第八十九話 今川長得と太原雪斎
木下屋敷の一室で二人は対面していた。
一人は『今川 治部大輔 義元』改め『今川 長得』
一人は『黒衣の宰相 太原 雪斎』
これは今川家のトップ会談であった。
「久しぶりね。和尚」
「姫様もお代わりなく」
「どこでわたくしをって、和尚なら当然かしら」
「いえいえ、これでも時間が掛かりました」
「お婆様は?」
「知りませぬ。知れば」
「そうよね。お婆様なら今頃は。それで要件は?」
雪斎は出された茶を一口飲むと。
「お戻りになられませぬか?」
長得は持っていた扇子を広げて口元を隠す。
「無理ですか?」
雪斎はもう一口茶を飲む。
「それほどお家がお嫌いですかな?」
長得が持っていた扇子を閉じて雪斎に向ける。
「わたくしはあの家に、今川に戻る事はありません!」
その長得の宣言に、雪斎はため息をついた。
「氏真様では今川は持ちませぬ。我と寿桂尼様は後何年も生きられませぬゆえ」
「白々しいわよ。和尚。殺しても死なないような者なのに」
「我とて生者にて、いつかは朽ち果てまする」
今度は長得がため息を漏らす。
「そんなに悪いの?」
「北は武田。東は北条。西は松平。特に武田と松平は繋がっていたようで」
「あの老いた虎のせいなの?」
雪斎が頷く。
「そう、やっぱり。取り込まれたのね。竹千代」
長得は残念そうに、そして憐れみの目をしていた。
「武田だけならばまず問題御座いませぬ」
「そうね。慣れてるものね」
「左様。しかしそれに松平が加われば」
「そうね。五年、いえ三年と言う事かしら?」
雪斎は長得に頭を下げる。
「この通りにて、何卒お戻りあそばすよう。伏してお願い致しまする」
長得はそれを見てまたため息をつく。
「無理よ。義元は死んだのよ。長姫として戻っても国人衆はついて来ないわ」
「氏真様に代わり、陣代としてなら?」
「それこそ駄目よ。今度はわたくしと兄上で家中が割れるわ。また『花倉』を起こしたいの?」
長得はお茶に手を伸ばし一口飲む。
「もう少しだけ時間を頂戴。悪いようにはしないわ」
ばっと頭を上げる雪斎。その目に希望が宿る。
「わたくしの夫に成るものを見つけたわ。彼なら何とかしてくれるわ」
「木下 藤吉 ですか?」
「そうよ。ねえ和尚。聞いてくれない。藤吉はね」
そこから長得は桶狭間合戦の話を雪斎に聞かせる。
最初は冷静に話していた長得ではあったが、徐々に熱が入ったのか。
身ぶり手振りも加わって口調も激しくなる。
その長得の姿を雪斎は娘を見るかのように、優しい目をしていた。
「……と言う事なの。藤吉は私の策を読んでいたのよ!どう、和尚。欲しくはない。藤吉を!」
「姫様の話と我が調べさした話とは若干違うような気も知ますれば。それにあの時兵を率いていたのは『池田 勝三郎』では御座いませなんだかな?」
興奮していた長得はその問いを聞くと、満面の笑みを浮かべて答えた。
「違うのよ、和尚。実はね。………」
※※※※※
さて、長得は如何にして藤吉の話を知ったのか?
長得は当初は藤吉に助けられた事を感謝していたが、後から冷静に考えてみると、これは違うと思ったようだ。
「わたくしを熱くさせたのは、池田 勝三郎よ!彼がわたくしの夫になるべき人よ!」
そうして長得は清洲の一室にて軟禁状態ではあったが、勝三郎の情報を求めた。
そこに今川の姫を一目見ようと『前田 利久』が現れたのだ。
利久はあわよくば今川の姫をと思っていたようだが、長得と会ってその思いは完膚なきまでに粉砕されてしまった。
「くそー!つええー!なんだこの強さは?」
「あら、これでおしまいかしら?言うほど強くなかったわね」
利久は長得に言い寄ったが、長得は一つの提案をした。
「わたくしが欲しければ勝負しなさい!」
「いいぜ。乗った!」
そして囲碁勝負を行う事に、結果は利久の惨敗であった。
「くそー、こんなはずじゃ。それに時間もねえ。姫さん続きはまた今度な」
「待ちなさい。続きはありませぬ。負けた代価にわたくしの問いに答えなさい!」
「う、仕方ねえ。俺に答えられる事ならな?」
「では、………」
こうして長得は藤吉の存在を改めて知ったのです。
「じゃあ、姫さん。今度こそ、さようならだ」
「そうですわね。さようならですわ」
そう言うと長得は手を叩く。
パン、パンと。
すると戸が開かれて侍女達と見張りの兵が現れる。
「チキショー。嵌めやがったな!」
「連れて行きなさい。その無礼者を」
「はなせー!」
利久がどうなったかは、信光と平手しか知らない。
「そう、そうなの。勝三郎ではなくて藤吉なのね。わたくしの勘は始めから間違っていなかったのね!」
その後、長得は市姫と面会し、ある約束を取り付ける。
そして彼女は木下藤吉の預りとなったのである。
それからも彼女は情報を集める。
藤吉の母『なか』姉『とも』妹『朝日』と。
特に朝日は藤吉の事を長得に教えてくれた。
朝日は藤吉を本当に尊敬していたからだ。
そして尊敬している兄を大好きだと言えば、自ずと口を滑らせるものだ。
ただ長得の誤算だったのは、藤吉が農民上がりと言う事であった。
農民上がりの木下一家の生活は質素であった。
その生活は姫様育ちの長得には、逆に新鮮であった。
そして母なかに気にいって貰おうと自分の知る物を教えた。
その代わりに母なかが教えてくれたのが、農作業であった。
それは長得にとってとても楽しいものであった。
今までの退屈な毎日が日々充実した物に変わっていった。
当初の目的を忘れるほどに。
※※※※※※
「なるほど。よく分かり申した」
「で、和尚はどう思った?」
雪斎は手を顎に当てて考え込む。
「やっぱり駄目かしら? 家格が違いすぎるものね。それでお市も二の足を踏んでいるし」
「あ、いえ。家格等なんとでもなります。問題は御座いませぬ」
「本当、和尚!」
興奮して身を乗り出す長得に、手を伸ばして制する雪斎。
「姫様。お待ち下され。家格はどうとでもなりますが。足りぬ物が御座います」
「それは名ね?」
落ち着きを取り戻した長得は即座に答える。
「左様です。名門今川家を名乗るには名が足りませぬ。無名では我も皆を説得するに能わず」
「だから、時間が欲しいのよ」
「ならば、後二年」
「そうね。それぐらい有れば」
長得と雪斎は笑みを浮かべる。
「では、二年待ちましょうぞ」
「ええ、その頃には子も出来てるでしょうから」
「それは寿桂尼様が喜びましょうな?」
雪斎の声には喜色が混じっていた。
長得は笑顔で頷いた後に真剣な顔になる。
「和尚。お婆様と兄上を頼むわね?」
「無論です。亡き義元公にお誓いして、必ず」
力強く頷く雪斎。
「後、老いた虎の始末は?」
「それが行方を眩ませておりまして。居場所が分からぬのです」
「それは厄介ね。探せるの?」
雪斎は首を横に振る。
「そう。案外この近くに居るかも知れないわね」
「ご用心めされよ。あの虎は御身を狙っておりますれば」
「大丈夫よ。和尚。あれはわたくしにはもう興味はないでしょう。興味が有るのは」
「蝮、ですか?」
長得は再び扇子を広げると口元に寄せる。
「ここまでですな。では、姫様」
「ええ、和尚。また会いましょう」
「はい。姫様」
こうして、長得と雪斎の会談は終わった。
「ふ、女の顔になりましたな。姫様」
輿の中で独り言を呟く雪斎。
「義元公よ。いや、方菊丸よ。そなたの娘はやはり大器であったわ」
雪斎は大きな笑い声をあげながら駿河に帰って行った。
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