――The Epic of Ignaz――
「あなたって、やさしいのね」
男には、女の声が聞こえた。それはただの女の声ではなかった。絡みついて離れない、蛇のような感覚があった。そして男の胸を締め付けるのである。男はすぐに振り返って、愛剣を振りぬいた。だがそこには、嫌な感が立ち込めるばかりであった。
《私の何が、やさしいのだ。ちょうどここに広がる血の海は、私の仕業である。異邦人の首は尽く刎ねられ、その断面は一切の歪みもない。すなわち、切り落とす際の私の心には、微塵の躊躇もなかったのだ。それなのに、こんな私の、どこをやさしいなどと!》
男は自虐に駆られていた。この男、名をアーキレイアスという。文化の香り豊かな南欧の英雄、その名を継承した男だ。かの英雄のように俊足で、一人で万人に値する力を持つ。また、彼は博学才穎にして才色兼備、武勇に事欠かない男である。母国である煌国の帝国騎士団に十五の歳に入団、数年のうちに佐官の位にまで上り詰めた。国内で発生したテロの犯人を捕らえ、凶悪犯を捕らえ、とにかく優れた男であった。しかし、あるとき、今のように、大勢の首を刎ねた。愛国心の極まりが、彼を失墜させたのだ。
これは、彼の半生の物語である。それと同時に、外交史、そして煌国における崇高なる歴史書の一つである。英雄の半生、それはすなわち叙事である。これの意味するところは、ただ一つの節に纏められるのである。
『煌国の歴史とは、ただ一つの結論に終着点を持つ。煌国の歴史に、事実は一つなのである。それぞれの出来事は連鎖し、それらが一つの結論を導くのである』
――――ヘラ・デ・イース著『煌国史』
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1725年、全世界をブルア帝国が支配した。貴族文化の強い国で、それが階級制度の根付いた煌国に受け入れられた。はじめは文化交流程度の関わりであって、例えば煌国伝統のスポーツであるアーマードバトルをブルア貴族が嗜む、そのくらいだった。煌国人は誇り高く、他国に自身の文化が広まっていくのを気持ち良く思っていた。また、目に見える文化だけが広まったのではない。精神性も同様であったのだ。煌国の根底を流れる、品格の文化。これがブルアとよくなじみ、煌国を苦しめ、そして救うのだ。
「陛下! お待ちください!」
黒色の外套をまとった若い男が叫んだ。ここは煌国南東部に位置する帝都グレイストエリオ、その中心たる皇居だ。若い男は続いて、近年のブルアの様子がおかしい、煌国は侵略されるかも知れない。そうでなければ、ブルア役人などが来るはずがない。そう申した。
「さて、これより玉音を拝聴するのは右か左か、選べ」
皇帝は男の忠言が気に食わぬ様子で、腰に下げられたサーベルに手をかけた。この意は、一方の耳を切り落とす、ということである。この後、男の耳がどうなったかなどと問うのは、いささか無粋であろう。
この通り、皇帝は暴君であった。良い政の為の立憲君主制を放棄し、王権の強化を図った。賢なる者ではなく、むしろ武人であった皇帝は煌国の暗雲である。実際に、財政破綻は目前、加えて国民の食卓も極めて質素な時代となった。
1726年の冬、12月の末。ブルア役人が派遣されて丁度一年だという事で、煌国の皇帝がブルア役人と酒盛りをした。そこではブルア役人の口に合う酒ばかりが出され、煌国伝統のアルコール濃度の高い酒はなかった。これはブルアの力が増していたことを示していた。
そのころ、市民は皆病を患っていた。ブルアを第一に据えた国政が、福祉と衛生を蝕んだのだ。今までは優れた水道と社会保障によって生産性を向上させてきたはずである。しかし、煌国はもっと物質的なところに注目すべきだと。ブルアから下ったのはそういった旨である。では、皇帝は何をしていたのか。王権を拡大させた皇帝ならば、このような事態を避けられたのではないか。結論は、否。性根から愚帝であったのだ。ブルア役人は煌国への理解が深い。ならば任せてよかろうといって、ブルア役人を中枢とした立法府・行政府を打ち立てたのだ。しかし、これは後に惨劇を生むことになる。
1829年、ブルア株が大暴落した。いわゆる恐慌である。これにより、ブルアと交易をしていた国家は大きな被害をうけた。煌国もその内の一国だ。例えば、ずさんだった衛生管理が一層ひどくなり、失業者は国民の半数となった。この時からブルア役人は母国との繋がりを強固にし、煌国の政治に強く干渉することはなくなった。ブルア役人はこう言った。煌国の復興なくして世界の復興なし、と。煌国の財政が良好でなければ搾取し甲斐がない、貧しい中で得られる額など雀の涙だということだ。この時、丁度愚帝も病を患い、国政は宰相が取り仕切ることとなった。その宰相、名はボロニータス(支配権、の意)という。後に教科書に載るような人物となるのであった。ボロニータスはまず雇用創出のため、公共事業に着手する。その筆頭は交通網の整備であった。全国各地に広く使いやすい道路を整備しようと計画していたのだ。このころの自動車は旋回に疎いため、この道路は直線的であった。これは雇用創出に有効で、他に用途があった。一世紀後に、これが重要なものとして扱われることになるであろう。
さて、目を諸外国に移してみよう。この時期、南方のレムリア・ナガ、そして東のムーなどが聖域、つまり南極に進出しようとしていた。ブルアなどの持てる国はブロック経済ができたが、この国々はそうではない。活路を聖域に見出していたのである。しかし、ブルアを中心とした国々は聖域進出を断固として認めなかった。聖域は神秘残る最後の地である。この神秘を滅ぼすまいと、許可をしなかったのである。これに対抗して持たざる国は解放同盟機構を創設し、ブルア側――以降国連側と称す――との徹底抗戦を姿勢で示した形となった。
その六年後、愚帝は崩御し、新しい皇帝が即位した。ニウス13世である。ニウス13世は政治体制を改めて立憲君主制とし、王権を縮小させた。これはのちに起こるといわれていた戦争の際、自らの首を断たれたくないと思ってのことであった。戦争の主導者になりたくなかったのである。とはいえ、国政にとっては嬉しいことだった。ニウス13世の即位後、煌国の経済は成長をみせる。じきに市民の生活の質も向上し、再び北欧の帝国にふさわしいところとなったが、いささか時が満ちるのははやすぎたらしい。後の百年戦争が勃発したのである。
1850年、解放同盟は植民地解放を大義名分として国連に宣戦布告。海に面する解放同盟八カ国の艦隊、一〇〇〇隻の艦艇が聖域を目指した。国連の備えの艦艇三〇隻が聖域にあったが、一〇〇〇隻を前にして海の藻屑となるのが道理である。解放同盟に後れを取った国連である、艦隊が追いついたころには駐屯艦隊は一隻のみとなっていた。この海戦、第一次聖域防衛戦だが、世界初の蒸気船による海戦である。かつての船では見られない、高速の戦であった。なお、煌国はこの時通報艦を一隻派遣したのみである。煌国に、遠方の海戦に割く金はないのである。
この防衛戦は、見事国連が敵艦を討った形で終わった。海戦で勝てぬ、そう踏んだ解放同盟は陸戦を展開することになる。進出を妨害させる国を滅ぼし、邪魔者がいなくなったところで進出しようというのだ。しかし、戦争は泥沼化。どの国も疲弊し、一時休戦となった。
翌年1861年、ブルア帝国は崩壊。戦争の傷跡が深かった。ようやっと、煌国は北欧の帝国としての地位も得たのである。