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Crescent ――The Epic of Ignaz――  作者: 秋月ルフナ
第一章 果ての英雄
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英雄、誕生す

 1846年5月7日、晴れの日であった。極東の国・神聖大和公国から頂いた桜も花開き、生命の息吹が国中を包んでいる。この日、後に煌国史に名を残す人物も赤子として産まれるのである。

 煌国北部の都市・ティティス。緯度のわりに温暖なここは、南欧のアテネを彷彿とさせる町並みで有名である。山がちな地形に石造りの住宅が立ち並び、商業都市として賑わっているのである。ある老婆は柑橘類を紙袋に入れ、ある青年は魚を売りながら談笑していて、市民の交流が活発なところであった。

 昼食を目前にした頃、市内随一、煌国でも指折りの大病院に大きな動きがあった。獣あるいは英雄のような声で、赤子が産声を上げたのである。赤子は極めて元気に誕生し、その母親は歓喜の涙を流している。父親と思われる人物は、出産を乗り越えた強き妻の手をとり、労っていた。

「グリズヴァーレン公、おめでとうございます。大変大きなお子様です」

 助産師が父親に伝える。おかげさまで、ありがとう、父親が感謝を述べた。この時、グリズヴァーレン公ヘイラクレイアスは、このような心情であった。

《私の息子は、どこが違う。明らかに、私の血が見て取れる。私が誕生したときのように産声が荒々しく、四肢の動きは力強い。これは英雄になるべくしてなるだろう》

 続いて、ヘイラクレイアスは妻に言う。

「名は、アーキレイアスだ」

「素敵なお名前です」

 妻は腕を組もうとしたヘイラクレイアスのそれを離そうとせず、愛らしい様子で答えた。


 † † †


 アーキレイアス誕生から時は流れ、彼は15の年になった。

「父上、試験の成績です」

 彼はつい先日に学校の設ける試験を終えたのである。試験内容は煌国語・数学・理科・社会科・ブルア語の5つで、彼は全て正答率97%以上を達成した。彼の自信に満ちた目つきからも、その結果が窺える。

「いい結果だ。イグニウス中学校に劣るとはいえ、国内第二の学び舎でこの成績とは」

 ヘイラクレイアスは茶を片手に感嘆していた。イグニウス中学校は皇帝のお膝元、ティティスとはいささか距離があり、海を渡らねばならないので通わせることができなかったのである。ヘイラクレイアスはそのまま手を伸ばして、息子の頭を撫でてやった。

「これで、帝国騎士団に入団できます」

 アーキレイアスが嬉しそうに言うと、父親はそうだな、立派な騎士になれると返して、続けて提案した。

「軽く、どうだ」

 これの意味するところは、戦おうということだ。煌国は貴族文化の国である。しかし、それだけではない。魔法の国でもあるのだ。例えば、代表的な魔法はバンドルと言われるものである。銃火器を除いた武具を異空間に持ち、その魔法を発動すると異空間・現実世界が繋がるというのだ。これは煌国人の証明たるものでもあり、純血煌国人以外は持ちえない術式として有名だ。この親子は、このバンドルを用いて模擬戦闘をしようというわけだ。なお、アーマードバトルというスポーツは、このバンドルに由来する。

 親子は立ち上がった。それから、館のリビングの北の廊下を通り、地下への階段を下った。この長い階段の先には、闘技場がある。ヘイラクレイアスはバンドルを起動し、その剣を扉に差し込んだ。すると、扉の装飾らしき溝は光を放ち、いよいよ扉が開いたのだ。

「さて、アーキレイアス。準備をしろ」

 アーキレイアスもバンドルを起動し、武具を身に纏った。肩、胸、手、脚のみを固めて長剣を帯びたその姿は、まさしく神速の英雄であった。対するヘイラクレイアスは全身を漆黒のプレートで守り、全長2mを超える大剣を担いでいる。もはや、風格が異なっていた。

「来い」

 いよいよ戦いが始まった。アーキレイアスは15歳にして神速の男である。その速さで以て、一直線に飛びかかった。だがヘイラクレイアスは、アーキレイアスの突撃を見切った。そして突進する彼の眉間の延長線上に大剣を添える。アーキレイアスはそれに恐怖を覚え、突撃を止めた。それからすぐに長剣を振り、剣戟が始まった。神速の剣は、上方から、横から、下から振り払われる。ヘイラクレイアスはそれら全てを、一本の大剣で凌いでいる。どうやらアーキレイアスの剣筋には癖があるようだ。上、下、横の順で薙ぎ、基本的にはその繰り返しなのである。ヘイラクレイアスはその間に生まれる隙を突き、彼を蹴り飛ばした。

「どうだ」

 彼の体は壁に叩きつけられ、そのまま地に伏した。

「まだッ……」

 アーキレイアスの心は折れない。敵わないと知っていながら、果敢に突き進んでいく。まずはやはり突進するが、ここからが違った。円をなぞるようにしてヘイラクレイアスの背後を取ったのだ。

《取った!》

 アーキレイアスは確信した。ヘイラクレイアスの重い鎧では、この速度に反応できない。後は一突きするだけだと信じていた。そしてその通りにした。アーキレイアスの剣は父親の兜を目掛けて一閃した。

「……なかなかだな」

 ヘイラクレイアスの兜が、硬質の音とともに砕けた。彼の目は剣のような冷たさで、これにはアーキレイアスも怖気づく。ヘイラクレイアスの顔には切り傷が見えるが、ちょうどアーキレイアスの一撃を受けたところにそれがあった。

「今日は、終わりに、しま、しょう」

 アーキレイアスは息を切らしながら言った。一度蹴とばされたためか、はたまたその速さ故か、言葉を口にするのもやっとの様子である。ヘイラクレイアスはしばらく経ってそれを受け入れた。また、我が兜を貫くとはな、と添えた。

《この兜は、最も優れた耐久力を持つはず。それを、この年にして破壊するなど、尋常でない。ああ我が息子よ。お前には剣でなく、槍を持たせたかった》

 ヘイラクレイアスの心は、彼の兜と等しかった。息子の成長をその身で実感し、いよいよ自身の衰えを感じているところである。そして、唯一の心残りを思い知ったところでもあった。

 二人はバンドルを停止し、闘技場を後にした。


「父上、今日の夕食はなんでしょう」

「今日はデイアネイラが作る。久しぶりの料理だが、絶品であることは間違いなしだ」

 母上がですか、とアーキレイアスが喜ぶ。侯爵家のために普段はシェフが作るのだが、デイアネイラが作りたいと言ったのだ。アーキレイアスは母の手料理を食べることは少なく、久しぶりの味を楽しみにしているようだった。

 一方で父の様子だが、彼もまた期待を寄せているらしく、口角が上がっているのが見て取れる。最愛の人の手料理なのだから、それに喜ばぬはずがなかろう。

「ただいま戻りました」

 遠くから、デイアネイラの気配がする。彼女は召使い数名とリビングまでやってきて、夫とハグをした。煌国において、ハグは仲睦まじい証拠である。それは民衆・貴族を問わないのである。

「さて、今作りますね。あなた達は部屋に戻って休みなさい。夕食が出来たらアーキレイアスをして呼びに行かせますからね」

 デイアネイラは召使いらにそう話して、手と調理器具を洗い始めた。

「お、奥様」

 召使いらは休み方を知らないのだろうか、仕事を探し始めた。しかしながら、彼女らは日頃の苦労を隠しきれておらず、ニキビがそれを訴えているではないか。ヘイラクレイアスも彼女らの仕事ぶりはよく知っている。今日だけでも休んでほしい、そう思っているのだ。休め、ヘイラクレイアスが言うと大人しく部屋へと戻っていった。

 さて、デイアネイラは、まず二つの鍋で湯を沸かしはじめた。それからナイフでベーコンを切り、ワインとともに弱火で加熱する。続いて、温泉のように煮えたぎる熱湯に乾麺を落とし入れる。

「母上、それは!」

 アーキレイアスはこのパスタ、すなわちカルボナーラが好物であった。

「よくわかったわね、おいしいのを作るから待っててね」

 デイアネイラは息子の眼差しを受け止め、更に料理への意欲が増した。乾麺が茹で上がるまで、まだ時間がある。彼女は次にレタスとトマトなどを切り、サラダを作った。なお、ナイフとまな板は肉を切ったそれとは別物であり、そこをしっかりと弁えているのである。

 さて、乾麺が茹で上がると、卵を溶き、麵をソースと絡めた。チーズの芳醇な香りで部屋が満たされる。続いて、乾麺を入れなかった鍋のほうに塩・コショウなどを入れ、玉ねぎ、人参、イモ、そしてヴルストを加えた。このヴルストは、煌国を南に下ってところにあるレーヴェ帝国のものである。レーヴェ国内でも最高級品として有名で、レーヴェ皇室御用達の品であった。そのヴルストが入って15分して、スープも出来上がった。あとは盛り付けのみとなったので、デイアネイラはアーキレイアスを呼びに行かせた。

「奥様、大変美味しそうです」

 召使いらが口をそろえて言った。確かにどの料理も艶やかであり、見ただけで食欲をそそる。アーキレイアスはもう待てないといった様子で、いち早く着席していた。

「母上、食べましょう」

「そうね、皆座って。……いただきます」

 デイアネイラの掛け声で、皆が食べ始めた。煌国では、まずスープを一口飲むことがマナーとなっている。貧民はそうとはいかないようだが、この家は国内きっての名門であるから、誰もがそのようにした。

「美味しいです、母上」

 アーキレイアスが驚嘆する。実のところ、彼が母の手料理を食べるのは一年ぶりかそれ以上になる。そのためか、やはり母の味は幻想のものとなるわけだが、そのかつての記憶を呼び覚ますほどの味であるということだ。

「奥様、どのようにして」

 この味は、この召使いにとっても初めてらしい。デイアネイラはこれに対し、秘密、と愛嬌ある仕草で答えた。

「だって、教えちゃったら、この子が私の料理を食べる楽しみがなくなるじゃない」

 なるほど、息子への愛情故である。これには流石のヘイラクレイアスも、あさましといった表情をするしかなかった。

「ところで、アーキレイアス。今日は何をしていたの」

 デイアネイラがパスタを巻きながら問う。

「父上と試合を。やはり父上は強いです」

「あらそう、だからお腹が空いていたのね」

 母の感は鋭い。空腹だと言わずとも、その状態を見抜いていたのだ。

「いや、アーキレイアスの成長ぶりのほうが素晴らしい。私の兜を砕くほどになったぞ」

 ヘイラクレイアスがパスタを飲み込み褒める。続けて、速さも申し分なく、学業も同様だと付け加えた。それを聞き、デイアネイラは息子の頭を撫でた。まさに円満な一家といった感じであった。


 そのあとも会話は続き、いよいよヘイラクレイアスが酒を飲む頃となった。彼は良酒ばかりを並べて堪能し、一家団欒の時を過ごした。この時、グリズヴァーレンの誰もが、最も親しい間柄の人間が英雄にして凶悪犯になろうとは思わなかった。

 

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