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翌日、田代の勤務は7:00開始の早番であったため、6時45分までにはタイムカードを打刻して担当ユニットのステーションへと赴く。夜勤者からの申し送りを受け、申し送りノートにざっと目を通してから、勤務開始時刻を待つまでもなく、いそいそと起床の介助を開始する。
とにかく朝の時間は忙しい。ほとんどの入居者は、自立した生活を営むことが困難な要介護高齢者である。ベッドから車いすへ移乗し、身ごろを整え乱れた髪をとき、洗面とマウスケアを行った後に所定の席に連れていき、朝食までの時間をテレビを見ながら過ごしてもらう。
「その人らしい生活を送っていただけるように」「尊厳をもって、寄り添いながら最良のケアを」などという題目を建前上どこも掲げてはいるが、その実、施設職員の稼働する時間軸が優先されざるを得ないのが介護施設の現状である。
連綿と繰り返される朝のお勤めも一段落したところで、そろそろ約束の9:00を迎えようとしているところだった。
もう一人の職員にユニットを離れる旨を伝え、施設長と新人スタッフが待つ事務所へと足を運ぶ。ちょうど2分前だった。5分前行動を戒律としている田代にとっては痛恨のミスであったが、そんなことを悔いる間もなく急いで事務所のドアを開く。戒律を守れなかった焦りから、ドアのノックを忘れていたことも彼にしてみれば痛恨のミスである。
「おはようございます」と覇気の乏しい声量であいさつを投げかけた田代に、
「おはようございます」
「おはようございます。よろしくお願いします」
二つの挨拶が返ってきた。一つは施設長。もう一つは、スーツ姿の女性であった。年の頃は30代前半くらいか。目じりの上がった少しきつめな顔立ちをしているが、美人と称されるに十分値する容姿であろう。
ストライプ柄のライトグレーのパンツスーツに、腰高にタックインされた白のブラウス。誰が見ても、仕事のできそうなキャリアウーマン然としており、とても新人介護スタッフとは思えない風貌である。
『まさか、この美しい女性が新人スタッフ??なんでこんな美人が?私のような下賤のものは、目を合わせることすら憚られてしまいますがな・・・』
と、心の中で高揚と緊張と興奮と下心とがくんずほぐれつしていて、出会い頭で思考回路がショート寸前の田代に、よれよれシャツが哀愁を誘うオフィスカジュアル姿の施設長が声をかけた。
「田代君、こちらは高島さん。君の新人教育のサポートを担当してくれる方だよ」
「高島です。大変だとは思いますが、可能な限りのサポートはさせていただきますので、よろしくお願い致します」
「田代と申します。こちらこそよろしくお願いします」
流れで形式的な挨拶を交わしたが、どうにも違和感を感じ得ずにはいられない。何故、スーツ姿の美女がサポートに付かなければならないのか??そんなに大変な人の教育係を任せられてしまうのか??
田代の『困惑しています』と言わんばかりの表情にいくばくか察しのついた高島が、施設長に問いかけた。
「あの、施設長さん。もしかして今日のこと、何も説明はされてないのですか??」
「え?ああ、はい。新人の教育係よろしくねーとだけ伝えてます。私も忙しくて、詳しく説明するところまで情報が整理出来てなかったもので」
何がなんだか訳の分からない展開に業を煮やした田代が、割って入るように質問をした。
「何か特別なことでもあるんですか??私に出来ることなら、とりあえず何であれやってみます。詳細を説明して下さい」田代は、不毛な時間を過ごすことを嫌う性質の持ち主なのである。
「驚くかと思いますが、実際に会っていただくのが一番手っ取り早いと思います。付いてきて下さい」
そう言うなり、事務所の隣にある会議室に案内された。そこに居たのは、田代と同じ制服を身に付けた、一頭のチンパンジーだった。
「こちらが今日からお世話になる、チンパンジーのロッキー君です」
「・・・」絶句するほかない、田代だった。