは後でゆっくりと話し合おうとしようではないか。近々末摘花の屋敷へお伺いするのでのう。詫びの酒を持って行くぞ」
とて言えば、典侍、
「心得た。約束は必ず守るのじゃぞ」
と言い残し、さりげなく争いを避けた御言葉聞こえんも、まばゆかし。光源氏様は典侍の言葉をうまくかわし、相手も満足させるゆとりある男に成長していたのであります。
六条の御息所はこの所、何事につけても悪い物を想像して、思し乱だるる事多くて、年頃の若き頃よりも悪夢に多く添い悩みにけり。一度は見捨てたものの、楠木に比べても気品が有り、玉の重みの重量感は捨てがたい。
胸の周りに手を当てて、抱きしめるだけで御息所様はゆったりとした幸せをかんじていたのでした。
「今さらながら、源氏の大将、夜の慰めに来て下され。そなたは帝が選んだだけの甲斐があって、天下一の種馬じゃ。抱かれた時の充実感は誰にも勝る。あの一瞬にして生きている悩みを忘れさせる腕の中で夜を過ごしたい」
などと、辛き方に思いを果てて偲び賜えど、源氏の君に言い寄る女は数知れなくて、年増の自分など振り向いてもくれぬ。
今はとても都を振り離れて伊勢へ下り賜いなむ斎宮の母の身、軽はずみな事は許されぬ。しかしこの寂しい思いを源氏の君に告げずに去ってしまうは、いと心細かりべく未練も残る。
「源氏の君、一度で良いから六条の御息所を訪ねて下され。酒を飲み交わしながら母君の思い出話を語り明かそうではないか。せめて一晩相手をして下されば、六条の御息所は何の未練もなく伊勢へ下れる」
御息所様は手紙を書こうと思ったのですが、光源氏様が六条を訪ねたとなると世の人聞きも悪く、人笑いの種へにならん事と思し用心深く行動す。
十四
「それならばいっそのこと、斎宮のみを伊勢へ遣わし、母は京に留まりながら、光源氏様が気まぐれに訪ねて下さるのを待つべきか。ここにおれば、まだ光源氏様にお会いできる可能性はある」
さりとて京に立ち止まるべく思しなさるには、かくこのように、
『六条の御息所様は源氏の君に未練があって京を離れられぬのだとよ。幼い斎宮を一人遣わすとは、余りにも薄情ではないか』
「いやいや、左大臣家の葵の上に恥を描かされた車争いがいまだに気になって、まだ気が収まらないらしい。呪い殺すほど相手を苦しめるか、大宮様からたんまりと詫びの品を受け取るまでは、京を離れぬのだとよ」
「おおー、怖っ怖い。御息所様の恨みは、後世、末代まで続くと言うからな」
などと、かくこのよう女として噂され、こよなき悪い有様の御息所として、皆悪く言い下たすべかめる屈辱も心安からず。
「御息所様、ようようお考え下さいませ。伊勢の勤めは三年、この間に心を沈められて、気分転換なさるのも『良かろうか』と存じます。時々海を眺めながら心を落ち着かせて下さいませ」
朝顔の君は、奥の床の間で悩まれる御息所様を見て、近くの畳の上から進言致します。
伊勢の海に 釣りする海女の 浮けなれや 心ひとつを 定め兼ねぬる
伊勢の海 釣りする海女の 浮きなれや 心ひとつを 定め兼ねぬる
と御息所様は、この所の起き臥しに思し煩うけにや、何事も考えがまとまらず、御心地にも精神が浮きたるように思されて、夜な夜な悩ましううなされ、もがきなど仕賜う。
「おのれ、左大臣家の奴らめ、何もかもがてめえらのせいだ。車を壊された屈辱は未だに忘れられぬ。この無念をいかに晴らすべきか。おれおれ、おのれ、呪い殺してやるわ」
御息所様は眠れない夜など祈祷所で過ごし、鈴など鳴らし賜う。
「御息所様、もう忘れて下さいませ。過ぎた事でございます。余りに思い詰めては御体のために良くありません」
「それはそうなのじゃが、あのことが頭に焦びり付いて離れられぬのじゃ。やはり歳のせいかのお」
「源氏の大将に於かれましてはては、伊勢へ下り賜わむ事を『「ならん、ならん。わしの手元から持て離れて暮らすなど、あるまじきことか」などと、そのような妨げの御言葉も聞こえ賜わず、無視しておられます』
朝顔の君は袖で涙を拭く真似をしながら、顔を振り振り泣き声を上げます。
「数ならぬ多くの源氏の君の女の一人としては、この身を見舞うく事もなく、思し棄てむも有り触れた事割りなれど、今は言う甲斐なきにしても、今一度御覧じ見果てむもや。
今さらながら逢いとうてたまらぬ。この思い浅はからぬにやあらん」
と聞こえ、
「それならば、私めが光源氏様に恋文を差し出して、この六条院へ御渡り下さいますようお願いしてみましょうか。昨年の初夏の明け方、光源氏様が『またの機会に会おうぞ』と、申し上げて下さったことがございます」
などと御息所様のご心中に係りづらい給えば、
『いさぎよく伊勢へ下るべきか』と、定め兼ね賜える御心もや、
『慰むなむと』と見えて縁側に立ち居出、庭を眺め賜えりし。
「ここから見える月も、伊勢から見る月も同じかのお。源氏の君に対する思いを断ち切らねばならぬ。伊勢神宮のみそぎ河の荒かりし瀬に体を清めても、若い青年に対する思いは断ち切らねばならぬ」
御息所様は、いとどよろずに深く悩みなされて、いと美しく光源氏様と楽しく過ごした日々を思し入れたり。
十五
左大臣家の大殿に於いては、何事にも良からぬ事が立て続けに起りて、まずは葵の上のむくみ倦怠感、夜な夜な眠れぬ日々が長く続いたかと思えば、大臣が透き渡殿の階段を踏み外して右腕を骨折仕賜う。
不幸はこれに留まらず、大宮様が夏風邪をこじらせて長く臥しておられる上に、子息の大弁が流鏑馬で落馬なと仕賜う。
「大殿には御物の怪の悪霊が取り付きめきて、痛う左大臣様が煩い賜えば、加持祈祷の厄払いを致せ」
との大宮様の命が下り、誰も誰も、
「これは葵祭の車争いのたたりじゃ。恥ずかしめを受けた御息所様の生霊がこの家に取り付いて離れぬ」などと思し嘆くに、
「ここはひとつ婿殿にお出ましいただき、御息所様に御機嫌を直していただくようお願いするしかあるまい。光源氏様と御息所様は仲の良い間柄、お詫びの品々を持ってお伺いしていただいたならば、怒りも静まるやも」
葵の上の出産も間近に迫って、見苦しい御姿を見せられぬ事情や、真夏の息苦しさ、だるさなどを考慮し御歩きなど控えた便なき頃なれば、この所、光源氏様も滅多にお姿を見せ賜わず。
「そうなど言っておられぬ。早く生霊を退治せねば葵様の御身が心配ぞ。光源氏様に大殿へ御渡り致すようお願いに参る」
左大臣と子息の大弁は、二条院にも時々ぞ渡り給う。
さわ言えど、二条院のやんごとなき身分の高い方は、事に煩わしく思い聞こゆる人の見下した言い方が憂鬱で、今度の御懐妊と言う珍しき事さえ、
「葵の上は麻呂を嫌うておるのじゃ。わしの顔を見ただけで気分悪くなろう。落ち着かぬであるう」
などと、御気軽に添い給えられぬ御悩みなれば、本妻との挨拶もそこそごに心苦しく思し嘆きて、御自身自ら御修法の念仏を唱え、西の対の我が御部屋方にて、多くの厄除け、祈祷を行わせ賜う。
また、惟光の兄君阿闍梨にも、加持祈祷や何やかんやなどと行わせ賜う、
「おのれ、おのれ。葵の姫君め。そなたの父君が娘を嫁にしたいばかりに、この空蝉を伊予の国に追いやったのだ。この田舎の寂しい地で寂しい思いをしているというに、そなたは京の都で光源氏様と仲良く暮らしておる。
男に棄てられた私の気持ちなど判るまい。蝉しぐれでそなたを苦しめてやろうぞ。蝉の泣き声は私の呪いだと思え」
女祈祷師は炎の前で生霊が乗り移ったとばかり、顔を焦がすばかりに苦しみ、額に汗を光らせながらもがきます。また阿闍梨は、
「わしが朝顔の毒で苦しみ、息が絶え絶えに苦しんでいると言うに、そなたは源氏の君と夫婦になり、御子まで設けるとはけしからん。ゆるしておくものか」
などと天を仰ぎながら大声を張り上げます。
物の怪、生きす霊などと言う物、夜の更けると共に多く居出て来て、様々の名乗をする者の中に、
「あわわわ・・・・ふつふつふつ・・・・」などと、訳の分からぬ苦しみを訴える物が現れて、
「そなたは何者じゃ。名前を告げよ。さすればこの阿闍梨が、そなたの苦しみを取り払って進ぜよう」
と言えども、祈祷師のどの人にもにも乗り移らず、厄除け人形さえ振り捨てて、
「私は誰の助けもいらぬ。この葵の上と共に地獄に落ちるのが、立っての願いじゃ」
などと言い残し、直ぐに消えてしまう悪霊もあり。
その者の意志は固くて、ただ自らの御身に努めて寄り添いたる有様にして、ことにおどろおどろしう、『誰を恨むとも苦しめる』とも言わず、煩わしき願い事も聞こゆる事もなけれど また度々現れて、片時も葵姫の側から離るる折りもなき、しつこい物の怪の一つあり。
その物はいみじき験者どもにも従わず、執念深き景色の『おぼろけき並大抵の者にもあらず』と見えたり。
十六
源氏大将君の御通い所、
「伊予守の邸宅におる軒端の荻は嫁いだ身の上、まさかあそこに行く事はあるまい。あの者は源氏の大将を嫌うておる。まさか軒端の荻が葵を恨んでおるとは、到底思えぬ」
「空蝉や末摘花とて、験者どもがさっき生霊を沈めて下された。それでも葵が苦しむのはなぜですか。もしかしたら二条院の紫の姫君かも」
「まさか大宮よ。そんなことはあるまい。紫の姫君はまだ子供ぞ。人を恨む年頃でない」
「すると残りは、六条の御息所様と言うことでしょうか」
「そういうことになるのう」
祈祷のようすを見ながら、左大臣と大宮はささやいております。
「婿殿を慕う女はここ、そこかしこにおると思しあつるに」
「この六条の御息所、二条の姫君などばかりこそは、年齢的に歯が立たず、押し並べて敗北の有様に思したらざめれば、源氏の大将に対する恨みの心も深らめ。当て付けに、我が葵の上を恨んだとも思える」
「よりによってこんな時期に車争いを起すとは、何と間の悪い事。葵の上も飛んだ災難よのう」
「もっと家臣に謙虚に振舞うようも言い聞かせねば」
と、左大臣の老夫婦はささめきて、祈祷師のようすを伺っております。
「そなたは六条の御息所か」
などと、身分の物問わせ給えど、さして自らの名前を聞こえ当つる事もなし。ありふれた物の怪としても相手を指名し、わざと深き御敵と、聞こゆる相手も恨み事もなし。
「ならば何ゆえに葵の上に取り付いて苦しめるのだ。宮殿で皇太子妃であった頃、好きにける御乳母だつ人を失った恨みか、もしくは親の御方に付け入りつつ、先祖の財産を奪われた悲しい恨みか」
などと、阿闍梨が問い給えど、
「指してそのような恨みなどない」
などと、こちらの気持ちが伝わりたるものの、相手の霊は弱めに居出来たるなど、これと言った願い事を言うでもなく、むねむねしからずぞ乱れては、しつこく表わるる。ただ、つくづくと浮わ言は続き、
「あわわわ・・・ふつふつふつ・・・」
など、悲しみの音のみ張り上げながら泣き賜いて、息苦しさの折々は、胸をせき上げつつ、いみじう耐え難げに胸を押さえて、もがき惑う技を仕賜えば、祈祷師の三人は、
「この悪霊をいかに沈めおわすべきか」
と、忌々しう悩まれて、悲しく思しあわてたり。
「とても私どもの手には負える相手だはございません。どうぞ御勘弁下さいませ」
と、床に頭を押し付けて、わびるなり。
桐壺院よりからも御とぶらいの品々が暇なく届いて、御祈りの方法や祈祷師の人選事まで思し寄らせ賜う有様の、かたじけなき御気遣いに付けても、
「源氏の大将はさぞ御困りのことであろう。待ちに待った本妻の我が子の事じゃ。何とか助けてやりたい」
と、いとどしく心配仕賜うも、惜しげなく愛情を注いだ桐壺更衣の御身を考えての事なり。
この源氏の君に対する同情は、世の中あまねくまでもなく、
『葵の上に万が一の事があったなら、御子様を失うばかりでなく、左大臣家の後ろ盾も失うやも』
などと惜しみ聞き賜うにも、六条の御息所様はただならず、
「被害者は私の方なのに、世の中は薄情なものよ。それにまでに私の権威が落ちたと言う事か」などと、ただならず思さる。
年ごろは、かく、このようなまでに思い詰める事もなかりし出来事を、いと心は思い乱れて隠しもあらざりしに、葵の上に対する挑み心は燃え上がる一方で、
『何をくだらない事で悩んでおる』
と思いながらも、はかなりし所の車争いに人の御心は面白がる一方で、御息所様の憎しみの心は葵の上の寝所まで動きける物を、かの大殿の左大臣には、左様なまでにも思し真剣に寄らざりけり。
大臣自らが六条院へ赴き、お詫びを入れたならば、後々のあのような不幸は無かったと存じます。
十七
係る葵の上に対する御物思いの乱れは、ひと月ほどになっても、御心地なお例ならず恨みのみ思さるれば、
「私を悩ませる悪霊を取り払わねばならぬ。斎宮と共に伊勢へ下るにも、このままでは、清い心で御奉仕できませぬ。先祖の霊魂に頼るべく御坊様にお願いするしかありません」
と相談致した所、
「斎宮様の住まう六条院にて仏法の祈祷を行う訳には参りません。斎宮は伊勢の神に御仕え致す身の上、外の寺院で祈願するのが良かろうかと存じます」
と言われ、
「さすがに僧侶の言う通りじゃ。神は仏法を忌むもの、ここでの祈願は無理じゃ。そなたの東寺で行うとしよう」
と、六条の御息所様は御自宅の外に渡り賜いて、御修法など施させ賜う。祈願は僧侶十人で執り行う大掛かりな物だったと聞いております。
源氏の大将はこの事を聞き賜いて、
「何、東寺にに於いて御息所様が加持祈祷を行ったのだと。よほどの深刻な悩みだと見える。一度お見舞いにお伺いするのが礼儀であろう。如何なる御心地にか聞いて参れ」
と惟光に命じた所、
「御息所様はかなり悩んでおられます。『源氏の君の来訪は願ってもないこと。是非とも来て下さるよう申し上げてくれ』と申しております」
との報告があり、愛おしう御息所様を思し起こして、六条院へ渡り賜えり。
六条院は例ならず斎宮が住まう神聖な旅所なれば、男子禁制の決まりに従い堂々と御訪ねする訳には参らず、痛う忍びて参り賜う。
「心より思いの外なる女どもに惑わされ、帝が御気に掛けます御息所様をお訪ねもせず礼儀を怠り給いた事など、罪許されぬべく浅はかでございました。何分にも斎宮様が御住まいになる神聖な場所、男が近づく訳にも参らず・・・・」
などとお詫びの言葉が聞こえ続け賜いて、
「葵の随身が御息所様に無礼な振る舞いを致した事、誠に申し訳ございませんでした。葵からも深くお詫び致すように申し付かっております。どうぞ御許し下さいませ。これは左大臣と大宮様からお預かりしたお詫びの品々でございます。どうぞ御納め下さいますようお願い申し上げます」
光源氏様は惟光と小君に命じて、高杯に乗せられた白い反物と、金の粒が入った巾着袋を並べさせました。
「そのような事、しなくとも・・・」
「いいえ、私どもの気持ちでございます」
光源氏様と家臣は、悩み賜う人の御有様も痛々しく感じて、心からの憂えい聞こえさせ賜う。
「祭り見物の場所取り、車争いは日常茶飯と思いますれば、自らは差しも重大事と思いはべらねど、親たちのいと事々しゅう一大事と思い惑わるる恐怖心が見ておられず、心苦しさに耐えきれず参った次第でございます。
係る争いのほどを見過ぐしさむとなむ、よろしくお願い申し上げます。よろず何事をも心に思し留めて、怒りを沈め、のどかめたる御心になられるならば、いと嬉しう思いなむ」
などと、源氏大将の語らい聞こえ賜う。
光源氏様は御息所様の、常よりも心苦しげなる御顔の御景色を、断りに当然だと判断して、哀れに見立て奉り賜う。
「そなたは車争いなど大したことではないと言うが、御簾を引き千切られた上に、車輪まで壊されたのでは、何とも無様な格好ではないか。一生涯、忘れられぬ大恥であった」
「それほど酷い仕打ちをされたのならば、怒るのも当然でございます。車を壊した随身を連れて参りますので、どうぞ御気の済むまでぶちのめして下さいませ」
「それはもう良い。腹いせに相手をぶち負かせた所で気が収まるとも思えぬ。わしの評判が悪くなるだけじゃ」
「確かにそのような事になるやも知れませぬ。そろそろ夜も明けて参りましたので、今宵はお詫びだけ留めさせて帰らせていただきます。また後日、お詫びに参ります。所で伊勢へ下る日はもう御決まりでしょうか」
「後ひと月余りときいておる」
「それは寂しい限りでございます。しかし、斎宮の御勤めは五年の間ほど、あっという間でございます」
「無事に京へ戻れるか分からぬが、五年後となると、そなたも京の都も随分と変わるであろう」
「私の御息所様に対する尊敬の念は何時までも同じでございます。どうぞご無事で再会できる日を楽しみにしております」
「寂しい限りじゃ」
高欄干の階段を下りて、源氏大将が浅靴を随身に履かせてもらう様子を見て、御息所様は、
『源氏の君も相当偉くなったものだ。ぴーぴー泣いておったあの子供が、ここまで出世するとは誰が想像できようか』
と、つくづくそう御思いになられました。
若君と打ち解けぬ朝ぼらけの明け方、わだかまりを残したまま居出賜うは心苦しくて、大将のおかしき落胆姿にもなお振り離れられなむ。懐かしき桐壺更衣の子供の事が思い出される。
「どうしてお詫びの気持ちを素直には受け取れなかったのか」
と、御息所様は、つくづくとそう思し返さるる。
十八
一方、六条院を後になさいました源氏の大将は、葵の上の住まう大殿へ急ぎ帰り賜う。やんごとなき源氏大将の御子を御懐妊された葵の方に、いとど心差し添い賜うべき事情事も居出来たれば長居も許されず、
「六条院、ひとつ方に思し沈まり賜いて葵の上を無視するも許されぬなむ。まして二条院の紫の上も無視できぬ」
などと思うを、御息所から後追いの御文が届いて、
「源氏の君に辛く当たったのは間違いであった。考えてみれば葵の上との争いはささやかな事、粗末な網代車で葵祭を見物に行った当方にも落ち度がある。源氏の君に今すぐお逢いして謝らねば心が落ち着かぬ」
などと、かように急ぎ待ち聞こえつつ深刻さであらむ御文なむ。
誘惑に惑わされて、御息所様に心のみ尽きせぬ同情心も理解すべきことと思えども、なかなかの物思いの人は、悪霊の誘いから解放されず源氏大将を苦しめる。
「驚かされる心地仕賜うも度々じゃ。余りに深刻に考えぬ方が良かろう物を」
と考えながら左大臣家に到着する頃、再び御息所様からの御文ばかりぞ、夕暮れつ方届けられてある。
「日頃、少し当方へ来訪を怠る有様になりつる心地の胸騒ぎがして、にわかに、いと痛う苦しげに寂しく過ごしはべるを、源氏の君に、え引き寄せ賜いて来て下さるならば、良か思いで待ちなむ」
とあるを、例の逢引の言付けと見賜うものであるから、
袖濡るる 恋路とかつは 知りながら 降り立つ田子の みづからぞうき
袖濡るる 恋路と人は 知りながら 降り立つ沼の 水から憎気
くやしくぞ 汲み染めてける 浅ければ 袖のみ濡るる 山の井の水
くやしくぞ 身を沈めても 浅ければ 袖のみ濡れる 山の井の水
「源氏の君が何故か愛しくてたまらぬ。『いい歳をして』と世間の人は笑うであろうが、この思いはどうにもならぬ。単純な男女の色恋ではなく、精神的に心を惹かれる事が断りに思いを深くしてしまう」
とぞある。
筆使いの御手書き文字は、なおここらの北の方や宮中の人に比べても、特に優れたりかしと見賜いつつ、
「如何にぞや、この世は不可解もある世かな。女の心も容貌形も取り取りに様々あれど、どれ一つとっても捨てつべくもなく、また特定一つに思いを定むべき忠誠心も無きを」
光源氏様は何一つ満足できず苦しう思さる。御見返りの返事は、いと暗くなりたれど、
「袖のみ濡るるは如何に。御息所様の御苦しみに対して、深からぬ御返事になむ」
と前置きして、
浅みにや、人は降り立つ 我が方は 身もそぼつまで 深き恋路を
浅はかと 恋に降り立つ 我が方は 身も朽ちつまで 深き恋路を
浅みこそ 袖はひつらめ 涙川 身さえ流ると 聞かば頼まむ
浅はかと 人は苦しむ 涙川 身さえ流ると 聞かば頼まむ
(古今集 佐原業平)
「おぼろ気にや、私のいい加減な気持ちからではなく、この御帰りの返事を、近々自ら御訪ねして直接聞かせぬ」
などとあり。
「楽しく生きるも、苦しく生きるも、同じ人生ならば、断りに楽しく生きるが勝ち」と、追記ぞある。
十九
葵の上が住まう大殿には、御物の怪、痛う怒りて夜な夜な現れては、いみじう恨み言を吐き捨て、葵の上の御体に不吉にも煩い給う。
「この御生霊、六条御息所の故父君、先の左大臣の御霊魂ではないか。桐壺帝の兄君が不運な最後を遂げた時、当時の左大臣は謀反の罪を着せられ、不本意ながら流刑先で亡くなられてしもうた。あの恨みじゃ」
などと言う者もありと、聞き給うにつけて思し考え続くれば、身ひとつの憂き嘆きより他に、人を悪しがれ呪うなどと思う心もなけれど、
物思えば 沢の蛍も 我が身より 悪がれ出ずる 魂かとぞ見る
人恨めば 沢の蛍も 我が身より 離れ飛び立つ 魂かとぞ見る
などと和泉式部の和歌のように、
「物思いに悪がる父君の魂は、さもや今の左大臣を恨むやもあらむ」と、思し知らるることも世間に有り。
年ごろ、よろずに葵の上と車争いが起きるまでは何事もなかったはずで、日々の暮らしを思い残すことなく過ぐし連れずれに生きて来たけれど、こうして心のわだかまりが砕けぬはどういう事か。
あの争いを、はかなき日々の暮らし事の折々に、先の皇太子妃という身分を知りながら、随身どもの無礼な振る舞いを誰も助けようともせず、ただ笑いながら、人の思い打ち消ちて軽蔑した群衆も許せぬ。
皇太子妃と言う身分を無き物にもてなす有様なりし禊の後、御息所様は一節に思し浮かれにし王族としての自尊心が、心静まり難う思さるる恨みにや、
「よくも皇太子妃を馬鹿にしおって、黙って見過ごした葵の上を許しておくものか。この恨みは必ず晴らしてくれよう」
などと、少し打ちまどろみ賜う夢の中には、かの姫君と思しき人の、いと清らにて何不自由なく暮らしある所に行きて、とにかく激しく引き摺り回したり、蹴飛ばすなどして様々にまさぐり遊び、
「この阿女、わしの苦しみが分っておるのか」
などと怒鳴りながら、現の正気な姿に似もせず、荒々しく猛け狂い、掻き引きたぶり連れ回すなどの心居出来て、髪や服など激しく打ちかなぐるなど、引き倒す姿が見え給う事たび重なりけり。
御息所様は悪い夢にうなされて目覚めた時、
「あな、心憂鬱しや。わしの心にこのような乱暴な思いはあるまいに、なぜこのような夢を見てしまうのだろうか。げに身を捨ててや、私の生霊は葵の元へと行きにけむと、現し心ならず覚え賜う」
身を捨てて 行きやしにけむ 思うより 他なる物は 心なりけり
身を捨てて 行きや死にけむ 魂の 宿りぬ先は 心なりけり
(古今集)
などと、日々の暮らしの折々に思い出すこともあれば、さらならぬ御車を壊されたことだに思い出されて、人の御為には他所様の事を考えしも『悪行を成敗するなど』と、言い居出させぬ世なれば、恨み呪いで悪を倒すしかあるまい。
ましてこれは『いと良う言いなしつべき悪行を、世に正す頼りなり』と思すに、いと名出しう世の中に振舞いてひたすら世に、
「亡くなりて、後に恨み残すは 世の常のことなり。それだに人の上に立つ身にては、うやむやに見過ごして許してしまうは、罪深う忌々しき事にて懲らしめねばならぬ。
現の我が身ながら、さる疎ましき憂さ晴らし事を言い付けらるる。これは宿世の浮き事。すべてがつれ無き光源氏が、思う人に如何で優しく心も掛けじ。嘘でも良いから『御息所様だけが好きだです』と、お世辞の声聞こえじ」
と、思いかえせど、
思わじと 思うも物を 思うなり 言わじと言うも これも言うなり
思わじと 思うも人を 思うなり 言わじと決めて またも言うなり
人の弱さは、これと同じなり
二十
秋子斎宮は去年ぞ参内し、内裏の斎宮殿に入り賜うべかりしを、様々に差し触る事ありて、この秋入り賜う。
『九月にはやがて、嵯峨野の野の宮に移ろい賜うべければ、又しても二度の御禊の神事、急ぎ取り重ねて行うあるべき』
にあれば、斎宮の付き人より報告あり。
「どうしたのでございましょう。この所、斎宮様は怪しうほけほけしうて、つくづくとぼんやりしながら畳に臥し悩み賜う。六条院にて何か思い事でもあったのでしょうか」
などとの知らせを受けて、御息所様は心を煩い賜う。
「秋子は例の車争いで悩んでいる母の事を心配しているのであろう。その事なら何も心配いらぬと伝えて賜うれ。光源氏の仲介にて何もかも解決した・・とな」
「承知いたしました」
斎宮殿の宮人が帰った後で御息所様は、
『母の怒りが斎宮に、それほどまで負担を掛けたのか』と反省し賜う。
内裏の斎宮殿に於いて、
「御母君様は至って元気で御暮しでした。車争いの事は光源氏様がすっかり解決して下さいましたそうで、何も心配いらぬそうでございます。
『斎宮の役職に専念するように』との仰せでございました。来年の秋に伊勢へ下る時には、母君様もお供して御一緒に参るそうでございますよ」
との知らせを受けた秋子様は、
「母が一緒に伊勢へ下ってくださるなら心強い。強い心で斎宮の役職を果たし、一日でも早く任務を終えねばならん」
斎宮様は嬉しそうに言いました。斎宮殿で世話する宮人にとっても、斎宮様の清らかな心はいみじき大事なことにて、
「さあー、まずは斎宮様と母君様の健康を祈りましょう。御役目を果たすには斎宮様の御体が一番大切でございます」
宮人ども三人の巫女は、二人のために御祈りなど、様々な事を仕う奉る。その甲斐あってか、斎宮様は、日ごとに元気を取り戻し、驚ろ驚ろしく脅える有様にあらず、そこはかとなく明朗にて活動的に月日を過ぐし賜う。
源氏大将殿も、六条院の御息所様や、斎宮様を常に御見舞いにとぶらい、それとなく様子を伺うと聞こえ賜えど、二方とも男子禁制の聖域にて、直接御会いする訳にも参らず、ましてそれに勝る御懐妊中の葵の上の方も事もありますれば、
「こうも度々様々な重大事が重なり、あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず。どうにもならぬ」
などと頭を抱えながら、痛う煩い賜えば、御心の休まる御いとまなど無くなりげなり。
左大臣家に於いては、
「葵様の御出産はまだ先の事でございます。大そう御苦しみの御様子でございますが、つわりが酷いのでございましょう」
などと、付き人女房も『まださるべき出産の程にあらず』と皆、緊迫感もたゆみ給えるに、
「苦しい。下腹が痛くてたまらぬ」
と、にわかに出産の御景色ありて悩み賜えれば、葵の上様の御言にも耳を貸さず油断仕賜いて、
「まだ御息所様の怒りが解けぬのでございましょう。大殿様にお願いして厄除けの祈願をさせましょう」
とて言って、いとどしき、これまで以上の御祈り数を多く尽くして、祈願し給えれど、例の執念深き御物の怪は今でも一つ残りて更に動かず。惟光の兄君、阿闍梨を代表とするやんごとなき修験者ものどもも、
「これほどまでに執念深き物の怪は珍かなりし」
と、首をかしげながら持て悩み煩い給う。
さすがに我慢強い葵の上も、いみじう打ぜられ、打ちのめさせられて、心苦しげに泣きわびながら、もうろうとした意識の中で何か言おうとする。
「少し緩べ賜へや。何時になったらこの苦痛が収まるのか。これほどまでに残酷な思いをさせる必要もあるまいに。源氏の大将は何をしておる。御息所様の元へお詫びに行ったのか。大将に聞こゆべき重大事あり」
と、のたまう。
「光源氏様、葵の上様に乗り移った物の怪が何か言おうとしております。どうぞその願いをお聞きになさって下さいまし。御苦しみの内容が分れば、解決の方法が見つかると言うもの」
と、祈祷師が念仏の合間に言いますと、
「さればよ、普段の葵の上に有る様にやあらん。可哀そうに。不届きな随身どもの不始末を一手に背負っておるのであろう」
とて言って、近き几帳の元に入り奉りたり。
二十一
むげに命の限りの有様に苦しみの物仕賜うを、
「夫のみに聞こえ置かま欲しき遺言の事もおわするにや」とて言って、左大臣様も大宮様も、少し後ろに退き賜えりし。
『これほどの事で死ぬこともあるまいに』と思いながらも。老夫婦は苦しむ葵の上が可哀そうで、互いに慰めながら涙をこぼしております。左大臣の懐紙もびっしょり濡れて、今にも溶けて千切れそうです。
加持祈祷の僧どもも、声沈めて御二人に気遣い、法華経を弱く詠みたる心構え、いみじう謙虚で尊し。光源氏様が御几帳の帷子布を引き上げて中のようすを見立て奉り賜えれば、いとおかしげにて重苦しく、葵の上の御顔にも黄黒い死の兆しが漂い始めておりました。
「これは大変だ。葵の上の御腹はいみじう高こうて張り切れそうじゃぞ。医者を呼で参れ。何故にここまでに放おって置いたのだ。死んでしまうぞ」
光源氏様は後を振り向き、女房どもを叱りつけます。
「私どももそう思ったのですが、験者どもが『それはならん。祈祷の効果が薄れてしまうぞ』と言うものですから、私どもは何もできませんでした」
「構わん。わしが験者どもを説得するから連れて参れ」
「かしこまりました」
老女房は付き人二人を使いに出しました。
「光源氏様の言う通りです。私も医者に診てもらいたいのです。どうぞ光源氏様、お助け下さい」
葵の上は朦朧とした意識の中で天井を見つめながら、光源氏様の御手を探し当てて掴みました。、
葵の上の臥し賜える有様とても悲惨な姿で、よその人でさえだに、この光景を見たならば助けようと見立て奉らむに、夫婦としては心乱れて抱き上げたくなりぬべし。まして惜しみなう悲しく思す事、当然道理に合った事割りなり。
出産前の白き御衣に黒髪の色合いは華やかにて、御髪のいと長う引き延ばしたるに、赤いこちたき紐を引き結いて、白布に打ち添えたる姿も、かうして昔見た事がないほどこそ、ろうたげに可愛くて、
「我が妻はこれほどまでに美しかったのか。何故早く気が付いて優しくしてあげれなかったのか」
と思うほど哀れにて、しっとりとなまめきたる上品な肩に寄り添いて抱きしめる御姿は、やはり夫婦愛のおかしかりける愛情に包まれた光景でありけれと見ゆ。葵の上の御手を捉えて、
「あな、いみじく良くない兆しかな。葵の上よ、もっと元気を出せ。病は気からと言うではないか。もっとしっかりと気を強く持たなくてはならん。心憂きめきを見せ賜うかな。負けてはならん」
とて言って、光源氏様が物の声さえ聞こえ賜わず泣き叫び賜えれば、例の元気な頃の葵の上は、
「いと煩わしう恥ずかしげなる御眞眼を横に向けて反らしていた物を。今日はよほと深刻な状況と思して、いと弛むげにぼんやり見上げて、光源氏様の御姿を打ち見守り賜う」
御すがりする素直さが聞こえ賜うに、侍女女房も涙を流し袖を濡らし給う。光源氏様が葵の上の涙のこぼるる有様を見賜うは、これまで夫としていかが哀れの浅はからむにか。もっと早く仲直りするべきにやあらむ。
「光源氏様、もう泣くのは御やめ下さいまし。私が素直に甘えることが出来なかったばかりに、光源氏様を苦しめてしまいました。小さな自尊心に囚われて、光源氏様に辛く当たってしまいました。どうぞ御許し下さいませ」
「何を言う。悪いのは私の方だ。好きで優しくして上げたいと思いながら、心で嫌いな振りをしてしもうた。常にそなたに寄り添い。笑顔を見せるべきであった。許してくれ」
「何をおっしゃいます」
二人が余りにも今までの生活を痛う泣き賜えれば、
「ごほん」と言う大臣の咳払いが聞こえて、心苦しき親達の御事を思い出し、またかくこのような遺言めいた言葉使いは、
「縁起でもない」と見賜うにつけて、
『口惜しう、軽はずみな言動かな。そう簡単に死なせる訳には参らぬぞ。不謹慎に覚え賜うにや。葵の上よ、もっと勇気を持て。医者と、そなたの頑張る気力さえあれば、病気に打ち勝てるぞ』と思して、
「何事も、いとかう思し入れそ。人と言う物、さりともそう簡単に死に気しうはおわせじ。安心なされ。万が一の場合、如何なりとも二人は再び出会い、三途の川をわしが背負って、そなたを向こう岸へ送り届ける決まりになっておる。
安心致せ。いかなりとも必ず逢瀬ありなれば、二人の対面は必ず有りなむ。父君大臣と、母君大宮などもそうだ。深い契りある仲は、巡りても縁が絶えざる仲なれば、再びあの世で会えて、あい見るほども有りなむと思せ」
と、慰め賜う。に・・・・
二十二
「おっほほほ・・・、おっほほほほ・・・、ああーおかしい。源氏の君よ、何を真面目腐った顔で申しておる。しょせんそなたは遊び人。浮気男ではないか。左大臣家の館を後にすれば、また別の女を探すのであろう」
急に葵の上の顔が険しくなって、憎むような眼差しで言いました。
「えっ、急に何を言い出すのだ、葵の上」
「くくく・・・苦しい。息が止まりそうです。光源氏様、私の体に誰か取り付いております。この者が私を殺そうとしているのです。私の背後から襲う何者かを引き離して下さいまし。くくく・・・苦しい」
葵の上は苦しそうに、首を引っ掻きながら言いました。
光源氏様が葵の上の後ろを良く見ると、もやもやした陽炎のような物が取り付いています。そしてその幽霊のような者は、首の周りに取り付いて葵の上を苦しめているのです。
「こやつ何者だ。何ゆえに葵の上を苦しめる。惟光、早よう来てくれ。ここに誰かおるぞ」
光源氏様が守り刀を手に取り、もう一方の手で葵の上に取り付いている物を引き離そうとすると、
「いで、強引に引き裂くにあらずや。この者の身の上の、いと苦しきを、苦痛から
『しばしの間、生きるのを休め賜え』と、聞こえむとてなむ。葵の上が、『死にたい』と言う願いを叶えようとしているのだ。
危険を返り見ず、こっそり六条院を抜け出して、かくこのように左大臣家に参り来むともなむ。
『そこまでする必要もさらにあるまいに』と思わぬを、そなたは葵の上と仲直りしているではないか。
源氏の君の将来を心配する物思う人の魂は、げに六条の御息所を抜け出して、恩人を捨てようとしているそなたに、げに取り付いて、自分の体を捨てて空くがるるまでしてここまで来た者になむ。
『源氏の君は私一人だけのもの』と、思いける考えも有りける」
と、その幽霊は懐かしげに言いて、
嘆きわび 空に乱るる 我が魂を 結びと留めよ 従いの妻
泣きわびて 空に乱るる 我が魂を 帯に結べよ 従いの夫
想い余り 居出にし魂の あるならむ 夜深く見えば 魂結びせよ
想い余り 抜け出す魂の ありならむ 夜家に居て 魂結びせよ
「六条の御息所様への恩、忘れるでない」とのたまう声、気配、葵の上その人にあらず、凶暴に豹変して物の怪に変わり給えり。
光源氏様が『いと怪し』と思し巡らすに、その物の幽霊はただ、かの御息所その人の者になりけり。
「源氏の大将、そなたは六条の御息所の恩を忘れたのか。葵祭の行幸の折り、そなたは不始末を仕出かした葵の上ばかりに気を使い、車を壊された私には目の一つもくれなかった。
あの冷たい態度は何なのだ。桐壺更衣の代わりとなって、そなたを大事に守って来た私の恩を忘れたのか。何故にあの時、わしを六条院へ送り届けようとしなかった。この女は世間知らずの、あばずれではないか」
物の怪は浅ましう、人の悪口をとかく責め立てて言うを、左大臣家におりながら良からぬ者どもの不始末を抜け抜けと言い居ずるを、良からぬ事と聞きにくく思して、
「物の怪め、ここを何処だと思っておる。左大臣家の屋敷だぞ。私の妻を目の前にして悪口を言うとはけしからぬ。その首を撥ねてみせようぞ」
とのたまい批判を打ち消つを、物の怪は目に見す見すと正体をくっきりとさせて。六条の御息所の姿になりけり。
「そなたは私の恩を忘れはしまい」
と言うを、源氏の大将は驚きの表情で見つめました。。
「これは御息所様、飛んだ御無礼を致しました」
源氏の大将は刀を床に置いて片肘を突き一礼しました。このように世に係る相手が思わぬ権力者であることこそは良くありけれど、道理は道理として正義感からは疎ましうなりぬ。
『あな心憂鬱し』と思されて
「かくのたまえど、本当にそなたが六条の御息所様なのか誰こそと知らね。御息所様ならばこんな夜更けにここへ姿を現すはずなどない。どこの誰なのか、本当の名前を確かにのたまえ」
と、光源氏様がのたまえば、物の怪はただそれなりに御息所様なる御有様の姿をして、すーと葵の上の近くから姿を消しました。
正体を見せぬ姿が浅ましいとは夜の常なり。
「光源氏様大丈夫でございますか。あの者は確かに六条の御息所様だったのでございますか。それとも幽霊だったのでございますか」
人々近う参るも、片腹痛う思さる
二十三
物の怪を追い払い、葵の上が平静さ取り戻した後で、少し御声も静まり賜えれば、光源氏様に暇おわするにやとて西の廂に御控えいただき、万が一に備えて宮のお湯持て寄せ給えるに、
「これはどうしたことでございましょう。姫宮様が急に産気付いて参りましたよ。あの騒ぎは物の怪のせいではなく、単なるお産の前触れだったのでございましょうか。これこれそなた達、産婆様を呼んで参れ。光源氏様にもお知らせせよ。早よう早よう呼んで参れ」
老女は葵姫のふとんを持ち上げながら言いました。
「承知いたしました。今すぐに」
姫宮様の付き人も大騒ぎです。
光源氏様が掻き起こされ賜いて寝所に参り賜えるに、ほどなく御子生まれ賜いぬ。
「これは男の子ではないか。葵の上、でかしたぞ、葵の上。ご苦労であった。これはこれは、うれしい」
そう言いながら葵の上に目をやると、妻は黙ってにっこり笑います。
「こうれこうれ、わしがお父様じゃぞ。こうれこうれ、可愛いなあ」
光源氏様は小さなふとんに寝かされた赤ん坊を上から覗きながら言いました。
光源氏様がうれしと思う事、限りなきに、人の幸せの代償を駆り立て移し給える、物の怪どもは、
「人の幸せ妬みたがり、ひがみ惑う気配の人物はいないか」と、その相手を探す事、いと物騒がしうて、
『二人の御幸せが何時までつづくものやら』と、後々の事、いとも心もとなし。源氏の君が暗い顔をなされますと」
「光源氏様、どうなされたのです。暗い顔をされておいでですよ。何か御気に障る事がございましたか」
葵の上は見上げながら申し上げます。
「いや大したことではない。ただ何となくこの子の不幸を願うような人物がいるような気がしてな」
と、光源氏様は生まれた子供を見詰めながら言いました。
「実は私も同じ事を考えていたのです。今の私は誰よりも幸せ過ぎますもの。何か悪い罰が与えられるのではないかと心配です」
「何もそんなことはあるまい。ただ言う限りなき不安を取り除くには、願掛けども立てさせ給うにや。桐壺院の御膝の元、平らかにこの子をお守りする事になり果てぬれば、僧の長と言うべき人物に祈願させねばならぬ」
「誰がよろしいのでしょうか」
二人が話をしておりますと、左大臣と大宮様がひそひそ話をされていたのでございますが、
「これは光源氏様、それならば比叡山の座主がよろしいかと存じます。比叡山はまさしく京の寺院の総本山、当方も門徒として出入りしておりますが、今回は光源氏様の御力で、桐壺院様に直々お願いさせた方がよろしいかと存じます」
「それは良い考えじゃ。父君の願いなら、王族の長がこの子にどれほど期待しているか、公達部にも分からせる事ができよう。惟光こちらへ」
光源氏様は、御近くに見えない惟光を呼び寄せるように言いました。しばらくして惟光が外の廂に参りますと、
「そなたはこの文を、嵯峨野においでになる桐壺院様に届けてくれ。若君からの立ってのお願いでございますとな」
光源氏様はさらさらと走り書きした御手紙を惟光に渡しました。
夕暮れ時の頃、惟光からの快い返事が届くやいなや間もなく、比叡山の座主自らが、何くれやんごとなき高僧を引き連れて、
『桐壺院の機嫌を損なわないように』と、したり顔にて汗押し拭いつつ、急ぎ真下居出給いぬ。
祈願が始まると、葵の上や光源氏様だけでなく左大臣家多くの人々が、心尽くしつる日頃の不安事なごり、少し打ち休みて静まり、今はさりとも、
『御息所様の呪いなどなかったように』と思す。
御修法などはまだまだ始めの段階で、これから多くの祈祷が添え給えど、まずは祈りの効果あり。左大臣と大宮様は大喜びで、
「女房どももご苦労であった。皆が心配して喉が渇いておろう。お茶と酒をを振るまえ」
との御命令で、珍しき御菓子付き夜食に大そう満足して、皆人、誰もが緩やかに過ごしはべり。
その後左大臣家の家には桐壺院を初め、多くの方々が献上品を奉りて、王族の親王たち、上達部など残るなき朝廷の高官どもが、御子の誕生三日、五日、七日、九日と立て続けに祝宴を開いて,
『お酒や食べ物など珍らやかに、高価な品々が振舞われたぞ。いかめしき壮大な祝であった』
と、誰もが満足するほどうれしきを、夜ごと夜ごとに盛大に騒ぎ見立て、王子の誕生をののしる。披露された御子が、男にてさえ願ったりとおわすれば、そのほどまでの作法は当然のごとくとして、賑わわしくめでたし。
二十四
かの御息所は、かかる出産の御有様を『事無く無事に終えた』と聞き賜いて、ただならず『ほっ』としながらも、穏やかになれず。兼ねてはいとあやうく難産に聞こえしを、
「平らかにも、無事出産とはなんたること。あの小娘め、いっそのこと御子もろとも死んでしまえば良かった物を」とつぶやきて、
「はた、何という恐ろしい事を考えるのじゃ。人の道に反しているではないか」と、打ち悲しく思しけり。
怪しう我にも在らぬ殺気立った御心地を、衝動的に思し作づくるに、御衣装束なども、加持祈祷に燃やした芥子の香に染みそまり返り、
「この匂いはまさしく、我が身が加持祈祷の邪魔をしに行った証拠。葵の上の祈願に於いては、おぼろげにこれと同じ匂いが立ち込めたように思える」
と思したり。我が身の怪しさに、
「朝顔の君、湯殿を用意致せ。髪洗い湯するに参りたり」と命じて、御衣装束など着替えなど仕給いて、匂い消し試み賜えど、なお同じように臭うのみであれば、我が身ながら疎ましく思さるる。
「どうすれば良いのだ、朝顔の君。このままではわしが葵の上に取り付いて『呪った』と思われるではないか」
「御息所様、落ち着いて下さいませ。誰もそのような噂などしておりません。私には御息所様の良い香りだけがしております」
「気休めなど申すな。実際に芥子と煙の臭いがしているではないか。これ、ここを嗅いて見賜え」
御息所様は自分の袖の匂いを確かめた後で、その袖を朝顔の君に差し出すに、まして人の、
「あれはまさしく御息所様の生霊だったと言うではないか。その証拠に芥子の煙の臭いがしたのだとよ。さすがの御息所様も御衣に染み付いた臭いまでは消せないと見える」
などと、悪い噂を言い思わむ事など、
「人に濡れ衣の弁解をのたまうべき事にならねば、ますます私の立場が悪くなる。源氏の君と心を一つにして、葵の元へ祝いの品々を届けねば誤解される」
と思し嘆くに、いとど葵の上に対する恨みの心変わりは、何にもまして自身の願いに反して勝り行く。
源氏大将殿は心持ち少しのどめきたまいて、
「あの生霊は御息所様に思えたが、そうであるはずが無い。御息所様は優しい御方だ。葵の上にそんな酷い仕打ちをするはずがない」
などと、浅ましかりし程の問わず語りをも、心憂鬱しく思し居出られつつ、またこの所御息所様にも大変ご無沙汰しているのが思し出されて、いと程々に月日が経ちにけるも心苦しう思さる。
「またけ近う早い時期に、六条院をお訪ねし、御息所様をけ近う見奉らむ事には、如何にぞや悪く思われる」
と心悩まされて、憂鬱つしく立て覚ゆべきを、
『人の御ため』と、愛おしう各方面からよろずに思して、まずは無難な御文ばかりぞ、六条院に届けてありける。
源氏の君は今すぐにでも御息所様を御訪ねしたかったのですが、痛う心を煩わい給いし葵の上付き人の方々、御なごり忌々しう思もされて、
「光源氏様、今は何処へも行かないで下さいませ。せめてこの子の三十日が過ぎるまでは、御近くに居て下さいませ、私どもは心配でございます。再び物の怪が現れて、お子様を襲わないとも限りません」
と、心緩びなげに心配して、
「今は葵様の御近くに居て下さるのが夫の役目でございます」
と、誰も思したれば、六条院に限らず、あれほど言い訳してことわりに夜に出掛けた御歩き、夜遊びもなし。
なお葵の上は、いと悩ましげに鬱の起伏が激しくて、排他的態度のみ仕賜えば、光源氏様も例の面倒臭がり賜う有様にて、お世辞にも二日目にはまだ対面仕賜わず。寝殿の御簾の外でぼんやりしております。
お生まれになった若君様の、いと忌々しきまでに可愛がり子煩悩に見え賜う御有様を、
「この子は賢い。絶大なる美男子ぞ。末は大将か、天皇様に上り詰める相をしておる」などと、今からいとさまごとに持てかしずき御誉め御言葉聞こえ賜う有様、愚かならず。安産祈願に関しては、
『事は成就し合いたる心地して満足時じゃ』
と、大臣大殿も嬉しういみじき有様と思い聞こえ賜えるに、ただこの病気回復の御心地が弱く怠り果て給わぬを、心もとなく不安に思せど、
『この程度の御回復を有難く、さばかりにいみじかりし大病の名残りにこそは、そう簡単に取り除ける事でもあるまい』
と思して、
「いかでか、どうしても完璧なまでにはさのみ望まなくて、ほとほと回復にしてこそは神仏に感謝すべき事と、心をも自重仕給いて遠慮なさるのでしょうか。左大臣殿は多少甘く惑わしながら安っぽく事を収めて、この程度の事に満足仕賜わん」
と、私こと紫式部は不安に思うのでございます。
二十五
今度お生まれになられました若君の御目見、顔立ちの美しさなどは、中宮御殿で御暮しになられます東宮様の御顔立ちに、いみじう似立て奉り賜えるを、重臣どもは不思議に思い居出られて、
「左大臣家の若君が中宮様の御子にそっくりだという事は、やはり東宮様は光源氏様の御子様ではないか」
などと、密かにささやき合う。
「しっ、言葉を慎め。桐壺院は皆の前で東宮が自分の御子である事を認めているできないか」
「いずれにしても藤壺様の御子が王族の一員であることに変わりはない。中宮の御子が次の世継ぎ、東宮であることはめでたい話ではないか。平和な証拠。我々にとって何の不足があろう」
などと重臣が見立て奉りても、東宮様と葵様が御産みになった御子は、兄弟のようにそっくりだったのでございます。
とりあえず葵の上の出産が一段落すると、光源氏様は宮中の事が気になり始めました。桐壺院が目を光らせてるとは言え、朱雀帝の権力は軟弱で、弘徽殿の女御と右大臣が幅を利かせていたのでございます。
光源氏様は我が子を見立て奉り賜いても、ふと藤子様の冷泉東宮の事が恋しう思い居出られさせ賜うに、
「弘徽殿の女房どもに意地悪されているのではないか。東宮の座を追い出す策略が進展しているのではないか」
などと、弱い立場が忍び難くて、後見人の役目を仰せ付かった以上、そう顔を永く見せない訳には参りません。すぐにでも内裏に参り賜わむとて、
「内裏になどにも、余り久しう参りはべらねば、桐壺院にも申訳が立たぬ。心が燻せられ苦しさに、今日になむ。どうしても参内せねばならぬ。久しう初立ちせず御いとま仕はべるを、葵にも伝えねばならぬ」
少しけ近き程にて話さねばと思い、
「葵に取り次ぎ給え。『大事な相談がある』と聞こえさせばや。御産の取り込み中にて余り話が出来なかっだ。普通ならば宮中への参内は大事な事ゆえ、伝言だけで良いのだが、葵の上は疑い深い。直接会って説明せねばならぬ。
余りおぼつかなき御心の隔てかな。安心させねばならぬ」
と、少し光源氏様の恨み聞こえ賜えば、
「現実に、ただ一重に縁にのみ結ばれた他人のあるべき御仲の関係にあらぬを、こうしてお子様までお生まれになられた深い夫婦仲ではありませんか。何をそう仰々しく遠慮なさるのです。
『光源氏様の愛の方が痛う衰え賜えり』と思えり。これからはちょっと声を掛けて下さるだけで、直接御会いなられても一向に構いません。
『心の隔てかな』と言いながら遠慮なさっては二人の溝は埋まりません。他人行儀な物越してなど、あるべき姿ではありません。『如何にあるべきか』は、よくよく御考え下さいませ」
とて言いながら、老女房は葵の上の臥し給える所に登り、御座しし寝床近う参りたれば、葵の上と老乳母の入りてもの、だらだらした話声など聞こえ給う。御答え時々聞こえ給うも、なおいと弱げなり。
『されど無下に亡き人と思い、あきらめ聞こえし御有様の状況を考えますれば、九死に一生は夢の心地』
として有難く思いながら、ただこうして忌々しかりし弱い言葉の程の事どもなど、いら立ち聞こえ給うついでにも、、かの無下に息も絶えるように死に際が迫った状況におわせしと同じに見えて、
『あの時葵の上はこの世を去り行く状況にあった。それが急にこの世に引き返しつつ、御息所様の生霊が現れて「ぶつぶつ」のたまいし葵の上を苦しめた』
あの事ども思い出ずるに、今が危険な状況と心憂鬱しければ、
「葵の上、しっかりしろ。再び生霊が御前に取り付こうとしているぞ。いさや聞こえま欲しき事、いと多かれど、気をしっかり持って生霊を追い払え。
『まだいと弛むげに弱弱しく振舞いては物の怪に取り付かれるぞ。御子のためにも強く生きねば』
と思しためればこそ、生霊も立ち去ると言うもの」
とて言って、
「お湯、薬湯など持って参れ。熱には暖かい物が良く効く。生姜などいれれば、更に良かろう」
などとさえ言いながら、薬の扱い聞こえ賜うを、御近くで世話する女房どもは、
『そんな知識まで何時習いけん』
と、人々光源氏様に哀れがり聞こゆ。
二十六
いとおかしげに尊き人の御姿は痛う弱り果て、気力も損なわれて、息もあるか無きかの弱弱しい景色にて、寝床に臥し給える有様、いとろうたげに御気の毒にて心苦しげなり。
御櫛にて丁寧に解かれた髪の乱れたる筋もなく、はらはらと掛かれる枕に首元のほど、有難きまでに見ゆれば、
「ああー、葵の上はこれほどまでに首筋が伸びて、しっとりと色気の漂う女であったのか。年ごろ何事を不満に飽かぬ物足りない女と思っていたのが悔やまれる。この出産の騒ぎ事ありて、ようよう葵の上の美しさが分った。
子供を産んだ女はまろやかになり美しくなると言うが本当だ。今まで何を不満に思いつらむ」
と、怪しきまでに打ち見守れ賜う。
「若宮の出産ご苦労であった。この慶事を桐壺院などにも参りて、報告せねばならぬ。行く行くは東宮の後を継ぐ天皇の候補として認めさせねばならぬ。このことは、いとど、うまく行かでなむ。
かようにて誰にも遠慮せず、おぼつかならず近くで見立て奉らば麻呂も嬉しかるべきを、大宮様のつと御近くにおわするに、
『心地なく照れ臭や』と、包みて遠慮しながら過ぐしつるも心苦しきを、今は大宮様に産後の看病をお願いして、わしは王宮の仕事に復帰せねばならぬ。妻に寄り添うのも良いが、男は仕事を優先せねばならぬ」
葵の上は光源氏様の参内の説明を聞いて、なお、ようよう心強く思しなして、例の御座し所にこそ、
「それならば宮殿に参内致して下さいまし。私の方は大丈夫でございます。母君がこうして見守って下さいます。父君と母君が御近くに居て、光源氏様を余りにも若く大事に持て成し賜えば、光源氏様も窮屈でございましょう」
などと言って、労をねぎらい給う。
「片へは余り役に立たなかったと思うが許せ。そなたを置いてかく物仕給うは心苦しいが、内裏の政務を怠っては右大臣家が幅を利かせよう。急いで出掛けるぞ。惟光、出発の準備を致せ」
「はっ」
などと聞こえ置き賜いて、もう一人の家臣、小君が宮廷着を持って来たれば、いと清げに打ち装束着て、急ぎ居出賜うを、
「しばらく御待ち下さいませ。光源氏様。髪が乱れております。右近や、髪を整えてやりなさい」
「承知いたしました」
右近が立ったまま「失礼致します」と言って御櫛にて髪を整えてやりますと、光源氏様の御顔立ちが明るくなりました。
「光源氏様、どうぞ気を付けてお出掛け下さいませ」
と言うと、御近くにいた七・八人の世話役女房も、一声に、
「どうぞ、気を付けてお出掛け下さいませ」
とて言って頭を下げました。
葵の上は、常よりも御名残り惜しう目を留めて見入り出して、涙を流しながら寝床に臥し給えり。葵の上は何故か、
『今度が最後の別れになるのではないか』と心配したのでございます。
二・三日後経って秋の司召し、新役職の任命式があるべき定めにて、左大臣家大殿も参り賜えば、
「葵と大宮よ、良く良く聞け。今日は年に二回の司召しの日じゃ。改めて朝廷の役職が決められる。朱雀天皇は右大臣家の出身じゃゆえ、我が左大臣家の者が多く罷免され、朝廷の多くを右大臣家が占めるのではないかと心配じゃ。
弘徽殿の女御は中宮の立場を降りたとは言え、油断ならぬ。皇太后の立場を利用して人事に口を出すかも分からぬ。もし我が一族の多くが罷免されるならば、全員一丸となって抗議せねばならぬ。息子と多くの家臣を連れて行くが、許せ」
と言いました。
御子の君達もこの機会が好機とみなして、自分の労をいたわり、昇進を望み給う事ども多くありて、
「顔を出さねば罷免されてしまうぞ」
と心配し、
「左大臣殿御辺りを離れ給わねば官位が剥奪される」
と、大臣の後を追って皆引き続き屋敷を居出賜いぬ。
二十七
殿の内の人々少なになりて、締めやかに静まり返るほどに、それまで安らかにお眠りになられておられました葵の上に例の症状が表れて、御胸を締め付ける咳も込み上げて、いと痛う苦しみ惑い、もがき賜う。
「ああー、苦しい。息がではない。誰か・・・誰か・・・」
「どうなされました、葵の上様」
「息が・・・息が・・・できない。乳母か」
「はい」
「母上を・・・母を・・・母を早う呼んで参れ。息ができない」
「ああー、葵の上様、しっかりなさって下さいませ。母上様はすぐに参ります。ああー、何という・・・どうしたらよいのでございましょう」
老女房が使いを出すと、すぐに大宮様が幾人かの侍女を引き連れてやって参りました。
「いったい、どうしたというのじゃ」
「大宮様大変でございます。息ができないと言うのです」
乳母はぐったりとした葵の上を胸に抱きかかえて言います。
「葵、葵、しっかりしろ。母じゃぞ」
大宮様は乳母から娘を受け取ろうとしたのですが、その時はすどに顔色は青白く冷たくなりり始めておりました。
「早くおお殿、左大臣を呼んで参れ。葵の上が危篤じゃとな。光源氏様にも御知らせよ」
大宮様も乳母も気が動転して、葵の上を布団に寝かせるのがやっとでございました。
内裏に消息聞こえさせ、一族が帰宅仕給うほどもなく、葵の上はすでに息が絶え入り賜いぬ。大殿屋敷の人々は、あわてて足が地に付かず宙空にて、男ども誰も誰も家をまかり居出賜いぬる状態なれば、
『何をどう扱って良いのか、何事が起っておるのか』良く理解仕給わず。
この日は中央官庁の役職を決める除目録の夜なりけれど、大納言に誰が指名され、中弁に誰か降格されかなど、官位などどうでも良く、かく割りなき障りの緊急事態なれば、みな事敗れて世の中の事など、どうでも良いたるようなり。
ののしり騒ぐほど深い夜中ばかりなれば、おんな女房に夜道を歩かせて知らせる訳にも参らず、山王院の座主、何くれの僧都たちも、連絡すら請じ合え給わず、祈祷の段取りや葬儀の手配など、女だけでは何もできない有様です。
今はさりとも気の抜けた状態で、葵の上を救う思いはたゆみたりつるに、何も思い付かず放心状態なり。何もせず放置するも浅ましければ、今からでも葵の上を救う手立てはないのか、御屋敷殿の人物にぞ当たる。
「医術に詳しい人は誰もおらぬのか。巫女の経験のある者はおらぬか、必死で祈れば、葵の上は助かるかも分からぬ。死んで間もないではないか。何か手立てを打たなくては助かる者も助からぬ。屋敷内を急いで探せ」
大宮様も必死です。
「はっ、はっ、は・・・・誰かおらぬか。下の女房は何処へ行った」
乳母が叫んでも、近くの女房は物の怪に取り付かれるのを恐れて、物の陰で震えてばかりいます。
「さっき使いに出したのですが、今だに帰らず・・・」
所々の御とぶらいの使いなど立ち混みたれど、下働きの気の利かぬ雑役ばかりで、大宮様の命令など、え聞こえ給わず、
取り次ぎの女房は、恐ろしさに身震い揺すり満ちて、いみじきまでに大変な御心惑いども、恐ろしきまでに震えあがり給う。
「御物の怪の、度々この家に取り入れ暴れ立てまつりしを、葵様だけでなく私共まで呪い殺されるのではないか」
などと思して、御枕元など、さながら二日・三日見立て奉り給えど、物の怪が姿を現すわけでもなく、葵様の唇から血の気が引いて、顔色も青黒くなり始め、ようよう変わり賜う事どもあれば、誰も誰も死は紛れもない事実として覚悟す。
若くて高貴な方と言えども、人の命は、『限りある』と思わしつるほどに、誰も誰も不吉なほどに、いみじき禍と思す。
源氏の大将殿は、悲しき事どもに事を添えて、いち早く訪れた弘徽殿の女御の弔意の使者さえ形式のみに思われて、世の中をいと浮き物に思し、心に凍みぬれば、ただならぬ大事の御辺りのとぶらいどもも、
『本当に妻の死を悲しんでくれているのか、浮気男の当然の償いとして喜んでいるのではないか。左大臣家の後ろ盾がなくなると喜んでいるのではないか」
などと思して、心憂鬱しとのみぞ、なべて不幸のどん底とさえ思さるる。
桐壺院にも葵の上の不幸が届き召されぬれば、大宮様と光源氏の悲しみを思し、
「やっと源氏の君の後継ぎが出来たと言うに、何と悲しい事か」
と嘆き、御見舞いをとぶらい聞こえさせ賜う有様、使者に見返り見返り心残り気味に、葬式にも面出しげなるを、嬉しき背中のお姿も混じりて、
「これほどまでに桐壺帝は我が娘を悲しんでくれているのか」
などと思して、左大臣、おお殿は、御涙の感激いとまなし。
二十八
僧侶人の申すに従いて、いかめしき死の扱い事ども、口に水を含めさせるなどしたり、手や足を揉みほぐして胸を揺するなど、
「生き返りやせぬか。この世にまだまだ未練があるだろうに」
と、様々に残ることなく尽くせど、かつ御顔の損なわれ賜うことどもの、腐敗のすさましさあるをも、見る見る死に人に変わりて行く。
『何とか生き返る望みがあるのではないか』などと思し惑えど、何の甲斐もなくて、七日過ぎの日頃になれば、
「いかかがせむ」
とて諦めて、東山の火葬場鳥野辺に、一族を率いて奉るほどにて、いみじげなる事多かり。葵様の棺を乗せた一行は、様々な笛や鐘を鳴らし、太鼓をたたきながら河原の方へ進んで参ったのでございます。
鳥野辺には、此なた彼なたの御送り人ども多く参りて、寺々の念仏僧など多くて、そこら中鴨川の河原野に、
『所もなく狭し』と思えるほどなり。
桐壺院をば更に申さず、后の藤壺の宮、東宮皇太子の御使い、更ならぬ所どころの大臣どもも混ざり行き違いて、飽かずいみじき熱意で、御悔みの御とぶらいを聞こえさせ賜う。
左大臣は呆然として立ち上がり賜わず、
「掛かる若い齢の末に、散々我がままを言いながら親よりも先に逝ってしまうとは何事ぞ。若くて楽し盛りの子に、この命を差し出してまでも救おうとせず、遅れ奉りて後悔するは、喪御用う辛き事。這ってでも助けてやりたい」
と、恥じず泣き賜うを、此処ら中の人々は悲しう見立て奉る。
やがて棺を乗せた薪は燃え上がり、葬式に訪れた人々の姿を明々と映し出しながら煙は天高く闇夜に上り、夜も過がら一晩中ずっと燃え続けて、葵様の棺は灰と御骨になったのでございます。
いみじう盛大にののしりつる葬式なれど、葵様の御姿はいともはかなき御屍、御骨ばかりとなり、それを拾い集めて、御名残り惜しうにて後々を振り返りながら、大臣と光源氏様は詰め所へ帰り賜う。
常の世の事なれど、人一人があまたしも、ぽっかりと見給わぬことなればにや、たぐいなく悲しく思い出されて、会いたさに恋い焦がれたり、
「葵はそなただけを愛しておった。不思議な事に、葵にはそなたの外に男の陰が思いつかないのだ。そなたが来るとあわてて、
『着物はどれにしようか、匂いはどうしようか』と、迷ったものよ。
『そなたのありのままの姿を光源氏様はのぞんでおる。早く顔を御見せしろ』
と言うても聞かないのだ。
そなたはすぐに顔を見せないのを『嫌いだから』と思っただろうが、逆じゃった。葵はそなたに好かれようと必死だったのだ」
光源氏様は大臣の打ち明け話に思わず泣き賜う。
「私がいけなかったのです。遠慮せずにもっと素直に葵の寝所に踏み込んで行けば良かったのです。顔を見せないのは私が嫌いな証拠と思い違いをし、憂さ晴らしに愛人をこしらえて、そちらが好きなように振舞った私がいけなかったのです。今では悔いております」
「そういえば、そなたを紫宸殿で元福させたことがあったのう。初夜の夜葵は枕元で座ったまま一睡もせずに夜を明かしたとか。わしはそなたに、
『男は強引に抱き寄せて布団の中に押し込めば良いのだ』と教育するのを怠った。帝の御子と言う立場に遠慮して、照れくさく扱ってしもうたわい」
左大臣の思い出話に、光源氏様も惟光も泣き崩れてしまいます。
この日、八月二十余日の有明なれば、朝晩もめっきり涼しくなって、空の景色も哀れ少なからぬに、三人は白みかけた夜空をぼんやりと眺めながら過ごしたのでございます。
大臣の闇に暮れ惑い賜える有様を見賜うも、この状況下では事割りに辛くていみじければ、
人の親 心は闇に あらねども 子を思うに 惑いぬるかな
(藤原兼輔参考)
などとつぶやき賜う。光源氏様は、
『しばらく失礼します』と、言って席を立ち、外の闇夜に立ちて、空のみ眺められ賜いて、
上りぬる 煙はそれと 分ねども、 なべて雲居の 哀れなるかな
上りぬる 煙はそれと 知りつつも なべて葵は 哀れなるかな
と和歌を詠まれ賜う。
二十九
客人が鳥野辺から全員立ち去るのを見届けた上で、朝の日差しもまぶしいほどに、左大臣家の一行は葬儀場を後に仕賜う。
左大臣御殿におわし着きても、光源氏様はつゆたりともまどろまれ賜わず。葵の上の年頃の御有様の様子を思い居出つつ、
「などて、どうして葵の上は、これほどまで急いであの世に行ってしまわれたのだ。何時か遂には、自ずから『この夫の素晴らしさを見直し給いてむ』と、心の中でのどやかに思いて、その日がやって来るのを待っておったのに。
今から思うと、なおざりの粗末な扱いに心の荒びをを思い出し、
『ええー、あなた様はあちらの紫の上とやらだけでなく、夕顔や赤鼻の末摘花が好きなんでしょうよ。私はあなた様の下手物趣味には付き合い切れませんわ。私には左大臣家と言う自尊心がありますからね』
と言った、悪態につけても、今は辛しと覚えられ、御気の毒に奉りけむ。この先永く世を経ても、疎く恥ずかしき者に思いて、後悔しながら日々を過ぎ果て給いぬる」
など、悔しき事多く思し続けられるれど、葵の上に対するお詫びの心を償う甲斐はなし。鈍ばめる薄い墨色の御衣ぞ奉れ着たるも夢の心地して、葵に対する愛情が薄い気持になり、
「葵よりも我先にぞ先立ちましかば、葵の上は惜しげなく誰よりも黒く深くぞ衣を染め賜わまし。私が薄墨色に衣を留めているのを見て、服を惜しんでいると思われるのではないか」
と思す事さえ、それもまた気の毒に思い賜う。
限りあれば 薄墨衣 浅けれど 涙ぞ袖を 淵となしける
限りあれば 喪服の色も 浅けれど 涙ぞ袖を 淵とたたえむ
「もし許されるなら、黒の喪服を着て葵の上に報いたい」と言って、読経を念踊仕賜える有様、いとど青年男子のなまめかしき性の有様勝りて、経を忍びやかに詠み給いつつ、
「法界三昧普賢大使菩薩。この哀れな群衆を御救い給え」
と、打ちのたまえながら念ずる。葬儀の行いに馴れたる法師よりは、熱心でけなげなり。
葵の上が生み残した夕霧の若君を見立て奉り賜うにも、
結び置きし 形見の子だに なかりせば 何に忍の 草を摘ままし
結ばれて 形見の子だに なかりせば 何に忍ぶの 花を添えまし
藤原兼忠が母の乳母
と、いとど涙もろく露けれど、掛かる形見の子さえなかったならましかば、葵の上の無念さは『いかがばかりか』と、思し慰さむ。
三十
母君大宮は沈み入りて、そのまま起き上がり賜わず。意識ももうろうとして食が進まず危なげに見え給うを。
「大宮よ、そなたまでが葵の上の後を追って行ってしもうたら、我が一族はどうなる。
『誰が娘の供養を十分にしてやる』と言うのだ。娘を満足させて天国へ行かせるは、そなたの役目ぞ。しっかりしろ」
葵様の不幸がまた大宮様までにも及ぶのではないかと思し騒ぎて、左大臣は急いで御祈りの祈願などさせ賜う、
人の死後月日もはかなう過ぎ行けは、七日ごとの法事の急ぎ下準備など施させ賜うにも、葵の上がおらぬのでは、家事の総大将が欠けた有様で、若い労力に苦労し給うも思し掛けざりしことなれば、大宮様の老女集団が執り行うにも、尽きせずいみじうなむ。
「葵の上よ、親よりも先に逝ってしまうとは何たる事ぞ。先立つことも去ることながら、法要の苦労までさせるとは、親不孝な娘ぞ」
とて言いながら、大宮様は涙を流し嘆き賜う。
「なのめに片穂なるをだに、人の親はいかが思うめる。家事を一切取り仕切っていた娘が突然いなくなり、その変わりとなる女房もおらぬとなると、男の宮中勤めまで影響を及ぼす。ましてこれが一族にとって大黒柱の消滅となると、余りにも悲惨な事割りなり。
幼い夕霧様は母親の姿を知らないままに育つことになるではないか。左大臣家と、源氏大将の後ろ盾があるのは幸いだが、幼子は母親と乳母の乳なしには育たぬ。御気の毒な夕霧様」
今から思いますと、葵の上は、回りの人々や光源氏様が思っていたほど悪い女ではなかったような感じが致します。まして事割りに、主義主張を通さぬ人だっただけに、今からその事を思いますと、悔やんでも悔やみきれません。
またたぐいこの世に稀におわせぬ姫をだに、想像しく思しつるに、葵の上は左大臣と大宮様にとってもこの上ない大事な娘で、袖の上で磨きに磨きを掛けた玉の突然砕けたりけむ損失よりも、更に浅ましげなり。
大将の君は葵の上が過ごした寝所に籠り、設けられた祭壇の前で静かに過ごし賜う。惟光に勧められても、二条院だに、明らかさまにも渡り賜わず。哀れに妻の事ばかり考え、心深く思い嘆きて誦経の行い真目に仕賜いつつ、左大臣家で夜を明かし、暮らし賜う。
ただ紫の上の事も気掛かりな様子で、七日ごとの所どころには文など書き賜いて、目立たぬように惟光太夫を呼び寄せ、
「もうしばらくの辛抱じゃ、四十九の裳の明けには必ず二条院へ帰る」
と、御文ばかりぞ託し、奉り賜う。
三十一
かの御息所は一人暮らしとなり、斎宮・秋子様は左衛門府の司所に設けられた神殿に入り賜いければ、いとどしく厳しむべき巫女となり賜いて、厳格に監視、保護され賜う。
「たとえ光源氏と言えども、ならんものはならん。厳重に監視せよ。葵の上の供養も終わらぬと言うに、六条院へ出向くこともあるまい」
との桐壺院の通達の元に、光源氏様も妻の供養で気力を失い、
『今は御清まり仏にすがる身の上なれば、浮ついた遊び心などもっての他』と、自重するに事付けて、御遊びの夜這いも聞こえず、何処へも通い賜わず。
「左大臣殿と大宮様には、朱雀天皇の臣下に下ってからは大変な世話になった。いつかは葵の上を二条院に御迎えし、北の方として家事経済の一切を取り仕切ってもらいたかった。
その理想を頭に描きながら、葵の上の気高さを疎ましく思い、遠慮がちに他人行儀に振舞ってしもうたわい。男の大らかな包容力がわしにはない。幼い頃母を失って桐壺院の保護課の元、世間知らずに兄弟愛を知らずに育って来た。
とは言え、葵の上にはこの不幸な生い立ちなど関係のない事だ。もっと葵の上と寄り添い、遠慮なく喧嘩を繰り返しながら妥協点を探すべきであった。葵の上の願いを聞くべきであった。葵には申し訳ない事をした」
憂鬱しと思いし我が身に、醜しと思えし世も、すべてが自分の世間知らずのために苦しんでいると思えて、並べて厭わしう嫌いな物になり賜いて、掛かる葵の上の肉親に対しては、ほだしだに、
「左大臣と大宮様、その弟たちは大事に扱わなければならぬ。命懸けでお守りせねばならぬ。それが葵の上に対するせめてもの償いであろう」
「それに桐壺院や中宮様と冷泉王子、二条院の紫の上、それに生まれたばかりの夕霧王子の事を考えれば、多くの人々に寄り添い、御助けしわざらましかば義理が立たん。このような大事な人々を見捨てて、出家などできるものか。
まずは願はしき生活環境の有様生活を整え、僧にも成りなましと思すには、まず遂の夫婦として永久に愛を誓った葵の姫君の御霊に、騒々しくて盛大な仏法の儀式物など仕賜うらむべき有様ぞ。
まずは左大臣様と大宮様が満足するよう、葵の上の供養を完全に成し遂げねばならぬ。葵にも、この世への未練を断ち切らせる事だ」
などと、光源氏様は西の廂で夜空を眺められながら、ふと、思しやらるる。
夜は御帳の内側に一人臥し賜うに、小君を筆頭とする宿直見張りの人々は、け近う寝所の周りを巡りてさぶらい給えど、光源氏様は片腹寂しくて、
時しもあれ 秋やは人の 別るべき あるを見るだに 恋しき物を
歳もあれ 空き家は人の 別るべき 荒れを見るだに 寂しき物を
(古今集より)
と寝覚めがちに侘しくなるに、朝の読経に起き上がり賜いて、声優れたる限りの僧侶を選り抜き、祭壇の前にさぶらわせ給う念仏の、厳かなる響きも暁方など忍び難し。
深き秋の 哀れ勝り行く 風の音 一人身には 凍みけるかな
深き秋 哀れ勝りて 風の音 一人目覚めて 凍みける夜かな
とならわぬ光源氏様の朝方の御一人寝に、何となく夢心地して、更に明かし兼ね給える夜長の苦しみに、朝ぼらけのようよう明かりが感じられる頃、霧が深く立ち込め渡る西の対に、
「光源氏様、起きておいででしょうか。光源氏様、そこにおられますか」
と言う声あり。光源氏様がうなされたように起き上がり、御格子の外を御覧になられますと、外に人の気配あり。目覚めて気を取り戻し、
「そなたは誰じゃ」
と問うと、
「さる高貴な方より、文をお預かりして参りました。私の顔を知られる訳には参りませんので、ここの花の枝に結び止めて置きます」
と言うに、源氏の君は急いで跳ね起き、高欄干に近寄りて声の主を探しらるるも、人の陰は早くも霧の中へと消え去るなり。
「誰じゃ。忍び込んだ罪は問わぬ。顔を見せよ」
と言えども、前栽の菊の景色に散りばめたるる近き枝に、濃き青鈍色の藍染ならぬ文を結び付けて、指し置きて行にけり。人の姿は更には見えず。
『今めかしうも、洒落た事をするではないか。一体何者ぞ』
とて言って、光源氏様が結びを開いて手に取り、文を見賜えば、見慣れた手書きの御息所の御手なり。
「聞こえぬほどには、こちらの事情を思し知らむや。
人の世を 哀れと聞くも 露けきに 贈るる袖を 想いこそやれ
人の世を 哀れと聞くも 露げきに 無実の人に 想いこそやれ
葵の上を呪い殺すなど、御息所はしておりません。すべては根も葉もない世間の噂から出たもの。ただ今の空に、思い賜える誤解に、思い余りて嘆くなむ」
とあり
三十二
「常よりも達筆な筆使いで、優秀にも平然と書い賜えるかな。葵祭の車争いで、葵の上を憎んだのは事実のはず」
と、さすがに置き捨て難く見賜うものであるからにせよ、
「つれない自分勝手な御とぶらいの、御悔みや。
『死者を送るる悲しみに、袖を濡らし泣いている」などととはとても思えぬ』
今頃大酒を飲みながら『めでたし、めでたし』と大笑いし、大願成就の喜びに燃えているのできないか」
と、心憂鬱し。
さりとて母の恩人であり、少しは育ての親でもある御息所様に、音信も掻き絶え、て、音なう絶縁聞こえざらむも、多少後ろめたく、身寄りの少ない今の立場を考えれば愛おしくもある。
人の宿命のままに流され、前皇太子妃と言う御名の朽ち果てぬべき世の事を考えぬれば 無情な孤独な身を案じ思し乱る。
現役を遠ざかり、過去の人物と過ぎにし人は、とてもかくてにも、忘れなければならない人で、
『さるべきにこそは、当然そうなるべき運命で、葵の上を呪い殺したからには償い物仕賜いけめ』と思す。
「何にさるべき過ぎた事を定定と言い訳する。現実に御息所の生霊が葵の上の首を絞めているのをけざやかに見てしまったのだぞ。葵の乳母も侍女どもも
『そうであった』と聞かせてくれた。今さら他に何を見聞きけむ」
と、悔しき心は我が御心ながら尚も、え思い直すまじき恨みに成めりかし。
「葵の上が生きていたならばともかくも、目の前で死なせてしまった悔しきは、我が御心ながらなお心残りで、え思し直すまじき後悔になめりかし。ああー、どうして葵の上よ、しんでしまったのだ」
妻の七日ごとの供養も終わらぬこの時期に、御息所から御文が届いたことは厄介な事で、この時期に御息所と係わる事は、秋子斎宮の御清まわりにも煩わしく、
「斎宮家との文のやり取りなど、帝の神事をないがしろにする事。斎宮の御清めを汚す御つもりか。これは大反逆罪や」
などと、久しく六条院への思いを煩い給えど、
『わざとある御息所からの御文にお返りなくは、貴族の礼儀として許さざること。斎宮家に恐れをなした臆病者と思われる。男として情けなくやある』
とて言って、紫の鈍めたる紙に、
「こよなうほど尊敬し経りはべにける御息所様を、この所、思い賜えるも怠らずながら、少しは御気に掛けております。喪中につき、慎ましきほどの生活の上では、さらばとて、思し知らるる行動も無からむとてなむ。
留まる身も、消えしも同じ 露の世に 心送らむ ほどぞはかなき
留まるも 消えるも同じ 悲し世に 心送らむ 我が身はかなき
かつは今さらどうなるでもなく、葵の上への思し消ちてよかし。御覧せずもやとて、御息所様に悪意がなかった事、良く分りました。葵の上を死なせたのは誰のせいでもなく、私の不徳のせいだったのでございます。
忍びで書いたこれにも、平穏に慎ましく生きて下さいますようお願い申し上げます」
と、聞こえ給えり。
御息所様は六条京極の里におわするほどに成りければ、朝霧の中こっそり左大臣殿を抜け出して、
「私には葵の上を呪い殺す気持ちなど、まったくなかった」
という気持ちの真意を確かめるべく、惟光一人だけを共にして、早馬にて六条院へ着き賜えれば、
「御息所様の御様子はどうじゃ。殺気立った様子ないか」
と、遠くからようすを忍びて見賜いて、
『御息所様が葵の上に取り付いたのは確かであった。しかとこの目て見ておる』
などと、ほのめかし賜える景色を、光源氏様の心の鬼に、はっきりと知るく見賜いて、六条院の御屋敷にてその事を証明したいとは、
「さればよ、御息所様には全くその気がなかったのか。それともいやいや、あの怒りに満ちた御様子からして、殺す御気持ちがあったのではないか」
などと思すも、いといみじ。
なお、いと限りなき疑い深い身の上の憂さ晴らしになりにけり。
「光源氏様、そのような事をなさらなくても。御息所様の言い分を素直に信じる方が得策ではありませぬか」
と、私こと紫式部はそう、思うております。
三十三
かようなる疑い深き行いが幾つか聞こえ有りて、このことを桐壺院にも知らるるならば如何に思さむ。
『故前坊皇太子妃と同じ御腹から生まれた尊き方が秋子斎宮』と言う御計らいの身分の中にも、いみじう大事に思い交わしき御扱い聞こえさせ賜いて、
「兄上の御妃と言う身分を大事に扱わなくてはならぬ。兄上と御息所様は和歌を詠み交わしながら楽しい毎日を送っていたのだ。兄上の突然の死は我が心の痛みでもある。兄上の最愛の妻を大事にしなければ、言い訳が立たぬ」
そう言い聞かせながら、光源氏様は桐壺院に育てられて来たのである。この斎宮の御事をも年頃に、
「六条の御息所様は、我が桐壺朝廷に於いて、絶対なる権力者なるぞ」
と、聞こえ付けさせ賜いしかば、御息所様も多少は満足するだろうと御考えになり、
「その御代わりにも、秋子斎宮が伊勢神宮での役職を終えたならば、王宮殿に於いても絶大な権力を身に付けるはず、内裏後宮に御迎えしたならば、次期皇太子妃として、やがて見奉り扱わむ」
など、桐壺院は常にのたまわせて、
「やがては内裏住にし賜え。王妃としての教養を身に付けさせ賜え」
と、度々聞こえさせ賜いしをだに、
「今さら私と秋子が中宮殿には入り、王妃としての振る舞いを施させるなど、いとあるまじき事」
と、思い桐壺院の御厚意から思い離れにしを、かく心より他に若々しき物、思わず衝動的に行動して、ついには浮名をもさえ、噂の人と名をさえ流し、
「私の尊厳もこれで終わりになめりかし、世間の人々は私の浅はかな行動に批判的になってしもうた」
などと、『世間の評判も果てつべき事』と思し心乱るるに、なお例の内裏暮らしの有様にもおわせず、さる一方では行動的な性格にて、厳しい宮殿暮らしには性格が合わず、生霊が勝手に動く有様にて、
「大方の世に付けて、自由奔放な生き方が望みのはず。御息所様とて、たった一度の人生を悔いのないように生きていらっしゃる」
などと、心憎くにも良しある教養人として聞こえありて、昔より名高く和歌の達人として披露物仕賜えば、たとえどんな事があろうとも、民衆の心は尚も尊敬の念を抱きけり。
時が過ぎて、葵の上の噂も過去の物となり給えれば、斎宮様も左衛門府の司所から、野々宮の嵯峨野に御移ろい給える季節のほどにても、御息所様は秋子斎宮に付き添い賜いて、
「おかしう、今めきたる派手な御事多かる御方かな。御車の飾り付けも多くなして、殿上人どもの好ましき覗きのほどなどは、喜んでいるようにも見える。苦笑いを浮かべるとは大胆な御方よ」
などと評判も上々なり。
嵯峨野はこの所、めっきり秋も深まりて、朝夕の露分け歩くを、
『その頃の斎宮の役になむ。巫女の衣服が濡れるて寒かろうに、野々原を歩き桂川でお清めの神事するなどとは、やり切れなき事』
と惟光が光源氏様に報告し、その事を聞き賜いても、大将光源氏の君は、
「事割りにも神事として定まった事ぞかし。由緒ある行事は飽くるまで突き進み、お仕え仕給える物を、もし世の中に神事に飽き果てて、禊の御役目もないがしろにして伊勢へ下り賜いならば、神の罰を受けるぞかし。
『生半端な斎宮の御勤めが、帝の健康にも悪い影響を及ぼさないしも限らぬ』
などと、騒々しくもあるべきかな。秋子斎宮の清めの儀式は過酷でも、御規則通りに行わなくてはならぬ」
と、さすがに厳しく思されけり。
三十四
れづれに、妙に孤独な日々を送る君を心苦しう思しがり賜いて、
「源氏の君、そう何時までもくよくよと思い詰めるではない。葵の上も今頃は天国で満足しておるぞ。気を落とすではない」
と、三位の中将楠木は、常に法要に参り給いつつ、世の中の哀れな生き別れの御物語など、まめやかに語り給う。
真面目な言葉遣いながらも、また例の色事に乱り交わしき事も聞こえ居出つつ、
「そろそろ我慢にも限度に達しそうだぞ。ここらで一発、末摘花でもからかいに行くか」
などと、御慰め言葉聞こえ給うに、
「今はとてもそんな気分ではない。そんな事もあったかのう。遠い昔の話に思える。行きたければ勝手に一人で行くがいい。誰も止めやせぬぞ」
「つれないのお。それならば源氏の典侍ぞ、打って付けだ。からかってみるか。典侍は『源氏の君と御会いして慰めてやりたい』と、言っておったぞ。あれは男勝りの好き者だからのう」
と、打ち返し笑い賜いう仕草は、草わいの笑い話には成りるめる。
源氏大将の君は、
「あな愛おしや。末摘花よりもましと思いながらも、年増女ではないか。大婆婆、女御殿様の御寵愛を受けるなど、この上ない痛う軽めいたる御遊びぞ。こっちの方も遠慮する。
行きたければ一人で行き賜いそ。三位の中将が御婆婆様を相手に恋するなんぞ想像しただけで笑いがとまらぬ。口説いて抱き寄せる姿を思い浮かべるだけで、ぞっとするわい」
と、諫め賜う物からにせよ、二人の会話は常に『おかし』と思したり。
「知っておるぞ。かの夕顔を、十六夜のさやかならざりし秋の夜に連れ出し、五条院で殺してしまったとか。六条の御息所様が嘆いておったぞ」
「おかしい。何故お前がその事を知っておる。前々から問い質したいと思っていたのだが、良い機会だ。晩飯に眠り薬を混ぜたのはそなたであろう。おぼろげな夢の中で、そなたが夕顔を苦しめる姿を見たぞ」
源氏の大将が問い質すと、急に三位の中将は弱腰になり、
「知るものか。夢と現実を混同するとはどうかしておるぞ」
と、開き直り聞こゆる。
「確かに御前と御息所様が絡んである。夜中にみしみしと人の動き回る気配がした上、下手な鳥の鳴き声がしたぞ。あれはお前の部下が、わしと夕顔を怖がらせようと仕組んだのであろう。
『御息所様が嘆いていた』と言った所を見ると、お前と御息所様はぐるだったのだな。あの物の怪は御息所様が鬼の面を付けた姿だったのだ。あの多くの物の怪に取り囲まれたような人の気配は、お前の部下だったのだ。
これでよーく分かったぞ。夕顔を殺したのは俺ではなく、三位の中将楠木、てめえだろ」
「知らん、知らん。俺は何も知らぬぞ」
三位の中将は『飛んだ藪蛇だ』とばかりに、顔を背けて言い訳をする。立場が弱くなると顔をそむけるのは、楠木の悪い癖である。
さらぬも苦い体験を思い出し、空蝉や軒端の萩、末摘花など、様々な好き事ども、遠い過去の夢ごとの様に思えて、
「もう女など懲り懲りだわい。疲れる割には悲しい思いでしか残らぬ」
などと、肩身に隈なく言い表し賜う。
「そろそろ俺達も年だからのう。『女遊びも終わりにしろ』という事か」
「まったくその通りだわい。そうでないと葵の上に申し訳が立たない」
などと、果て果てとしては、哀れなる世を言い言いて、打ち泣きなども仕賜う。
三十五
それから幾日が過ぎて寒くなり掛けた頃、
時雨打ちして雨が降り注ぎ、庭や道がぬかるみ人影も少なうなるほどに、通り行く者哀れなる暮れつ方、かの中将の君、鈍色の直衣上衣、指し貫の袴を薄らかなる喪服に衣替えして参りぬ。
「源氏の君はどうした。元気にしておるか」
と御声掛け賜うに、いと大しう大声で鮮やかに飾り立て、心恥ずかしき有様の武骨な姿見せて、光源氏様の御とぶらいに参り給えり。
源氏の君は西のつま先の高欄干に胸を押し掛かりて、霜枯れの前栽庭を見賜うほどに、考え深げになりけり。
風荒々やかに吹きすさび、
『雨よ風よ、この世の物をすべて吹き飛ばし洗い流し賜え。葵の上の無念を晴らし給え』
などと時雨を諭したるほどに、涙も堪え切れず、己の弱さを見せまいと責め争う心地して、
「雨となり、雲とやなりにけん。この時雨の荒々しさこそが、葵の上の今の気持ちであろうかのおー。葵の上の迷いを、今は誰も知らず、一人寂しく過ごすとは御気の毒じゃ」
と、一人ごちつぶやき賜いて、欄干に面杖突き考え給える御若様、近くに人の近付く気配有り。
「女にては『見捨てられて亡くならむ』と思う無念の魂が、必ずこの世、今だに留まりなむかし。葵の上よ、そう何時までも未練を残すでない。そろそろあの世で平穏に暮らし賜え。兄としてはそなたの心残りが気掛かりじゃ」
と思い込み給えれば、三位の中将楠木は、源氏の君が色めかしき弱さの心地に打ち守られつつ、
『こいつの弱さこそが人々の哀れを誘う強さなのだろう。弱い源氏の君を見ると、つい誰もが助けてやりたいと考える」
と、思いつつ南廂に入り給う。
源氏の近うに腰を下ろし、頭を深く下げて礼儀正しく突い居給えれば、源氏の君は人の気配に気付きて、しどけなく打ち乱れたる有様の心ながら、衣服の乱れを直そうとして、胸の紐ばかりを差し直し賜う。
これは今少し細やかなる繊細な夏の織物で、御直衣に薄紅の艶やかなる色合いのものを引き重ねて、御顔はやつれ賜えるしも、そのさりげなく着こなした喪服姿は、見ても飽かぬ心地ぞする。
三位の中将も、いと哀れなる眞見に思えて、眺め賜えり。
雨となり 時雨るる空の 浮き雲を いずれの方と 脇て眺めむ
雨となり 時雨るる空の 浮き雲を 葵の方と 脇で眺めむ
楠木の中将が「我が心も行く方なや」と、独り言のように嘆きなるを、源氏の君は
見し人の 雨となりにし 雲居さえ いとど時雨に 掻き暮らす頃
見し人の 天に昇りし 雲間さえ 今は時雨に 泣き暮らす頃
と、のたまう大将の御景色も、浅はからぬほど軽率な言い方に、しるく見ゆれば、三位の中将は顔を曇らせて、
「怪しう無責任な表現の仕方かな。あの世は常に穏やかな日和でなければならぬ。たとえそう思うたとしても、暖かい心があれば空は晴れるもの。誰かが聞いて世間に言い触らさぬとも限らぬ。『薄情な男』と非難されるぞ。
年ごろはいとしも葵の上を軽んじあらぬ心差しを、
『光源氏は何をしておるのだ。葵の上の死を悔み、落ち度なく供養しておるのか』
と、桐壺院などいら立ちてのたまわせ、我が大臣殿の御持て成しも心苦しうまでに尽くしたるを有難く思え。母大宮の姑女としてへの尊敬、御方ざまに持て離れるまじき忠誠心など、源氏の君には守っていただかなくてはならぬ。
今後左大臣家の方々に差し合いたれば、身内として、えしも振り捨てはで、同じ仲間として助け合って行かねばならむ。親族を見て物憂げなる表情など見せてはならぬ。
源氏の君は身内に遠慮がちな御景色ながら、煙たい御気持ちなど、有り賜うまじき御心になめりかし」
と三位の中将は光源氏様に諭し賜う。
「分った。分かっておる。今後も左大臣家を見捨てたりはせぬ」
と、光源氏様が後に振り向き、背中を欄干に寄せて話し賜えれば、
「源氏の君が愛おしう見ゆる私の気持ちが、お姿を見掛ける折々に度々ありつるを、源氏の君も三位の大将になったからには、世の模範として生きていただかなくてはならぬ。
『誠にやん事なく重き方は、事に身内に優しく、世の中に公平である』と思い聞こえ賜いけるべきになめりかし。源氏の君と縁が切れるとなるとさびしくてならぬ」
と見知るに、いよいよ口惜しう覚ゆる。三位の中将は、よろずにつけて、源氏の君がいよいよ去って行くのかと思うと、光失せぬる心地して、訓示ていたがりけり。
つづく
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上鑪幸雄