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現代小説集(2) 就職試験

 この度は小説への訪問、誠にありがとうございます。およそ15年前に、チビタ松という名前で他で掲載いたしました『就職試験』を掲載致しております。

何せ語学力に乏しい若輩者ですので、誤りが多数発生していると思われますが、そこは皆さんの暖かい力で補っていただけたらと思います。よろしくお願い申し上げます。



 小説 『 就職試験』  

                               上鑪幸雄

      

           一

  これでソメイヨシノというきれいな桜をみるのは何回目だろう。不思議なことに九州最南端の海岸沿いにはこの花はなかったから、山間部の知覧町の桜がきれいだったことは今でも覚えている。

それは高校入学の日だった。柄にもなく高校生にもなったばかりだというのに、母に引き連れられて、この高校の入学式に来た時だった。あの時、学校の桜はとても新鮮で目新しく美しかった。それまで見た桜は葉っぱだけが茂り、花は隠れて見えない山桜ばかりだったから、桜に対する認識がまるで変わってしまった。

『ああ、桜とは世間で騒がれるように・・実際も美しい花なんだ』

 あの時は確かにそう思った。それがソメイヨシノという桜の品種だとは知らなかったが・・・・あれから二回目と三回目の花を見て三年生の始業式が始まった。

 三年の教室には、二週間ぶりに会う仲間がほとんどそろっていた。僕はディーゼル列車通学だったから、わずかな本数しか走らない鉄道通学では、授業が始ぎまるりぎりに教室に到着する。話し声の飛び交う通路を割り込んで自分の席に着くと、さっそく仲間の話題に溶け込むように聞き耳を立てた。

  しばらくして、友達の話の話題に打ち解けかけたころ、

「全員、製図室に集まれ、だって」

 クラス委員が言った。

  僕達はしぶしぶその部屋に向かった。そこは会議室にも使われる広い部屋で、堅苦しい話を聞くと、春休みののんびりした機運から、現実の規律に縛られた学園生活へ引き戻されそうで嫌だった。

そのことを考えるとうんざりである。広い教室の中には 機械科のトップの部長先生と正・副四人の担任、それに二クラスの生徒八十人が集まった。

「三年になった君たちは、今日のこの日より、高校生活の最後の仕上げとも言うべき『就職活動』を否が応でも始めなければならない。去年までは好景気に恵まれて、幸いにも全員が目標とすべき大手企業に入社できたが、今年は不況が深刻だから、君達の半分しか大きな会社に就職できないだろう」

 ステンレス縁のめがねの中に、細めの目を光らせて、いつもの通り笑顔一つ見せないで部長の安田先生は淡々と言った。

「ええっ、先生、そんなの嘘だろうよ。よりによって俺たちの年に限ってさあ」

「そうだよな、先生も冗談がきついよなあ」

  太っちょの山口が口を尖らせて言うと、全員が

「ははは……」

   と、笑った。

もともと笑顔を見せたことのない部長の話だったから、僕達生徒は先生の話の内容を良く理解していた。しかも、テレビや新聞などのマスコミがしきりに景気が悪くなったこと、給料やボーナスがカットされつつあること。

それどころか、倒産やリストラが多発していること・・・などをしきりに報道していた。だから僕たちは、現実が厳しい状況だと言うことは薄々感じ取っていた。

しかし、もしかしたら・・・という楽観的希望が、この深刻な状況を認めたがらないのである。僕たちはまだ若かった。不況を認めたら最後、それが現実のものとなって本当に就職からあぶり出されてしまう。そんな気がしてならなかった。

「そうだよ、先生、二・三ヶ月もしたら良くなってくれるんじゃないかア。なあー、みんな、そう思うだろ」

「僕もそう思う、先生。今までこんなことはなかったじゃないか」

  僕達生徒は祈るような気持ちで安田先生を見つめた。

「今度の不況は君たちが考えているほど、そんなに甘いもんじゃないんだぞ」

 部長は口をとがらせて言った。そして視線を僕たちの担任に向けた。

「中山先生、君からも状況を説明してくれ」

  安田先生は言った。

「分かりました」 

僕たちは教壇の横に立っている僕たちの担任に目を向ける。

「安田先生の言ったことは本当の話なんだ。君たちも新聞やテレビで不況がどれだけ深刻か知っているだろう」

 僕たちは黙ってうなずく。

「まあ、そんな状況だけれどもね。何が何でも大企業でなくてはならないという・・・ぜいたくを捨てれば、いずれかの会社へ就職できると思う。零細企業・・とは言わないまでも、中小企業で我慢してもらえば全員が就職できるだろう。

まあこの学校は伝統も古いし、今までの実績があるから・・君たちの中でも優秀な人ならば、今までどおり大企業にも就職できる。

しかし、現実は厳しい状況だからなるべく贅沢を言わないようにしてもらいたい。まあ、そんな状態だから、みんなもそのつもりでいてほしい・・ということだ」

 担任はなだめるように言った。

「はーい。」

 僕達たちは全員うなずいたものの、まだまだ楽観的な希望の方に目を向けていた。桜は山の麓までしか咲いていなくて、春はまだまだ始まったばかりである。これからいよいよ若葉の暖かい季節を迎えようとしているのだ。

「まあー、そんな状況だけれどもだね。学校では一応君達の希望を取り入れることにしている。君たちが調べて、どうしてもこの会社に就職したいという希望があったら、早めに担任の先生に申し出ておくように」

 再び安田先生が言うと、僕達は再び教壇の方に顔を向ける。

「他に何か質問があるか」

  安田先生は厳しい口調で言った。

「いいえ」

  ほとんどが返事した後、僕達は互いの顔を見合わせた。誰もが首を横に振っていた。嫌な話はなるべく聞かないほうが有難い。

「それでは解散」

  安田先生は正面を見つめたまま強い口調で言うと、僕達は急いで立ち上がり、先を争うようにして先生よりも早く製図室を抜け出した。

この日から僕たちの就職活動が始まった。それは大人への仲間入りを予感させるに十分な一日だった。



    『就職試験』   2

                                 

   それから三・四日経った昼休み、僕はなぜかクラスの中で浮いた存在になっている自分に気づき始めていた。それは別にどうってことはないのだが、今まで友達だと信じていたものに確信が持てなくなったとか、親と信じていたものが・・実は他人ではなかったかとか、漠然とした疑いで根拠らしいものは何一つなかった。

  教室では、金に余裕のある連中は構内の売店でパンとかジュースを買って来て、机に尻を乗せた気取った格好で・・ふざけあいながら笑っていた。他のグループは

「今日の天気はどうだ」

とか

「体育の先生は好きな女が居て、その女はこんなやつなんだ」

  とか、自分が仲間の一員であることを証明する無意味な会話に没頭していた。他に一人で本を読んでいるやつもいるが、それは例外だ。活動的で多少悪さをする連中は学校を抜け出して、今頃は商店街を歩いているに違いない。

  のろまな僕がやっと食事を終えていつもの仲間に加わろうとすると、

「何だよ、お前は。ここは落ちこぼれの溜まり場なんだからな、優等生の来る所じゃないんだぞ」

 と言われた。

  それはそれで・・別にどうってことはないのだが

「何をばかなことを言っているんだよ。ふざけるんじゃない」

  と切り返して仲間に加わるはずだったが、その日はこれ幸いにと、図書館に行く用事を思い出した。

「それならいいよ。俺は他に用事があるんだから」

 僕はそう言って教室を抜け出した。それは多分、僕の打算が働いたのだと思う。

  図書館は教室よりは一階上の四階にあって、しかも機械科のある部屋とは反対側の東はずれにあった。そこは同じ機械科の連中が、めったに足を運ぶ場所ではなかった。

  図書室は静かで、もともと就職目的の学校だったからこんな場所を利用する連中は変わり者である。それでも中には生徒三人と教師一人がいたが、別の学科の見知らぬ連中だった。

  僕は社会科目の分野の本棚から、手の幅ほどもある黒い分厚い本を取り出した。それは会社年鑑だった。

  窓側のテーブルに置いて、背伸びして窓の外をのぞくと、校舎を抜け出したクラスの連中が、商店街の方から橋を渡って歩いて来る姿が見えた。僕が教室の最上階から見ているとも知らず、連中は大きく肩を揺さ振りながら・・蟹股で歩いている。

怖いもの知らずのヤーさんになったような気持ちでいるのだろう。思わずその格好が面白くて吹き出してしまった。思わず声を出しそうになると、そこに居た他の何人かが私に顔を向ける。私は本を開いた。

  黒い本のページをめくると、様々な会社がそこに記載されていた。水産業から製造業、サービス業まで、新聞の株式欄に記載されているような会社がそこには幾つもあった。

  僕はこれといって、この会社に就職したいという希望は今のところはない。だから困るのだった。部長の安田先生は

「希望する会社があったら担任に申し出るように」

  と言った。それは

「希望がなければ、こっちで好きなように決めてしまいますよ」

   という考えにも受け取れる。先生に紹介された後で気に入らず断るよりは、最初から希望の会社を申し入れした方が物事はすんなり決まるに違いない。それは身の程知らずの、あつかましい考えに違いなかったが、とにかくその時はそう思った。

  父親という、勝手気まぐれ感情的暴力によって教育を受けたことのない僕は、時として、飛躍した考えで行動してしまう。

   三・四日の間に考えに考え抜いた結果が、航空機関連の会社がこれから発展するのではないかという漠然とした希望だった。そのうち空飛ぶ円盤のような少人数の乗り物が開発されるかも分からない。建設、機械、電気、自動車、造船産業よりは将来性がありそうだった。

航空機関連の会社を調べると、思いがけなくも日本重大自動車工業という会社が目に留まった。それはもともと造船の大手企業から独立した会社で、自動車の製造にかけては二流だったが、建設機械も手がけていた。それでもそこは国内でも五本の指に入るぐらいの規模だったから、まずつぶれることはなさそうである。

  自動車の販売実績も、空飛ぶ円盤の技術には大いに役に立つだろうと思われる。僕は胸をわくわくさせて、その会社の資本金だとか、従業員数や、売り上げ、本社の場所、工場の所在地などを読みあさった。

「へえー、お前は日本重大自動車をねらっているのか」

  ふいに後ろから肩をたたく人物が現れて・・人の声がした。それは全く予期せぬ出来事だった。あやうく後襟の中に氷を放投げ込まれたように驚いて・・後ろを振り向くと、誰も居ないと思っていたそこに、同じクラスの今井が立っていた。

ナマコのように唇を湿らせて、何とも言えない軟体動物のような笑顔を浮かべている。そいつは僕を見詰めながら笑っていた。

  今井は職員室によく出入りする調子のいいやつで、先生に人懐っこく接している。クラスではスパイではないかと疑われている人物だった。好奇心に満ちたそいつの顔は、僕の肩にあごがぶつかるほど接近して、肩の上から開いた本のページを覗き込んでいる。

「ええっ、何だよ、お前は」

  僕はあわて本を閉じた。

「何も隠さなくたっていいじゃないか。たまたま用事があって来てみたら、お前がここに居て本を読んでいた・・・・と、そういうわけさ。だからここは俺とお前だけの秘密だからさ。正直に話してみろよ。本当はお前、日本重大自動車に就職したいと思っているんだろ」

  今井は今日に限って言えば、人なつっこい親しみのある笑顔で僕に迫ってきた。

「いや、そんなことはない。どんな会社があるか調べただけのことなんだ」

「嘘をつけ。お前の顔にはその会社に行きたいと書いてあるぞ。希望したい会社があるんだったらさあ、みんなにそのことを早く伝えたほうが、お前のためになるんじゃないか」

  今井は痛いところを突いて来た。なるほどその通りなのだ。先生が他の生徒にこの会社を指名した後で・・僕が名乗りを上げても遅過ぎるのだ。僕は決まりかけた同級生を引きずり落としてまで、自分の意思を貫いて「僕に受験させてください」と、言えるほど、強くてたくましい度胸はない。

他の誰かが希望を打ち明ける前に、自分の希望を伝えられたら最高の展開になるに違いない。今が一番のチャンスなのだ。

「うん。なるべくならね。でも僕なんかとても無理だと思う。他にクラス委員とか頭のいいやつがいっぱいいるしね。それに運動部のやつらも居るし・・・」

  僕が運動部の連中を気にしたのは、通学列車の先輩たちの会話の中で

「日本重大自動車は運動部の体格のがっちりした男を優先して採用している」

  と聞いたことがあったからだった。

「お前だったら頭が良いんだから大丈夫だよ。何だったら俺から先生に話してやろうか」

  今井は職員室に良く出入りしている理由をあげて、片手で僕の肩をたたいた。

「いや、そうしないでくれ。恥ずかしいじゃないか」

 僕は目の前がボーと霞んでしまいそうだった。そのことを知ったら、先生がどれほど迷惑な顔をしてしかめるか・・それぐらい分かっていた。それに自分の顔が真っ赤になるほど恥ずかしい。額の汗を拭き取ると、手のひらに汗がにじんでいた。

「心配いらないって。おまえなら大丈夫だって。へへへ・・・」

  今井は再び、何とも薄気味悪い笑みを浮かべている。その表情は何かをたくらんで、下心があるように思われた。

「悪いけどさあ、一人にしてくれないかなあ。俺はもっと、この本を読んでいたいんだからさ」

「分かった、分かった。邪魔して悪かったなあ。えーと、西島は日本重大自動車を希望か。うーん、なるほどなるほど・・・」

 今井はノートにメモを取る真似を見せながら・・そこから去って行った。

  窓の外に目をやると、校舎の後ろから黒い雲が流れて来て運動場の上空をおおっている。この分ならば三十分も経たない間に雨になってしまいそうだった。鹿児島の南西の風に乗った雨の降り方は強烈だ。

『今度の雨で桜が散ってしまわなければ良いが』

 僕は心配だった。

 


       『就職試験』 3                                       

                  

 教室に戻ると、学校を抜け出して商店街をうろついていたやつらも席に着いていた。この連中が居ると居ないとでは、クラスの騒がしさが格段に違う。

ドアを開けて僕が顔をみせたとたんに、周りが静かになった。僕は何だか嫌な予感がして急いで自分の席に着いた。

「おい、西島。お前は日本重大自動車を望んでいるんだって? ずるいよな、それって。自分だけ先に宣言して、その会社を押さえておこうと思っているのだろうが、そうはさせないからな」

 そう言ったのは野球部の山口だった。山口は今井と同じ地元、知覧町の出身である。黒い顔はふっくらとしていて、目だけがぎょろ目で光っていた。

「僕は何も、そんなことは言っていない」

  僕は弱気で言った。

「嘘をつけ。お前のやっていることはクラスの全員につつぬけなんだから。なあ、みんな」

「ああ、そうだ、そうだ」

「山口の言うとおりだよ」

  彼のぎょろ目と声があまりにも鋭かったので、四十人居た全員がその威圧に圧倒されて勢い良く返事をした。

「そうなんだよ、こいつ。図書館で一生懸命にその会社についてさ、調べてやがるの。そしてな、熱心にもメモしていやがるのだよ。ハッハハハハ・・・・・」

 今井はなまこ唇で笑って見せた。

「ほれみろ。ちゃんとした証人だっているんだからな」

  山口は言った。みんなは面白がってげらげら笑っている。

「そんな・・・・僕は別に決めたわけではないんだ。本当だよ。どんな会社があるか、調べてみただけの話なんだ」

 僕は弁解したが、クラスのみんなはまだニヤニヤ笑って楽しんでいる。

「いや、西島。日本重大自動車は確かに良い会社だよ。チャンスがあったら受けてみた方がいい」

 クラス委員の宮下が落ち着いた口調で言った。宮下がそう言うと、改めてその会社が素晴らしいものに思えた。みんなは静かにうなずく。最初話題に上ったその会社は、全員が他の会社を知らないだけに・・・とても素晴らしい会社に思えた。

「あっ、先生が来た」

   廊下の窓に人影が動いて来たので、その話はそれっきりになった。

 その日の最後の授業の時だった。安田先生の構造力学の講義があった。先生は授業の前に、こんなことを言った。

「何々、ここのクラスの生徒の中に『僕は日本重大自動車を受けるんだ』と、言っている・・・とんでもない男が居るんだって」

  先生は正面を向いたまま、誰を特定するともなく正面を見つめたまま言った。みんなは黙って机に目を落としている。

クラスの何人かは僕の顔を横目で見たが、僕はそんなあつかましい男に思われたくなかったので、同じように黙って目を伏せた。

「困るんだよな。そいつ・・・間が抜けているんじゃないか。セミが自動車に食らいつこうとしているのと同じじゃないか。すべるに決まっているだろ」

  先生は言った。

「ははは・・・」

  先生のたとえが余りにもおもしろかったので、クラス全員が笑った。多分それは、僕の身体の悪口も含めて言っているのだと思ったが、僕も他の生徒に負けないように同調して笑った。そうでないと、本当に自分が悪者にされそうだった。

「みんなは笑っているようだがな、このクラスの中に、身の程知らずの・・・あつかましいやつが本当にいるんだぞ。いいか覚えとけ。いくら生徒の希望を聞くと言ってもだなあ、学校にも都合というものがあるんだ。

いいか、分かるか。いい会社にはだな、それなりにいい生徒を送り込まなくてはならない。そうやって何十年も掛かって、先輩たちが実績を示すことで学校の信頼を築いてきたんだ。分かるか」

「はい」

「生徒一人の都合によって入社試験に失敗してみろ。来年から入社案内が来なくなるかも分からんぞ。そうなったら大問題だ。後輩もかわいそうだろ。だからある程度はそれに見合う生徒を選んで、学校の都合によって割り振りすることもあるから・・そのつもりでいろよ。覚えておけ。学校は百パーセント君達の希望をかなえることはできないのだ。分かるか」

「はーい」

  全員が大きな声で返事をした。もちろん、僕も力を入れて返事をした。先生の言ったことは確かに僕に対しての注意だったかも分からないが、僕と同じ考えを持った生徒は他にも多かったのではないかと思う。

僕はあたかも自分のあつかましさをわびるようにして、大きな声を出して返事をした。そうすることによって自分の罪が許されるような気がした。

 この日の授業は散々だった。ほとんど何を教わったのか、まるで記憶になかった。ただ、それでも一日は終わった。



        小説 『就職試験』 4


西島幸一の生まれ育った家は、薩摩半島の西側、東シナ海に面した西海岸にある。知覧の高等学校からはディーゼル列車で一時間の距離で、町の名前は金峰町という。九州最南端の農村で、南北方向で考えるならば枕崎と串木野の中間に位置し、東側に六百七十メートルの金峰山が、西側に吹上浜が広がる。よそ者にすれば至って平凡な農村地帯だった。

この地方では独特の二・三百メートルの低い山が多く、山の規模が小さければ麓に広がる水田地帯も小さい。耕せる土地と言えば山を縫うように流れる川の両側に広がる狭い水田と、そこから見上げる高台の畑だけだ。

その中でも金峰町は、鹿児島県にしては割合に広い水田地帯が広がっていた。金峰山は薩摩半島では二番目に高い山で、その麓に広がる平地が広いのもうなづける。

  その金峰町に三軒しかない歯医者での出来事だった。同じ学年で同じ中学を卒業した和田清子とばったり会った。

「あら、西島さん、あなたも歯が悪いの」

  入り口のドアを開けたとき、支払いの窓口で財布を持った清子がいた。

「あれー」

  驚いたのは僕の方だった。学校生活とはまったく縁のない隔離されたような病院の中で、同級生の女と合うとは不思議な出来事だ。

「虫歯があって治療中なのよ。後二・三回は来ないといけないみたい。」

  清子は緊張している僕に対して、特別扱いをするでもなく、同じ集落の住民にあいさつするかのようにさりげなく言った。

学校においてはそうでもないのだが、自分の家の周りともなると、自分の家庭の事情を隠せなくなる。学生の僕にとって、治療費の高い歯医者に通うことは身分不相応のことなのだ。

知り合いのおじさんに

「親のすねかじりの身分で、歯医者など後になってからでも、就職した上で自分で金を稼げるようになってからでいいじゃないか」

 と皮肉を言われそうな気がする。

警戒気味の僕に対して、清子は告げ口するような考えなどまったくないように、人懐っぽく笑いかけてきた。

「健康優良児の和田さんに虫歯があるなんて驚きだね。僕の方は就職する前に治療した方が良いと、先生に言われて来たんだ」

  僕は弁解するように言った。

「そうよね。就職してからだと、なかなか治療に通えないみたいよ。私も同じなの。・・・ってことは西島さん、就職先が決まったのね」

  清子は自分のことのようにうれしそうな笑みを浮かべる。

「いやあ、まだなんだ。うちの学校ではまだ二人しか決まっていないから」

「そうよねえ、今年は厳しいみたい。中辻さんねえ、大手の建設会社に就職が決まったそうよ。私の知っている限り同級生では一番最初みたい」

「へえー、いいねえ」

「そうよねえ。私たちの女学校でも『良かった。良かったと』と、みんなで喜んでいるのよ。西島さんもすぐに決まるわ。成績が優秀だもの」

  清子は言った。

「さあ、僕なんかなかなか難しいと思うけど。和田さんはどう?」

「私ねえ、田舎で職場を探すことになりそうなの。兄が交通事故で不自由になったでしょう。それで、両親がどうしても近くにいてくれって頼んでいるの。一度は都会へ出て働きたいと思っていたのに」

  清子は寂しそうに言った。

「そおー、それは残念だ」

「もし就職先が決まったら教えてね。同級生のみんなが関心を持って知りたがっているから。あら、いやだ。特別な意味があるわけではないのよ」

  清子はさりげなく言った。

「分かった」

「じゃあね。私、先に帰るわ。遅くなると兄が心配するから」

「うん」

  清子に世話を掛ける兄はわがままだといいながら、彼女は両親の考えに従っていた。

僕は彼女が病院を出て行った後で、都会で働けない彼女のことを気の毒に思った。そして都会へ出て働く僕達に対して、彼女は夢を託しているように思えた。



     小説 『就職試験』 5

                   

 六月になると桜の葉も茂って、校庭に確かな木陰を見せるようになった。知覧工業高校では機械、電気、建築、土木など七つの学科があったが、1階はどの学科に関係なく一年生の教室があった。桜が茂る季節になると、一年生は

「木陰で教室が暗くて陰気だ」

 と、ぼやいていたが、その上の二階で学ぶ二年生は

「木が窓の外に茂って周りの景色が見えにくい」

 と、嘆いていた。

 僕達三年生は、それより高い位置の窓からその木を見下ろしていたので、さほど気にも留めないでいた。ただ六月は雨の季節だったので、窓を開けて校庭を眺める生徒は少なくなっている。

 その日も雨で、午後の体育の授業は室内で行われることになった。室内で教えられる体育の授業は限られている。年に一度の性教育についての授業だと男子ばかりの学校では表現が露骨で楽しいのだが、雨の授業のほとんどが退屈なマット運動である。

床にマットを敷いて、前転、後転の運動をしていると

「おいっ、西島、ちょっと前に来てまっすぐ立ってみろ」

  と、体育の先生に言われた。

 僕は友達とふざけ半分に遊んでいたので、前転、後転の動作がうまくできないことを先生に注意されたのだと思った。

「なんか、お前の運動はスムーズでないよな。小さい時に何か病気でもしたのか」

 先生は僕の姿勢を正すように、腹と肩に手を当てながら言った。

「いいえ」

 僕は小さな声で言ったが、思い当たることがないわけではなかった。それは小学校二年生の時、首の骨に異常があるということで一年近くギブスの型の中で寝ていたことがあったのだ。それでもそれが嫌で、ほとんど寝ていなかった。

それは結核のせいとも言われたが、別に熱があるとか、咳が出たわけではなく痛みもなかったから細菌による病気ではなかったらしい。

大人になって後で分かったことだが、木の枝に縄を掛けて手作りのブランコで遊んでいた最中に、縄が切れて、後頭部より木にぶつかり、頚椎を骨折したことが原因であったらしい。

その時は意識を失い、死んだはずの父親に呼び掛けられて、この世に戻された記憶がかすかにある。小学校一年生の時である。ブランコの縄を掛けたのは幼少の自分であるから誰も責められない。

上半身をギブスに固定され、大半を寝て過ごさなければならなかったが、痛みがあったわけではなかったので、学校は休んだが、重苦しいギブスを外して自由に過ごした。それが原因なのだろう。頚椎は三か所が一体となって固まり、脊柱の柔軟性が失われた。

とにかく、それは十年以上も前のことだから、今の生活に何の関係もないことだと思っていた。最近まで病気ひとつしたことがなく、無欠席で小学校と中学校生活を送っていたのだ。今頃そんなことを言われても、とっくに時効が過ぎているように思える。

「おかしいなあ。ちょっと姿勢が変だよな」              

「……」

  体育の先生は僕の体形を見て言った。 

僕は黙ってうつむく。確かにそうなのだ。そのことは自分でも薄々感じ取っていたのだ。僕だけでなくクラスの全員がそのことに気づいていたのだと思う。でもそれは犯罪でもなく、自分が悪いことをしたわけでもない。しかし、それは過去の痕跡として、骨格の形状に確かな証拠を残す病歴のようなものだった。

ただ僕のそれは特別に目立ったものではなく、多少の気遣いがありさえすれば見逃せるはずのものである。

「じゃあな、足をまっすぐ伸ばしたまま手が床に届くかどうかやってみろ」

 さすがに先生は運動の専門家である。骨の異常がどんな運動に影響を与えるのか知っている。先生は僕の苦手としていることを探るように言った。

「はい」

 僕は思いっきり背中を丸めて頑張ってみたが、それはできなかった。足の線に対して上半身は直角をわずかに超える程度しか曲がらないのだ。

「おかしいぞ。こんな風に、思いっきり背中を曲げてみろ」

 先生はそう言いながら、腰と背中を丸めて顔をひざにくっつけて見せた。

「うわあ、すごく柔らかい」

 先生を見ていた生徒の間から歓声が上がった。他の生徒も先生の真似をする。先生の体は顔色を変えずにすんなり曲がるのである。僕はまねをしてやってみたができなかった。

「できません。これが限度です」

 僕は犯罪者にでもなったかのような、重苦しい顔つきで言った。

「じゃあ、今度は手を腰に当てて、思いっきり背中を後ろに反らしてみろ。こんな風にだ」

 先生は再び手本を示した。先生の後頭部は後ろ向きに尻の近くまで垂れ下がっている。

「はい」

 僕は再び真似をした。しかし。思うように曲がらないのは同じだった。腰も胴体も首もほとんど直立した状態で、ほんのわずかしか後ろに曲がらないのである。前と反対の動作をやっているのだから、逆の動きは得意のはずで、その倍は曲がっても良いはずだと理屈では分かっているのだが、身体は思い通りには動かない。

「やはり無理か」

 体育先生はため息混じりに言う。

「はい」

「君の体は相当硬いようだから、就職試験の身体検査で何か言われるかも分からないぞ。それまでに、できるだけ体を柔らかくしておくように」

 先生は思いっきり僕の背中を強くたたいて前に押し出した。僕はほっとしてみんなの中に帰った。やっと犯罪者としての疑いが晴れたような気分だった。

しかし、みんなの考えは少し違うようだ。視線が僕の顔に集中しているのを感じる。それは明らかに落伍者に対する同情の目のようなものだった。僕は惨めさと恥かしさとで外の世界が真っ暗になったような感じがした。

『たぶん、あいつは大企業に就職することは無理だろう』

 誰もがそのようにつぶやいているように思われて惨めだった。

『日本重大産業だなんて、身の程知らずの途方もない夢だった。僕はどんな小さな会社にも就職できないのかも分からない』

 再び始まったマット運動の順番を待ちながら、僕は先々のことを案じて心配だった。陰気な顔をしている僕に向かって、友達は慰めようと話しかけている。しかし、そうした同情こそが僕を悲しくさせる最大の原因だった。僕は涙が出そうになるのを必死でこらえ続けた。

窓の外に目をやると、桜の枝が雨に打たれて大きく揺れていた。もっともっと強く降って、学校も家も、山や田畑も、世界中を洗い流してくれればいい。

『家も学校も会社も人間も・・・すべてがなくなれば、人間は皆平等だ』

僕はそんな途方もないことを考えたりした。

 


         小説「就職試験」 6

                              

 その日から憂鬱な日々が始まった。

『万が一にでも就職できないことがあったらどうしよう』

  そのことが頭にこびり付いて離れないのだった。体育の先生は悪気があって僕の体の異常を責めたのではない。真実を確かな証拠として受け入れ、体形の悪さを現実の就職活動にどう反映し、試験を受けるまでにどうした対応策を取らなければならないかアドバイスしたのだった。

その心遣いは痛いほど分かる。しかし、真実を確かな現実として受け入れ、自分を安売りすることを認めざるを得ないことが、どれほど悲しいことか・・・・分かってもらえる人は少ないだろう。健康な人のように一言で

「はい、分かりました。猛烈に体を鍛えて立派に直して見せます」

などと、簡単にうなずける問題ではないのだ。幼児期を過ぎて形成された骨格の形は、青春期になってからでは、たとえ手術を施したとしても容易には変えられない。

それは

「君は背丈が低いから身長を十センチ伸ばせ」と・・・言っていることと同じだ。

先生の忠告は不可能だと分かりきったことを、努力で直すように忠告されたに等しい。高校生まで成長して固まった骨格は、自分の努力では簡単に直すことはできないのだ。

「僕はもしかしたら就職することができないのではないか」

そうした不安がいっそう増してきていた。

 中学校の先生は、

「君はどうも姿勢がよくないから、工業高校よりは商業科に進むべきなんだけどね」

 と、進路指導の時間に言った。

「いいえ、僕は知覧工業高校の機械科に進学したいのです。そうでないと、高校へ進む意味がありません」

 僕はそう言った。その頃の鹿児島の田舎では、大学へ進学するのはほとんど例外だったから、優秀で大学へ進まない生徒は、知覧の高校へ行くのが慣例となっている。僕も学年の他の連中と同じように、有利な就職先が約束される学校へ進学したかった。他の高校へ通ったのでは、成績において負けない自分を安売りしているようで嫌だった。

  それはそれなりに、大手企業に就職が決まれば給料が高く、しかも優秀であれば会社から大学校まで進学させる教育制度があって、僕も運良くそうした方向に進めるのではないかと期待に胸を膨らませていた。

だから僕は、二流三流と思っている商業高校や、農業高校へは進みたくなかつた。商業高校から個人商店へ就職し、経済的に苦労しているという話はざらに聞いている。就職したその時から、大企業と個人商店では収入に大きな開きがあるのだ。

「君は万が一就職できなかったら悲しい思いをするよ」

 先生はそう言った。

「かまいません」

 そう言って強引に先生の考えを押し切ったものの、あの時の先生の予想は現実りものとなって、私の就職活動に影響を与えようとしている。

 保健室で上半身裸になって体重測定の順番を待っていた時、大鏡に映しだされた上半身の横向きの姿を見てがく然とした。そこに映っていたのは、何となくぎこちなく普通の人間ではない・・情けない姿をした自分が立っていたのだ。

あわてて姿勢を正そうとしても、何かが少し変だ。これでは体育の先生に言われたように、身体検査で不合格になる可能性は十分にある。

『どうしよう。真面目に生きて勉強しても、就職活動に何の足しにもならないということだろうか。誰よりも誠実なのに・・・あるいは過去十年間無欠席で学校を休んだことがないのに・・・僕を採用してくれる会社があるのだろうか」

  ますます不安になっていた。

教室の窓からぼんやり遠くの山を見ていると

「最近、何かお前は変だよ。口数が少なくなったじゃないか」

  と、友達に言われたが、

「何でもないよ。ちょっと、家で嫌な事があっただけなんだ」

  と、あいまいな返事した。

自分の体の異常を友達に認識してもらいたくない気の弱さと、同情されたくないプライドが友人を遠ざけようとしている。


  そんな憂鬱な日々が続いた午後のことだった。

「山口と宮下、先生が呼んでいるよ。職員室に来るようにだって」

  今井が言った。

「なんだろう」

  クラス委員の宮下と野球部の山口はけげんな顔をして出て行った。

授業と授業の間のわずか十分の休憩時間のことだったから、呼ばれるにしても何かが変だった。しかも、宮下と山口とでは組み合わせもおかいしい。

「何だろうね」

ほとんど教室にそろっていたクラス全員が興味を持った。あれこれ憶測しながら話し込んでいると、宮下と山口が戻ってきた。

「何か言われたの」

今井が聞いた。

「うーん、実はねえ。日本重大産業の就職試験を受けてみろ、だって」

  宮下はクラスの全員に申し訳なさそうに言った。そしてみんなの注目を浴びる中で僕を探し出すと

「先生に言われたから仕方がないことなんだ。申し訳ないけど・・・別に僕が希望して頼んだワケじゃないよ」

  宮下は言い訳をした。

「俺なんか落ちるに決まっているのになあ。先生もひどいよな」

山口は上手に弁解している。

「宮下君、僕は本当にそんな会社を狙っていたわけじゃないんだから。別に気にしてなくていいよ。本当だよ」

「だといんだが……」

  頭の考えと口調がまるで違う僕の態度を見て宮下が言った。確かに頭ではそう思うのだが・・心は動転している。

『本当だ。良かったじゃないか』

  僕は、そう思うことにした。

「おめでとう」

僕は再び宮下に言った。少しは複雑な気持ちであったが、素直に喜ぶ気持ちも含まれていた。

万が一試験を受けて落ちるようなことがあったら、先生やクラスの全員に申し訳ない。そんな不安を残して試験に挑むよりは、二流三流の会社に甘んじた方がよほど気楽だった。

                  

 

     小説『就職試験』 7


 七月になると梅雨も終わったみたいで、めっきり晴れの日が多くなった。平年よりは幾分早い梅雨明けと思われたが、市街地の周りの水田地帯はとっくの昔に田植えを終えていたので、どの水田の稲も背丈が伸びて丈夫な稲が育っていた。この先、余程の日照りが続かない限り農家は安心であった。

その頃になると、ジージーというセミの声が聞こえてくる。校庭の桜の木の陰で鳴いているのか、それとも民家と民家の間の林の中で鳴いているのか検討はつかなかった。

そんな蒸し暑い夏が始まり掛けたころ、山口と宮下が日本重大産業の就職試験を受けて帰って来た。

「俺はまるっきり駄目だった。学科試験で完全に不合格だよ」

山口は言った。

「宮下、お前はどうだったんだよ」

しっとり濡れた厚い唇を前に突き出しながら・・・今井が言った。

「まあまあだったんじゃないかな。学科も面接もそれほど難しい内容じゃなかったからな」

宮下は自信ありげだった。広い額のつやつやした輝きからしても落ち着いた表情が感じられる。迷いがない男だった。それだけに頭が切れて、抜け目のないやつだ。こういった男は、足が速く、背丈も大きい。運動会ではいつもリレーの選手だった。

「お前たちはよお、就職試験の時には白いパンツをはいて十分気をつけた方がいいぞ。身体検査になるとなあ、パンツまで脱がされて、タマタマまできちんと調べられるんだからな」

山口は脅すような口調で言った。

「へえー、何だよ、それは……。嘘だろ」

「はははは……」

「クククク……」

山口の突発な発言に、みんなの顔がそっちにあわせてゲラゲラ笑い出した。

「嘘だろ、それ。宮下、本当なのかよ」

さすがの今井も笑顔を隠さずに宮下の顔を覗き込んだ。

「いやあ、まさかとは思ったけど本当だった。医者の前に立たされるとなあ、パンツを持ってストーンとずり下げられるんだよ」

「ははは・・・」

「へえー、それで何をするんだよ」

「分からん。しゃもじみたいな物を当てて玉を持ち上げ、何か調べているんだよ。真剣な目をしてさア、とことん見られて調べられてしまった」

「ワッ、ハハハハ・・・・」

みんなはいっせいに笑った。

「なあ、本当だっただろ。お前達もパンツは新しいのを買って行った方がいいぞ」

山口は一人だけ真剣な表情で言った。何かを怒っているようでもあった。

そこまで恥をかいて試験を受けたのに、落とされたら承知しないぞと考えているようにも受け取れる。しかし、山口は落ちても仕方がない人物だと思われていた。

野球はうまかったが、成績は後ろから数えたほうが早い方だ。しかも不良で、商店街で万引きをしているという噂もあった。大きな会社ならば、それぐらいのことは調査するだろう。

その日の担任の授業前のことである。

「宮下、お前は就職試験で面接の経験があったんだからサ、その時の状況を思い出して、今度はお前が今井と山下に面接の練習をしてやってくれ」

首が長く喉仏が異常に目立つほどやせた中山先生は、一冊の本を渡しながらクラス委員に言った。本は面接の虎の巻であった。

宮下と山口は、職員室で先生より面接の特訓を受けたらしかった。今度はそれのお返しというか、次の会社を甘く見てというか、先生は次の試験に向かう生徒を練習させたのである。

担任の授業はそのまま始まったが、休み時間になると指名を受けた二人は、宮下の面接の練習を熱心に受けていた。

今井と山下は、あさって第二陣として試験に向かうことが決まっている。昔から生徒を送り込んでいる小さな会社だった。

小さいとはいっても東証第二部に乗っているぐらいだから、それなりに安定した会社なのだろう。しかし、何を製造しているのか、名前すら思い出せない小さな会社だった。

今井は

『何で俺がそんな小さな会社に就職しなければならないんだよ』

と、不満をもらしていたが、先生の意向に逆らうようなことはしなかった。

日本重大産業の結果が判明したのは、二人が出発した後だった。山口はいつもの通り愉快に騒いで大げさに笑っていたが、宮下は珍しくふさぎ込んでいた。僕がそうした宮下の姿を見たのは初めてである

試験に合格したのは山口一人だけであった。

 



   小説『就職試験』 8


 海の向こうに白い噴煙を上げる火山島が見える。七合目から上の切り立った崖は草木一本生えない岩山で、なだらかに弧を描くような斜面はやや黒みがかった火山灰に覆われている。この山の山頂部分に植物の育たない理由は、今も火山活動が活発で、盛んに火山灰を降らせているからである。

時として、今も小規模な爆発を繰り返えして、噴煙を三千メートルほどの高さまで上げる。しかし、そうした噴出物は住宅地まで達することは、まったくと言っていいほどなかった。

よそから来た人間は

『ドーン』

という爆発音と共に噴き上げる噴煙に驚いたりするが、住民は山を大して気にするでもなく、うっとうしいように眺めながら普通に暮らしている。

  鹿児島の東シナ海に面した金峰町から鹿児島市へ出るには、薩摩半島の山岳地帯を越えて反対側の錦江湾へ出なくてはならない。そこは四百メートルの峠だが、頂上を越えると錦江湾の中央部に桜島山がくっきりと見えてくるのである。

山はひとつのようにも見えるが、左から北岳、中岳、南岳の三つの火口に分かれている。それぞれが千百メートルほどで高さはほとんど同じだから、火口が三つ連なった横広がりのコニーデ型の山である。

当然、山頂は急斜面であるが、下にくだればくだるほど緩やかになり、裾野は海面とすれすれに水平線に近づいて海に消えてゆくのである。現在、北岳と中岳は火山活動を停止しているが、南岳からは盛んに噴煙が上げていて、南風に乗った煙は鹿児島市のある北へ向かって流れている。

「良かったね。今日は晴れて桜島がくっきり見えているじゃないか」

  鹿児島市へ向かうバスの中で、僕がぼんやり山を見詰めていると、隣の席に座っていた稲田が

『何を考えているんだよ』

と、言わんばかりにひざをたたいた。

「本当だね。今日はくっきり見えてきれいだね」

  僕は感動を表現するのは苦手だったが、やはりその通り、とても美しいと思って思った。

僕たち二人は、これから大阪の会社に就職試験に向かうのである。クラスで五番目に試験に挑む。土木工事や建設現場で使う機械を製造する会社だった。

「君はA鉄工に受験先が決まったから」

 クラスの担任は職員室に僕を呼んでそう言った。A鉄工と聞いて頭に浮かんだのは、黒くすすけた暗い作業現場と、真っ黒に汚れた作業服を着て油まみれになっている自分の姿だった。

「すみません。僕はそこへは就職したくありません」

  僕はたまらなくなってそう言った。

学校の機械科の実習の時間でさえ油で汚れる作業が嫌だったのに、それが一生続くのかと思うと、いたたまれなくなって逆らってしまったのだった。しかも僕はその実習が苦手だった。

 直径五センチの丸棒を三センチに、しかも長さを十センチに鏡面仕上げするように十五センチの長さの鉄棒を渡されると、直径も長さも決まって一・二ミリ小さくなってしまう。しかも、鏡のようにピカピカではなくざらざらと荒く、いつも時間制限をオーバーしてしまうのだった。

慎重すぎて大きめに切断してピカピカに仕上げても、寸法オーバーで不良品になってしまう。あわてて切り直した時は時間が掛かり過ぎて寸法も小さく、しかもきれいに磨く余裕ですらない。そんな下手な作業の繰り返しだった。

「自動車会社は駄目でしょうか」

  僕は思い切って頼んだがそんなわがままが許されるはずはなかった。山中先生は困ったようにして歩き、僕達二人のようすを見ていた部長に相談した。

「受けたくないのならそれでいいよ」

 安田先生は怒ったように言った。

『多分、先生に逆らったのだから、僕の就職先の斡旋はクラスの最後になるだろう』

 僕はあきらめていたが、次の推薦は以外に早く来たのだった。先生の推薦は成績順に優先して決めるならば当然の順番だと思われる。先生は生意気な僕のわがままな意見を忘れたかのようだった。その寛大さをとてもありがたいと思う。

しかしながら、自分の身体の異常さが頭を離れないだけに不安は消えないままだ。

『会社の試験に失敗したらどうしよう』

  北岳の歳月の経過により、風化して深く切り刻まれた斜面を自分の心の傷と感じながら、不安は増す一方だった。


  西鹿児島駅に着いた。後ろを振り向けば、クスノキの並木を挟んだ大通りの向こうに桜島の噴煙が見えるはずであるが、そんなことを気に留めるゆとりなどなかった。試験に来るように渡された予約切符の、電車に乗り遅れないことで頭が一杯だった。

改札口の上に表示されている出発の時刻を確認することにした。

「僕たちが乗る特急列車が表示されている?」

「うん、あるある。十時丁度の出発だって」

 僕達二人は、改札口の上に張り出している掲示板を見上げた。

「切符と同じ時間?」

「そうだね。両方とも十時と書いてある。ほら」

「ほんとうだ」

 僕達は手に持っている切符と時刻表が同じであることを確かめた。

「合っている。間違いない」

 僕も稲田も顔を見合わせてにっこり笑った。十時出発の列車に乗るために来たのだから、二つの時刻が一致するのは当たり前である。しかし、僕達は当然のことを確認しないことには安心できないのだった。

「どうしょう。一時間も待たなければならないけど」

「とりあえず待合室で待とう。外に出て乗り遅れたら大変だし」

「そうだね」

   僕達は軽い荷物を肩に担ぎながら待合室へ向かった。


  

      小説『就職試験  9


 鹿児島中央駅は県内で一番大きな駅である。鹿児島本駅が宮崎周りの日豊線の始発駅であったのに対し、中央駅は鹿児島本線の始発駅である。当然、熊本や福岡、関西方面へ出掛けるにはこの駅を利用する。

最近でこそ始発駅はここへ統一されたが、その当時も今も、鹿児島中央駅が表玄関となっている。昔は西鹿児島駅と呼ばれていた

  その待合室で荷物を降ろして立ち話していると、パーマを横広がりに掛けた上品な

婦人が近づいて来た。

「あのう、どちらまで行かれるのですか」

  婦人は『誠に申し訳ありませんが』と、ていねいに断ってから聞いた。

「大阪です」

  稲田は答えた。

「就職試験か何かで?」

「はい」

「次の十時の列車に乗られるのでしょうか」

「はい」

  僕たちがすなおに答えると

「ああ、良かった」

  と、婦人は胸を二回ほどたたいてにっこり笑った。僕達は顔を見合わせたが、何を言っているのかさっぱり分からなかった。

「由紀子、こっちへおいで」

  婦人は後ろを振り向くと、十メートルほど後ろに立っている・・僕たちと同じぐらい年の女の子を呼んだ。その女は白いブラウスに丸みのある襟が付いた服を着た可愛い女の子だった。片手に大きな荷物を持っている。

「実はですね、この子が大阪に住んでいる姉のお産の看病に行くことになったのですが、私が急用で一緒に連れて行けなくなったものですから……そこでご一緒できないかと思って」

 婦人は申し訳なさそうに言った。

「いいですよ」

 稲田はぽつんと言う。

「いえね。大阪に着けば駅のホームまでこの子の姉夫婦が迎えに来ることになっているんです。そんなに面倒は掛けませんから、この子が姉と会うまで一緒に居てやって欲しいのです」

「分かりました」

  稲田は大人の頼みを聞く義務があるかのように、礼儀正しく言った。

「電車は何号車ですか」

「七号車です」

  稲田は切符を見ながら言った。

「由紀子、あなたは何号車だった」

「六号車」

「あら、残念ねえ。同じ列車だったら良かったのにねえ。申し訳ないのですけど、時々ようすを見に行って下さいませんか。何しろ女の一人旅ですから、私としては心配で心配で・・・」

「いいですよ」

  稲田は言った。

「お母さん、悪いわよ。私はもう子供じゃないんだから」

  娘は、母のベージュ色のスラックスを引っ張りながら言った。

「大丈夫です。僕達二人が時々ようすを見に行きます。そして、大阪駅で親戚の人が来るまで一緒にいますから、安心して下さい。なあ、西島」

  稲田は話の中に加わらない僕に、後ろを振り向いて言った。

「はい。大丈夫です。必ず最後まで見届けますので」

  僕は二人の会話にあっけに取られて夢見心地でいたが、稲田に促されてようやく自分の意識を取り戻した。

「そお。それなら安心ね。私はこれから急いで家に帰らなくてはなりませんの。申し訳ないですけれど、よろしくお願いしますね。由紀子、気を付けてね」

  婦人は娘を前に押し出すと、急いで去って行った。

「うん、バイバイ」

  母と娘は互いに小さく手を振った。実にあっさりした分かれ方だと僕は思った。婦人が待合室から見えなくなると、娘は僕たち二人を見てにっこりと笑った。

「さあ、僕たちもホームへ行こうか。そろそろ時間だから」

「そうだね」

「この荷物、僕が持ってやるよ」

  稲田は女の子が荷物を、彼女が持つ前に取り上げた。

「ううん、いいわよ」

「大丈夫だから」

  彼女は遠慮してそれを取り戻そうとしたが、稲田はそれでも強引に荷物を取り上げると先を歩き始めた。その横を女の子が付いて歩く。僕は二人のやや後ろを歩いた。僕は稲田の行動をみてつくづく感心した。彼は大人だと思った。

 


   小説「就職試験」 10

 

 電車に乗り込むと、僕達は先に由紀子さんの席を探した。六号車の彼女の隣の席と向かいは、すでに二人が腰掛けていて、空席だったら三人で腰掛けようかという願いどおりには進まなかった。しかも、同じ車両のどの席も一人か二人は誰かが座っていて、向かい合わせで、三人一緒に座れるような場所はなかった。

「じゃあ……僕達は七号車におりますので。後で、時々こっちの席の様子を見に来ます」

 稲田は彼女の荷物を網棚に置くと、そう言った。

「すみません。私の方も電車が出発したら遊びに行きます」

 彼女もそう言った。 

七号車の僕たちの席の向かいも、すでに二人の大人が腰掛けていた。二人とも五十を過ぎた小父さんと小母さんだった。

「すみません」

 そう言って荷物を網棚に置いた後に腰掛けると、女の人はにっこり笑って頭を下げたが、男の人は怒ってでもいるかのように何も言わず顔を窓の外に向けた。

「就職試験か何か」

「はい。そうです」

 おばさんは正面に座っている僕に聞いた。

「どちらまで?」

「大阪までです」

「そりゃ、よかったわ。私は広島までなの。良かったら話し相手になって下さいね」

「はい」

 向かいの小母さんと小父さんは知り合いではなさそうだつた。男の人が無愛想なので、困っているようすだった。こういう席は指定席なので、愛称が悪くても場所を変わることはできない。

「お菓子を食べない?」

 おばさんは袋入りのせんべいを渡した。

「ありがとうございます」

 僕と稲田はひとつずつ受け取った。おばさんは男の人にも渡す様子を見せたが、男の人は相手にする気配さえ見せなかった。

 しばらくして、特急列車が出発した。三十分ほど経って列車が川内駅を通り過ぎるころ、車掌が

「乗車券を拝見します」と言って切符を調べに来た。そこにいた僕たちは、切符と指定席券を渡して印を押してもらった。

 そしてまた、しばらくして電車が阿久根の海の見える景色の良い海岸を通り過ぎるころ、

「飲み物はどうですか。弁当はいりませんか」

 と、売り子が言って通り過ぎて行った。僕達はもちろん、そんな物を買うわけはなかった。

そんな売り子が隣の車両に消えたころ

「どお、退屈していない」

  と言って、紺のスカートを着た女の子が現れた。由紀子さんだった。

「ああ、由紀子さん、そろそろ僕たちもそっちへ遊びに行こうかと思っていたところなんですよ」

  稲田は言った。

「ジュースをどうぞ」

  由紀子さんは、僕と稲田に缶入りの飲み物を渡そうとした。

「悪いよ、そんな」

「ううん、いいの。これは買収。お母さんがね、『電車に乗ってしばらくしたら買って渡しなさい』って、そう言ってお金を渡してくれたの」

 僕達は上品な由紀子さんの母親を思い出した。ああしたセンスのある親ならば、『きっとそうしただろうな』と思った。僕達はジュースを受け取った。


 

     小説 『就職試験』 11


「海がきれいね」

  由紀子さんは、遠くに見える島影と、夏の光がまぶしい青い海を見ながら言った。

「そうだね」

「あそこに松林が見えるでしょう。あれが阿久根大島なのよ」

  小母さんは、一キロほど沖合に浮かぶ島を指して言った。

「へえー、きれいな所なんですね。あそこ有名な海水浴場があるんですか」

  由紀子さんは聞いた。

「そうよ。今頃、学生のキャンプでにぎわっているでしょうよ。きっと」

「鹿がいると聞いていたけど・・今もいるのですか」

  僕が聞いた。

「あら、行ったことがあるの」

  由紀子さんは、意外だったようすで言った。

「いや、行ったことはないんだけど、何年か前に新聞の写真で見たことがあるから」

「そう。鹿がいるのよね。おそらくは観光用に放し飼いにされているのだと思うのよね」

  小母さんが言った。

 海を見ていると、列車が小刻みに揺れてブレーキが掛かった。

「あっ」

  彼女は思わず倒れそうになる。

「あっ、ごめん、ごめん。由紀子さん、ここに座って」

  稲田は立ち上がった。

「あら、いいわよ。私はもうすぐ自分の席に戻るから」

「いいから、座りなって」

  稲田はさらに進めた。

「何だ、おまえ達は知り合いかよ」

  それまで黙っていた無口な小父さんが、僕達三人をにらみながら言った。怖い目つきである。

「いえ、あのう……」

  僕達は黙ってしまった。高校生の男女が、人前で妙に親しくしているのをとがめられたと思ったからである。

「何を黙っているんだよ。はっきりしろ。知り合いなのかと聞いているんだよ」

 おじさんは、黙っている僕たちを見て、怒ったように声を大きくした。

「あのう……」

「僕達は同じ金峰町の出身なんです」

  稲田は言った。

「そうか。そうならそうとはっきり言えよ」

  小父さんはまだ怒っている。

「すみません」

「そうだったらな、俺が席を替わってやるよ。あんたの席はどこなんだよ」

  小父さんは由紀子さんを見てにやりと笑った。

「本当ですか。ありがとうございます。隣の六号車です」

  由紀子さんはうれしそうに笑顔を見せた。

「じゃあ、そこへ案内しな」

  おじさんは立ち上がって、網棚から皮製の黒いバッグを取り出した。

「じゃあ、俺も由紀子さんと一緒に荷物を取りに行ってくるから」

  稲田は立ち上がって僕に言った。

 三人は隣の車両へ向かった。先頭を由紀子さんが歩いて、その次に稲田が続いて行く。ふらふらしながら酔っ払いのように不器用に歩いて行くおじさんの大きな背中を見て、僕は

『ああした人は、怖い顔付きにはしているけど・・本当は優しい人なんだな』

と思った。

 


     小説『就職試験』 12


 しばらくして二人が笑いながら帰って来た。

「どうしたの」と聞くと

「いえね、私が『ありがとうございました』と言っても、この人が『すみません』と言っても、あの小父さんは笑顔ひとつ見せないのよ」

  由紀子さんは胸をなでながら言った。

「怖い人だったね」

「そう怖い人。でも怖い人と言うよりは・・何というか、取っ付きにくい人なのよね、」

「でも良かったじゃない。あの小父さんのお陰であなたたち三人は同じ席に座れたのだから」

  同年代の男がいなくなって、むしろ一番ほっとしているのは、この小母さんだった。

「そうですよね」

  由紀子さんは、再び小父さんの姿を思い出したようすで、今度は少し申し訳なさそうな表情をした。ただそれは、ほんのわずかな一瞬で、僕たちを見ると再び元の表情に戻った。本来はもっと明るい性格であるようだ。

「奥へどうぞ」

  小母さんが、小父さんが座っていた窓際の席をすすめたので、彼女と稲田は向かい合わせに座ることになった。

「金峰町って言っていたけど、二人ともそうなの」

  由紀子さんは僕を見て言った。

「うん」

「じゃあ、同じ中学校の出身なのね」

「違う。僕は田布施中で、こいつは阿多中なんだ」

「ああ、そうなの。二人とも知覧工業高校か……きっと頭がいいのね」

  由紀子さんは少し遠慮してか、世話になるお礼を込めてか、僕らにお世辞らしいことを言った。

「そんなことはない。たいがいの男はあそこへ行くんだよ。それより由紀子さんはどこに住んでいるんですか」

僕と由紀子さんの会話が弾んでくると、稲田が口を挟むように聞いた。

「私は加世田市」

「え?何だ。近くに住んでいたんだ。近くもいい所だよね、広い鹿児島県の中でも隣の町に住んでいたなんて」

  稲田は言った。

「でしょう?私も金峰町って聞いてびっくりしていたのよ」

「僕はてっきり、鹿児島市内に住んでいるのだと思っていた」

「僕もそうだよ」

「あら、どうして」

「だって、由紀子さんは都会的な人に見えるんだもの。センスがあるし、それにお母さんだって上品な人だったし」

  稲田が言うと、由紀子さんはうれしそうににっこりと笑った。

「高校はどこですか」

  稲田は聞いた。

「加世田高校よ」

「やっぱりねえ。じゃあ、進学高校だ。由紀子さんの方がもっと優秀で頭がいいんだろうね、きっと」

  今度は笑いながら稲田が言った。それは、お世辞と言うよりは本当にそり通りだろうと思えた。

「あの辺りの女の子は、ごく普通に勉強すれば誰だって加世田高校へ行くのよ」

「そんなことはない。たいがいの人は商業高校か、農業高校に通っているよ。大学に行くんですか」

  稲田はそれならば僕も大学に進んでもいいな・・・と言いたげだった。

「わからない。迷っているところよ。大阪へ行ったらそれも姉に相談しようかと思って」

「いいわねえ。若い人はすぐお友達になれて」

  僕達が話しに夢中になっていると、小母さんが言った。

「小母さんはどちらに住んでいるんですか」

「私は鹿児島市内の紫原」

「あら、そうですか。それでどちらまで行くのですか、大阪ですか」

 由紀子さんは言った。

「広島に住んでいる娘がね、『遊びにおいで、遊びにおいで』と、何回も催促するものだから、それでやっと、思い切って遊びに行くことに決めたの」

「それは素敵なことですね」

「ところがねえ、娘には会いたいのだけれど、相手の旦那さんに気を使うのよね。親切だけれど、無口な人だから」

「ははは……まんざらそうでもなさそうですよ」

「そお? 半分は楽しみにしているのだけれど」

「でしょう?」

「あなたはいいお嫁さんになるわ。人懐っこいし、朗らかだし。お婿さんを選ぶのだったらきっと、真面目でおとなしい人がいいわよ。面倒くさくなくていいし」」

「ありがとうございます。もらってくれる人がいるかどうか分からないけど参考にします。ふふふふ……」

「ほほほ……きっといい人が現れるわよ。目の前の二人だって良さそうな人だし。ははは……」

 僕と稲田は二人の会話を黙って聞いていた。女は女同士の独特の楽しい会話があるらしかった。時々こぼれてくる笑い声に、どうしてそれが楽しい笑い声になるのか不思議な感じがした。

  そうした小母さんが広島で降りてからは、僕たちの席は三人のままになった。お互いの学校の様子とか、家の様子を聞いて話題は尽きなかった。

「加世田には武田神社に行く途中に、庭のきれいな武家屋敷が多く並んでいるところがあるんだよね」

「ええ、そうなのよ。あなたはあの辺りを知っているの」

「知っていると言うよりも、暮れになると良く行ったんだよね。十二月の末になると加世田の武田神社の周りに市が立つでしょう。それを見に婆さんに連れられて毎年のように行ったんだ。小学生の頃だけどね。何でも暮れの冷たい風に吹かれないと、風邪を引きやすくなるんだって」

「そう言うわよね」

「それで街を歩きながら武家屋敷も何回も見たって言うわけなんだ。一つ(いぬまき)の生垣がきれいに剪定してあってさ、庭の植木は立派だし、入り口に大きな木の門がある。屋根瓦は白い漆喰で頑丈に固定してあるし、いかにも金持ちの家といった感じじゃないか」

「そお?あれでいて中身は実際に苦しいのが現状よ」

「由紀子さんは加世田市内のどこ住んでいるんですか」

  僕と由紀子さんが話していると稲田が口を挟んだ。

「私の家も、実はその近くで武家屋敷の一つなの。うちは小さい家だけど」

  僕と稲田は目を丸めた。唯でさえ美人で可愛い女の子なのに、大きな武家屋敷に住んでいるという境遇が、お姫様のような令嬢に想像を掻き立てた。そしてそれは品の良い仕草と重なって、彼女を一層魅力に見せたのである。

僕も稲田も農家の出身だったが、僕達は到底話するきっかけすら掴めない武家屋敷の娘さんと、農家とは違う別世界の人物と一緒にいた話をしているのだった。

「へえー金持ちなんだ」

「あのう、僕はさあ、いつも不思議に思っているんだけど、あそこに住んでいる人達って、どんな仕事をしているの」

  僕はいつも不思議に思っていたことを聞いた。同じ人間の世界にどうしてあんな金持ちの世界があるのか。どうしたらそうなれるのか興味があった。

「農協や市役所に勤めたり、土地持ちがいたり様々ね。ほとんどは市街地で商売をしている人が多いと思うけど」

「由紀子さんのお父さんは何の仕事をしているんですか」

  稲田が聞いた。

「父は加世田駅前で呉服屋をやっているの」

「へえー」

  僕達は再び目を丸くした。

「稲田さんとこは何やっているの」

「うちは農業。稲とタバコを作っているんだ」

  稲田は恥ずかしそうに、苦笑しながら言った。

「あなたの家は何」

  由紀子さんは僕に聞いた。



    小説『就職試験 13


「僕の母親は農協に勤めている」

「あらいいわねえ。きっと賢いお母さんなのね」

  由紀子さんは目を輝かせて言った。  

「そんなことはない」

「違う、違うよ、こいつのおふくろさんは農協といってもさあ、工場で働いているんだ」

  稲田は、農協と答えた返事に対して、あわてて変に弁解して言った。彼にすれば、由紀子さんが僕の方に興味が向くことは、大いに困ることらしい。

「製茶工場か何か」

「ううん、違う、サツマイモの澱粉工場なんだ」

「じゃあ、事務職か何かね」

  彼女はそれでも期待して言う。

「違う」 

僕はその通りだと嘘をつきたかったが、稲田は嫌な顔を見せたので僕は言い訳をした。

「違うよー。こいつのおふくろさんは現場の方で働いているんだよ。現場でもかなりのきつい肉体労働らしいよ」

  またしても稲田は余計なことを言った。

「でも立派だと思うわ」

「うん」

  僕も実際そうだと思ったが、稲田は冷ややかな目で苦笑する。

「お父さんの仕事は何」

  彼女はそれでも僕の方に興味があるらしかった。

「父は僕が小さい時に死んでしまったんだ」

「あら、そうだったの。ごめんなさいね。あなたを高校まで出してくれるお母さんって偉いと思うわ。私、ますます感心しちゃった」

  彼女は嫌なことを聞いてしまったので、わびるようにお世辞を言った。

 

特急列車が尾道駅でしばらく止まったままになった。それまで順調だったので時間調整だろうと思ったが、列車は一向に動く気配はなかった。

「あら、どうしたのでしょうね」

「前の電車がつかえたんじゃない。すぐ動くと思うよ」

  稲田も同じ考えらしい。それでも列車はなかなか動かなかった。そして十分ほど経った頃に

「この先の大雨の増水により鉄橋が陥没したためしばらく止まります。復旧の見通しはいまのところ立っておりません」

  と、いう放送が流れた。

「うそー、大雨だって」

  僕達三人は驚いた。鹿児島から尾道まで来るまではずっと晴れていたのである。列車の窓から外をのぞくと、黒い雲は流れていたがまだ晴れていた。

『きっと何かの間違いだろう』

  そんな漠然とした期待を持って列車が動き出すのを待ったが、それから三十分経ってもまだ動かなかった。乗客は窓の外に身を乗り出すように前方の様子を観察したり、復旧の見通しについて語り合っていたりしたが、乗客の一人が電車から降りて大きく背伸びをすると、それを真似るように十人ぐらいの人が電車を降りた。

「私達も外に出てみましょうか」

「そうだね」

  彼女に誘われるままに僕達は外に出た。ホームは濡れて所々水溜りはあったが、大雨のようすは感じられなかった。

「尾道っていい所ね」

 ホームに立って眼下を見下ろすと、海が近くに見えて、こちらの市街地と向島との間に、川のようなゆったりした水面が広がってしていた。



    小説『就職試験』 14


 尾道の水面が川でなく海だと分かるのは、対岸に造船所があることと、そこが潮の満ち引きが有る満潮の、濡れた痕跡が残ることだった。そしてそこはかなり深いらしく青々として、水を汲み上げても決して空にはできない迫力のようなものがあった。

海は満潮だったのか静かで、尾道の市街地を水面すれすれに浮かべているように見えた。

「尾道って文学的な感じだね。林芙美子の放浪記か何か書かれた所だよね」

「そうなのよねえ。私一度来てみたいと思っていたから、臨時停車してもらって丁度良かったわ」

   彼女はホームの海寄りに近付きながら、海の香りのする異国の空気を確かめるようにいっぱい吸い込んだ。

「そうだね。知らない土地でのんびりするのもいいものだね」

   僕達は本当にそうだと思った。今までの過去の生活から解放されたようだった。ここには僕の家庭の貧しさを知っている人間はいなかったし、さげすんだ眼で見下す近所の人達もいなかった。

学校で義理で我慢して授業を聞いている必要もなかったし、意地悪な連中に目を付けられて、おとなしく目立たないようにじっと我慢する必要もなかった。

何もかもが開放的で自由だった。

「ねえー、お中が空いてきたと思わない。何か買って食べましょうよ」

   彼女に言われてみると、僕たち三人は空腹であることに気づいた。

「そおだね。売店で何か買おうか」

   稲田はホームの前方を見て言った。

「私は駅の外に出てみたいと思うのだけれど駄目かしらね。駅前の通りにお菓子屋さんがあるでしょう。ソフトクリームを売っているみたいだし、是非とも食べたいわ」

  彼女は甘えるように言った。

「それは良い考えだ」

 「改札口へ行って、係りの人に外へ出ても大丈夫かどうか聞いてみようか」

「そうだね。そうしよう」

  僕達は改札口へ向かった。駅員の話では復旧の見通しはまだ立っていないので、列車はしばらく動かないということだった。そして駅の外へ出てもかまわないが、

「万が一のことを考えて遠くへは行かないで欲しい。出発する前には何回か警笛を鳴らしますので、その時は急いで帰って来てほしい」

と言った。

僕たち三人は遠くへ行くつもりはなかったので

「すぐ帰って来ます」

と言って、駅の外へ出た。

  駅前の通りは焼け付くような暑い夏の日差しが照りつけていた。大雨はすでに遠くへ通り過ぎたらしく、アスファルト道路の中央は乾いて、端の窪地に水溜りが残っているだけである。どす黒い雲が遠くにあったが、遠ざかる一方だった。

駅前の商店街を歩くと、そこは鹿児島の町並みとは何もかもが違っていることに驚いた。建物は近代的であったし、たとえ多少古びたものがあったとしても、鹿児島の品物に比べたら、はるかに高価な品質のものが安い値段で売られていた。

女性の衣服を斜めに陳列してあるショーウインドーの展示方法に感心したり、花屋では大きなガラス戸の中にしまわれたユリやカトレアの数に驚かされたり、パン屋の前を通ると、ついつい甘い匂いに誘われてそれぞれが好きなものを買わざるを得なかった。   

本当ならば列車が立ち往生して復旧の見通しが立たないことに、いらいらして腹が立つはずだったが、思いがけなくも同じ年代の女性と長く過ごせることに感謝していた。

ソフトクリーム屋の店先で、長いすに腰掛け駅のホームを見ると、同じ列車に乗り合わせた人々が退屈そうにしゃがみ込んだり、歩き回ったり、扇子で顔を仰ぎながら話し込んでいた。この様子ではまだまだ列車は動き出しそうにない。

そんな憂鬱そうな表情をして、ただ漠然と時間を無駄に過ごす人々を見ると、僕たちは何と有効に時間を楽しく過ごしていることだろう。立ち往生した今が楽しくてたまらないのだ。

多少、不良っぽく羽目をはずして、決められた空間から抜け出してしまった今の僕たちは、昼休み時間に学校を抜け出して商店街を歩き回るクラスの山口の行動と同じだろうかとも思った。

今ならば田舎の家での貧乏暮らしも、クラスで意地悪する連中のことも、何もかも嫌なことだけを忘れることができた。

駅のホームに帰る途中、再び商店街を見て回ったが、宝石店の百万円するダイヤの指輪の光に心は浮き浮きして、自分が金持ちになってそれを由紀子さんにプレゼントする姿を想像する。彼女が驚いてはしゃぐ姿が目にみえるようだった。たとえそれが空想であったとしても、とても楽しい。

特急列車が動き出したのはそれから二時間ほど経ってからだった。本当に大雨があったのか不思議なほど窓の外は平穏な田園地帯が続いている。低くなだらかな山と、大して広くない水田地帯が繰り返し、繰り返し続く退屈な景色に飽き飽きしていた頃、幅五・六メートルほどの小さな川が茶色に濁っていて、鉄橋の下でショベルカーを取り囲んだ工事現場の人達が、心配そうに列車の通り過ぎるのを見上げていた。

   

「大雨で通行止めになった原因はここだったんだね」

「そうね」

  稲田が言うと、僕と由紀子さんは工事現場をのぞき込んだ。

ただ、そこを通り過ぎると列車は遅れた時間を取り戻すかのように再び速度を上げて走り出した。

本当に何の変化もない山陽地方の景色、列車が動き出して安心したためか、僕達三人は旅の疲れが出て眠くなった。そして、誰も話さなくなった。



    小説『就職試験』 15


  僕が眠りから覚めたのは列車が神戸を過ぎた頃だったと思う。その時稲田は起きていて、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

「今どこを走っているのだろうね」

僕は稲田に聞いた。

「さっき神戸を通り過ぎたばかりだから、今頃芦屋当たりじゃないかなあ」

彼は言った。

「ええっ、じゃあ大阪はもうすぐじゃないか」

  僕は生まれて初めて訪ねる都会がどんなところか不安になった。そしてそんなわけの分からない土地に、『この列車から放り出されてしまうのか』と思うと、心臓は高鳴る一方だった。

「そうだよ。後二十分で到着だって」

「へっ、それじゃ、彼女を起こしてやらなくちゃ」

「そうだね」

  稲田は二十分がかなり先であるかのようにのんびりしていた。仕方がなさそうに落ち着いて言うと、眠っている彼女の肩をそっと、窓の手すりにひじを乗せて頭をささえている彼女に、まるで腫れ物に触るように、恐縮した感じで指先を当てた。

「あっ、ごめんなさい」

  びくりと身体を動かした後、しばらくして顔を上げた。

「もうすぐ大阪だってさ」

「あそう。以外に早かったわねえ」

  彼女はそう言いながら別に驚いたようすでもなく、まだ眠たそうな顔をしていた。

「眠たかったら・・・まだ寝ていてもいいよ。到着の五分前になったら起こしてやるから」

「ごめんなさい。私は眠たくてどうしようもないの。低血圧で寝覚めが悪いから、もう少し寝かせて頂戴」

  彼女はそう言って再び目を閉じた。女とは何と図太い人間なのだろう。僕は会社に無事到着できるかどうか不安でたまらないのに、彼女は悠然と眠っている。

「三時間も遅れてしまったけど、会社の人は迎えに来てくれているだろうか」

  僕は心配でたまらなかった。

「そうなんだよねえ。時間どおり到着していたならば案内の手紙に書いてあった通り迎えに来てくれていただろうけど、随分遅れてしまったからねえ。三時間じゃ、多分待ちきれなくて帰ってしまっただろうね」

「そうだよなあ」

「迎えが来ないときは、自分達で会社まで訪ねて行くしかないよね」

「そうだね。その時はそうしょう。二人で聴きながら訪ねて行けば何とかなるだろう」

「会社の地図を持っている?」

「あるある」

  僕と稲田はそれぞれに地図を広げた。

「あっ、そうだね。まず列車から降りたら会社に電話しなくちゃならないね」

「そうだね」

「あれっ、由紀子さんどうしたの」

  それまで眠っているとばかり思っていた彼女を見て稲田は言った。

彼女は目にいっぱい涙を浮かべていた。


 

     小説『就職試験』16


  どうしたのだろう。どうして由紀子さんは涙を流すほど悲しい思いをしているのだろう。僕は心配になった。

「気分でも悪いの?」

  稲田はそのことを先に感じて言った。

「いいえ、……」

「鹿児島のことを思い出してホームシックになった?」

「いいえ……」

「どうしたんだろう」

僕と稲田は顔を見合わせた。それ以上に彼女は何も答えない。ただ黙って顔を横に振っているだけである。

何故だろう。どうして彼女は悲しそうな目をしているのだろう。そして彼女は涙を流し始めた。

女の流す涙がこれほど僕達の心に、深刻な罪悪感を与えるとは思っても見なかった。何か彼女に対して悪いことをしたのだろうか。もしそうだとしたならば、何が何でも彼女の悲しみを取り払ってやらなければならない。そんな包容力みたいな正義感が生まれてきた。

「困ったなあ」

「わわわわわわ……・」

 とうとう由紀子さんは両手で顔を覆って泣き出してしまった。そんな彼女を見て稲田は、どうにもならないと参った様子で笑っていたが、僕は心配でとても笑う気持ちにはなれなかった。

彼女は本当のことを言えば家出だったのだとか、父親が破産して生活に困っているとか、そんな余計なことを想像したりした。

そして、そんな彼女を心から可哀そうだと思った。力の限り守ってやらなければならない。

「分かった。僕たちが二人だけで話をしているものだから、由紀子さんは僕たちから中間外れにされたと思ったんだ」

  稲田は言った。

「違うの。大阪が近づいてきたら、姉さんが迎えに来てくれるかどうか急に心配になったの。私、なんだか怖いわ」

  彼女は心配でたまらないらしく、青白い顔をしている。

「へえっ、そんなくだらないことを心配していたんだ。大丈夫だよ。姉さんは、きっと迎えに来ているよ」

  稲田は言った。

「そうかしら、私はどうして遅れることを、尾道から姉に電話しなかったのかしら」

  そう言えばそうなのだ。あの時は楽しさで有頂天になっていて、僕たちも会社に電話することを忘れていたのだ。

「大丈夫だって。姉さんが見つかるまで僕達は由紀子さんとずっといっしょにいるから、ねえ、そうするだろ」

「うん」

「そんなことできないわよ。大事な就職試験があるでしょう」

「僕は由紀子さんのためだったら試験なんかどうでもいいよ。しばらく待っても迎えが来なかったら、由紀子さんを姉さんの家まで送って行く」

  稲田はそう励ましながら僕の方を見た。

「うんうん、絶対にそうする。由紀子さんの為だったら試験なんか遅れたって構わない」

 僕達は本気でそう思った。それは今までの僕からはすると考えられない発言だった。そんな僕に対して稲田が笑うのを見て、僕は今までにない自分がそこにいることに驚いた。

 


    小説『就職試験』 17                 


「ありがとう。その言葉を聞いて私は勇気が出てきたわ。私はもう泣かない。ありがとう。私は一人で姉の家に行く決心がついたわ」

  彼女には涙をふき取ると同時に、新たな決断が生まれたようだった。

「そんなこと言わなくたって、送って行くのに」

  稲田は言った。

「ううん、いいの、大丈夫」

そんなことを話している間に、夕闇は迫っていた。心の不安とは裏腹に穏やかな夕暮れの感じだった。遠くに見えた大阪のビルの明かりが列車に間近に迫って近づいたころ、ガガガ・・・・という音がして、特急列車が急に大きく揺れ始めた。

事故かと疑うほど大きな衝突音が振動と共に響いてきた。そして、僕達は宙に浮いた感じになった。窓の外を覗くと大きな斜めになった柱が続けさまに通り過ぎて行く。

「何だろう。何事が起こったのだろう」

 心配していると

「列車はまもなく大阪駅に到着します」

というアナウンスがあった。

 落ち着いて外を見ると轟音の正体は鉄骨の枠組である。列車は大淀川の鉄橋を渡り始めていたのである。そしてそこからは、ぼんやりと大きなビルの窓の明かりが見上げるような高さまで迫っていた。

いよいよ大阪到着である。僕達を乗せた列車は急速に速度を落とし始めて、キーと言うブレーキの音と共に、鉄の焦げる金属臭が漂っている。僕達は荷物を座席に降ろして、いつでも外へ出る準備をした。

列車はさらに段階的に速度を落として行く。まもなく停車できそうなスピードにまで落とすと、駅のホームのようすが確認できるようになった。

「姉は迎えに来てくれているかしら」

  彼女は不安そうだった。乗客の誰もが当てにできぬ様子で、まだ動く列車の窓から大阪駅のホームの人々を一人ひとり確かめるように見詰め、心当たりを探していた。

『まだそれほど速度を落としていないのだから。顔の区別などでできるはずがない』

 僕がそう思った時である。

「ああっ、いたわ。姉が迎えに来てくれていたわ。ごめんなさい」

 由紀子さんはそう言って自分の荷物を持つと、列車の通路を後ろに向かって走り出していた。僕達はあっけに取られて言葉も出なかった。

彼女は僕達を含めて、列車に乗り合わせた人々がまるで野山の石ころか立ち木でしか見えないらしい。あいた口がふさがらないというよりは、目の前で起こった出来事を、僕たちは何も理解できないでいた。

 確かに僕も稲田も、何かに期待していたのかも分からない。だが二人とも彼女がたったの今まで、ここにいたことでさえ幻のように思えた。稲田も僕もそのことについては何も言わない。

結局、若い僕達は通路の人を押しのけて彼女の後を追ってゆく機転が働かなかったので、入り口に近い人々の後に続いて列車を降りた。ホームへ出たのは一番後だった。

「とりあえず約束したことだから、彼女が姉と合ったかどうか調べてみよう」

 稲田は言った。僕はとっくに立ち去った後だと思ったが、稲田は彼女の母親との約束に責任を感じているようである。僕たちは列車の後へ向かった。

本当に姉が迎えに来ていたのかどうか、彼女が一人でいないかどうか・・・疑いながら探し出すと、由紀子さんは二歳ぐらいの子供を抱き上げて喜んでいた。

僕達はそれを確認したことで安心し、黙って自分たちの会社へ向かった方が良いと思ったが、稲田はお節介にも彼女に近付いて行った。

「知り合いが見つかって良かったですね」

稲田は彼女に向って言った。

「ええ、良かった、良かった」

   彼女は上の空で返事をしていた。相手が僕達だと認識したかどうか、彼女は僕たちに気づかない様子である。抱きかかえた子供に夢中になって一緒にはしゃいでいた。

「一緒に同行して下さった人ですか」

  由紀子さんの姉らしい人が言った。

「はい」

「そうだったのですか。ありがとうございました。由紀子の母から連絡があって、真面目そうな学生が一所だから安心だ・・・とは言っていたのですが、安心致しました。由紀子、由紀子。この人達にお礼をいわなくちゃ」

  彼女の姉らしい人は妹にそう言った。

「はあい。どうもね。ありがとうね。それそれ、高ーい、高ーい、くちゅ、くちゅ、くちゅ・・アワワア、ワア」

 彼女はそれでもうわの空で、子供に夢中になっている様子だった。

「それでは僕達はこれで失礼します」

「すみませんね」

 姉らしい人は僕たちに謝ったが、彼女はそれでも僕達のことは頭にないのか、意識してそうしているのか・・こっちを振り向く気持ちなどないようすだった。

『あの列車の中で見せた心配そうな涙はいったい何だったのだろう』

僕達は矢で打ち落とした獲物をさらわれたように苦笑しながらそこを離れた。



    小説『就職試験』 18


 由紀子さんと別れた後、受験先の会社に電話すると

「これから迎えに行くことはできませんので、大阪駅から環状線に乗り、京橋駅で乗り換えて京阪電鉄の枚方駅まで来て下さい。そこに到着したら再び電話をよこしなさい」

と、言われた。口では言わなかったが、早めに連絡しなかったことを怒っているようにも感じられた。

駅に着いて再び電話すると

「今日予定した試験前日の工場案内の日程は、すでに終了してしまったので今日は会社へは来なくて良いです。明日八時に遅れないように来て下さい。今日の宿泊は学校の先輩の寮になりますので、そのまま枚方駅の改札口付近で待っていて下さい。一時間以内に先輩を迎えに行かせます」

 と、試験担当の人は言った。

僕たちはなんだかつまはじきにされたような気分だったが、仕方がないので枚方駅でそのまま待っていると、三十分ほどで知覧工業高校の先輩が迎えに来た。

「ああー、懐かしいなあ、その学生帽と黒い服、ひと目で学校の後輩だと分かったよ。稲田と西島だろ」

「はい」

「へえー、こんな不況なのに会社は二人も就職試験を受けさせてくれたのか。うれしいなあ。同じ鹿児島の学校でも一人も就職試験を受けさせてくれない所だってあるらしいよ」

 先輩はそう言った。

「へえー、そうなんですか」

「じゃあ、お中を空かしているだろうから食堂で何か食べよう」

 先輩はそう言ってラーメンをご馳走してくれた。

「安田先生と中山先生は元気かい」

 先輩は言った。

「はい、元気です」

「懐かしいなあ。できれば俺も学校へ戻りたいよ。あの時は本当に楽しかったなあ。今のうちに学生生活を思い切って楽しんでいたほうがいいよ。社会に出たら辛いことばっかりだから」

「そうなんですか」

 稲田は素直にうなずいていたが、僕はそんなことはないだろうと思った。田舎の貧乏暮らしは正直に言って苦痛である。親が貧乏しているのに、子供が学校へ行って働かないでいることが世間知らずのようで恥ずかしかった。

他の生徒はそれなりに家に余裕があって高校へ進んでいるのだが、僕自身は身分不相応の進学だったので早く働きたかった。

「正直に君たちが、この会社に就職するのが幸せかどうかわからないなあ。仕事がきついのだよ。重さ四十キロの部品を持ち上げて機械に取り付けるんだけどさあ、腰が痛くてなあ」

 先輩は声を小さくしてラーメンを食べながら言った。

「そうなんですか。そんなにきつい仕事はいやですよね」

「それに一週間交代で夜勤があるんだ。それがなあー、眠くてたまらないのだ。ついつい立ったまま眠っていることもあるんだよ。ほんのわずか一瞬だけどな」

「そうなんですか」

 稲田は再び嫌な顔をした。

僕は先輩がどうしてそんな嫌な話をするのか理解できなかった。その話は僕を少し不安にしたが、僕はそれでもこの会社に就職したいと思った。農作業で力仕事には慣れていたし、眠気もいざとなったら克服できる。ただ僕の場合は採用されるかどうかが問題なのだ。

 

翌日の試験当日は簡単な学科試験と面接があった。学科は一般常識と機械の専門科目であったが、むしろ受験生を小学生と思い違いしたような簡単な問題で、全員が満点を取れるような簡単な学科試験だった。

面接も緊張した割には、すんなり答えている自分に驚いていた。何よりも学校の先生が

「分からないことは『分かりません』と、はっきり素直に答えたほうがいい。知ったかぶりをして答えると、それをさらに追及されることになる」

と、アドバイスしていたことが参考になった。何よりも自分で言うのも恥ずかしい話だが、第一印象で真面目で清潔感を与えることには自信があった。 そんな僕に、面接官は苦い質問を浴びせたりはしなかった。

 昼食は会社の食堂で社内食を食べた。五百人は一度に座れるようなそんな広い食堂で、主食のご飯と、おかずを盛り付けした皿を、あらかじめ用意した自分の盆に取って食べるセルフサービス形式だが、合理的なそんな食事方法は親元で暮らす僕にはむしろ新鮮でモダンな印象であった。

むしろ、家で祖母が用意する煮魚の一品料理よりはこっちの方がずっと豪華に思えた。

「試験は簡単すぎたね」

「そうだね」

「面接はどうだった?」

 僕は稲田に聞いた。

「どうしてもこの会社に就職したいのですかと、いう質問があったよねえ」

「うん」

「先輩から、『ここの会社の仕事はきつくて苦労するばかりだと、聞いているので来たくありません』と、答えたら怒られてしまった」

 あれほど日頃は陽気に話していた稲田がしょんぼりとしていた。

「駄目だよ、そんな答え。怒られるのは当たり前じゃあないか」

「そうなんだよな」

 稲田は今になって深く反省しているようすである。

午後になって心配した身体検査があった。医者の問診とレントゲン撮影の後に簡単な体操をするのである。パンツ一つになって裸足で歩いたり背伸びをしたり、七・八人が一組になって簡単な屈伸運動をした。

  監視する検査官の目は鋭かった。どんな小さな身体の異常も見逃さない厳しい目を持っていた。少しでも甘い動作をしたり、曲げが弱かったりすると注意するのである。

  足を真っ直ぐ伸ばして手先が床に届くかどうか調べられた時

「本当にそれ以上は前に曲がらないのか、力を入れて頑張ってみなさい」

と、試験管は僕に向かって言った。体育の授業時間に言われた時と同じである。

「できません」

僕ははっきり答えた。

 その答えは涙が出るほど悲しかったが、いまさら努力で解決できる問題ではなかった。僕は

「この会社の就職試験は失敗するだろう」

 と、悟った。

 

それから二週間経って、案の定、夏休みを送って家にいる僕の手元に『不採用』の通知が来た。それはあらかじめ覚悟していた試験結果だったので特別に落胆はしなかったが、バスで移動しなければならないほど工場の広かった敷地や、おいしかった社内食堂のことや、先輩のご馳走したラーメンに報いることができなかったことが思い出された。

学校へ電話すると安田先生が出た。

「夏休みでも学校には誰かが必ず当直しているので、採用通知の結果が来たら必ず先生に連絡するように」

 と、言われていたためである。

「結果はどうだった」

「すみません。不採用でした」

「落ちたんだったらそれも仕方がないだろう。しかし、真面目に試験を受けたのか」

 安田先生は言った。

「はい」

「こんな会社へは就職したくありませんと、言ったそうじゃないか」

「それは僕じゃありません」

「わかっている。しかし、なんで稲田はそんなことを言ったんだろうな」

「わかりません」

「まあいい。他に就職口があったら家に連絡するからそのつもりで」

「はい」

 先生はやはり不機嫌な様子であった。二人の内の一人も採用されなかったのである。そのことに僕は申し訳ないと思ったが、僕の体の異常は僕一人の問題だけでなく、学校全体の不名誉になったことを考えると、僕は学校に対して申し訳ないと思った。

    

 

    小説『就職試験』   19

                  

 一週間ほど経って就職試験の不採用を忘れかけた頃、思いがけなくも一枚の手紙が届いた。

「拝啓

多分、突然のお手紙に驚かれているのではないでしょうか。私はそうです。貴男達が大阪へ就職試験に行ったとき御一緒しました桜木由紀子と申します。

あの時は本当にありがとうございました。あれほどお世話になって迷惑を掛けていながら、御礼も言わず別れてしまって本当にごめんなさい。

私って本当にそそっかしいのですね。姉と合ってつい嬉しくなって二人のことをすっかり忘れてしまったのです。今はそうして迷惑を掛けたことも、尾道で街を歩きながらソフトクリームを食べたことも、特急列車の中ではしゃいだことも、今は何もかもが楽しい思い出でいっぱいです。

もう一度、ああした旅行がしてみたい。あの時に帰ってみたい。そのことばかり考えています。

就職試験の結果はどうだったのでしょうか。列車が遅れたことが悪い影響をあたえたのではないかと、とても心配しております。採用されるといいですね。

私はその後、大阪の姉の家で暮らしています。貴方達と別れてから十日ほどして姉が出産したものですから、姉の看病と子守、家の掃除や洗濯、買い物など何かと忙しいのです。こんな私でも結構役にたっているのですよ。主婦業は意外と私には向いているのかもね。

しかし、残念ながら、姉がそんな状態ですから、せっかく大阪に来ているのにどこへも遊びに連れて行ってもらえません。帰るまでには大阪城と道頓堀、法善寺横町だけは見て帰りたいと思っております。貴方達と一緒に見て回れたらどんなに楽しいでしょう。そうできないのがとても残念です。

良かったら返事を下さい

                          由紀子


  それは由紀子さんからの手紙だった。僕達と分かれた時の彼女の様子からして、僕達の役目は当然終わったとばかり思っていたのに、彼女は僕たちのことを忘れていなかったのである。

 稲田は列車の中で彼女の住所を聞いていた。そして自分の住所を書いたメモも彼女に渡していた。彼女は僕の住所も聞きたかった様子だったが、稲田がそれを止めるような素振りをみせたし、僕も稲田に遠慮して彼女の住所を聞いたりはしなかった。

 だから彼女から手紙が届くなど思いもよらない出来事だったのである。彼女はどうして僕の住所を知ったのだろう。

 

「拝啓

  お手紙ありがとうございました。どうして僕の住所を貴方が知っているのか不思議でたまりません。そして、どうして僕のような取りえのない人間に手紙を出して下さったのかも不思議です。

 あの時の旅行は本当に楽しかったです。あんなに身近に異性と長く過ごしたことは生まれて初めてです。しかも貴方のように綺麗で、楽しくて、多少おてんばで、上品な人とは生涯僕の目の前には現れないと思っております。

僕はあの時の思い出を忘れないように大切にしたいと思っております。もう一度、ああした楽しい旅行ができるならどんなに楽しいでしょうね。そして大阪の街も見て回りたい。由紀子さんはせっかく大阪にいるのですから、なるべく多くの名所を見て回ったほうがいいと思います。

就職試験の方は残念ながら不採用でした。稲田も僕と同じだったようです。しかし試験は始まったばかりですからね。これからまた別の会社に挑戦してみたいと考えております。果たして僕のような人間を採用してくれる会社があるかどうか。多少心配です。

お手紙、本当にありがとうございました。

                          西島幸一」


 僕は由紀子さんに返事を書いた。手紙をいただいた嬉しさについつい舞い上がっていたし、これからどんな展開になるのか少しは不安であったが、一人の男として認められたようでうれしかった。

手紙を書いて返事が来るかどうかは分からない、やさしそうに見える彼女の手紙の中に義務的なお礼が含まれていたのではないか・・・本当は僕のことなど何とも思っていないのではないか・・・と疑うこともあった。

それでも僕は返事を書くことにした。それは義務だと考えたこともあったし、お姫様の心をつかむことが楽しいことのようにも思えた。ただ、いずれにしても、返事を出したことで自分の責任は果たしたような感じがした。



         小説『就職試験』 20

     

 それから何日かして、再び由紀子さんから手紙が届いた。それが運悪く・・母が家にいる時で、配達人から郵便物を受け取った母は受取人と差出人の名前を見て

「誰じゃ、この人は」

  と、言いながら首をかしげていた。そしてしばらくすると僕の顔を見て

「ははん・・・」

 と、言いかけたが、思い直したように黙り込んでしまった。そう言えば僕も年頃であったし、そうした手紙が届いても不思議ではなかったのである。

 僕はその表情を見て、多分それは由紀子さんからの手紙だろうと思った。そしてその手紙を見られたことに、漠然とした不安を感じた。それは意味不明の後ろめたさで、何か家族に対して不貞を働いたような・・そんな罪悪感でであった。

しかし、それが何故そのことを悪く感じるのか・・弁解じみた言葉を捜さなければならないのか・・理由は分からない。しいていえば、性行為の一つの過程を除かれるようでいやな気分であった。

しかし、母は手紙を渡すと、自分から会話を避けるように急いで僕の前から消えた。・・・寂しいことに僕の母は、そうした言い訳を苦心して考えたにも拘らず、追求するとか、忠告を与えるとか、我が子を指導するほど知性が高かったわけではなかった。


「拝啓

 ご返事、誠にありがとうございました。就職試験に失敗したとのこと、本当に残念でたまりません。どう慰めてよいのか……でも貴方達ならきっと素晴らしい会社を見つけられると思います。

 こんなに良い人達なのに会社も見る目がないですね。私が会社に怒鳴り込んで、とっちめて上げましょうか。あら、ごめんなさい。私にそんなことは出来っこないですよね。私はおとなしく気弱な女の子ですから。ほんとうにごめんなさい。

 鹿児島を台風が通過したとのことですが、そちらはどうだったでしょうか。被害はなかったか心配です。大阪はそれから1日経って大阪から離れた所を通過したらしいのですが、いつもより強く風が吹いていたぐらいで、別にたいしたことはなかったです。

  姉も出産が無事終わって、その後大分元気になって、今は二人で買い物に行けるまでに回復しています。もっと元気になって、私が鹿児島へ帰るまでには京都へも連れて行ってくれるとのことです。楽しみにしております。

  こうして暮らしていると、都会の生活も悪くはないですね。就職にしても進学にしても、一度は都会で自活してみたくなりました。でも父は頑固に人ですから、そうした私のわがままを許してくれそうにありません。

貴方はどうしても都会に出て働きたいのでしょうか。田舎の暮らしをどう思いますか。是非とも教えて下さい。

                              由紀子」


「拝啓

  再びお手紙ありがとうございました。京都へ連れて行ってもらえるとのこと、良かったですね。僕も大阪に就職できたら、京都や奈良見物に行きたいと思っています。

  それにはまず就職先を探すことが先決です。

 僕の考えでは、卒業後田舎で暮らす生活など頭にありません。僕の家はそれほど豊かな家庭ではありませんし、何かと世間の目が鋭いのです。監視されているようで嫌です。もっと都会の中で豊かに自由に暮らしたい。それが僕の夢です。

  由紀子さんの家庭は裕福そうですから、こんな世間の冷たい視線を感じたことはないでしょうね。もっともこうした考えは僕のひがみで、本当は田舎の人々はもっと心が暖かいのかも分かりません。でも今の僕にはそのように思えて仕方がないのです。

  学校の先輩も、近所の人達も、

『都会は空気が悪くて部屋も狭い。食べ物の一つから、金がなければ生活できない。人間も冷たい』

と、言いますが、僕には我慢できそうな気がします。何よりも良い就職先を探すことが先決ですが。

  台風はそれほどたいしたことはありませんでした。再びお手紙をもらえるなんて、とても嬉しいでした。お体に気を付けてお過ごしください。

                         西島幸一 」

 僕は手紙を書いた後、それをポストに入れた。手紙がポストの中に落ちただけで、それが都会に届くのかと思うと不思議な気分であった。


 

        小説『就職試験』  21

                         

 それからまたしても、由紀子さんから手紙が届いた。それは夏休みも終わりに近付いた頃で、それまで暑く寝苦しかった夜が明け方になると、ぐっと冷え込んで、毛布一枚重ねないと眠れない……そんな頃であった。


「拝啓

  お手紙、再びありがとうございました。さっそく姉夫婦に連れられて京都へ行って参りました。まずに訪ねたのは京都駅に近い西本願寺です。京都駅を出るとすぐ左前方に大きなお寺が見えて来ました。それが西本願寺です。

 姉が話すには、実家が浄土真宗の西本願寺派で、ここがどうもその総本山らしいのです。そう思うとなんだか親戚を訪ねているみたいで、私もここのお寺はと他人ではないような気がして、親しみがわいて来ました。

まずは門の建物の大きなこと、頑丈なこと。さらに境内に足を踏み入れると仏殿の建物の大きさには驚かされます。高さはビルの十階建てぐらいはあるでしょうか。広さが、とてつもなく広いのです。

ずっしりと覆いかぶさる瓦の立派なこと、屋根の急な斜面を人が転げ落ちないで、よくも立派に取り付けたものだと感心します。末端が上に跳ね上がっている、あの形は独特ですよね。

厳格で、気品があって威圧感がある。昔の人は私達人間の心を良く読んでいるのですね。それだけに修行したのでしょうけれど、ただただ感心するばかりです。

あれだけの屋根をどうやって支えているのだろうと思ったら、柱がとてつもなく大きいのです。直径一メートルはあるでしょうか。そんな大きな柱を女性の髪の毛で編んだ縄で引っ張り上げたそうなんです。姉の話ですから、本当かどうか・・・・

中を拝観して畳に座ると、とてもひんやりして気持ちがいいのですよ。外の夏の日差しがまるで嘘みたい。とても心が落ち着きます。ご先祖様に守られて安心してここで過ごしている。そんな感じ。

できるならば寝転んでのんびりしたいと思ったのですけれど、次を見て回らなくてはなりませんしね。大勢来ている他のお客さんに迷惑は掛けられませんので仕方なく引き上げました。

次を見たのは金閣寺です。丁度金箔を貼り替えたばかりだそうで、まぶしいほどに輝いているのですよ。豪華、そのものです。でも歴史の重みが失われたようで、私が言うのもおかしいですけれど何か変。

教科書や絵葉書で見るほうがもっと美しいように思えました。歴史の積み重ねというのは大事なのですね。

それに池の水が濁っているのです。その点では熊本の水前寺公園の池の方が綺麗でした。あそこには丸々太ったおいしそうな鯉が何匹もいたでしょう。ああした清らかな水がないのが残念です。

私達はその後、銀閣寺の美しい庭を見て清水寺へ行きました。しかしね、その頃には私と姉がばててしまって、余りにもゆっくり歩くものですから

「由紀子ちゃん、どっちかと言うと京都の美しさはまだ分からないだろう」

  と、言うのです。もちろん、姉のご主人のことですけどね。

「いいえ、とても美しい所だと思います。とても楽しいです」

  私が言うと、

「そう無理しなくてもいいよ。京都の良さが分かるのは四十を過ぎてからだと思うから。今こうして歩いていることが思い出となって、再び京都へ来たくなるものなんだ」

 兄さんはそう言いました。

失礼しちゃうわよねえ。

「そんなことはないです。銀閣寺の庭の植木には感心しました」

 と、私が言うと

「そう、それは良かった」

と、まるっきり相手にしないのです。

 でも正直に言って、京都観光は私たちには早すぎるかも。嵐山の山と川はどこにでもある田舎の風景と同じに見えましたし、金閣寺の森や、清水寺の山も田舎の風景と同じ、それほど感動しませんでした。

 西島さんは、土手に咲くアザミがとても好きだと言っていましたから、もしかしたら京都の良さが分かるかもわかりませんね。

返事を書こうと思っても手紙は大阪へ出さないで下さい。私はもうすぐ鹿児島へ帰りますので。田舎へ帰ったら稲田さんと知覧の武家屋敷と特攻基地の跡を見に行こうかと話しております。もちろん西島さんも一緒です。是非とも連れて行って下さいね。

再び鹿児島でお会いできる日を楽しみにしております。

                              由紀子」 

 僕は手紙を受け取った。そして少しがっかりしたような、安心したような変な気分になった。由紀子さんは僕だけでなく、稲田とも文通していたのだ。

思い返してみると、それはごく当たり前のことで、

『自分ひとりだけが……』

 と、うぬぼれていた自分に思わず苦笑した。



    小説『就職試験』22     


 九月になって学校が始まった。休みが長く続くと学校に行くのが恐ろしいような気分で、何が特別にそうさせるのか……理由は分からなかったが、何かクラスのみんなに悪いことをしているようで不安だった。

 ただそれは、学校が嫌いと言うほどでもなく、だらけた夏休みの生活から抜け出すのがなんとなく面倒くさい。そんな感じだった。

祖母はそんな僕を見て

「そんなに嫌だったら学校を辞めれば」

と言った。

馬鹿馬鹿しい。そんなことで学校を辞めてたまるかと思いながらしぶしぶ学校に行くと、クラスの何人かが話しかけて来た。それは特別に意味の無い会話であったが、一人か二人と会って話を交わしただけで、臆病な気分はすっかり忘れていた。

窓の外を見る限り3方の山々の緑には目立った変化はない。ただ校庭の桜は夏の乾燥に根負けしたようすで、葉焼けした感じだった。

始業式が始まったその日、稲田に由紀子さんのことを聞こうと思ったが、彼は就職試験があるとのことで、その日の午後には北九州へ旅立って行った。

 その会社はドラム缶を製造する会社で、業界のトップ企業であるらしかったが、背丈がクラスで二番目に高く、短距離競走では校内でトップの稲田にしては可哀そうな気がした。成績もトップで生徒会の重要な役員でもあったのだ。

 しかし、稲田は最初に受けた試験の面接に失敗しているだけに、何も不平を言わず笑っていた。規模としては東証第二部に登場されている会社だから、それほど悪くないとは思うのだが、それほどに体格や才能という点では、僕なりに考えてももったいない気がしてならなかった。

「そんな会社よりは、もっと有名な会社を先生にお願いして見たら」

 と、僕は心に思ったが、そんなことをいえる立場ではないし、まして稲田は先生に逆らうような人物ではなかった。

 一日姿を見せなかった稲田の席に、再び本人が現れたとき

「採用されることに決まったよ」

 と、稲田はうれしそうにそう言った。

 それは稲田の能力からすればごく当たり前のことなのだが、その決断の早さと獲物をしとめる確かさには驚くばかりである。そうなると、次の試験先が決まらない自分にあせりの気持ちが生じていた。

「次の日曜日、由紀子さんをこの知覧に招待することに決めたから」

   と、稲田は言った。

 待ち合わせ場所が加世田のバスターミナルで、時間が10時と告げられたとき、僕は見分不相応な、犯してはならない罪の領域に足を踏み入れたようで、不安が込み上げてきた。まだ、僕の就職先はまだ決まっていないのである。

『このままうぬぼれて遊んでいては、生涯、就職先が見つからないのではないか』

 そう思うと、楽しいはずの次の日曜日が憂鬱に思えてならなかった。

 しかし、逆にそれは、由紀子さんに対しては対等で、同じ距離を置く友人であることを認められたようでうれしくもあった。



   小説 『就職試験』 23


 次の日曜日は良い天気に恵まれた。阿多駅で稲田と会って、加世田のバスターミナルに到着するまではまだ憂鬱な気分が残っていたが、彼女と合ってその笑顔を見た瞬間、そのことはすっかり忘れていた。三人は大阪へ旅行したそのままの姿に戻ることができたのである。

  知覧へ向かう途中の万之瀬川にこせの滝があったことや、川辺町に鹿児島にしては広い水田地帯があって、仏壇の生産地として全国的にしられていること、そこから更に百メートル上った高台の盆地が知覧町であることも、そして、学校まで行くのに要する五十分ディーゼル列車通学の道のりが、大して苦痛な時間でもなかったことを、彼女と乗り合わせて改めて思い知らされた。

  彼女と一緒にいると、何もかもが新鮮で、ごく当たり前なことが異なった感覚で楽しく映るのである。

「あれが僕達の学校なんだ」

  稲田は知覧町に入って僕達の学校が近づいた時、四階建ての建物を指して言った。

「へえー、なかなか近代的なのね」

 由紀子さんは学校を取り囲む道路に面して、くの字型に曲がった建物を見て言った。

教室に日光が直接差し込まないように、窓枠を格子状に飛び出させた構造で、生徒がふざけて落ちないように、ベランダのないモダンな外観が僕達の学校だった。

   それは人口二万人ほどの小規模町で、地方の農村の中にある学校としては不釣合いな大きな建物だった。中心地の商店街を除けば、田んぼや、畑や、森林に埋もれた山村に過ぎない。この盆地の町には高い建物は似合わないのである。

  観光案内書で紹介されていて、小京都として全国的に知られるようになったとはいえ、知覧町はただの田舎町だった。

「あの校舎はね、僕達の学校の建築科の先生が設計したらしいんだよ」

 稲田は自慢げにいった。

「へえー、すごいわねえ。高校の先生でもそんなことができるのねえ」

「うん、」

 そう話している間に、バスは商店街を通り過ぎて終点に近づいた。僕達は知覧町役場前で下車した。

  知覧町の武家屋敷はそこから五分の距離だった。入り口のバス通りは観光の町にふさわしく、それは田舎の僕達にいわせれば無駄な費用で、見せ掛け、わざとらしいのだが・・・ただ、この町を通り過ぎただけで、観光スポットがありそうで立ち寄らざるを得ないような・・案内板の役目を果たして、散策道路が人目を引いた。

最近になって、観光町として良く整備されていた。庭木のように剪定されたイヌマキの並木が、盗み心を誘うように目に付いた。それは三・四メートルの若木に過ぎないイヌマキの街路樹だが、枝の先々と頂上に、きのこの傘のようなふんわりと丸く盛り上がった葉冠を付けた並木である。

「へえー、かわいいじゃない」

「そおー」

 僕と稲田は笑いながら顔を見合わせた。

 彼女が笑ったのは伝統のある加世田市の武家屋敷なら二百年を越える庭木はざらで、高さは十メートルにもなるのもあるし、横の広がりに至っては4~5メートルになるほど大きいからである。由紀子さんの家も古い加世田の武家屋敷の一つと聞いていたから、そうした老木があるのだろう。

 ここにあるのは、十五年ほどの若木なのだ。

「じゃあ、由紀子さんの家にはもっと大きなイヌマキの木があるんだ」

「うん、どちらかといえばそうなの」

「へえー」

 イヌマキは鹿児島の庭木の基本で、金閣寺や銀閣寺が松を主体とした庭なのに対し大きく違うのだ。ただ銀閣寺には生垣として利用されていた記憶がある。

「さあ、早く行きましょう」 

 僕達は川を渡って武家屋敷の方へと歩いて行った。

  そこは道幅五・六メートルほどで、長さが二百メートルは続く直線の道路だった。直線の両側に武家屋敷が整然と並んでいる。道路に面して塀はないが、基礎を一メートルほどの高さの黒い苔で覆われた石垣で囲い、その上を道路に面した武家屋敷の中が透けて見えないほど・・・密になった箱のようなイヌマキの生垣が道路を仕切っていた。

   幅七十センチメートルほどの花崗岩を石切り場から運んできて積み上げたような、整然としたイヌマキの生垣であった。高さ二・三メートルほどの緑が、この道路の両側に、切り立っているのである。

「由紀子さんの家もこんな風に、イヌマキで囲んでいるわけ」

  彼女のそばに立って歩いている稲田が聞いた。

「そうね。同じね。鹿児島の武家屋敷はどこも同じじゃないの。加世田の方は用水路の細い川の片側だけが武家屋敷だけど・・知覧町は両側に屋敷が続いているから迫力があるわね」

   彼女は淡々と言った。

 僕達三人が屋敷の木造の門を通って中へ入ろうとすると

「入場券を買ってください」

   と言われた。

「えっ、お金が掛かるんですか」

  僕と稲田は田舎育ちの感覚で、一般家庭を見学するのにお金が掛かるのかと驚いて笑ったが、彼女はすぐ財布を取り出した。

「いくらですか」

「七百円です」

「毎回払うのでしょうか」

「いいえ、この共通入場券があれば、二十軒の武家屋敷を全部見て回れますからね、安いものですよ」

「京都のお寺では、毎回今みたいに金を払わされたわよ。当然じゃない」

「そう言えば、そうかもね」

  僕と稲田もお金を払って入場券を受け取った。

「ほおっ、なるほど」

 中に入って驚いたことは、そこはわずか百坪ほどの敷地に瓦葺の平屋建があるのだが、いままで見たことのない洗練された庭が広がっていた。盆栽造りの技術を持って工夫を重ねたような庭だった

家造りは鹿児島で普通に見られる灰色の風化した板壁の民家であったが、百坪ほどの庭が雪舟の山水画のように、山岳を思わせる造りになっているのである。銀閣寺の庭がここに凝縮されたようで、狭いだけにこちらがまとまりが良い。

 外から見た生垣は背景の山並の形に、岩山を見上げる裾野には大きな溶岩や川石を配置し、岩の間に皐月を主体とした植え込みが念入りに配置されていた。

 黒や灰色の溶岩は、桜島や薩摩半島最南端の開聞岳ふもとに行けば簡単に得られるはずであったが、それは切り立った岩山を思い出させ、青黒い石や緑色の川石は樹木の茂る谷川を思い出させる。

  サツキが岩の割れ目にあって、灰色の土の部分には朽ちた幹を持つ梅が植えられ、ぴかぴかに磨かれたサルスベリは真っ赤な花を咲かせている。

   様々な緑の樹木が狭い庭を覆っているが、鹿児島に多い常緑樹は松だけで、他が少ないのは庭を明るく広く見せるためらしい。

 バス通りにあった形と同じイヌマキは、ここの庭では二百年を超える老木で、苦難の風雪に耐えて生きてきたような様々な形に枝分かれし、庭石で表現した岩山や谷に向かってしなっている。それはいかにも年月の重みに耐えて生きているような姿であった。

「不思議ね。京都の金閣寺や銀閣寺はそれなりに良かったはずなのに、あっちの庭よりは、よほどこっちの庭の方がうまくできているわね」

  彼女は言った。

「そおなの。僕なんか熊本の水前寺公園の方がよっぽどきれいだったと思うけど」

「うううん、水前寺公園は芝生が植えられていて西洋的な部分があるのだけれど、京都の山々と、様々なお寺の庭がこの小さな知覧の庭に集約された感じ」

「ふうーん、そんなものなんだ」

  僕達二人は顔を見合わせた。

 


    小説『就職試験』 24


 僕達はそうした知覧町の武家屋敷を何軒も見て回った。庭の広さは似たり寄ったりでそう大差はない。しかし、それぞれに各家の考えがあって個性がある。

 庭石をふんだんに使っている家もあれば、まったく使わない家もある。石にしたっては、川石だけを使っている家もあれば、火山から噴出された溶岩だけを使っている家もあった。

 ただ一般的に言えることは、ごく一般的な家庭の庭の広さで、極限に近い京都の庭園の世界を再現している。それを彼女に言わせれば、

『京都にまねのできない美しさ』だということだった。

京都のお寺の庭は一般家庭ではほとんど応用できないが、知覧の武家屋敷の庭は百坪余りで、そっくり真似ようと思えばそれが可能なのである。当然狭い庭には草花は似合わず少なかったし、池はあったとしても、ほんのわずかで水溜り程度の広さだった。

そうした武家屋敷を十軒ほど回り、三人とも汗ばんで疲れを感じ始めた頃、休憩してジュースでも飲もうかと言うことになった。

 その一角にしては珍しく茅葺の家があった。

「あら、懐かしい茶店ねえー。ここで休憩しましょうか」

「うん、そうしようか」

「茅葺の家って情緒があっていいわねえ。私大好き」

 彼女は心からそう思っている様子であったが

「貧乏くさくていやだよ」

  僕はそう言った。

実のところ、その家は誰かの家に似ていた。母と祖母だけでは瓦に葺き替えしたくても思うようにできない。古びた家は外見以上に茅の葺き替えに金がかかるし、台風の襲来でもあれば倒壊しないかと心配でたまらない。 

半世紀前の時代に取り残された、周りの武家屋敷の裕福な家から除け者にきれたような貧乏な家だった。

 その家は門もなく、庭らしい植木もなかった。当然、中の様子が外からでも見えるのである。しかし、そうした家も、観光町としての特徴をうまく取り入れていた。

庭に台のようになった長い腰掛を幾つか並べ、上に赤い布をかぶせただけで、赤い番傘の日よけと共に、武家屋敷の一角として江戸時代のような古い家並みの役割を担っていた。

簡易腰掛けの長いすと縁側があるだけの茶店だったが、店に何組かの客がお茶を飲んでいる。

「悪くないみたいだよ」

  稲田言った。

 僕達はそれぞれにジュースを注文して受け取ると、軒下の縁側に座ることになった。その店はみやげもの屋になっているので、水あめとか、おこし、砂糖菓子など・・昔なつかしい駄菓子も売っていた。

「ねえ、中は以外に涼しいでしょう。冬は冬でとても暖かいのですってよ」

 彼女は言った。

「確かにそう聞いたことがあるけど……」

 僕はそれ以上に何も言えなかった。彼女は貧乏と言う言葉など知らないで育っているようだ。こうした家の事情を知らず、無邪気にはしゃいでいるようすを見ていると、自分も金持ちになったような気分になった。

 稲田はジュースを飲んで腹を冷やしたらしく、トイレに行くといって席を立った。僕達は黙ってただ何となく外の通りを歩く人々を眺めていた。この家には庭木らしいものは何一つない。武家屋敷を見学に来た観光客がぞろぞろ歩いてゆく姿が良く見える。

「西島さんは近くの学校へ通っているのだから、ここへは良く来るのでしょう」

 由紀子さんは、ただ黙っていることに気を使ったのか、当たり障りのない話を持ち掛けた。

「ぼ、僕は初めてだよ。学校が同じ町にあっても遠いしね。それに通学する方向とは反対側だから・・・」

「そう言えば、そうよね。近くにあっても、なかなか来ないものよね。いつでも行けるとなると、なおさらよね」

「そうそう」

 実際のところ、自分としても近くにあった武家屋敷の観光客の多さに驚いていた。この人の多さに、改めてその貴重価値を思い知らされる。

「こう見ると、夏に咲いている木の花ってなかなかないわね」

「そうだね。さっき見たサルスベリの花ぐらいかな」

「そうねえ、ムクゲもあるけどここには無いわねえ。どんな花が咲くか知っている?」

「分からない。どんな花だろう」

「一見、見た感じはアサガオみたいな花なのよ。夏の間、次々と花を咲かせる木なの」

「アサガオ?ああー分かった。ハイビカスのような形をした紫色の」

「そうそう」

「あれはね、僕の家の近くでは、畑の境の目印に植えてあるんだよ。花がきれいだから折って持って帰ろうとしたけれど、皮が丈夫でなかなか折れなかった」

「あら、私も同じことをしたことがあるわ。そうなのよねえ。折って持ち帰りたいけれど、皮が切れなくてなかなか千切れないのよね。あれは花が1日咲いて終わりだから、本当は切花には向かないのよ」

「あっ、そうなんだ」

「それに……あっ、思い出した。キョウチクトウがあるわよ。バスの停留所に咲いていた」

「あっ、そうだ。あれは夏の間ずっと咲いている。でも毒があるらしいよ」

「私もそう聞いたことがある。ピンク色できれいなのに信じられないわねえ」

「そうだね」

 夏の空は青かった。白い入道雲が幾つか浮かんでいて、北西の方向へゆっくりと流れている。しかし、雨を降らせるほどの大きさではなかった。

 二人は同じ雲の流れを見詰めていた。白い入道雲が、もくもくとひときわ明るく輝いて、さらに天に向かっている姿は、社会人になろうとしている二人に何か勇気を与えるような気がした。

「ねえ」

  と、由紀子さんは言った。

「うん、何」

「あなたは再びまた都会の会社の就職試験を受けるつもりなの」

「えっ、どうして」

 それは意外な質問だった。僕にとっては当たり前のことである大都会への就職試験を、どうして彼女がそれほど関心を示すのか信じられなかった。

「もしかしてよ・・・あなたさえ良かったらの話だけど・・・・」

「うん」

「実はあなたにね。父の店を手伝ってもらえないかと考えているのよ・・・父にも話したのだけど・・・『由紀子が見込んだ男だったら間違いないだろう・・・』って」

「えっ、まさか、僕が・・・・?・・・冗談だろ」

「きっとそう思うでしょうね。何しろいきなりですもの。でも本当なのよ。冗談抜きで真剣に考えてもらいたいの。父に話したら給料もできるだけ多くするそうよ。あなたなら明るい性格だし、人当たりもいいし、客商売に向いていると思うわ」

「僕が?」

「ええ、そうよ。この間大阪へ旅行したとき、つくづくそう・・思ったの。この人だったら商売が上手だろうな・・・って。他の人とはまるで違っている」

「僕はそんなんじゃない。性格は暗いし・・・人見知りはする。他人と話すのがとても苦手なんだ。客商売なんて向いていない」

「ううん、そうじゃないわよ。とても上手よ。大阪へ旅したときに、とても楽しく話していたじゃない。物に対する美意識や価値観が他の人とは違っていると思う。客商売はある程度、センスがないとだめなのよ」

「そうかな」

「絶対にそうよ。隣のおばさんともうまく話していたんじゃない。私はあなたとならばうまくやって行けそうな気がするの。私が自由に明るく振舞えたのは、あなたたちと旅行したときが始めてよ」

「そうかな」

「そうよ。田舎の仕事も悪くないと思うわよ。私のところで働くのは絶対にいやかしら・・・」

「そうだねえ、今まで考えたことがないし・・・・」

  彼女の話は唐突で話の段階であったとしても、悪い話ではなかった。もし田舎で暮らす気持ちがあるならば、望まれて就職するのだから幸せな話である。

しかも、もしかしたら・・彼女と結婚して婿養子になれれば、ある程度の貧しさから開放されるかも分からない。

でもそれは全く虫のいい話で、空想論に過ぎない。確かに今の彼女と父の考えはそうでも、店の経営が思わしくなければ・・捨てられるかもわからない。

それに僕は彼女が期待するほどの万全の人間ではないのだ。就職試験に落とされるほどの人間なのだ。

彼女の熱が冷めてその事実を知ったとき、彼女がどれほど落胆するか分からない。彼女はそれだけに完璧で、とても自慢できない僕に彼女が束縛される理由は見当たらないのだった。

僕は改めて舞い上がった空想を捨てた。

「僕はやはり都会へ出て就職することになると思う。申し訳ないけれど」

「そう、残念だわ。でもまだ急いで結論を出す必要はないと思うわよ。次の日曜日、加世田駅前の喫茶店『都会っ子』で会えないかしら。一緒になって話し合いしましょうよ。きっと、なにかいい解決策がありそうな気がするわ」

「ううん、でも」

「午後一時にどうかしら。その時、来てくれる気持ちがあったときの話しでいいから。もし来てくれなかったら、この話はなかったことだと思ってあきらめるわ」

「わかった」

「ごめんなさいね。無理な話だとは分かっていても、とにかく話だけはしてみたいと思ったの」

「ううん、そんなことはない。でも余り期待しないでほしいんだ。僕は都会へ出て働きたいと思っているから」

「うん、分かっているわ。いろいろとごめんなさいね」

  それからしばらく沈黙が流れた。一方は期待したものを失ったむなしい敗北感のような罪の意識が、僕のほうは恥をしのんで相談を持ちかけているにも拘らず・・・彼女の願いを・・聞き届けてやれない罪の意識が口を閉ざした。

 


   小説『就職試験』 25


「おーい。お前、西島じゃないか。お前はそこで何をしているんだよ」

 急に大きな声が茶店に響いた。

それは二人だけの話に気を取られていて・・夢のような未来の姿を描いていた自分達の空想の世界で、突然沸きあがった雷鳴のような響きだった。ここの茶店にいた全員に対する呼びかけのようにも聞こえる。

周りを見回すと、そこに稲田がいないことに気付いた。おぼろげに声の方向に目を向けると、泥で汚れた運動服を着た野球部の連中が前の道路をグランドへ向かって走って行く姿が見える。

そう言えばこの先に野球部のグランドがあったのだ。大きな運動部の掛け声と共に足音が響いて、目の前を走り過ぎて行った。さらに何人かが遅れて走って行く。僕がきょろきょろして見回していると

「俺だよ、俺」

刈り込まれた低い竹笹の垣根の上から、上半身をのぞかせて、一人だけ運動部の連中から離れて近づいて来る山口の姿が見えた。それは間違いなく僕の名前を呼ぶ・・クラスで一番騒がしい男の姿だった。

「おまえ、休みにこんな所でデイトかよ? まったくいいもんだよな。こんなおとなしい顔をして、まったく罪におけないやつだよ」

 山口は僕に顔を近付けると、どんなことをしても冷やかさずにはいられない感じで・・笑いながら更に目を大きく見開いて大袈裟に驚いて見せた。

「学校のお友達?」

「うん、野球部の山口なんだ。キャプテンをしているんだよ」

  由紀子さんは、日焼けして目がギラギラ光るグロテスクな山口の顔に気後れせず、人懐っこい表情で言った。

「僕は山口と言います。よろしくお願いします」

 どうしたのか、山口は急におとなしくなって、何回も由紀子さんに頭を下げた。帽子まで脱いでいる。

「私は桜木由紀子と言います。よろしくお願いします」

 彼女は縁側から降りると、ていねいに頭を下げた。

「へえー、すごい美人じゃないか。おまえ、どうやってこんな良い女を捕まえたんだよ」

 山口はにやにやしながら、自分がここにいることに恥ずかしくなった様子で、冷や汗をかいている。確かに彼は僕たちにとってお邪魔虫の存在なのだ。

「大阪へ就職試験に行った時に、同じ列車に乗り合わせた人なんだ」

 僕は言った。

「そうなのです。今日はね、私が無理にお願いして、ここへ連れて来ていただいたのよ。前から、知覧の武家屋敷を見に行きたいと思っていたものですから」

「ふうーん。それで二人でデイトだったのですか。何でしたら僕が知覧を案内しますよ、僕は地元の人間ですからね、こいつよりはずっとこの付近のことに詳しいですよ、由紀子さん」

 どうも、山口は由紀子さんのことが気に入った様子だった。

「ふふふふ……ご遠慮致しておきますわ、山口さん。西島さんと、稲田さんと、山口さんの三人で案内していただいたら、申し訳ないですもの」

「ええっ、稲田も一緒だったのかよ。そうだったら、そうだと、それを早く言えよ、西島」

 山口は少しあわてた様子だった。

「ああ、稲田はもうすぐに帰ってくると思うけれど」

  僕と山口がそちらへ目を向けると稲田が出てきた。

「おーい、山口。俺がどうしたんだって」

  稲田はハンカチで手を拭きながら言った。

「西島一人じゃ心配だからさ、俺が用心棒代わりに見張りをしていたんだよ」

「それよりも、おまえ、グランドに行かなくても良いのか」

  稲田は山口の弁解を一言で切り返した。僕と彼女は二人の会話を笑いながら聞いている。

「そうだ、そうだ、そうだった。おれはこんな所でてめえらみたいに遊んでいられないんだ。二年の連中は俺が眼を離すとな、すぐサボっちまうんだよ。あいつらはな、とっちめてやらないと上達しないんだ。悪いけと俺は急いでいるからさ。じゃあ、またな、西島」

 山口はあわてて、野球部員を追いかけるようにグランドの方へ走って行った。


 次の日曜日は天気が良かった。差しあたって農閑期で家の手伝いをする必要もなかったし、集落の行事もなかったので加世田に行けない理由は何一つない。

しかし、最後の最後まで迷った末の結論が、行かないほうが彼女を傷つけずに済むのではないかということだった。結局、自分は面と向かって彼女の誘いを断る勇気もなければ、都会へ出て大きな会社に勤めることもできないのである。

 知覧町の武家屋敷の会話をたどれば、すでに結論は出ている。今更、加世田へ出掛けて再び断るのも変な話であったし、卑怯な自分の言い訳からすれば、貧乏な自分が喫茶店で飲み食いする贅沢と、時間がもったいないはずだった。

彼女が望んでいる以上、日曜日に出かけて、彼女と会って正式に断らなければ彼女を傷つけてしまうのかもわからない。こうした優柔不断な行動と、身勝手な思い込みが、他人からすれば自分の見えない影の顔として、今後出会う様々な人々に、悪影響を及ぼすかもわからない。

それは確かにそのとおりに思えて、今後出会う様々な人々に直感的な警戒心を相手に植え付けるような感じがする。

それは自分の心の内面に残る不安な迷いから、相手も相互的に不安を感じる結果になるだけかも分からなかったが、貧乏な自分にとっては冷静な対応に思えたし、そうすべきことが今の自分に与えられた義務のようにも思えた。

そうした心の変化が、地球上のどこかに記録されるような感じもするが、今はなぜか、そんなことよりも、都会での就職を決めることが先決のように思える。

 


      小説『就職試験』 26

                       

 十月になると、四十八人のクラスの中で、就職先が決まらないのは二人だけになった。僕以外の一人は、都会の就職を希望していたが・・先生からは学校に残って技能訓練の教員見習として、残るように言われていた。

 これはあくまでも僕の想像だが、その生徒は学校の策略として、わざと就職試験に落ちるように・・学校から相手の会社へ頼まれたのかも分からない。僕にすれば、それほど試験に落ちる理由が見当たらないのだった。

 それを考えると、僕一人だけが就職が決まらないことになる。母も祖母も面と向かってそのことについては何も言わなかったが、落ちこぼれの息子を持ったことにかなり打撃を受けている様子だった。

 世間では

「小学校のときに、病気で一年間休んだことが原因ではないか」

  と、言っていたし、体形が少しゆがんでいることに原因があるとも言っていた。

「そんなことは最初から分かっていたんだから、高校へ出す必要もなかったのではないか」

中にはわざとらしく親切な振りをして、今更どうにもならない過去の病気の災いに同情する口実を見つけては、私たちの不幸を楽しむかのようなアドバイスを並べ立てる人もいた。そうした余計な介入が母や祖母を苦しませた。

それは無責任な世間話にも思えたが、高校進学が一般的でなかったその当時では、我が子を高校進学させなかった負い目として、進学だけが就職先の優劣を決める手段でないことを、子供たちに見せ付けたかったのだった。

だそんなことは、僕にとっても母にとっても・・どうでも良い話であったが、就職先が決まらないことは深刻な問題であった。こうした事態は今に限ったことではなく、生涯続くようにも思えたる。

このままでは、いつまで経っても仕事が見つからず、自力で生活できないのならば、死ねと宣告されたのと同じである。実際、母や祖母さえいなければ死んでも良いほどで、海や川や、林に行って死ぬ自分の姿を想像したりした。

歯医者で合った和田清子は

「役場か農協に勤めればいいじゃないの」

  と、言ったが、僕はそんな簡単な気持ちで就職先を決める気持ちにはなれなかった。都会での就職が僕のすべてである。


 そうした十一月の半ば、機械設計の授業中に変な質問があった。月は円盤か、球形か、真四角か、三角か・・・・という・・・馬鹿げた質問であった。

僕たちはそんな小学生でも分かる質問を、なぜ機械設計の内田先生が質問するのか首をかしげたが、質問する先生は至って真剣で、黒板に四つの図形を書いて真剣に考えるように促した。

「先生、それは球形に決まっています」

  ほぼ全員がそう答えたが、先生は

「本当にそうか、もう一度真剣に考えて見なさい」

  と、言った。

  僕たちはもう一度真剣に考えたが、結論は皆分かり切っていた。

「でも、先生、それでも球形に決まっています」

  ギョロ目の山口が言った。

「じゃあ、君は、実際月に行って調べたことがあるのかね」

 先生はむすっとした表情で、怒ったように言う。

「いいえ、そんなことはありません」

「そしたら、君が思っている考えは想像だけで、実際は円盤や四角の可能性だってあるということではないか」

「はい、でも・・・・」

  山口は先生の威圧に押されて自信なさそうに答える。

「じゅあ、四つあると分かりにくいから、的を二つに絞り込もうじゃないか。四つの内、二つを外すとしたらどれにする? 宮下」

  クラス委員の宮下は、指名されたことに顔を曇らせたが

「外すとしたら四角と三角です」

  と、答えた。

「どうしてだ」

「実際、満月の月を見ると、円盤か球形にしか見えないからです。少なくとも四角や三角の形には見えません」

「その通りだ」

 先生は初めて笑顔を見せてうなずいた。

僕たちは先生の笑顔が戻ったことに安心しながらも、改めて先生がこの問題を真剣に考えていることを知った。

「それでは・・・月が四角でも三角でもないという考えに賛成の人、手を上げなさい」

先生が言うと全員が

「はーい」

 と言って、全員が手をあげた。

「じゃあこれで二つを外すことは決まりだ。残りは円盤か球形か・・・ということになるよな。先生は円盤だと思うが、君達はどう思う」

  先生は再びおかしなことを言った。

「はーい、僕も円盤だと思います」

  今度は井上が平然と、皆をあざけるように薄笑いを浮かべて言った。

「えっ、なんだよ。てめえは先生の機嫌を取りやがってよ」

 クラスの何人かは面と向かって、先生の前で井上をにらみつけた。職員室に頻繁に出入りしているスパイのことだから、なぜかわざとらしい・・偽りの答えに思えるのである。

「おお、君は勇気があるな。実際、僕は思うのだが、満月の月を見ていると円盤にしか見えないよな」

「はい。その通りです」

「じゃあ、山口はどう思う」

「僕も円盤だと思います。実際、球形には見えません」

 山口は、きっぱりと言った。

「えっ」

 クラスの皆が驚いたが、山口は周りの人間のことなど意識しないで、きっぱりと言った。 そう言えば、子供の頃の僕たちは・・・月は円盤だと思っていたではないか。僕はふと、そんなことを思ったりした。

「西島、お前はどう思う?」

 先生は僕を指名した。

 僕は何か策略がありそうで嫌な予感がしたが、正しい答えは一つしかないと思い

「球形だと思います」

 と言った。

「おかしいじゃないか。君は、晴れた満月に輝く月が円盤に見えないのかね」

「はい、そう見えなくはないですが、月には重力があって、球形の形をしているはずです」

 僕は今まで学んだ知識を振り絞って答えた。

「生意気なことを言うな」

 内田先生は怒ったように言った。

「先生、訂正します。僕も円盤のほうに賛成します」

  クラス委員の宮下が言った。

「えっ」

  何人かは驚いたが、その頃は大多数が円盤の考えに傾いていた。

「それではもう一度聞く。月の形が球形だと思う人は手を上げなさい」

  先生が言った。 

  今度は手を上げた人は僕だけになった。

「西島、お前は何を考えているんだよ。月は円盤に決まっているじゃないか」

  井上が僕を見て言った。

「そうだよ、西島。先生が円盤だと言っているんだから、それでいいじゃないか」

  山口が『いい加減に折れろよ』と、目で合図しながら言った。

  僕は宮下の顔を見る。宮下は首を横に振った。周りを見ると批判の目が僕に集中しているようすだった。周りの生徒は

『先生に逆らってはいけないよ』

  と、言っているようにも思える。

「じゃあ、最後にもう一度聞こうじゃないか。西島、月は円盤か・・球形かどっちだ」

  先生はもう一度僕に質問した。

「僕は、それでも球形だと思います」

  僕は申し訳ないと思ったが、正しい答えは一つしかないと思い、そう答えた。

クラスの生徒のため息が聞こえたかのようだった。

「君は最後の最後まで、先生に逆らうのだな。分かった。この話はこれで終わりだ。教科書の百五十ページを開きなさい」

  先生は怒ったように僕をにらみつけると、授業を始めた。



   小説 『就職試験』 27


  その日の昼食時間が終わって、授業が始まる前の出来事だった。機械設計の先生が教室に来て

「西島よ、井上はいるか」

  と、僕に聞いた。

「いいえ」

僕はさっきの授業の仕返しに、何か言われるのではないかと恐れたが、内田先生はそんなことには気も触れず

「じゃあ、悪いけどな。井上を探し出して職員室に来るように言ってくれないか」

と、言った。

「はい。分かりました」

  僕は喜んで先生の頼みを引き受けた。そうした先生の頼みは、さっきの授業のわだかまりを解消してくれたようでうれしかった。

「もしかして、井上は隣の教室にいるかもわからないよ」

  と、先生が言ったので、行ってみると、案の定・・井上がいて、僕は先生の用件を伝えた。

井上は意外な様子だったが

「うん、分かった」

  と言って職員室の方向へ向かった。


  昼食後の授業は先生が現れず、なかなか授業が始まらなかった。でもほとんどの生徒にすれば就職先が決まったこともあって、自習は願ってもないことだった。誰もが好き勝手な雑談に夢中になっている。

  僕は先生と井上が何か真剣な話をしているのではないかと考えたりもしたが、それほど気に留めることではなかった。

  やがて井上が教室に帰ってきた。

「みんなに、しばらく自習するようにだって」

  井上は言った。

「先生たちは何か話をしているのか」

  山口が心配して言った。彼は授業が始まらないことが・・分けありに思えて気掛かりらしい。

「いや、そんなことはないよ。二・三の求人の追加が来たらしくて、今後その会社についてどう対応するか話している。景気が良くなって、会社が求人を増やすようになったらしい。

もしかしたら・・・・すでに決まっている生徒の何人かは・・就職先が変わるかもわからない。そんな話だった・・・それから西島よ」

「うん、何」

「何じゃないよ。職員室にすぐ来るようにだって」

  井上は冷たく僕に向かっていった。井上は世間知らずで鈍感な僕に腹が立っている様子だった。

「僕に?」

「うん、そうだよ」

「何の用だろう」

  ぼくはその時、自分だけが就職先が決まらないことを忘れていた。

「もしかしたら・・さっきの変な『月』の質問の仕返しじゃないか」

  誰かが僕を脅すように言った。あれほど先生に逆らったのだから、みんなは僕に何らかの仕返しがあるはずだと思っている。

僕はさっきの機械設計の先生の様子からして、そんなことはないと思った。

 職員室に行くと、機械科授業の先生は全員が揃っていた。重苦しい雰囲気だった。一番怖い目を向けたのは、やはり機械設計の内田先生で、その目付きは、先生がまださっきの授業の態度を許しいてない証拠に思えた。

  しかし内田先生はそのことに何も触れないで、不気味に黙っていた。

「西島、君が就職試験に二回も落ちたことは、学校としても理解できないのだが、やはり、小学校の時に、病気で一年間休学したことが原因らしいのだ」

  教室の担任の中山先生が話を切り出した。そう言えば、僕の担任は中山生だったのだ。担当が機械材料という金属の性質など地味で分かりにくい内容で、しかも先生はおとなしく、機械科内においても影の薄い存在だった。

「はい」

「それでな、他の先生達とも話し合ったのだが、君は田舎にとどまって、親元で就職した方がいいと思うのだが、どうだろう」

 中山先生は僕の身を案ずるかのように言った。

「でも、僕は都会へ出で働きたいのです」

「そんなわがままを言っても通らないだろ。試験が難しいことは君が一番知っているじゃないか」

 横から機械設計の内田先生が強い口調で言った。『わがまま』と言われたことに何か僕は冷たさを感じたがが、そんなことは初めから分かりきったことで、先生は授業の仕返しをしたかったのだろう・・・・と思った。

「田舎の知り合いに、農協や役場の知り合いはいないかね」

  内田先生は僕を問い詰めるように言った。

「おりません」

「そんなことはないだろう。一人や二人はいるはずだ」

  内田先生は、僕の内情を無視して強引な口調で言った。

  残念ながらそうした知り合いは思い浮かばないのだった。それに・・・そんなことに妥協しては、今までの高校進学の意味がないではないか。

田舎で働きたくはない。都会へ出て働きたい。僕はこんなに追い詰められていても、そうした考えは頭から離れなかった。

「君は都会へ出て働けるのだったら、どんな小さな会社でもいいのかね」

  内田先生は怒ったように言った。

「はい」

「学校としたら悪い会社だと分かっていながら、君の就職を斡旋することは出来ないのだぞ。快適な職場であるとは言いがたいし、就職して二・三年でつぶれる会社かも分からない。給料も安いと思うのだ。」

  先生は改めて考え直すよう言った。

「それでもかまいません」

  僕にとっては、都会に就職することだけが目的で、貧しい家庭の事情を無視して進学したのだった。就職先の内容などどうでも良かった。

「君がそれほどまで言うのだったら、僕が都会へ出て求職活動をした際、見つけた会社があるのだ。五十人規模の小さな会社で、町工場みたいなところだがね」

  担任の中山先生は申し訳なさそうに言った。その会社は中山先生が大阪に生徒の求職活動で探していたときに、偶然新聞で見た・・新聞の求人広告から探し出した会社らしかった。

そうした会社は学校とすれば前例のない小さな会社で、学校としても薦められない会社らしかった。先生はそうした会社に就職の依頼を頼んであったものの、今まで切り出せずに来たらしい。

「僕はそこでもかまいません」

  僕はやっと明るい日差しが見えたような感じがして。死ななくて済むような感じがした。五十人ほどの規模であるならば、僕にとっては上出来である。

「本当に後悔しないか」

  中山先生は心配そうに僕の目を見て・・悲しそうに言った。

「はい」

「汚くて、設備の悪い会社かも分からないのだぞ」

  今度は機械設計の内田先生が言った。

  僕は何を今更・・・・と先生に対して考えたりもしたが

「かまいません。大丈夫です」

  と、僕は言った。

「安田先生、本人がこう言っているのですが、どうしましょうか」

  中山生は、奥で黙って聞いていた機械科部室の責任者である安田先生に、改めて意見を求めた。

「本人がそこまで言っているのだったら。仕方がないだろ。君は本当に後悔しないのだろうね」

  安田先生は、例のステンレス製のメガネの奥に冷たい視線を光らせて言った。

「はい」

「じゃあ、決まりだ」

  安田先生は言った。

「そしたら、ここにその会社のパンフレットと願書、履歴書があるから、それに記入して明日持ってきなさい。こちらから就職願いを出せば、必ず採用通知が送ってくるはずだから、君の就職先はこれで決まったようなものだ」

  担任の中山先生は言った。

「はい、ありがとうございます」

ほっとして、僕は深々と頭を下げた。今ならば、どんなに小さな会社でも、就職先が決まったことがうれしくて飛び上がりたいほどで、感謝をしても感謝し切れない気分だった。

「まあ、本人がそれで納得しているのだったら、それでいいじゃないですか」

  内田先生は初めて笑顔を浮かべながら安田先生を見て言った。

「ああ」

  安田先生も、担任の先生も皮肉な笑いを浮かべながらうなずいた。


 

      小説『就職試験』 28


  その日の授業が終わって帰宅の支度をしている最中に、井上が話し掛けてきた。

「就職先が決まったんだって」

「うん」

  僕は井上に対してそっけなく言ったが、それでも内心はうれしかった。井上はなぜか僕の職員室での会話を知っている様子だった。

「良かったじゃないか。これで君も一安心だよな」

  井上は何ともいえない人懐っこさで、下心のある会話を続けた。

「うん、良かった。小さな会社だけど僕にはお似合いかもよ」

「そうか。君が喜んでいるのなら・・それでいいじゃないか。それはそうとしてだけどね・・・・僕の話だけど」

「うん、何」

「僕はさあ、東京都の市職員として・・水道局に就職することが決まったんだよ」

  井上は意外なことを言った。

「えっ、君は上場二部の会社に就職することが決まっていたんじゃなかったっけ」

  僕は異次元の違う世界のような話に、すぐに理解できない気持ちだった。

「うん、そうだったけどさあ。二部の小さな会社より、東京都の市職員として就職した方が良いだろうだって。先生が勧めてくれたんだよ」

「それじゃ、前の会社に何か悪いよ」

 僕は心配して言った。

「うん。僕もそう思ったけど・・・そうしたことは学校でていねいに断ってくれるから心配いらないって」

「ふうーん、そう・・・・」

 それならば、井上が決めた方のどちらか一方を僕に譲ってもらいたかったが、生徒の間でそんな勝手な取引ができるはずはなかった。

  もしかして、東京都のような公務員ならば、体形の異常な僕も問題にならずに就職出来たかもわからない。でも、それは単なる僕の想像だけで、両方とも落ちる可能性だってあるのだ。

  それよりも井上の、先生に対する忠誠心が・・就職先を有利に導いたのではないだろうか・・・・と・・・・僕は思う。先生に忠実に従うことを僕達は軽蔑していたが、本当は井上の方が賢かったのかも分からない。先生に恥を忍んで機嫌を取ることは、それなりに意味があったのだ。

  井上が人間的に尊敬できるかは別にして、僕達には出来ない利口なやり方で自分の人生を有利に導いているのかもわからない。

  僕は井上のような行き方もあるのかと感心したりもしたが、ただ、そうしたことは頭をかすめただけで、僕には出来ないことだった。それに、僕は就職先が決まったことが何よりもうれしかった。

 

  僕の就職先が決まったことに一番喜んだのは母と祖母だったかも分からない。特に祖母は今までの負い目を跳ね飛ばすように

「孫が大阪で就職することが決まったそうだ。大会社ではないようだが、かなりいい会社らしい」

  わざと集落の人々に誇張して・・良いように振れ回っていた。僕は

「大きな会社ではない。小さな会社だよ」

と、何回も説明したが、それでも祖母は

「大きな会社で、給料も高いそうだ」

  と、日を追うごとに羽を広げて、自分に都合の良いように話を付け足しては・・自慢をしていた。 

「それは良かった。良かった。残り物に福があるというが、本当そうだったよなあ。頭のいい孫を持ってうらやましい」

「市役所勤めだと聞いたが・・・」

  集落の人々は、そうした虚偽の自慢話には十分承知の上で、老婆の空想を夢の世界として共に楽しんでいた。老婆の分かり切った嘘は、ある意味では自分達の空しい現実と、先行きの暗い人生を忘れるのに打ってつけの、空想だけの・・・誰でも努力なしにできる楽しい会話だったのだ。

  集落の人々は、老婆の嘘を決して心で許そうとしなかったが、話に口車をあわせることに反対はしなかった。


 そうした就職試験の話題も消えて年が明けた新年会の帰りである。集落ではそうした男女の集まりを快く思っていなかったが、学年をまとめるバカな同級生がいて、年に二回ほどそうした親睦会が開いていた。

それは金峰山という薩摩半島では一番高い山の頂上へ登山することもあったり、海辺へ出掛けて食事をすることもあったりした。冬は戸外の寒さが苦痛で・・年末前後はたいがい新年会か忘年会のどちらかが行われた。今回は全員のお別れ会を兼ねた新年会であった。

そんな新年会が終わって、和田清子と僕は家が同じ方向の一番遠い町外れにあったこともあって、何人かが別れてしまうと最後は二人だけになった。二人の間では彼女の方が一キロほど遠い。

刻は夜の九時ごろで、幸いにも両側に畑が続く一本道だったから、彼女を一人で帰らせることは悪いことではなかった。でもなぜか・・その時は彼女を送って行くことが義務のように思えた。

「就職先が決まったんだって」

「うん」

 和田清子は、農道を歩きながら・・なぜか気取らない感じで話しかけてきた。

「大きな会社だそうじゃない」

  僕は不思議と小さな会社だと言われなかったことに喜びを感じた。

「違うよ、百人規模の小さな会社だよ」 

祖母の分かり切った嘘も、僕の少し見栄を張った説明もなぜか今は悪い感じはしない。

「あっ、そう? おばあちゃんは、大きな会社だと言っているそうよ」

「あれは嘘を言っているんだよ。ばあさんには、ばあさんの面子があるのだろう」

「でも良かったじゃない。都会に就職することが決まってうらやましいわ。良かったらお手紙ちょうだい。田舎に残るのは寂しいから」

  彼女の寂しい気持ちは十分に理解できる。彼女の父は中学校の先生で生活に困ることはなかったが、同級生の全員近くが都会へ出て働くのである。都会の繁栄の中に身を置けないもどかしさが、自分のことのように感じられる。

「うん、分かった。やっぱり田舎に残ることになったんだ」

「そうよ。兄を放っては置けないもの。両親もそばに居てくれって・・私に言っているし」

「そう・・・」

  彼女の兄はバイクの事故で下半身不随になっているという話である。しかも一時停を無視して相手の車にぶつかったらしく、損害賠償もほとんど期待出来ないらしい。

兄は生活に困って両親の世話を受けるために田舎へ帰って来たのだったが、両足を失った悲嘆は自分の心を抑え切れず、両親を困らせている・・・という話であった。

ただ、そうした兄も、妹の彼女だけには心を開いて、言いつけには素直に従っているということらしい。

「仕方がないもの。これも運命だと思うし・・・・」

「そう、でも偉いな」

  もし、僕が彼女だったらそれでも都会へ出て行ったかも分からない。

「それに、美恵ちゃんも田舎に残るそうよ」

「えっ、美恵子が・・・どうして」

「彼女の母親が病気で静養中らしいの。看病のために『田舎に残ってくれないか』と、お父さんに頼まれたそうよ」

「へえー、そうなんだ」

  脇坂美恵子といえば、学年でも一番活発な女で、男を尻に引く女である。そんな彼女が田舎に留まるなど予想もしなかった。

「男の人は家庭のことなど考えないで飛び出せるから・・うらやましいわ。女にはそれが出来ないのよね。美恵ちゃんがそばにいてくれるから、私も少しは寂しい思いをしなくて済みそうだわ」

「そうだね」

  僕は二人の身の上を気の毒に思ったが、それでも二人の考えを理解できない。祖母に

『女は、いざとなったら家庭を守る』

  と、言われたことがあったが、そうした話は昔から言い継がれているらしい。

やがて彼女の家の明かりが、ガラス窓の枠組みが見えるほど近付いて来た。

「じゃあ、家が近付いてきたから・・もうここで大丈夫よ。どうもありがとう」

  彼女は片手を上げて言った。

「うん、じゃあね」

「さようなら。絶対にお手紙ちょうだいね」

「分かった」

  屋敷林に囲まれた彼女の家が見えてきたので、彼女は足早に走り始めた。僕は家まで送り届けて彼女の両親に挨拶しても良い気分だったが、彼女がそれを拒否しているようで足を止めた。

彼女は畑に囲まれた自分の家へ急いで走って行く。僕は彼女がなぜ一目散に走ってゆくのか理解できなかったが、彼女はそれでも後ろを振り向かず・・足早に家の門の中へ消えて行った。

   彼女の家は、瓦を漆喰で固めた頑丈な家である。金に困らないそうした裕福そうな家も、それぞれに外には見えない様々な事情があるのだろう。僕はそう考えながら自分の家に向かった。

今は彼女よりも自分が幸せな気持ちである。夜空の星を見詰めながら考えた。これで僕の就職試験もやっと終わった。

「就職先がどんな会社か」

  集落の人達に聞かれるたびに不安に思ったが、それでも行く先が決まったことはうれしかった。


                             おわり

   

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実は源氏物語桐壺編.と夕顔編が電子書籍として発行されています。

『かってに源氏物語 桐壺編:古語・現代語同時訳』と

『かってに源氏物語 夕顔編:古語・現代語同時訳』いうタイトルです。

アマゾンのホームページより かってに源氏物語(平仮名と漢字) 上鑪幸雄(かみたたらさちお) 桐壺編 夕顔編 古語 現代語訳のキーワードで検索してみて下さい。

 本の紹介だけなら無料のはずです。でもなるべく買ってね。700円です。


                         上鑪幸雄



夜は眠いし疲れるし、金にはならないし・・・・ああ・・・・・・すごく疲れるよ

私馬鹿よね、

アマゾンで販売されている電子書籍、桐壺編 夕顔編を買っていただけると元気も出るのですが・・・・ 

                  上鑪幸雄


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