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現代小説集(1) 1蛍の里 2就職

以前書いた小説を掲載します。未練がましいのですが捨て切れません。

1 蛍の里

2 就職

 の二編を掲載します


  小説 蛍 の 里 一


               上鑪幸雄


 それは西暦二千年を過ぎた当たりからの話だったと思う。湯河原の万葉公園の原氏蛍が、真夏の八月はおろか、秋になっても冬になっても生き続けているとの噂が、この町を管轄する神奈川県や東京都において広まっていた。

蛍はもともと羽化して二週間ほどで死んでしまう生き物だから奇妙な話である。

 この話を耳にしたテレビ局は、やたらと現代のミステリーとして、この伊豆半島の付け根に位置する奥深い山里の温泉町を映し出しては、確かな証人の話を報道していた。

「私たちは夜の十時ごろ、独歩の湯のあたりを散歩している時に三四匹飛んでいるのを見ました。他に何組かのカップルも見ていたので間違いありません」

 三十歳半ばの短パン姿の夫婦言った。

「私たちは、千歳川の川原を飛んでいたところを見たのですよ。橋の上から。一匹だったんですけどね。川の風がとても気持ち良くって、本当にロマンチックでしたわ」

 落ち着いた老夫婦は言った。

「僕たちはさあ、吉浜の海岸で見たんだよ。サーフィンが終わってさあ、砂浜の上で寝転んでいたら,すうーと飛んで行ったんだよ。本当だよ」

 二十歳前後の若者は言った。

「私は何回も見ましたよ。大観山を降りたところでも見ましたし、しとどの窟のバス停付近でも見ました。何匹も群れていてとてもきれいだったですよ」

 タクシーの運転手は、深夜、車を運転しながら見たと言った。

 この他に証人を挙げれば切りがなかった。千歳川と合流する藤木川のさらに上流の、奥湯河原温泉の竹やぶで見たと言う人もあれば、真鶴半島の森の中で見たと言う人もいた。

しかし、決定的とも言える写真などの証拠は何もなかったので、真相はなぞに包まれたままだった、

 中にはこの懐疑的な報道に対して否定的な見方をする人たちもいた。町の観光協会や役場の職員である。

「住民で蛍を見たと言う人は一人もおりません。蛍が光を発しながら飛び交うのは、六月の始めから二週間ほどなんです。八月以降に見られるはずはありません。

まして、餌となるカワニナが近くに生息していない海岸や、山の頂上にいるはずはありません。それに蛍の光はごく弱いのですよ。車のヘッドランプを点灯させながら運転中に見えるはずはありません」

 観光協会の人は必死で説明した。

 しかし、それらの人々や町の住民が否定すればするほど、蛍は本当に出現するのだと噂は広まって行った。


斎灯平八がこの湯河原温泉に湯治を目的として旅行を思い立ったのは八月の初めだった。特別と言って、いい加減なテレビの報道に振り回されたわけではない。三年前に伊豆半島へ研修旅行に行った帰り道、立ち寄った日帰り温泉が事のほか気持ち良くて、下降気味だった体調が回復したのを思い出したからだった。

 病気とは言えないまでも、何となくけだるくて身体が重い体調を回復させるには、同じ湯につかるのが一番の方法だろうと思えたからである。

「どお、君も一緒に出かけては」

 平八は妻を誘った。

「私はいいわよ。せっかくの日曜日に長男が帰って来ると言うし、何かおいしい物を食べさせてやりたいから。それに洗濯があるでしょう。

家の掃除にパッチワークの縫い物、天気が良ければふとんだって干しておきたいし・・・あなた一人で行ってらっしゃい。あなたがいなければ、私ものんびりしてくつろげるから」

 妻はほっとした様子でうれしそうに言った。

 女とは不思議な生き物である。外へ出かけて遊ぶよりは、家事の方が娯楽として休息になるらしい。そんなわけで私は、新宿から小田急電鉄のロマンスカーに乗り箱根湯本にたどり着いた。

そして登山鉄道で強羅まで行き、ロープウェイで早雲山を超え大湧谷の湯煙を見ながら下って芦ノ湖に着いた。そこから遊覧船とバスを利用して湯河原へ向かうことにした。

 これはひとつの決まった観光コースになっていて、時間に余裕のある今回はついでに箱根の山々を観光したいのと、ここから湯河原へ下って行く途中に、源頼朝のゆかりの土地があるというので、そこも見学したかった。

 元箱根からのバスの便は『この観光地で一番箱根らしい風景が見られる』という、大観山を経由して湯河原へ下ることになる。この道は観光道路とも生活道路とも区別がつかぬ一般道路だが、眺めは抜群にいい。

箱根の中央火山と外輪山、芦ノ湖と富士山が一度に見渡せるのである。山頂の大観山からの景色が余りにもくっきり見えて美しかったので、一度バスを降りて便を遅らせた。しとどの窟にたどり着いたのは不覚にも午後四時を過ぎていた。

 しとどの窟は源頼朝が石橋山、堀口の合戦で破れた後に、難を逃れて一時過ごしたというゆかりの洞窟である。

 バスを降りるとその一帯は相模湾を望む展望台になっていて、背後に鞍掛山と大観山の山並みが緑深く切り立ち、下界に深い谷間と湯河原の町並みが見渡せた。

そして遠くに目をやると右端は伊豆半島の山々が続き、摺鉢状の大室山や小室山を隆起させて斜面が海になだれ込んでいる。

太平洋の黒い海原にはには初島が浮かび、その奥に伊豆大島が見える。なるほどここもなかなか景色の良い所である。

 バス停から林道を百メートルほど歩くとトンネルがあって、そこを過ぎると『しとどの窟まで四百五十メートル』という標識があった。林道から外れて急な坂道を下って歩くのである。徒歩でしか通れないような細い道で、つづら折になっているが舗装してあった。

 坂は急だが滑り止めの溝が彫ってあって歩き易い。ここは奥深い森林の中であるが、一メートル間隔に高さ八十センチほどの石柱が垣根のように続いている。

その合間合間に石像が置かれていた。

『弘法大師郡像とは、この地蔵様のような石仏を指して言っているのだろう』

 と、思いながら、四・五回折れ曲がって下ると

『残り三十メートル、左へ折れ、登った突き当り』

 となっている。下りだけであったが、坂が急なだけに一人歩きはくたびれる。

『いっそ下りだけにして、洞窟にたどり着けるように道を切り開いてくれれば良かったものを』

 と、思う間もなく、しとどの窟にたどり着いた。四・五人の見物客がいる。

 以外にも赤茶けた岩で覆われた奥行きの浅い窟であった。硬い溶岩が前に突き出ていて、軟らかい土台が崩れ落ち、奥行きよりも横幅が広い。例えれば宮崎の鵜戸神宮に似た構造である。

 ここは火山地帯だから、岩石が赤く焼けて薄気味悪いのは仕方がないとしても、墓らしい石碑がいくつも立っている。

『さては源頼朝と共に合戦に敗れてたどり着いた兵士の墓か』

 と、思いながら立て看板の説明文を読んだ。

『父源義朝が平氏の乱で敗れたために、頼朝は十四歳にして伊豆の蛭ヶ小島に流罪の身となった。そこを北条時政に助けられて抜け出し、土肥の庄である湯河原の地に身を寄せたのである。

ここを治めていた土肥次郎実平の力を借りて挙兵し、平氏を討ち取る戦いに挑んだのであったが、石橋山の合戦で敗れ、ここのしとどの窟に隠れたのである。ここは土肥のものでしか知らない天然の隠れ家であった・・・』

 と、説明してあった。

 八月の渇水期に雨水が音を立てながら窟の上から流れ落ちて来るほどだから、飲み水に困ることはない。それに雨露をしのげるのだから、落ち武者にとって絶好の隠れ家である。

しかし、ここは湿気が多い上に中は斜面になっていて崩れ落ちた岩石が山のようになっている。将軍となった頼朝が五日間過ごすには気の毒な場所でもある。

「ねえー、いつまでそれを読んでいるの。早く降りないと日が暮れるわよ」

 私の前で立て看板を読んでいた先着のニ人に向かって、下で待ちくたびれている連れの女たちが言った。

「ああ、ごめんごめん。歴史のことになると、つい興味が沸くもんだからさあ。つい夢中になっちゃって」

 二人は小走りに、すでに歩き始めた連れの後を追って行った。

「ねえー、このまま下って行くと、湯河原の町へたどり着けるわよねえ」

「そうだよ。ここはハイキングコースになっているんだ。ずっと下って行くと、湯河原の駅へ出るんだ」

 さっきまで、私の前で熱心に説明書きを読んでいた四十過ぎの男は答えた。

「ああー、それは良かったわ。来た道を引き返して登るよりは、下って歩く方が楽だわ」

「そうそう」

 話し声が小さくなって五人組みが私の目から消えると、急に周りが静かになった。ツーンというセミの声や、上からしたたり落ちる水の音が大きくなって、余分な雑音が耳に届く。

寂しさと不安が私を襲ってきた。洞窟の墓も気になった。石仏が崩れて、中から負傷した兵士の亡霊が出て来そうな気配が感じられるのである。

 私は急いで洞窟を後にした。

「登るよりは下って歩いて行く方が楽でいい」

 確かにそう言って、先客は歩いて下って行った。登ってバス停までたどり着いたとしても、四時四十五分の最終便に間に合うかわからない。

いずれにしても坂道を下って行くほうが安全で楽に決まっていた。私の頭の記憶によれば、この散策コースを下って行くならば土肥城跡に着く。そこを真っ直ぐ下ると湯河原の駅で、分かれ道を右に折れると、バスに乗って来たばかりの椿ラインの道にに出ることになる。

 しかし、どんなに急いで坂道を下って行っても、さっきしとどの窟を後にした人たちには追いつけないのだった。そのうち道も危うくなって草が茂り、木々の枝が道を覆い被さるようになった。

もしかして道に迷ったのかもわからない。三・四十分で土肥城跡にたどり着けるはずであったが、1時間経ってもそれらしい形は見えなかった。

 不安は高まっていったが、こうなったら破れかぶれである。間違っても坂道を登ることはしたくなかった。

道は一貫して下る一方だったので、湯河原駅か温泉街に近づいていることは確かである。そうこうしているうちに、やっと高台らしい原っぱに出た。   

 私は急いで下界が見える場所へ急いだ。展望台らしい石段の上に立つと湯河原の温泉街が見えた。しとどの窟よりは半分以上も山を下っていた。ここまで来れば一安心である。それほど急がなくても日暮れまでには町へはたどり着けるだろう。 

 しかし、地形の形が私の記憶からするとずれていた。温泉地を正面に見て、その奥か左側に海が見えれば正解なのだが、海は温泉街の右奥に見えている。これでは椿ラインを横切り、道の反対側の斜面を相当歩いたことになる。何かがおかしい。何か変だ。

 その休憩所には道案内があって、万葉公園まで三十分と書いてある。この標識からしても、やはり、私は山の反対側の斜面にたどり着いたことになる。

草や木が茂った山道の記憶をたどってみても、大きな道や川を横切った覚えはないし、トンネルを抜けたり橋を渡った記憶もない。どうして、どうやってここへ着いたのだろう。

 しかし、考えてみるとそんなことはどうでも良いことだった。無事に温泉宿に到着できればそれで良いことである。身体はもうくたくたに疲れ果てていた。石段の上に座ると、リュックサックを降ろして水筒から冷たい水を三杯ほど飲んだ。

それにはウイスキーを少し混ぜてあるので、すごくおいしい水だった。酒を混ぜると体内への吸収が早くて、のどの渇きが良く取れるのである。

『少し横になって、十分ほどしたら出発しよう』

 私はシャツを脱いで横になった。山の日の入りは早く、吹き降りる風は冷たくて気持ちが良かった。夕闇は迫っていたが、三十分の距離はそれほど大したことはない。たてえ眠ってしまったとしても安心だった。

それからどれほど時間が経ったのか、原っぱはすっかり闇に包まれていた。薄暗い星空の中で暗い山影が見えた。よほど疲れていたのか、ぐっすり眠った後だったので体調はすこぶるいい。時計に目をやると七時三十分を過ぎていた。

『しまった。すっかり眠り込んでしまった』

 私は急いで跳ね起きた。温泉街の方角だろうか、車の光が盛んに往来している。それは自由に動き回っている感じだった。左右に動いているのもあれば、上下に動いているのもある。山陰で車が見え隠れしているのか、光は点滅を繰り返している。

『それにしても何か変だ』

 ゆらゆらと、宙に浮いているような感じだった。

『何だろう。この光は』

 頭が次第に冴えてきた。よく見ると、それは蛍の光だった。四・五十匹の蛍が飛び交っている。誰のためにでもなく、自分の意志で自由に空中を動き回っているのである。 

『ああ、テレビで報道していた蛍の話とはこのことだったのだ。あれは、デマではなく本当の話だったんだ』

 私はそう思った。

 私は山を下りながら蛍を追って行った。前方に蛍が見えては近付き、すーと消えてゆく。すると、また前方に見える。その繰り返しだった。

 


  蛍 の 里 二


蛍の光では、夜道を照らす明かりにしては暗すぎたが、それでも、星明りと共に道はくっきりと浮かび上がっていて、石ころが転がっているようすが良く見えた。

たとえ、石を踏んだとしても、足の感覚はそれをよくふまえていて、うまくバランスをとって歩いているのである。

 そうしながら蛍と共に歩いて三十分ほど経ったころ、やっと電球の明かりの見える町角にたどりついた。最初に目にした建物は、小さな鳥居が立て続けに立っている稲荷神社の、地蔵小屋のような小さな神社だった。敷地の広さは奥行き二十メートルほどで、道路の一部を拝借したようなそんな狭い神社である。

 入り口の標識を見ると、狸霊神社と書いてある。タヌキが化けて出て人を騙すことのないように願った神社か、逆に人を欺いてでも商売がうまくゆきますように願った神社に違いない。

 小さな社の前は電球があって、明るく照らされている。そこで六十過ぎの婦人が祈りを捧げていた。しとどの窟で別れてから初めて見る人の姿である。人里にたどり着いた喜びが実感できた。

『この人に道を聞けば温泉宿ぐらい簡単に探せるだろう』

 と、そう思った。

 私は祈りの最中の婦人に遠慮して、遠くからその役目が終わるのを待った。婦人の祈りは、ぶつぶつとつぶやきながら長々と続いていて私をいらいらさせたが、

私がしびれを切らして、歩き出そうと靴音を立てたとたんに終わった。私はわざと靴音を大きく響かせて近付いた。

「あのう、すみません」

 私は声を掛けた。

 婦人は一瞬驚いたようすで身構える素振りを示したが、私が人間であることを確かめると、作り笑顔を浮かべた。

「何でございましょう」

 婦人は言った。

「実は道に迷って、ようやくここまでたどり着いたのですが、泊まる宿を探しているのです。この近くで、今からでも泊めてもらえそうな温泉宿をご存知ないでしょうか」

 私は、婦人が驚いて逃げ出さなかったことにほっとして胸をなでおろした。

 婦人は良く見ると、上品な着物を着て、薄い透き通った打掛を頭から羽織っている。髪も中央で分けた長い髪で、平安王朝の宮廷で使えるような出で立ちをしている。

驚いたのは私の方であった。本当にタヌキが化けて出て来たのではないかと思った。

「ああ、申しわけございません。この姿にすっかり驚かれてしまわれたのでしょう。私はすぐこの下の温泉宿で働く女中でございますが、実はこれにはわけがありまして・・・

この神社は千年以上も続く古い神社なのです。

温泉の神様でして、湯河原の里や箱根の山越えなどで病気になったり、盗賊に襲われて負傷した人達を、ここのタヌキが人に化けてここの温泉宿に導いて治してやったと言い伝えがございます。

この地で宿を営む者は、千年以上も前からこうした正装した姿でタヌキの霊に感謝する祈りを捧げるのでございます。

今日の八月三日は、月に一度の祈願の日でございまして、私は今こうした格好でお参りをしていたわけでございます」

 婦人はていねいに言った。

「なるほど、それでその服装の意味が良くわかりました。あのう・・・お宅の宿でも、今夜、私を泊めてもらえるのでしょうか。そうしていただけるならば本当に助かります。

もうくたくたで、そんなに遠くへは歩いて行けません。こんな時間ですから、食事は有り合わせのもので結構なんですが」

 私は首筋の汗を拭きながら言った。

「それはちょうど良い所でお会い致しました。私はそこの谷川の向かいの温泉宿で働いかせていただいておりますが、今日は運良くお一人様のキャンセルがありました。

お泊りのことでしたら可能でございます。食事も今から頼めば、何とかこしらえてもらえるでしょう。ただ何分にもこんな時間ですから、お客様の部屋へ食事をお持ちすることはできません。

宿の主人たちと同じ部屋で食事することになりますが、それでもよろしゅうございますか」

 婦人はていねいに言った。

「それはかたじけない。よろしくお願い致します」

私はすっかりうれしくなった。

「さあ、どうぞこちらへお越し下さいまし」

 婦人は足元に置いてあった竹竿の先に吊るした提灯を取ると、私の歩く先を明るく照らしてくれた。

「谷川へ下って行きますから、どうぞ転ばないように気をお付けあそばして」

「ありがとう」

 谷川へは五分ほどで到着した。

「谷川の横に池のような水溜りがいくつもございますでしょう。あれは、どけもこれも温泉なんです。

足を温めて疲れを取るには、ちょうど良いぐらいの湯かげんで、とても気持ちがいいのですよ。どう致しますか。靴を脱いで少し温めてみますか」

 婦人は星空の下で、暗く照り返す池を指して言った。

「いいえ、それは結構です。あれは独歩の湯なんでしょうか」

 私は新聞で読んだ今話題の足湯の記事を思い出した。何でも最近になって、足を温めるだけの温泉が、伊豆半島一帯で四ヶ所はできているという。

「いいえ、独歩の湯とは違います。独歩の湯はもっと川下にございまして、町営なんです。あれは多少お湯をボイラーで温めておりますが、こちらは全くの天然の温泉でございます」

 婦人は、私が納得するのを促すように、正面から私の顔を見詰めた。

「なるほど」

「さあ、私どもの宿へ案内いたします。この川を渡らなければなりません。これは狸霊神社にお参りするための仮橋ですから本当に細いですよ。

転んで川に落ちないように、気を付けて下さいまし」

 それは本当に細い橋だった。はしごに板を打ちつけただけのような、幅七十センチメートルほどの、間に合わせの橋だった。

「どうして、ここに橋を掛けないのですか」

 私は不思議に思って聞いた。

「ここに橋を掛けますと、観光客がやたらとうちの敷地に入って来ていたずらをするのでございます。中には黙ってうちの露天風呂に入浴する者もいるんですよ」

「それはひどい話だ」

「さようでございますとも。渡り終わりましたら、すみませんがそこのひもを引いて仮橋を吊り上げて下さいませ。ほどよく吊り上がって、向こうから人が渡って来れなくなりましたら、そこの木に紐の輪を掛けて下さいまし」

 婦人はうまい具合に掛けられるように切ってある大木の枝を指して言いました。

「わかりました」

 紐を引くと橋は軽々と持ち上がった。

「さあ、今度は上へ登らなくてはなりません。さっきよりはきちんとした旅館の階段ですから、さほど危なくはないでしょうが、一応気をつけて下さいまし」

 石の階段を三十段ほど登って行くと露天風呂があった。客が二人湯につかっている。

「この風呂はお宅の旅館のものでしょうか」

 私は婦人に聞いた。

「さようでございます。この露天風呂の他に、旅館内にももっと大きな大浴場がございます。ああ、そうそう。このまま直接入浴された方がよろしいでしょう。

着替えの浴衣とタオルは、お客様が上がる前に私が準備しておきますから、それを使って下さい。貴重品はロッカーに入れて、必ず鍵を掛けて下さいましね。

不要な荷物がありましたら、私が部屋に運んでおきますがどうなさいますか」

 婦人は私のリュックサックと帽子を見て言った。

「いいえ、荷物の中には着替えの下着が入っております。それに大した量の荷物ではありませんので、私が後で持って行きます」

 私は、婦人が狸の化け物ではないかとまだ疑っていたので、用心しながらそう答えた。

「それでは私が先に参って帳場に記帳しておきましょう。あのう、失礼とはぞんじますが、お名前は何とおっしゃいますか」

「斎灯平八と申します」

 私は、少しためらいながら言った。

「斎灯平八様でございますね。夕食と朝食付でお一人様」

「はい、よろしくお願い致します」

「お風呂から上がられましたら、帳場へ声を掛けて下さいましね。お食事へお連れ致しますので」

「わかりました」

 露天風呂はことのほか気持ちが良かった。孟宗竹林の中にあって大きな桧作りである。じっと目を閉じると、さっき渡って来たばかりの谷川の音が聞こえた。

 ほどよく温まって更衣室に戻ると、言われたとおり浴衣と白いタオルが準備してあった。タオルは純白で厚みがあり、なかなか立派なものである。

浴衣は白地のかすりであった。羽織ると、綿のさわやかさと、絹のひんやりした冷たさが伝わってきた。帯は黒の兵児帯できらきら光る。よく見ると金糸が刺繍してあった。

露天風呂から階段を上り旅館に入ると、そこは古びた木造の裏口だった。客室を左に見て廊下の右側は中庭が続いている。客室を十ばかり過ぎて、突き当りを右に曲がると帳場があった。

「あのう、斎灯平八と申します。泊まりで申し込んであると思いますが」

私はそこにいた七十過ぎの旅館のハッピを着た男に言った。

「ああ、斎藤様。お待ち致しておりました。ずいぶんゆっくり入浴なさったですね。それでは、ただ今係りの者を呼んで参りますので、しばらくお待ち下さい。林さん、林さーん。お客様がお見えになりましたよ」

 帳場にいた男は声を張り上げた。

「ああ、すみません。お待ち致しておりました。まあー、その着物はなかなかお似合いですよ。私が選んで見立てただけのことはありました」

 女中は私の着物姿を前後から調べながら言った。

「なかなか上等の着物でびっくりしました。着心地がとてもいいんですよ」

 私は腹の周りのたるみを直しながら言った。

「それはそれは、ようございました。お食事へご案内致しますが、お荷物はそのままお持ち下さい、宿の者も、もう待ちくたびれておりますので」

 女中は私を先導した。

「さあ、ここでございます」

案内された部屋は、帳場から十間ほど離れた庭園が一望できる反対側の部屋にあった。ふすまは、金箔入りの紅葉を描いた絵柄が施してある。

 女中はひざを突いて引手に両手を添えると、ふすまをゆっくり開けた。そして、中にいた人物に向かって言った。

「ただいま到着のお客様をお連れいたしました」

 女中は手を突いて深深と頭を下げげました。宿の家族が居ると言ったのに、丁寧過ぎる挨拶である。

「それはご苦労であった。さっそく中へ案内致せ」

 部屋の中から太い男の声が響いた。

「はい」

 女中は返事をすると私を中へ導き入れた。

「ああっ、これは」

 私はすっかり驚いてあっけに取られていた。

中は昔の殿様の部屋そっくりだったのである。高床の間には大きな松の絵が描かれた金屏風が立ててあった。ふすまは中から見ると、虎が竹やぶの中を動き回っている様子が描かれている。

天井の升目の一つ一つには、それぞれ異なった花の刺繍がはめ込まれていた。

 何よりも驚いたのは、屏風の前の一段と高い畳座の上に、あぐらをかいて座っている武将の姿だった。武将はよろいを身に付けて髪を結っている。まるで戦国時代のそのままの武将の格好なのである。その隣に奥方らしい夫人が十二単を身にまとっていた。

「さあ、何を驚かれているのです。あなた様が立っているその前の席へ、早くお着きくださいませ」

 女中は私を見上げて言った。

「お待ち致しておりましたぞ、客人殿。なかなかいい男ぶりではないか。そなたの名前は何と申す」

 畳座の武将は私が席に着くやいなや言った。

「斎灯平八と申します」

 私は一礼して言った。

「うん、なかなか良い名じゃのう。わしの隣に座っている奥の名は政子と申す」

「以後お見知り置きのことを」

 政子と名乗る女は、三つ指を突いて挨拶をした。私は不本意にも頭を下げざるを得なかった。

「そなたの隣に座っているのは、土肥実平とその妹のこごめの姫じゃ」

 武将は私の上座に座っている武将と娘を扇の先で指して言った。上座の武士は同じようによろいを身にまとい、妹というその娘もやはり十二単を身に着けている。

「実平でござる。よろしゅうお頼み申す」

 娘を一人挟んで、上座に座っている武士は一礼しながら言った。

「こごめの姫でございます」

私の隣の娘は、やっと聞こえるぐらいの弱々しい声ではにかむように言った。

「実平様とは、あの土肥二郎実平のことでございますか。源頼朝が伊豆を抜け出した後に、身を寄せて助けられたという」

「そうじゃ、いかにもわしが土肥二郎実平じゃ。ワッハハハハ・・・」

 実平は思い知ったかとばかりに腹を大きく揺さぶって笑った。口ひげの太い勇猛な男である。

「それではこの者が土肥実平と名乗るならば、わしが誰だかわかるかな、平八殿」

屏風の前の武将は、私に扇の先を向けて言った。

「土肥実平と名乗るならば、あなた様は源頼朝様としか言いようがありません。本当にあの鎌倉幕府を開いた源頼朝様でございましょうか」

 私は余りにもできすぎた話に疑いを持ちながら聞いた。

「いかにも、わしが源頼朝じゃ。そなた達は、わしがとっくの昔に死んだと思っているのだろうが、わしはちゃんとこうして、生きておる」

 頼朝は言った。

「私達はこうして、あなた様のような見知らぬお方が訪ねて来るのを楽しみに生きているのですよ」

 頼朝の奥方と見られる婦人は、芝居のせりふのような節回しのある独特の口調で言った。

「あなた様は、もしかして、あのう・・・正子と申されるならば北条政子のことでございますか」

 私はまさかとは思ったが、念のために聞かざるを得なかった。

「ほほほほ・・・それはもう分かり切ったことではございませんか。斎藤様も用心深いお方でございますこと。ほほほほ・・・」

 婦人は金箔の扇を口に当てながら、あざけるように笑った。笑われて気付いたのだか、婦人の唇は異様なほど真っ赤な紅が塗られている。

「それからそなた達の向かいに座っている妙な服を着た三人連れの男じゃがのう…」

 頼朝は、今度、私の向かいに座っている客人を指して言った。そこには三つ揃いの背広を着た六十近い紳士と、三十代半ばのやはり背広を着た若者と、結城紬を着たギョロ目の男が座っていた。

上座に座っている六十近い紳士はベージュ色を、中央の若者は黒の背広を着て共に口ひげを生やしている。下座の席の若者は黒に近い紺の、細かい水玉模様の着物を着ていた。

「夏目漱石と申す」

 上座の紳士は顔をむけただけで礼をせずに言った。

「国木田独歩です」

 真中の紳士は一礼して言った。

「拙者は芥川龍之介と申す者です」

 下の席の男は、やたらと煙草を吹かしながら言った。彼の周りはそこら中に煙が充満している。独歩と名乗る男は迷惑そうな顔をして、煙を避けようとしていた。



  蛍 の 里 三


「いずれにしてもこの方達は湯河原に縁の深い文士でな、今日は特別に斎灯殿のために出席を願ったのだ」

頼朝は言った。

「それはそれは誠に申し訳ございません。私は通りすがりの平凡な人間ですから、こんな偉い先生方のお相手ができるか・・どうか恐縮しております。

本当に私のような者がこんな席に、ご一緒していてもよろしいのでしょうか」

 私は外へ出たくなった。

「まあ、そんなに遠慮しなくとも良い。皆の紹介が終わったところでだ、まずは乾杯しようではないか」

 頼朝は廊下に向かって手をぽんぽんと二回ほどたたいた。するとそれを待っていたかのように、二人の女中が現れて、それぞれの杯に酒を注ぎ始めた。

「それでは実平殿、そなたが乾杯の音頭を取ってくれ」

 頼朝は土肥実平に向かって言う。

「それではお互いの新たな出会いに感謝し、健康を願って乾杯」

「乾杯」

 実平が言うと、残りの全員がそれに続いて声を張り上げた。

 それぞれの席の前には、赤い漆塗りの大きな高膳が置かれていて、

刺身や煮物などの魚料理を主体とするごちそうが並べられている。出席者の全員が思い思いに料理を食べ始めてしばらく経ったころ、向かいに席を取っている上座の男が私に声を掛けた。 

「斎灯殿は今日、しとどの窟を見物されたそうじゃが、ついでに不動滝も見学されたかな」

 夏目漱石は言った。

「あっ、申し訳ございませんでした。今日は時間に余裕がなくて、立ち寄る暇がありませんでした」

 私は頭を下げた。

「失敬な、君は僕の『明暗を』知らないのかね」

 漱石は不満そうに首を横に向ける。

「先生、今の若い連中は礼儀を知らないのですよ」

 龍之介はギョロリとした目で私をにらんで言う。

「まあいいさ。今度時間があったら、是非とも立ち寄って見学してくれたまえ」

 漱石は、再び料理をはしでつまんで食べ始める。白い毛の混ざった口ひげを、もぐもぐさせて食べる様子は、初老の紳士にしてはなかなか可愛いものである。平八は思わず笑ってしまった。

「斎灯殿は武蔵野にお住まいと聞いたが、あの武蔵野の雑木林は今でも健在ですか」

 今度は独歩が私に聞いた。

「あのう・・・それが悲しいことではございますが、今ではほとんど住宅地に占領されておりまして、ほんのわずかに見られるだけでございます。その代わりといつては何ですが、道路がきれいに整備されておりまして、両側に植えられた街路樹がなかなか見事なものでございます。

特に国立の駅前通をご覧になられましたならば驚かれますでしょう。どこまでも続く五十メートル道路の両側に、桜並木が整然と続いておるのでござます」

 私は向かいの、中央の席に座っているほっそりした男に向かって言った。

「ほう、それは残念なことじゃ」

「私の知り合いに、八王子の南にあります相模原市に住んでいる者がおりまして、そこの大野台の森は、今でも武蔵野の林の面影が残っておりまして、なかなか立派な林です。

長さ三キロ、幅1キロメートルはあるでしょうか。クヌギやシイ、山桜を主体とした原生林に近い森です。ミズキやエゴノキ、松など様々な樹木が混ざっておりますが、私の知らない木がほとんどでございます。

春先になると、こぶしの白い花が咲いてとてもきれいなんですよ」

 私はその時期になると、花が咲いているのを確かめるように訪ねる相模原市のことを思い出しながら言った。

「おうおう、それで思い出した。高い木のてっぺんの枝中に、紙屑を散りばめたような白い花が、たくさん咲くあの大きな木だな」

 国木田独歩はうれしそうに笑った。

「それに桜だってきれいなんですよ。白やピンク、薄茶色の山桜や、富士桜らしい小柄な花を咲かせる木も多くあります」

「おうおう、そうした光景には覚えがある」

「先生の『武蔵野』の冒頭に出てくる、語りかけるような文章の風景は、あのような場所を言っているのでしょうか」

「そうそう、大方そんな風景じゃ。私の記憶では、大方冬枯れした殺風景な気色だったがのう。斎灯殿はなかなか、うれしいことを言ってくれるじゃないか」

 独歩はうれしそうに目を輝かせて、漱石の機嫌を取るように、そっちの方を向いて言った。

「先生、この湯河原では、こぶしの花をほとんど見かけないですよね」

 独歩は漱石に向かって言った。

「そう言えはそうだな。武蔵の国とは距離的に言っても、そう遠く離れていないのに不思議な所だねえー、この湯河原は。

もっとも、クスノキや松、シイといった常緑樹が多いせいで目立たないだけかもわからないが」

「先生、箱根の山の上に行けば咲いていたと思いますよ」

 独歩は言った。

「確かかね」

「そう言われますと自信はないのですが」

 独歩は黙ってしまう。

「ところで斎灯君、君は僕の小説について何か一つでも知っているものがあるかね」

 龍之介は互いに下の席に座っている正面の私に向かって声を掛けた。

「僕は漱石先生の『坊ちゃん』や『心』は登場人物が多くてスケールが大きく別格だと思うのですが、龍之介先生の作品はどれもこれも読みやすくて分かりやすいので、とても気に入っております。

全部といっていいほど好きでございます。『トロッコ』でしょう。『羅生門』でしょう。『くもの糸』、『鼻』、『杜子春』、『秋』、『蜜柑』など、題名を挙げれば切りがありません。

どれもこれも、それぞれに違った内容で題材も趣も異なります。まったく違った幻想的な世界が、それぞれに単独に展開して、本当に素晴らしいですね」

「そうか、それはまことにかたじけない。しかし、『蜜柑』という題名を取り上げる人物はまた珍しいな」 

 龍之介は煙草をプカプカ吹かしながら、自分でも満足そうに聞いていたが、読者にはとうてい理解できるはずがない蜜柑の題名を聞いて、驚いたようすで疑いの目を向けた。

「確か内容は・・・田舎臭い古びた着物を着た無教養な少女が、列車に乗るのがうれしいのか、窓を開けてうれしそうに外を眺めている。

その少女は、風で主人公の新聞記者の髪が乱れて迷惑がるのも気に止めようともせず、自分だけ喜びの世界に没頭していた。

主人公は嫌な予感がした。トンネルに差し掛かるというのにその少女は、窓を開けたまま身を乗り出して外をながめていたのだった。  

 このままだと機関車の煙が窓から吹き込んできて、乗客は息苦しくなる。だが、それでも少女は他人の迷惑を考えようともせず、窓を開けたまま外をながめていた。

 案の定、大量の煙が列車の中になだれ込んで来た。注意したくとも、少女の楽しみを奪うわけにはゆかない。やり切れない思いで我慢していると、やっと列車はトンネルを抜け出した。

 少女は大声を出して外に向かって叫び声を上げる。外を見ると子供たちが手を振っていたのだった。さらに少女は窓から身を乗り出すと、線路脇で手を振っている子供達へ向かって、手のひら一杯の蜜柑を放り投げた。

少女は他人への迷惑を承知の上で、約束通り見送りに来てくれた子供達へ、蜜柑を投げたのである。少女のあどけない優しさに、それまで険悪な目を向けていた自分が恥ずかしくなった。

自分が逆の立場だったとしたならば、子供たちへ食べ物を与える優しさなどなかっただろう。

人間的に立派なのは、自分よりも少女の方ではないか。主人公は深く反省した。そんな小説でしたよね」

 私は、大人向きに書いた、少年少女を扱った芥川の作品が読みやすくて好きだった。

「僕もあれは短い作品だが、なかなかいい出来だと思うよ。人それぞれに、不本意ながら仕方なく他人に迷惑を掛けているようすが、うまく書けているじゃないか」

 漱石は言った。

「それはどうも、ありがとうございます。この他に君が好きなのはどれだね」

 龍之介は鋭い目を幾分和らげて言った。

「一番好きなのはやはり『トロッコ』です。ちょうど湯河原当たりを通っていた鉄道の工事のようすを書いておられますでしょう」

「トロッコか。トロッコねえ。少し困るけどまあいいや。その中のどの部分がいいと思うんだね。斎灯君」

 黒い着物を着た龍之介は、再び煙草の煙を盛んに吹かしながら言う。

「あれは最初から最後まで、胸をどきどきさせながら読ませていただきました。子供の心理がひしひしと伝わって参ります。

少年はトロッコに乗りたくて仕方がなかったが、近づくと大人達に怒られてばかりいた。ある日、優しそうな大人を見つけて

『トロッコを押しても良いか』

と聞くと、その大人は嬉しそうに『かまわない』と言う。子供はその見返りに、やっと念願かなってトロッコに乗せてもらえそうだった。

 トロッコは下り坂に差し掛かって、ものすごい勢いで走って行く。

その快適さは、徒歩でしか移動したことのない少年にとって、今までにない爽快な気分だった。こんな楽しい仕事ならば、大人と共に一生働いても良いと思った。

トロッコは上り坂になると再び止まる。少年たちは飛び降りて、頂上を過ぎるまで勢い良く押し続けるのだった。下りになって飛び乗る快適さを考えれば、押して行く苦労など何ともなかった。そんな快適な旅を何回か続けた。

やがて見知らぬ土地まで来て同じ作業を何回も繰り返すと、トロッコに乗っていることが本当に楽しいのか、苦しいのか分からなくなって来た。少年はいつ帰れるのか不安が高まって来たのである。

頂上を登り切ったところで、男たちは茶店に入った。日も傾いてきたのになかなか出て来ようとしない。少年は不安になった。

大人達は休憩した後に茶店から出で来ると、遠い見知らぬ土地で、今日は泊まりになったから帰れないという。日暮れが迫っているというのに、少年は一人で今来た道を引き返して帰らざるを得なかった。

夜道を無我夢中で走って家にたどり着き母親の顔を見たとき、少年はそれまでよりもっと大きな声で泣き叫んだ。ただ大きな声で泣くしか仕方がなかった。

あの最後で少年が泣き叫ぶ気持ちが、ひしひしと心に伝わってきます。なかなか素晴らしいと思いました」

「君はなかなか良いところに着目しているではないか」

 龍之介は言った。

「あの小説の最初と最後の部分は、ずいぶん後になって書き加えたものでしょうか」 

 私はかねがね不審に思っていたことを龍之介に聞いた。彼は驚いたようすで飲み物を吹き出すと、あわてて煙草の煙をもみ消した。

「君はなかなか鋭いことを聞くね。どうしてそう思うんだね」

 龍之介は私をにらみながら言った。

「別に理由はありません。ただなんとなく、全体の文章からバランスを考えますとそう思えるのです。視点の感覚が別人に変わったようで・・・」

 私が言うと、龍之介はおどおどしながら夏目漱石の方を向いた。

「先生、こういう場合は何と答えたらよいのでしょうか」

 上座に座っている紳士は、肩を揺さぶりながら冷ややかに笑っている。

「それはこういうことだよ。文学に興味のある者のほとんどは小説らしき物を書くさ。しかし、そのほとんどは、全部といっていいほど不良品ばかりなんだよ。

しかし、中には完全でなくても、なかなか捨てきれないものがあってね。われわれ文人は、それを完全なものにして世に送り出す義務があるんだ。

読者だって『もっと様々な作品を読みたい』と、待ち望んでいるからねえ。われわれ小説家は、そうした読者の要望に答えなくちゃならない」

「まったくその通りですよ、先生」

「原作者が納得すればそれでよし。納得しない場合は無断で拝借するのは考えものだねえ。

後になって、あれを書いたのは私だと大騒ぎする人物もいるようだが、それはお門違いだ。そうとうに売れた小説に限って、原作者の名前で原文のまま出版するのは良いとは思うが、多分、読者はニ、三行読んだだけで、放っぽり出してしまうだろうと思うよ。

読者の中には後味の悪い苦痛を感じて、損害賠償したくなるほど嫌な思いをする人物もいると思う。そこが素人と、われわれプロの作家との大きな違いだ。

われわれプロは、不良品を良品に変えて世に送り出す義務があるのだ」

 漱石はあごを手首で支えながら言った。

「先生、まったくおっしゃる通りですよ。素人は、我々が考えに考え抜いた言葉遣いを、まったく理解しておりません」

 独歩も同意して言った。 

「おっほん、おっほん」

 私と文士の三人が話しに夢中になっていると、正面の高座に座っている頼朝が咳払いをしました。



  蛍 の 里  四(最終章)


「まったく、その方達の話は堅苦しい話ばかりじゃのう。話題を変えようじゃないか、話題を。斎灯どのは、わしが落ち延びて五日間滞在した『しとどの窟』を見学してきたらしいが、そこのようすはどうでござった」

 頼朝は言った。

「思ったよりも奥行きが狭く、中は斜面になっていて居心地が悪そうに思えました。鎌倉幕府を開いた頼朝様には、さぞ窮屈な思いをなさいましたことでございましょう」

 私が言うと、すぐ横から土肥実平が口を挟んだ。

「いやいや、あそこは今でこそ岩が崩れ落ちて上下の幅が狭まっておるが、昔は天井が高くて風通しが良かったのじゃ。そこに木作りの小さな家が建ててあってな、頼朝殿はそこで休まれたのじゃ」

「そうでございますとも。われわれ土肥一族の者は、普段、今の五所神社の当たりに住まいを構えて暮らしておりました。あそこに、この土肥の庄では珍しい大きな、イヌマキの木がありましたでしょう。

あれは私の祖父が京の都から持ち帰って植えたものなんですのよ。昔はていねいに剪定してあって、それはそれは見事な枝ぶりだったのでございますよ」

 こごめの姫は言った。

「そうなのじゃ、斎灯どの。ひとたび合戦になると、われわれは城山の館に本拠地を置いて戦うのだ。しとどの窟はそこが敗れた時の非常用の隠れ家だった。お分かりかな、斎灯どの」

「よう分かりました。しかし、あのう・・・墓のような石碑はどんな意味があるのでしょうか」

「それよそれ。後世になって弘法大師どもの信者が、よけいなものを数多くこさえやがって、そこらじゅうを薄気味悪い仏像や地蔵の置き場所にしてしもうた。

あの乱雑さは困り果てているところなのじゃ。足の踏み場もなくなっていたろう」

実平は金箔の扇子を開いて、額の汗を吹き流すように仰いだ。

「そうでございますとも。あそこはもともと土肥一族のものでございますよ。あの忌まわしい石碑を、どなた様か取り除いてもらえぬものか」

 こごめの姫は言った。

「こごめ殿、それはおやめなされませ。この土肥の庄といえども、弘法大師の門徒衆は数え切れないほどおられますのですよ。取り除いては領民の反発を買いまする」

 それまで黙っていた北条政子が言った。

「私はもともと今度の合戦には反対だったのです。何も坂東へ出て勢力を広げなくても、この土肥の庄だけでも十分だったのではございませんか。

ここは海の幸も、山の幸も豊富なところです。京の都に比べても決して劣るものはないと存じます」

 こごめの姫は言った。

「そなたは京の都の華やかさを見たことがないから、そんなことが言えるのじゃ。京の都を目にしたが最後、あり魅力に取り付かれましたら、もう離れられませぬぞ」

 頼朝は言った。

「もし、頼朝様が天下を平定することがありましたら、どうぞこの政子を京の都へ連れて行ってくださいまし」

 政子はひざを頼朝のほうへ向けて愛らしい表情を見せる。

「いいえ、この私の方を先に連れて行ってくださいませ」

 こごめの姫は、政子に遅れをとるまいとして言った。

「あいあい、分かった。余が天下を取ったならば、二人とも同時に京の都へ連れて行ってやろうではないか。実平殿には悪いが、この土肥の庄では天下は平定できぬ。

北には鞍掛山や大観山があり、東西にも小さな山があって要塞には優れているが、気を止める溜めが少ない。溜めとは、海が迫って平野が少ないということだ。

これでは天下を支えるほどの家臣は抱えきれぬ。溜めが少ないということは、農作物による食料の確保が十分でないということだ」

「それに東西に伸びる街道も十分ではございませんよ。坂東平野をご覧なさいませ。北は下野の国から、南は安房の国まで、西は相模の国から東の常陸の国まで、広大な土地が広がっているではありませんか」

政子は言った。

「そうなのじゃ、こごめの姫。ここに閉じこもっておっては、西は平兼隆の軍勢が、東は小田原の軍勢が攻めてこよう。伊東の軍勢だって再び攻めて来ぬとも限らぬ。政子の父上の北条時政に助けられて伊豆を抜け出してここに身を寄せたが最後、我々はこれからも戦うしかないのだ」

 頼朝は言った。

「それでは私達は、滅亡するのを待つしかないのですか」

 ここめの姫は涙声で言う。

「そうではない。安心致せ、こごめ姫。小田原へ攻め入って分かったことじゃが、誰も好き好んで平氏に味方する者はおらぬということだ。

首を取ろうと思えば取れたものを、家臣は領主の命令だと言って、われわれを見逃してくれた。身内の者が住んでおるという安房の国へ、

『われわれを隠まうように』

と文をしたためてくれたのじゃ。

今は平氏の天下で仕方なしに服従しておるが、いずれ時期が来たら源氏の頼朝殿の味方になりますと、そう約束してくれたのじゃ。これは相模の国に限らず、諸国守護大名の考えですとそう申しておった」

 実平は言った。

「そうなのじゃ、こごめの姫。源氏は不意打ちに遭って京の平治の乱で敗れたかは分からぬが、もともと源氏の軍勢は圧倒的に平氏の軍勢を上回っておつたのじゃ。

今もこうして諸国の領主から『必ずお助け致すから、もうしばらく辛抱なさいませ』と、ぞくぞく文が届いておる。われわれが勝利するのは間違いないのだ」

 頼朝は言った。  

「頼朝様の言葉を信じまする。必ず生き延びて私たちの元へ帰って来て下さいませ」

こごめの姫は言った。

「とにかくわし達は、明日の朝、家臣どもを引き連れて、真鶴の港から安房の国へ向かって旅立つことに決めたのじゃ。そなた達は必ず生き延びて達者で暮らせよ。必ず向かえに舞い戻るからのう」

 頼朝は政子に向かって言った。

「万が一の場合は、しとどの窟に身をひそめておるが良い、必ずわしが助けに行くからのう」

 実平はこごめの姫に向かって言う。

「こごめの姫は必ず私がお守り致しまする。しとどの屈が危なくなって、万が一そこを追われるようなことがありましたら、北条の里へ落ち延びて身を潜めておりましょう」

 政子が言った。

「ところで文士の方々だが、明日からはどのように致す」 

 頼朝は漱石に向かって言った。

「私共は後ニ・三日ここに留まって、温泉でゆっくり静養いたします」

 漱石は腕組みをして答えた。

「斎灯どのはどのように致すつもりじゃ」

 頼朝は私に聞いた。

「私はこの湯河原町の『こごめの湯』へ参りまして、そこで一日過ごすつもりでおります」

「まあ、うれしや。『こごめの湯』は、私が里の者に申し付けて掘らせた、町民のための日帰り温泉でございますのよ。

斎灯様が『ぜひ』と申されて訪ねて下さるのでしたら、私、里の者に申し付けて、生ビールなんぞをご用意させますわ」 

 こごめの姫は目を輝かせて言う。

「生ビール?でございますか」

 私は平安王朝を思わせる姫の姿からしては、思いがけない言葉に驚いて思わずその顔を見詰めた。

「オホホホホ・・・今時の若者は、好んでそのような下品なものをたしなんでいるのでございましょう。私、存じておりますのよ。ホホホホ・・・」

 こごめの姫は恥ずかしそうに笑った。

「あのう、それは・・・」

 私が返事に困って顔を赤くしていると、横から頼朝が口を挟んだ。

「斎灯殿、何もそれほどに恥ずかしがることはありませぬぞ。そなたの前に座っている文士どもの三人じゃがのう、風呂上りはおいしいとかで、ビールをがぶがぶ飲んでおったわ。ワッハハハハ・・・」

 頼朝は腹を抱えて笑った。

「オッホン」

 夏目漱石は思わず渋い顔をして咳払いをする。

「これでは大正と昭和の文人の格も落ちたものよ。ワッハハハハ・・・」

 頼朝はそれでも笑った。

「斎灯どの、それには及びませぬぞ。そこの一段と高い席に座っておられる頼朝公とて例外ではございませぬ。あの大きな腹の出っ張り具合をご覧なさりませ。

あれはまさしくビール腹でございますぞ」

 国木田独歩は漱石をかばうように言った。

「オッホン」

 今度は源頼朝が咳払いをする。

「殿、それだけはやめて下さいませ。天下の大将ともなろうお方がビールなんぞを飲んでおっては、世間の笑いものになりまするぞ。大衆から軽蔑にされておっては天下を平定できませぬ。

政子殿、頼朝殿にそのような下品な物を飲まぬように進言下さいませ」

 実平は頭を深々と下げる。

「実平殿、そう堅苦しいことを申さずとも良いではありませぬか。そなたの横に座っている妹のこごめの姫のことでございますが、実は・・・何を隠しましょう。大のビール好きでございますよ」

 政子は軽蔑したように笑った。

「うぬっ、そなたというやつは」

 実平は妹をにらみ付けた。

「あら兄上様、それには及びませぬわ。私にビールのおいしさを教えて下さいましたのは、他でもない、兄上の尊敬する政子様でございますのよ」

 こごめの姫はいたずらっぽく見返して笑った。

「何と」

「実平殿、何もそう怒らずとも良いではありませぬか。人それぞれ好きな物を召し上がるのが一番でございますよ」

政子が言った。

「ところで斎灯殿、そなたは明日、こごめの湯へ行かれるそうじゃが、何もそんな大衆が出入りする温泉に行かずとも、ここでのんびり過ごせば良いのではないか」

 政子は言った。

「いいえ、私は大衆的な人間なのです。人の出入りがある程度あって、ざわざわした場所でありませんと落ち着かないのです」

「それは残念なことじゃ。いずれにしてもだ、これでお別れしなくてはならぬ。斎灯どの。今度いつ会えるか分からぬが、それまで達者で暮らせよ。いつかまたお会いしたいものじゃのう」

 頼朝は名残惜しそうに言った。

 私もここの雰囲気に慣れてきたので寂しくなった。宴席は急に静かになった。

「それでは林という女中を呼んで、斎灯様をお部屋に案内させまする。林、林。どこにおる。斎灯どのの荷物を持ってお部屋に案内致してたもうれ」

 政子が言うと、女中が現れた。

「それでは斎灯様、どうぞこちらへ」

 女中は目で私に合図する。

「はい、分かりました。皆様、今日はどうもありがとうございました。私はこれで失礼致します」

 私が礼をすると全員が頭を下げた。私は殿様の部屋を出て自分の部屋へ向かった。


 翌朝目を覚ますと、私はさっそく朝風呂に出かけた。廊下を通り帳場の前を通り過ぎる頃、ガラス張りのショーウィンドウを見付けた。

中にはよろいが二組飾られていて重々しくのしかかっている。良く見ると、それはどうもゆうべ武将が身に付けていたよろいにそっくりなのである。ただ一つ違う点は、頭にかぶとが加わっていたことだった。

 さらに進むと、夏目漱石が愛用していた服だとか、国木田独歩が

着ていた服だとか、芥川龍之介が執筆中に愛用していた着物だとかが飾られていた。それも良く見ると、ゆうべの文士三人が着ていた服にそっくりなのである。

 服がここにあるということは、それを着ていた人物も現実に存在していたということである。それが亡霊なのか、この旅館の誰かが演技していたのかそれは分からなかった。

が、それはともかくどうでも良いことだった。ともかく、あの夕べの光景を思い出すと笑わずにはおれかった。

 露天風呂に身体を沈めた帰り道、私は二人の女が言い争いをしているのを耳にした。

「お母様、私はもう・・・どうなっても知らないからね。まったく知らない人を騙すのはもうやめにしましょうよ」

 娘らしい若い女が言った。

「おまえは商売のことが何も分かっていないのですよ。あの文人の三人と武将の二人は、毎年この演技を楽しむために泊り掛けで遊びに来て下さっているのではありませんか。

斎灯様だって、夕べは大いに楽しんだに違いはありませんよ。私が見立てた通り、決して金に困っているようすではありません。来年の今頃は懐かしくなって、きっとまた、ここの旅館を訪ねて下さるに間違いありませんよ」

 母親らしい女は言った。

どうも二人の声は聞き覚えのある声である。あの北条政子とこごめの姫の声にそっくりだった。

「まったくもう・・・私は知らない」

 娘らしい足音が、私の立っている帳場の方へ近付いて来るのが聞こえた。私は急いでそこを通り過ぎて行った。今の話のようすでは、お互いに顔を合わせないほうが良さそうである。

 部屋に戻ってしばらく経って、帳場に勘定を依頼すると林という女中が来た。

「夕べは良く眠れましたか」

女中はわざと顔を見ないように脱ぎ捨ててあった浴衣をたたみながら言った。

「おかげでぐっすり眠れたよ」

「料理はいかがでございましたでしょう」

「なかなかのものだったよ。朝食に刺身が出てくるとはさすがに気分がいいねえ」

「ありがとうございます。これ・・・申し訳ありませんが確かめてくださいませ」

 女中はお盆に乗せてある明細書を差し出した。手に取って確かめると二万五千円と書いてあった。

「あのう、高いでしょうか」

 女中は申し訳なさそうに言った。

「いや、そんなことはないさ。むしろ安いぐらいだよ」

 私はそう言って、札入れから三万円を取り出して渡した。

「ありがとうございます」

「つりはいらないからね」

 私が言うと、女中は再び頭を下げて出て行った。

 帰る支度が整って帳場に寄ると、女将らしい母親と娘、それにさきほどの林と名乗る女中が待っていた。

「大変な心遣いをいただきまして誠にありがとうございました」

 母親と娘は深々と頭を下げた。

「いやいや」

「どうしても『こごめの湯』へ参られるのですか。ここでゆっくりなさってもよろしゅうございますのに」

 女将はなごり惜しそうに言う。

「申し訳ない。最初からそう決め手あるものだから仕方がないのだ」

 私は体裁よく断った。

「それでは私が途中までご案内いたします。夕べ通ってこられました道を引き返して谷川へ下った方が、『こごめの湯』に参りますには便利でございます。

どうぞ私の後に続いて起こし下さいませ。とっくに九時を過ぎておりますので入浴は可能でございます」

 女中はそう言うと、私の荷物を持って先を歩き始めた。

「ありがとうございました」

「ありがとうございます。またお越し下さいませ」

 私の後ろから母親のていねいな声と、娘の元気な声が響いて来た。

 露天風呂を横目で見ながら竹やぶを通り谷川に着くと、女中はひもをゆるめて仮橋を下ろした。

「川を渡って足湯を通り過ぎますと、上へ登る細い道がございます。そこを登って行きますと、夕べお会い致しました狸霊神社へ出ます。その上には舗装した道路がございまして、そうですね。

右に曲がって下りますと、五十メートルほど歩いた左手に『こごめの湯』が見えて参ります」

 女中は指で方向を示しながら言った。

「ありがとう」

「それではゆっくり静養なさって下さいましね」

 私は橋を渡る途中で、目の前の足湯を見て立ち止まった。

「ねえ、君。これはやっぱり『独歩の湯』なんだろ」

 私は振り向いて聞いた。

「そうでございます。『独歩の湯』でございます。夕べは変なことを申しまして、誠にすみませんでした。

何でもそう申しました方が、お客様の受けが良いのだそうでございます。これも女将さんの知恵でございます」

 女中は恥ずかしそうに、にやにや笑いながら言った。

「それでは昨日、僕が見た蛍も君たちの仕業かね」

私は、季節はずれの蛍の意味をようやく飲み込めた。

「蛍ですか。何のことでございましょう」

 女中はとぼけて真剣そうな目を向けた。

「実は昨日、『しとどの窟』からこっちへ下る途中に道に迷ってしまってね。すっかり日も暮れて困っている時に、蛍を見たんだよ。

なかなかきれいなものだった。その蛍に助けられながら、ようやくそこの狸霊神社にたどり着いたのだ。そこで君と出会った」

「まあ、そうだったのでございますか。おけがなさいませんでしたか」

女中は愛想良く答えた。

「もちろん、していないさ。僕はどうも、君たちに騙されたような気がしてならないのだ」

「まあ、私たちが斎灯様のような良いお方を騙すなんて、そんなことは致しませんわ。斎灯様はきっと、かげろうか虫をご覧になって、思い違いなさったのでございましょう」

「そんなことはないさ。あれは本当に蛍だった。君たち、本当に蛍を見たことはないのかね。テレビでも報道しているじゃないか」

「あれはまったくのデマですよ。私ども、地元の者や旅館の者も注意して見ておりますけどね。誰一人として見た人はおりません。

もし斎灯様が見たとおっしゃるのでしたら、それはそれで幸せなことではありませんか。私どもは斎灯様の夢を大切に致したいですわ」

「なかなか、君たちもやるじゃないか」

 私はそれ以上に蛍について聞かないことにした。

「君のところの女将さんは、とても賢い方なんだろうね」

「ええ、そりゃもう、とても賢い方なんですよ」

「じゃあ、その女将さんに『いつかまた遊びに来ます』と言っていたと、伝えてくれないか」

「ありがとうございます。必ずそう伝えます。もし斎灯様が本物の蛍を見たいのでしたら六月ごろがようございますわ。その頃になりますと、この『独歩の湯』一帯は本物の蛍が飛び交うのでございますよ」

「うん。分かった。じゃあ、いずれまたその内に出掛けて来ようかと思っている」

 私は前を向いて歩き始めた。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ち致しておりますからね」

 私は女中の心地よい声を聞きながら『独歩の湯』を後にした。もし、もう一度ここを尋ねることがあったならば、今度は殿様の役をやりたいものだと思った。

                   

          おわり


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  現代小説 『就職』

      

上鑪幸雄


       一  

                  

 待合室とは名ばかりの空間を、季節はずれの北風が通り抜ける。人の門出を嘆く惜別の風だった。南薩鉄道の駅舎に設けられた長椅子は、隙間の多い木製の粗末なもので、座っていても冷気が板の隙間から伝わってきた。私は一人、母とは離れて座り、遠くから聞こえてくる他人の無駄な話声に耳を傾けている。

「寒くないかい」

「いいや」

「そろそろホームに出ようか。汽車に乗り遅れたら大変じゃから」

 聞き覚えのある声が私の耳を押し開く。母のわがままな気遣いだった。努めて他人のままでいたいと願う私に対し、母の親切な一言が私をいらいらさせた。

 母と別れて暮すのは初めてである。それならば母が何かと世話をやきたいのは当然だったとしても、同じ忠告を何回も繰り返し聞かされでは私もたまったものではない。私は少し険悪な気持ちになった。

「まだいいよ。ホームは風が強くて寒いからさ。もうしばらくここでじっとしていようよ」

「だっておまえ」

「うるさいなあ。分ったよ」

 私は『十五分もあるのに乗り遅れるわけがないじゃないか』と、腹を立てながら、横に置いてあったボストンバッグを持ち上げて先を歩き始めた。高校の通学に三年間利用した駅の乗り降りは、私の方がよく心得ていて、レールが鳴り響くその寸前までじっとしていたかったのだった。

『何だ、あの生意気な態度は』

 母の横で、見送りに来ていた伯母が鼻を突き上げて言った。

「いいんだよ、姉さん。男の子が母と口を利きたがらないのは、自立した証拠というから、我慢、我慢」

 伯母はせっかく見送りに来たのだから、親をもっと大切にしても良いではないかと言いたかったのだろうが、私は母の身長を追い越したその頃から、貧乏な家庭の生活事情を良く観察していて、反抗の目を向け無口になっていた。

四歳にして死んだ父親のことを考えるならば、親をもっと大切にしなければならないと分っていても、まだ幼さの残る私の心は,母の支えになれないのである。

気の毒ではあっても、百年も放置されたボロ家のことを考えるならば、親を尊敬する気持ちなどなれない。私は中学、高校と六年もの間、貧しい家を隠すために友達を遠ざけ、もっぱら互いを訪問しない程度の付き合に押さえて来た。

家庭が貧乏で、出費を極限に抑えた貧乏学生の苦しみは、そうした環境で育った人間にしか理解できないだろう。

 改札口を出て通路を渡り反対側のホームに立つと、母の後ろから高校生の同級生が追い掛けて来て、やっと母のそばから離れて自由になった私を、再び同級生が拘束した。彼らは孤独を好む私の静寂を破った。

彼らは前後して全員が都会に出て就職することが決まっていて、先に発つ者を、後から追う者が見送りに来たのである。

「元気で頑張れよ」

「ああ」

「向こうで落ち着いたら、連絡をとってまた会おうや」

 普段着の同級生は、出発を前にした新しい服姿の私に握手を求める。私は感謝しながらも、複雑な気持ちで相手の手を握った。友の気遣いを有難いと思うと同時に窮屈さも感じる。晴れて社会人となったならば、紛らわしい旧友との付き合いも無くしたいとも考えている。

 貧乏な家庭に育った険悪な私を知っている友人など、引け目を感じるだけで対等な話などできない。新しい土地で、新たにできた友達に、田舎の貧しい生活を吹聴されたら・・・それこそ大変だ。都会に出たならばそれもじっくり考えよう。もう少しの辛抱だった。

「体に気を付けてな」

「ああ」

「近くで働くことになったんだから、そのうちに遊びに行くからなあ」

「ああ」 

私は友達の偉そうに励ます恩着せがましい言葉を耳ざわりに感じながら、いよいよ別れの近付いた田舎の、刈り取られたままの稲株が広がる水田地帯や、東シナ海に面した砂丘の青々した松林の風景を見つめていた。

川も田畑も木々に囲まれた家々も、音と共に視界から消えて行く。なにもかもが新鮮で、風になびく茅の姿でさえ、十六年間住んでいた田舎とは思えない新鮮な風景だった。

「何もおまえ、幸一は長男なんだから、無理に都会へ出して働かせることはないんじゃないか」

 伯母がわざと聞こえるように言った。

「姉さん、それはもう決まったことじゃから言わんで。あの子にも夢があるじゃろうて」

 母は私に気を遣って言う。馬鹿な会話だと思う。この田舎に若者を引きとめる何の魅力があるというのだろう。

貧乏、束縛、興味本位の監視の目。若者が必要とする自由と、広い未知の豊かな世界が無いではいか。

 私達は薩摩半島にしては珍しい広い水田地帯の中で育ちながら、自分の田畑が持てず、小作農という鎖に縛られて貧乏に生きてきた。貧しさは宿命で我慢には慣れていても、心のプライドがそれを許さない。

家が持つ土地の広さは、田舎に住む人々の貧富の格差をそのまま反映していて、人間の尊さの尺度と同じであった。

 人間はもっと自由で平等であるべきだと分っていても、それをひがむ自分の心も、守る家族も、取り巻く世間も、人々の心の本性にはかなわない。金持ちは財産を増やすために金を遣い、貧乏人はそれを助けるために働く。

そうした裕福な人々を助けるための労働が、今の私達に残された唯一の生活手段であったのだ。そうしなければ田舎では生きられない。

 私は、少なくとも私よりは全員が裕福だと思えるクラスの中で、ボロ家の柱の傾いた貧困生活を隠すために友達を遠ざけ、親友といえども、心を鬼にして遠ざけた。何故か貧乏は悪者のように思えた。

相手が私の家庭生活に関心を抱かないように、その場限りの会話に徹して来た。高校が鉄道で一時間もかかる場所にあったのは幸いであった。私のプライドはそれによって、幾分守られた。

 友は都会に出た後でじっくり作れば良いのだ。対等に付き合えるようになって、引け目を感じなくなった時にこそ、安心して本当の友達を作れば良いだ。異国の地は希望の楽園であった。

 枕崎始発のジーゼル列車が、阿多の丘を下って近付いた時、私の心は早くも大阪の職場に向かって田舎に残る人々を裏切る仕度を始めていた。同じ年の友人の見送りも、母の愛情もわずらわしくなって、 

『早く田舎から脱出して解放されたい』

 と、そればかり考えていた。

「じゃあ、幸一、体に気を付けてがんばるんだよ」

「うん、かあちゃんも体に気を付けて」

「ああ」

 淡白な母が珍しく涙ぐんだ。私はその母をむずがゆく思い顔をそむける。そして、急いで列車に乗り込んだ。

「幸一さん、最後に握手して」

 同級生の女が思わず駆け寄って来て、私に手を差し出した。私は言われるままに握手をする。

「元気でね」

「幸一さんも元気で、良かったらお手紙ちょうだい。田舎に残るのは寂しいから」

「ああー」

 見送りに来ていたもう一人の女も、工業高校の同級生もニヤニヤしながら私達を見詰めている。私はこの和田清子に特別な感情を持っていたわけではなかったが、彼女はどういうわけか私に好意を寄せていた。

 男は貧しいというそれだけの理由だけで、人並みの生活ができるようになるまでは女などに構っていられない。果たして、女が男のそうした気持ちをどれほど理解できるのだろうか。単なる義理や同情で私に愛情を寄せたとしたならば、生活力に不安を持つ男にとってそれは迷惑そのものだ。

 新年会の帰りの夜、彼女を遠い一軒家まで送って行ったことがあった。彼女はたったそれだけのことを、男の愛情のように感じ取ったのだろう。

 清子は交通事故で下半身不随になった兄の面倒を見るために都会の就職をあきらめ、田舎に残ることになっていた。私はその不幸を気の毒に思うと同時に、金持ちが貧乏人を見下す時と同じ気持ちで軽蔑している。今の私にとって、都会への脱出は絶対的なものなのだ。

 道路の石ころや、民家の板壁や、茶色にさび付いた看板が駅とともに遠ざかって行く。列車がやっと動きだした。

「さようなら」

 私も友達も、母も伯母も思いっきり手を振った。

「さようなら。さようなら」

 離れ始めたその瞬間から、友達の祝福の掛け声も清子の姿も小さくなって遠くへ消えて行く。遠ざかるにしたがって、人間が昆虫のように見えてきた。こんなに親切にわざわざ見送りに来て下さったのに、

『自分がどうしてそれらの人々をわずらわしく思うのか』理解できない。ただそれは正直な自分の気持ちだった。

 遠ざかってゆく列車の後ろに、確かに見覚えのある田舎の風景が映し出されて涙が出そうになった。一部が見えなくなる。今ならば田舎に戻って暮らしも良いと考える。そんなことをしても、後悔するばかりだと分かっているのに、何故か今はそんなことを考えた。

 ガラス窓の外に風を切る音が大きくなって、見詰めている瞳の中に見送りに来た人々の姿が消えて、

『もはやこれまでと』

悟った時、私はやっと自由の身になれたのだと思った。ボロ家から解放されて、どこへでも自由に飛んで行けると思った。これからが本当の人生なのだ。


 鹿児島から大阪までは特急と新幹線を乗り継いで九時間の旅だった。単に憧れて都会へ出て来た私は、大阪という目的の駅が近付くにしたがって、急速に就職という未知の不安に悩まされてゆく。

無事に仕事をこなすことができるのだろうか。役に立たないからと、後になって追い出されるのではないだろうか。これから就職する会社をまだ1度も見たことがないだけに、なおさら不安だった。



           就職 二


 これから就職する会社は中小企業で電気関係の会社だというだけで、どんなものを製造しているのか、どんな建物なのか、給料はいくらもらえるのか何もわからなかった。

 「君は都会ではなく、田舎に就職したほうがいいんじゃないかね。家の手伝いをして農業なんかどうなんだ。役場や農協に知り合いはいないのか」

 担任の先生に言われたのは、二度も就職試験に失敗した後だった。学校を一度も休んだことがなく、馬鹿がつくほど真面目だった私が、多少は景気が悪くなったとはいえ、試験に落ちたことは誰の目にとっても不思議だった。

二学期が終わりに近付いても、私だけが未定のまま就職先が決まらなかった。先生は心配していろいろ原因を探って下さった。

 内申書らしい経歴で調べた結果、小学校時代の病気による長期欠席と、脊椎のわずかな変形が原因であることがわかった。この内申書が会社に届く以上、大企業への就職は無理だと言う。

「どうしても都会へ出て働きたいのです。どんな会社でもいいんです」

 私は都会の大企業に就職したいばかりに、貧しい家庭の経済事情を無視して強引に勉強して来たので必死で頼んだ。

田舎に残って落後者のように扱われ、軽蔑されるならば、今の貧しい生活が永遠に続くならば、将来に何の未練があるだろうか。それならば死んだ方がましである。

暗い顔をして不安になった私の顔を見て、先生はそうした私の願いを十分理解して下さったようだった。

「たとえどんな会社であったとしても後悔しないかい」

 先生はそう言いながら私の目を見詰め、これから向かう会社を紹介したのだった。だから私は、大阪へ来る途中で目にした広すぎる敷地の中に、ブルーのガラス張りに輝く大手建設機械の会社や、反対側の壁が霞んでしまうほど広大な土地を持った車両製造会社を連想してはいけないのだ。たとえボロボロの町工場でも我慢しなければならないのだ。

 列車の窓からは様々な会社が現れては通り過ぎて行く。噴水を上げる庭園を持った会社や、広い運動場を持った会社など、裕福な会社を目にすると、今更ながら大手企業に入社できなかつた自分がが悔やまれてならない。

多少の障害があったところで、仕事上で差し支えなければ、会社はもっと寛大に入社を認めても良かったのではないか。せめて真面目に生きてきた人間に対しては、そうした身体の欠点や、親兄弟の生い立ち、年齢にとらわれない自由な抽選による採用方式を認めても良かったのではないか。

 国が障害者と認めない程度の人々は、雇用の差別の不利益をどこへ請求すればよいのだろう。両親のうちの、どちらかがいないという理由の就職差別は、とうの昔になくなったのだから、こっちの方も早く解決してほしいものだと思う。

『ああー、今更そのことを言っても始まらない』

 悔しいけれど過ぎ去ったことは夢、幻、迷い。何も大手企業だけがすばらしい就職先とは限らないのだ。私を望む会社だけをこの世で一番素晴らしい会社だと思うことにしよう。大手企との業間に貧富の格差があるならば、自分の力でその格差を縮めてみせよう。

コト・ガタコト・ガーガー・・・ゴトゴト・・・ズズズズ・・・・列車が激しく揺れた。粉砕工場突入し、前方から新幹線ごと砕け散るようだった。精神的不安は機械的、物損的破壊の恐怖に救われる。命の恐怖は一時的に私の不安を救ったが、余り長続きはしなかった。

淀川の鉄橋を渡る時、とんでもない遠い国に来たような気持ちになって、零細企業という就職先が太平洋を渡る冒険のように思えた。これで簡単には田舎へ帰れないだろう。私は田舎の人々を裏切って捨てたのだ。

 川の水に心を映し出しながら、窓ガラスに額を押し付けて自分を慰めてみても不安は一向に治まらず、田舎の風景を思い出しながら泣き出しそうだった。鹿児島の水田地帯の生活も、貧乏暮らしも、そう悪くはなかったような気がした。今ならば引き返して、田舎の生活に耐えられそうな気がする。

 大した現金収入にならない、収穫以前の麦畑を耕す祖母の姿が懐かしい。老婆のようにただひたすら働いて、収入にならない麦踏みの作業も、あるいは悪くないのかも分らない。

 しかし、そんな作業ともお別れだ。人生は勇気をもって前向きに考えなくてはならない。列車はそんな私の迷いを察知したのか、大阪の方へまっすぐに進んで行った。


 大阪の駅に着いた。ホームに立つと人々があわただしく動き回っている。鹿児島駅に比べても比較にならないほどの人の多さである。私もそうした人々の忙しさに惑わされて、つい駆け出したくなった。

『新幹線を降りたら、そのままそのホームを動かずに待っていなさい』

 入社案内の手紙の中にそう書いてあるのを思い出した。理屈ではその方が良いとわかっていても、この忙しさを見ると私もじっとしてはいられない。自分で自分の会社を探しに出掛けたくなる。

 それにしても会社の人は迎えに来てくるのだろうか。

『不採用になった』と、言い始めて、いまさら迎えに来ないのではないだろうか。悪い予感が人々の動きと共に頭の中をかすめねる。

「都会へ出たら悪い人にだまされるんじゃないよ」

 田舎の祖母に繰り返し言い聞かされた言葉を思い出した。近づいて来る人々が悪人の集団のように思え、顔つきも目の表情も穏やかでないような窃盗団の集団のように思えてくる。私はますます不安になった。

『そうだ。ここは都会なのだ。用心しなくては』

 お金は大丈夫か、思わず胸に手を当てた。

 私がきょろきょろして落ち着かずにいると、色黒で目の窪んだ胴体の長いタヌキのようなおじさんが近付いて来た。見るからに悪い人のようだった。

『ほーら、来た来た悪人め。私が田舎者だと思って騙そうとしているのだろうが、そうはさせてやるものか』

私は目をそむける。

「君、西島幸一君だね」

「はい」

「世界的電気会社の藤原です。総務課の」

 ああー、しまった。この人は私が就職する会社の人だったのだ。

「ああ、すみません」

 私は自分でも驚くほど心を変動させて、あわてて親しみのある笑顔を装った。しかし相手は私のそうしたずるさを見透かしたのか、気付かなかったのか、親切な顔を見せた。私は自分の心を覗かれたようで恥ずかしかった。

「同じ新幹線に鹿児島の女の子が乗っていたんでね。そっちを先に捜していたんだ。その宮田典子さんだ」

 世界的電気株式会社の人は、後ろを振り向いてイモ族の人を紹介した。就職のために新調したピンクのスーツに比べて、顔の表情が今ひとつ決まらない。ふっくらと幅の広い顔は、やはり郷里を同じくする田舎のお姉えちゃんだった。

「始めまして、宮田です。よろしくお願いします」

「西島幸一です。こちらこそよろしくお願いします」

 私は頭を下げながら、相手を抜け目なく観察した。気立ては悪くないようだが美人ではない。これならば田舎に残った和田清子の方がまだましだ。

「同じ新幹線に乗っていたなんて知らなかったわ」

 イモさんは私を見て一目惚れしたのか、にっこり笑って近付いて来た。大変だ。こんな女に言い寄られたら、私の人生がたまったものではない。私は相手の笑い掛ける笑顔を無視して会社の人の後ろへ回った。

「こんな女と親しくなるなんてそんなのいやだ。結婚まで迫られたらどうしょう。そんなことはないとは思うが、用心するに越したことはない」

「あと二人、同じ新幹線に広島から途中乗車した女の子が乗っていたはずなんだけど、君達、気が付かなかったかい。そのために住所と名前を知らせておいたのだが」

 藤原さんは同じ会社に入社する名簿を送ったことで、すでに仲間として顔見知りになっていることを期待していたようだった。

『いいえ、そんな人知りません。だってまだ一度も面識がないんですよ。写真だって送ってもらっていないし、同じ新幹線の中に何人の乗客がいると思うんですか』

 私は言ってやりたかったが、おとなしく『いいえ』とだけ答えておいた。

「捜したけどいないんだ。先に自分達だけで会社に向かったとも考えられるから、我々もそろそろ出発しようか」

 藤原さんは一通り周りを見渡してから言った。

「はい」

 私達は勢い良く返事して、そばに置いてあった荷物を持ち上げた。

「時間がないからさ、会社に急いで向かわないといけないんだ。駅の中はかなり混雑していて大変だとは思うが、遅れないようについて来るんだよ」

「はい」

 私達は素直にうなづいた。

 私達が返事を終える前に藤原さんはもう、三歩先を歩き始めている。私達との距離は見る見るうちに開いて行った。女の子は藤原さんに二つある荷物の一つ持ってもらいたいと思っていたようだったが、彼にはそんなことなど無視している。

「自分で勝手に持って来たのだから、自分の事は自分で解決しなさい」

 そう言っているようだ。

 田舎育ちの僕達にとって都会の人混みがどれほど大変なことか。私達の戸惑ったようすを無視して、藤原さんはわざとらしく、足早に人々の間をすり抜けて行く。まるで私達二人をこの雑踏の中で迷子にさせているようだ。置き去りにして逃げて行きたいのかも分からない。

私達が期待はずれの人間に思えて、気に入らなかったのだろうか。最初に会った時、盗人のような目つきでにらんだ私を、怒っているのだろうか。行方不明になっても構わないのかも分からない。

私達は、今はどうしても会社に就職しなければならない立場であることを痛感させられる。残された宮田さんと私は二人で顔を見合わせ、親を失った子猫のようにあわてて新たな飼い主を求めて後を追って行った。



      小説『就職』 三(最終回)


「あれが大阪城だよ」

 環状線の電車の中、森之宮付近を通り過ぎる頃藤原さんが言った。そう言えばそんな有名な城がこの都会にはあったのだ。自慢して示しただけのことはあってなかなか立派なものである。白い壁と緑色の屋根が全世界の光源のように感じられ、天守閣が自分の住まいのような親しみを感じる。

 頑張れば、ああした城が買えそうな、とてつもない大きな気分になった。城を大阪の市民と一体となって、共有したような不思議な錯覚である。 

『成功して金持ちになったら、あんな大きな城を建ててみよう』

 そんな夢さえ広がる。しかし、電車はそうした城郭を回り込んで生駒山の方へ向かって進んで行った。都会的な高層ビルの群れからはどんどん遠ざかって行く。中心部から外されたような寂しい気分だ。


 鶴橋駅を降りて近鉄奈良線に乗り換えると、一変して町が雑然としてきた。大阪駅や城の周りと比べても、けた違いの乱雑さだ。

「大阪の生野区は町工場が多くて、韓国人の多い町なんだよ」

 正月休暇で鹿児島に帰省していた近所の先輩が、私の就職する地名を聞いて冷ややかな口調で言った。私は自分のプライドから、先輩のそうした説明にうなずきながらも、汚い町だという言葉を信用しようとせず、ひたすらに間違いであることを願っていた。果たして、どんな町にどんな会社が存在するのか不安が高まってくる。

 そして、その街に着いた。

 戦災を免れたような木造の建物が多い街だった。すすけた建物が、通りの彼方の収束された点の位置まで続いていた。いまどき文明が進んだ近代的なこの街に、木造の建物が存在することがまだ信じられない。

閉山になった炭坑の朽ち果てた町を思わせるような、そんなすたれた寂しい風景だった。大阪駅前の繁華街や大阪城北側の高層ビルのオフィス街がうらやましくなる。

『他の級友は華やかな高層ビルの会社に就職したのだろうか。それとも新幹線の中から幾度ともなく目にした、ゴルフ場のように広い芝生に囲まれた会社に就職したのだろうか』

 病気で長期欠席したという理由だけで、そうした会社に就職できないのは納得できない。人間は平等であると教えられてきたはずなのに、どうして私だけがこんな汚い町で働らかなくてはならないのだろう。この街を友達が見たら何と言うだろう。どんなに軽蔑するだろう。

 こんな町にあるこのタヌキおじさんの会社が、どの程度のものか不安だ。案外、木造のせいぜい2階建てのボロ家かも分らない。私は最低限の会社を心に描きながら、それでも遠くに見えるひときわ高い鉄筋のビルを自分達の会社だと一方的に決めて、まだまだ希望を持ちながら歩き続けた。

「どお、疲れたかい」

「はい」

「ほんの少し」

 僕は遠慮気味に言った。

 駅から十五分は歩いて来ただろうか。私達は波打ったトタンの壁の、黒い建物の前で立ち止まった。

「ここだよ」

 藤原さんは言った。

「ええ?まさか」

 会社とは思えないような、さび付いた塗装のはがれた壁の前だった。とても高校卒業生を就職させる会社とは思えない。間違えたのではないかと言う私達の意見を無視して、藤原さんは意地悪にも奥へどんどん進んで行く。

 通路が暗く狭い。通路と言うよりは製品と部品の入ったコンテナが山積みされたジャングルのような場所で、にわか倉庫のような場所だった。やっとそこを通り過ぎたころ、五、六人のグレーの作業服を着た男女が、部外者のような私達を物珍しそうに見詰めて笑っている。

若い中卒の作業員のようだった。

『ドジ』

 まるでこんな会社に騙された愚かさを軽蔑しているかのようである。私と連れの女は顔を見合わせた。年下の連中に馬鹿にされているようでは私達も賢いとはいえない。相手の女も暗い顔をしている。あれほど憧れた都会の会社が、こんな木造のトタン壁の建物だったとはとても信じられない。

 映画の中に出てくる高層ビルの中から都会の風景が見下せる・・見晴らしのいいガラス張りの透き通るように明るい職場はどこへ消えてしまったのだろう。ここには白いブラインドのカーテンもレースのカーテンもないのだ。

明るく整然とした蛍光灯も、青いスチール製の机の列も、大きなゴム木やベンジャミンのような植木もないのだ。とてもオッフィスと呼べるような明るい職場ではなかった。どぶ川に水没したようなそんな会社だった。

『せめて三、四階の鉄筋の建物であったら、汚い建物でも我慢できたのに』

 二階に事務所があるというので、油で拭いた黒い階段を登らされた。足が重い。これほど自分の体が重いとは思ってもみなかった。階段を登る力が、自分を零細企業に安売りする協力的な行動に思え、自分をスラム街へ転落させる馬鹿げた行為を拒否している。

『それでもこの会社に気に入られようと、気力を振り絞って登っているのはいったいどういうことだろう』

引くに引けない自分のプライドが、自分を困らせようと頑張っている。

『もうどうにでもなれ』

という気持ちと、

『自分を安売りしちゃ駄目だ』

という考えが交差する。

重力に任せて階段を逆戻りできたらどんなに気持ちがいいことだろう。プライドとは自分を守ることで、安売りすることではなかったはずだ。弱い者にとってプライドとは虚栄心のことだったのだろうか。


 とうとう牢屋と思われる応接室に通された。そこには『お取り』とも思わせるような若い男女が七、八人いて、私達を見てにっこり笑った。私達も相手の誘いに乗せられてにっこりと笑う。捕虜は捕虜同士、同じ仲間がいるならば安心なのだ。

高校を卒業して、今日この日会社に着いた同じ同期生だった。少なくとも私達二人だけがだまされていたわけではなかったのだ。私達二人は.十人集まった仲間と一体となって互いを慰め合い、少しは平均的な会社に就職できたのではないかと希望を持った。

「駅から歩いて来たの」

「ええ、そうよ」

「私達もそうなの。さっき着いたばかりよ。疲れたでしょう」

  先に着いた女は先輩気取りで私達に話し掛けた。

「さてと、今日は疲れておいででしょうから、さっそく寮に案内します。先輩を動向させますので、そこでゆっくり休んでください。今日は出勤扱いにして給料を払いますからね」

 藤原さんにそう言われると、私達は得をしたような気持ちになって嬉しくなった。到着日を出勤扱いにするような寛大な心があるならば、小さな会社でも悪くはないのかもわからない。見かけは悪くとも、経済的にはゆとりのある金持ちの会社かもわからない。

  私たちの引率には寮長だという先輩が当たり、その人は親切に誰かの荷物を持ったりして私達を安心させた。

「上を見ればきりがないんだしさ、今の会社も慣れればそう悪くないよ」

  今の会社に勤めて五年になるという先輩は、後ろを振り返り、後からついてくる我々を数えながらそう言った。多少年齢が離れていても、同じ世代が増えたことを喜んでいるかのようである。

私も大手の会社に就職できないのならば、夢を捨てて現実の会社に満足しなければならない。

 なにも中小企業だからといって、悪い会社とは限らない。給料が安いとは限らない。もしかしたら将来発展して、重役に昇進するかもわからない。とにかく今はゆっくり休んで眠り、落ち着いてのんびりしたい。

  近鉄奈良線に乗り込むと二駅ほど通過して東大阪市の河内駅に着いた。駅からの距離はどれぐらい歩いたのか余り覚えていない。それは田んぼに囲まれたあぜ道の上に建つ会社の寮だった。

  二畳一間の部屋は、押入れのないコンテナ型の部屋である。四方から壁が迫ってくると、自分が奴隷として売り飛ばされてきたようで、いかに自分を安売りしたかがわかる。  

今日見てきた会社と、これから生活するこの狭い部屋が私の生活水準なのだ。入社した会社に、これ以上希望を持つことは無理なようだ。

「給料が安く、レクレーションなど楽しいことは何もない」

という寮生の話は本当だろう。先輩のすさんだ服装や、暗い顔を見ると、将来の生活が案じられる。

 田舎の家はボロ家とは言っても、これほど狭い部屋ではなかった。家族という暖かさや、庭や家具類があった。ここは二畳の畳と板敷きがあるだけで、他には何もないのだ。

 二回も就職試験に失敗したからといって、何もこんな会社に安売りすることはなかったのではないか。何も都会へ出て来て働く必要もなかったのではないか。何のために高校へ進学し就職したのだろう。

今まで学んできた知識と知恵を振り絞り、最良の会社を捜すべきだった。最後の就職試験に今まで学んできたことを振り絞り、最善を尽くして挑むべきだった。

どうして『就職さえ出来れば』 と、いう甘い誘惑に負けたのだろう。高校へ入学した説明会で、

『この高校は、君たちは大企業でなくても、せめて中企業という、ある程度安定した会社に就職させることに決めている。君達もその約束を守って欲しい』

 と言われた覚えがあった。今頃になってどうしてそんな約束を守らなかったのだろう。

 零細企業に夢を託し、自分の力で大企業に負けないぐらいの会社を築いて見せるというあの意気込みは・・頭の中からすっかり消えてしまっていた。

『たった自分一人で自分の将来を切り開いてみせる・・・という意気込みは逃げ口実だったのではないだろうか』

一人でそんなことが出来るはずはない。今は現実の厳しさに打ちのめされて、このどん底の就職先から這い上がる気力すらないのだ。

心に描いていて、あえてそれを認めようとしなかった不安が現実のものとなって、将来に何を喜びとして求め、何を生きがいにすれば良いのか全くわからなくなった。何に希望を求めればよいのだろう。

ただ田舎から脱出することばかり考えて、その結果から生じる災難を考えてもみなかった。まったく間抜けで、馬鹿な俺だ。

 しかし、しかしである。だからといって・・今更田舎へは引き返せない。それはどんなことがあっても、それだけはしてはならないと分っている。とにかく結果がどうであろうと、田舎から脱出することには成功したのだ。

だとすれば、今はこの会社に勤めてじっくり様子をうかがい、どんな生活がやって来るのか確かめる必要があるのではないだろうか。

しばらく暮らした上でようすを伺い、必要ならば転職も考えよう。いま、あわててこの会社を出て行ったところで、自分を雇ってくれる会社などないのだ。私は全世界の人々に棄てられたのだ。

「ああ、それにしても疲れた」

ふとんを敷いて横になると、その中は暖かく今まで抱いていた不満は嘘のように消えた。眠ったが最後、それは現実の生活に妥協し、ここを抜け出すことすら困難になるとわかっていても、その誘惑にはどうしても勝てない。

 私は眠りながら、

『遠い世界へ旅発てる今が、人生の中で一番幸福な時間ではないだろうか・・・』

 と思った。


                おわり 


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夜は眠いし疲れねよね

お休みなさい → オットトトト・・・・・待った!

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