9 或る朝の出来事
「――でさ、杉下さんが『娘がさぁ、俺の横を通る度によぉ、これ見よがしに思いっきり鼻を押さえるんだよぉ……俺、まだ臭くないよな!? 大丈夫だよな!?』って必死な形相で聞いてくるからさ、俺は嘘は良くないと思って『はっきり言って今も臭いです』って正直に答えたわけ。そしたらわんわん泣き始めちゃってさ……普段は怖いのに、酔うと泣き上戸なんだよな、あの人」
「だはははははは! お、お主、正直すぎるじゃろ! 気を使え、気をっ!」
「んで、次の日会社で会ったら『お前、俺は臭くねぇぞ!』って物凄い剣幕でキレてきてさ。ぐでんぐでんに酔っぱらってたのに話の内容はしっかり全部覚えてるわけよ。しかも『俺は臭くない』って言いつつ、臭い消しみたいなのをばっちり買ってきてんだよな」
俺の転生前の思い出話にムツメが腹を押さえながらゲラゲラと笑い声を上げる。酒盛りを始めてからもうかなりの時間が経ち、俺もムツメもすっかり出来上がってしまっていた。
頭の中にぽわっと心地の良い靄がかかり、体全体を穏やかな熱がふわりと包み込んでいるような感覚だ。鏡を見ずとも顔が紅潮しているのがはっきりと分かる。これが「酔う」ってことか。些細な馬鹿話でも、腹の底からおかしさや愉快さがこみ上げてくる。こりゃ酒が好きな人の気持ちも良く分かるな。
俺はまた月漣丹から酒をいくらか飲み、月漣丹をムツメへと渡した。ムツメも受け取った月漣丹からぐいっと酒をあおり、「うぅ~い」と低い唸り声を漏らす。それから俺をぎろりと睨みつけ、
「ええいっ、お主のような不届き者はわしが成敗してくれるわ!」
と言ったかと思うと、ふらっと俺の体にもたれかかってきた。そしてそのまま「これでも喰らえいっ!」と手を伸ばし、尻をぐいぐいと強く揉みしだき始める。
「ひぎぃっ! おいおい、やっぱりお前、単に尻が好きなだけじゃねえかよぉ~」
「いんや、これはわしがスギシタに変わってお主に天誅を下しておるだけじゃ! ほれ、両手でこうしてやるわい!」
「ひいいっ! ちょっ、握力強すぎ! も、もげりゅうううううううううッ!」
「ほう、スギシタさえ触れたことの無い臀部が熱うなってきたではないか!」
「ら、らめええええええええええええええええええッッ!!!」
そのような乱痴気騒ぎを繰り広げながら、草原の夜は更けていった。
「……んあ?」
ふっ、と俺の意識が覚醒した。突っ伏した格好のまま、首だけを動かして部屋の様子を伺うと、開け放した突き上げ窓から朝の白い光が筋となって差し込んでいた。一体いつの間に眠ってしまったのか、全く記憶に無い。
自分の吐く息が酒くさい事に気が付く。頭がどんよりとして、体が鎖で巻かれたかのように重い。もしかして、これが二日酔いってやつか。酔っぱらうなんて初めての体験だったから、少しハメを外しすぎたようだ。しかし、しこたま酒を飲んだとはいえ、エルカさんに強靭にしてもらった体でこの有様とは……あの酒、どんだけきつい酒なんだよ。
ぐっと肘をついて起きようとするが、何故か下半身が石のように微動だにせず、体が起こせなかった。「あれ?」と思い、上体を反らして背中側の様子を窺ってみると、ムツメが俺の腰をがっちりと掴み、尻に顔をうずめて「ぐがあああああ」と大きないびきをかいているのが目に入る。しかも口からは涎がだらだら垂れて俺のスラックスを濡らしている。こ、こいつ、やりたい放題にも程があるだろ……体が重い原因こいつかよ。
「おいムツメ、朝だぞ。さっさと起きて尻から顔をどけろ」
そう言いながら手でムツメを揺さぶってみるが、「ぐがっ、ぐがががっ」といびきが不安定なものになるだけで目を覚ます様子は全く無かった。こ、こいつ……。
俺はムツメを起こすことを諦め、腕を床につきながら「ふんッ!」と腰を思い切り捻った。するとようやくムツメの手が外れてホールドから抜け出す事ができ、支えを失ったムツメの顔面は床に激突して「ズガンッ!」と大きな音を立てた。
「ふがっ!? な、なんじゃっ! 敵襲か!?」
「やっと起きたか。もう朝だぞ。あと涎で口周りがひどいことになってんぞ」
がばっと起き上がったムツメは「なに、もう朝?」と目をぱちぱち瞬かせ、「ふあ~あ」と大きなあくびをしながら口元をごしごしとこすった。
「ほら、羊羹出す魔法を見てくれるんだろ? シャキッとしろよ」
「おお、そういえばそうじゃったな。ふあぁ~……」
「外の方が見やすいだろうから外でやるか。先に出て待ってるぞ」
そう言って立ち上がると、ムツメは「うぅむ、わかった」とぼやけた声で返事をした。入口の扉を開けて外に出ると朝の冷気が肌を撫でる。ひんやりとはしているが空は一面晴れ渡っており、今日も良い天気になりそうだった。
シャウトに備えて屈伸などのストレッチをしていると、ログハウスの中からのそりとムツメが姿を見せた。目は半開きで、まだ眠そうにしながらぼりぼりと頭をかいている。
「おいおい、ちゃんと目を覚ましてくれよ? これから魔法を解析してもらわにゃならんのに」
「大丈夫じゃあ、心配はいらんっ。さぁ、いつでも構わんぞぉ」
そう言うとムツメは俺の尻にそっとやさしく手を添えた。心なしか尻の握り方が弱々しいんだけど、本当に大丈夫なんだろうな……一日一回しか出せないってのに。
「本当に頼むぞ? よし、じゃあちょっとでかい声だすからな」
俺は背筋を気持ち伸ばし、すぅっと大きく息を吸い込んだ。そして、
「羊羹食いてぇ――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
と、草原へ向かって叫ぶと、見慣れた黒い稲妻がばちばちと右手に収束し、青白い閃光が迸った後にポンッと羊羹が現われた。うん、もう大分こなれたもんだな。
「ほら、今のが羊羹を出す魔法だ。何か分かったか?」
尋ねつつ後ろを振り返ると、ムツメが眉をひそめ、鋭い目つきで視線を巡らせて空中を睨みつけているのが目に入った。先ほどまでの寝ぼけ顔はすっかり消し飛んでしまっている。何やら尋常ではない様子だ。
「な、なんだ、一体どうした? 魔法の仕組みが分からなかったのか?」
「いや……この辺一帯の大気中の魔力がごそっと無くなったのでな。流石のわしも少々肝を冷やしたわい」
「大気中の魔力が無くなった? それって、俺の魔法のせいなの?」
「うむ、大気から集めた膨大な魔力を術式の発動に使っておるようじゃな。術の全貌はわしでもわからんが……創造魔法、植物魔法、転移魔法と大量に魔力を使うものばかりじゃな。あと……ひょっとすると、記憶を再現する魔法も組み込んでおるかもしれんな」
「記憶を再現?」
「ああ、古代の神官達が神事の際に用いておったとか。一説では死者を蘇らせようとしておった、とも言われておるな」
死者、と聞いて背筋がぞくりとする。そんなとんでもない魔法を組み込んでたのか……エルカさん本気出しすぎだろ。いやまぁ俺が催促したんだけども。
「ううむ、どうやらこの世界の植物やらを転移させてきて、記憶を再現する魔法でお主の世界のものに変化させておるようじゃな。そうか、これでヨウカンを作り上げておるんじゃな。魔力量がすごいわけじゃ」
ムツメは「得心がいったわい」と納得顔でうんうんと頷いていた。だが一方の俺は「この世界の植物を転移させて魔法で変化」と聞き、体中からサッと血の気が引くのを感じていた。
「えっ、この世界の物を変化させてるの……? つまり……?」
法久須堂の羊羹は北海道十勝産の小豆を使ってて、でもこっちの世界の物を変化させてるから本当は十勝産の小豆じゃなくて、でも食べた味は法久須堂の羊羹で、でも法久須堂の羊羹は十勝の小豆で寒天も独自のブレンドなのに実はそうじゃなくて、でも食べた味は確かに法久須堂の羊羹で、でも死者は羊羹で十勝で復活して創業百五十年の神官であれれのれ?
「おい、どうした? 急に黙りこくりおって。おーい、聞こえとるかー?」
ムツメが俺の顔前でぶんぶんと手を振って反応を確かめるが、俺はそれを気にも留めず、微動だにしないまま広大な多元宇宙へと思いを馳せていた。
そうか――そういうことか。
全て、全て分かったぞ。
この多元宇宙に定められしカルマ。
アインシュタインの最後の宿題とはつまり――
「――――やっぱり法久須堂の羊羹は最高だなっ!!!」
「どわっ! 急に叫ぶな馬鹿ちんが!!」
ムツメは怒鳴りながら「バチン!」と俺の頬を思いっきりビンタし、俺は「ぐべえっ!」とうめき声を漏らしてその場に倒れ込んだ。め、めっちゃいてえ……むち打ちになったらどうすんだ。
「こらっ! 顔はやめて!」
「お主が挙動不審なのが悪い! しかしまぁ凄まじい魔法じゃったなあ。エルカ・リリカが苦労したというだけの事はあるのう。それで出来上がるのが甘い食べ物というのがなんとも言えんが……」
「おい待て、法久須堂の羊羹は十分それだけの価値があるだろうが!」
「はいはいすごいすごい」
くっ、こいつ昨日はあんなに貪りついてたくせに適当な対応しやがって……。
「ふむ、それじゃ魔法も確認出来たことじゃし、このまま出立するとしようかのう。ちょうど眠気も飛んだしの」
「あれっ、もう出発しちゃうのか?」
「おっ? なんじゃ、寂しいのか?」
ニヤつきながら俺の顔を覗き込んでくるムツメに対し、俺は腕を組んで「う~ん」と考える仕草をしてから、
「でも考えてみれば、話相手ならヨウカちゃんとカンタ君がいるし、尻も触られなければ暴力もふるわれないし、別に何も困らないよな……」
と、平然とした顔で返事をした。
「おいグルァ! そこは嘘でも寂しいと言わんかいコラ! 尻をもがれたいのか!? オォンッ!?」
猛獣のように吠えるムツメの気迫に負け、俺は慌てて「ヒイイッ! 寂しいです寂しいです!」と返事をした。その荒れ狂う魔獣みたいな部分が素直に「寂しい」って言えない理由だってーの……。
「全く……まぁ、また近いうちに寄らせてもらうわい。ついでに、何か畑に植えられそうな植物の種でも適当に見繕って持ってきてやろう」
「おお、そりゃ助かるよ! ぜひ持って来てくれ!」
「うむ。ではまたな、シンタロウ」
「おうまたな! 羊羹と共にあらんことを!」
そう言って握手を交わすと、ムツメは「なんじゃそれは」と苦笑し、いつの間にか手に持っていた編笠をひょいと被って、背を向けてトコトコと歩き始めた。俺は「またな~」とその後ろ姿へ大きく手を振り、ムツメが完全に見えなくなるまでその場から見送っていた。
「さて、と……適当に土いじりでもしますか」
俺は誰に届くでもない独り言を呟き、先ほどよりも高い位置へ昇りつつある太陽の光を背に浴びながら草原の方へと歩き出していった。
トン、トン、トン
それは最初、小さな物音のように感じられた。
陽が沈むまで土いじりをしていた俺は、その後ログハウスに戻って、ヨウカちゃんとカンタ君に今日一日の報告をしてから眠りについていた。そして心地よい夢の世界にすっかり身を委ねていたのだが、その音で現実へと引きずり戻されたのだった。
風の音か何かかな、と思い、体の向きを変えて再び夢の世界へ旅立とうと試みる。しかし――
ドン、ドン、ドン
と、先ほどよりもはっきりとした音がログハウス内に反響し、その試みは失敗に終わった。「何時だ?」と時間を確認しようとして、時計なんてものはこっちの世界に持ち込んでいないことに気付く。突き上げ窓がある壁に視線をやると、隙間部分からほんの少しだけ光が見て取れた。一応、太陽が昇り始めている頃合いらしい。
そこまで考えてからようやく、先ほどの音は入口の戸を誰かが叩いている音だ、ということに気付いた。ムツメが戻ってきたのだろうか。それにしては昨日の今日だし、何よりこの家の戸には錠どころか閂すら無いので、入ろうと思えば入って来れるはずだが、と思っていると――
ドカンッ! ドカンッ! ドカンッ!
と、轟音が入口の方から響き渡り、それと同時にログハウスがぐらぐらっと激しく揺さぶられた。な、なんだ、ドア・ブリーチングか!? SWATの突入!? 俺は犯罪者じゃねぇぞ!?
慌てて飛び起き、とりあえず俺の存在を知らせるために「は、入ってますっ! 入ってま――すっ!!」と入口の方へ向かって大声で叫んだ。すると轟音と揺れがぴたりと止まる。こ、言葉は通じたか……てことは外にいるのは人間、だよな?
立ち上がり、入口の方へとびくびく歩きながら「ど、どなたですかーっ!? 金目の物は何も無いんですけどーっ!」と声をかけてみる。野盗とかならどうしよう、ドアごとエネルギー波で吹っ飛ばしちゃうか、などと考えていると、
「旅の者でーす」
と、若い女性の声で返事が返ってきた。本当に「旅の者」なのかどうかは分からないが、若い女の子なら乱暴されることは多分無いだろうと考え、俺は恐る恐る扉を少しだけ開いた。




