帝国と狗(Ⅰ)
ここで一度、視点をブルア役人に移す。アーキレイアスの育った1850年代は、いわゆる聖域戦争が始まっていた時期にあたる。ブルアを筆頭とする連合国はこれに対して参戦していたが、煌国はそうとはいかなかった。先に述べたように、国内の失業者は多数、それがあまり回復していなかった。生産能力は上昇せず、これをみてブルアは煌国に対して消極的になった。そこで政権を握ったボロニータスはインフラ整備に注力し、ニウス13世即位後もその政策は変わっていない。まずは足元を固める必要があったのだ。
1861年12月20日、今年一番の気温を記録した日である。場はブルア式の社交場。ベルサイユ王国ほどの絢爛さはないが、それでも煌国の荘厳な建築よりは幾分も軽やかに見える。ここに煌国の親ブルア派貴族やブルア役人らが集い、茶会を開いていた。
「祖国の疲弊は恐ろしい速さで進行しております」
「我々はもはや、祖国に帰れまい。……この国から支援するほかないやも知れぬ」
「確かに、故ボロニータス卿のころより、煌国経済は右肩上がりではあるが」
皆口々に、ブルアの危機をいかに耐えるかを述べている。彼らの国であるブルア帝国は、大戦における連合国の長ともいえる存在である。故に軍費は年々のように肥大化し、いよいよ抑えきれぬところとなった。風説によれば、国民の生活は煌国以下になったとも聞く。そのような状況になれば、賢人なくして復興はない。
「皆さん、一旦茶を」
ここで休憩を促したのは、ブルア役人の元締めであるカッツェ卿であった。彼は白髪を短く刈り、軍人でもないのにレジメンタル・タイを締めている、小太りの老人と見える。皆は彼の召使いから茶をもらい、一斉にのどに通した。それを見て、彼はこう続ける。
「さて。我々は、できるだけここにいなければならない。ここにいれば、戦場に派遣されることもないでしょうから。問題は、どうやって、祖国を支えるかです」
カッツェ卿の提言に、皆がうなずいた。もはや、一同の首の動きが波に見えるほどである。すると、一人の男が波をかき分けてカッツェ卿の前に躍り出た。
「どうお考えなのですか。私は、貿易の可能性を検討していただきたく思うのですが」
煌国風の漆黒のスーツを纏ったこの男は、名をバイロン卿という。彼の額には汗が光っており、この場にどれだけの人が集まっていたかを物語っていた。
「バイロン卿、まずは落ち着きなさい。貿易もよいと思うが、私の案としては、煌国に友になっていただくのが先決ですな」
カッツェ卿は、バイロン卿をなだめながら話した。要するに、これまでの平和的支配を利用して、信頼関係を築こうというのだ。後から思えば、国内を荒らしまわった張本人の発言にしては、いささか都合がよすぎる話であった。
しばらくして、カッツェ卿が時計を見て言う。
「今日はもう暗くなりました。お開きです。次は……5日後でしたな。ではごきげんよう」
そのまま彼は会場を去った。残されたブルア役人らは、彼に続くことはなかった。即ち、この会場で酒盛りをしたということである。
カッツェ卿の他にただ一人去ったバイロン卿は、彼らをのちにこのように罵った。
『祖国のためを思いながらも、豪遊の泉に金を投げ捨てる凡愚であった』
この夜、バイロン卿はグリズヴァーレン公の邸宅を尋ねた。
「おお、バイロン卿。今日は疲れたろう。まずは上がってくれ」
ヘイラクレイアス直々の出迎えである。これに従い、バイロン卿はコートに積もった雪を落として入った。
「デイアネイラ! バイロン卿に茶を淹れてくれ。コーヒーではなく、茶だ」
ヘイラクレイアスはキッチンにいる妻に向かって廊下から頼んだ。このバイロン卿、実のところコーヒーが苦手なのだ。本人曰く、あの濃さが気に入らないらしい。ところが、逆に薄めてアトランティス風にしてもまずいという。
「はーい、少しお時間頂きますよ」
デイアネイラは紅茶の淹れ方と礼儀とを熟知している。そのため、いわゆるティーバッグを使わず、敢えてブルアの流儀に則るのだ。
紅茶が出るまでの間、男二人は暖炉の前に陣取って談笑していた。デイアネイラの耳にも、例えば、今日の天気はいかにも煌国らしいとか、そういった世間話が聞こえていた。
「紅茶です、きっとお口に合いますよ」
デイアネイラが立派な装飾のティーセットを運んできた。バイロン卿の目が輝く。
「おお、このようなブルアの器まで……奥様、光栄の至りであります」
どうぞ飲んで、デイアネイラが答えた。デイアネイラはキッチンに戻ったが、その様子はうれしそうに見えた。
暖炉の前で一瞬、魔法を確認した。炎が弱っているので、ヘイラクレイアスが火をやったのだ。煌国人の特権を前にしたバイロン卿は、首を傾げつつも話の糸口を引き出した。
「奴らですが、どうやらこの国に残るようです。恐らく、開戦以前の搾取を目論んでいます」
「そうか。議会と騎士団、双方を強化する必要があろう」
ブルア役人の動向を探り、彼らを抑えつけておく。それがヘイラクレイアスの目的である。このヘイラクレイアスは帝国騎士団出身の政府要人である。皇帝による煌国の統治を支持し、そのためにこう言ったことをしているのだ。
「騎士団の新階級創設これはどうだろうか。例えば、知と武に優れる騎士を、ブルア役人の監視につける。名前は、そうだ、『リヒター』とでもしておくか」
リヒター、バイロン卿が反復する。このころにはすっかり茶も冷めていた。
「ブルア役人の暴走が再開すれば、国内でも犯罪は急増しよう。ならば、この機会に強力な警察を作っておくに越したことはない」
バイロン卿の首肯を見て、ヘイラクレイアスは再び熱を炉に与えた。バイロン卿の瞼は次第に閉じてゆき、ヘイラクレイアスには彼の疲労が感じられた。
「……泊めてやる」
彼はバイロン卿を抱きかかえ、客間のベッドに寝せてやった。
彼は翌朝、慌ただしく帰宅したという。