第八十七話 笠寺の会見にて候う
尾張笠寺にて織田家と松平家の同盟話が進んでいた。
ぶっちゃけると既に同盟の話は終わっているのだ。
両家の外交担当者同士で話が済んでいる。
後は当主同士が会って起請文に連名する。
起請文は人が契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書の事だ。
戦国時代では実際にはほとんど守られた例がない。
だが、起請文を交わすのは約束事である。
これをやるのとやらないとでは同盟の価値も違ってくる。
両家がちゃんと同盟を結び、それを守る気があるのかないのか、である。
そして今、市姫様と元康が対面している。
市姫は正装している。いつもの男装姿ではない。
大変美しい。
一方の元康君も正装姿だ。
こっちは顔が腫れていて痛々しい。
「お久しぶりです。お市殿」
そう言って軽く頭を下げる元康。
なんだ、ちゃんと挨拶出来るじゃないか。
「久しいな。竹千代。変わってなくて何よりだ」
市姫様の元康を見る目が冷たい。
あれはかなり怒っている。
市姫様との付き合いもずいぶん長い。だから、多少は市姫様の感情表現も分かって来た。
あれは何か有れば直ぐに爆発する感じだ。
市姫様の後ろに控えている犬千代も腰を少し浮かしている。
何か有れば直ぐに飛び出せるようにしているのだ。
俺は勝三郎や利久と供に織田家側の席に居る。
上座の席で対面する二人に対して俺達家臣は左右に別れて下座に居るのだ。
そして俺は最前列に居て、右筆として記録を書いている。
本来の仕事をしている訳だ。
最近は奉行としての仕事ばかりしていたので、自分が右筆だと言う事を忘れそうだ。
「まだ怒っているのですか? あれは久しぶりにお会いしたお市殿があまりに美しかったので、つい」
「つい?」
あ、市姫の眉がピクッと動いた。
「あ、いえ。何でもありません」
しゅんとする元康君。なんか可愛いな。
「それで、松平はどうしたいのだ?」
「むろん、織田家との同盟をお願い致したく。伏してお願い致しまする」
おい、そんな簡単に頭を下げるなよ。
俺、いや俺達織田家家臣が驚いていると松平家の家臣達も元康同様に頭を下げた。
何でこんなに低姿勢なんだ。
しかし、これで同盟関係がはっきりした。
織田家が上で、松平家が下だ。
まあこれは当たり前と言えば当たり前だ。
織田家は今や飛ぶ鳥落とす勢いを持っている。と外からは見えている。実際は違うが。
かたや、松平家は独立したとはいえ西三河しか領有していない。
しかも、夏場に今川と戦って敗北に近い引き分けをしている。
それに津島商人堀田道空からの情報で三河も凶作の影響を受けている。
頭を下げてでも織田家との同盟を結びたいのだろう。
「で、あるか」
市姫様は胸元から扇子を取りだしバッと広げると口元を隠した。
あれは笑みを隠しているのだ。
よし、ちょっとは機嫌が治った。
「では、同盟締結を」
元康が頭を上げて話を進めようとすると。
「待て、そなたと話をしたいと言う者がおる。これに」
市姫様が元康に扇子を向けた後に下座を指す。
そして、下座から市姫様に勝るとも劣らない美女がやって来た。
その美女の登場に松平家臣達が顔を青くしている。
当然、元康も驚きで声が出ないようだ。口をパクパクさせている。まるで餌を貰う時の鯉のように。
「久しぶりよな。竹千代。わたくしが死んだと思っておったか?」
今川長得が市姫様の隣に座る。
いつの間にか座布団が置かれていた。気づかなかったが、多分犬千代が用意したのだろう?
「ちょ、長ちゃん!いや、治部様。ご、ご無事でしたか?」
元康から玉のような汗が出ていた。
「白々しいの。あれはお主の差し金であろうが?」
長姫が手に持っていた扇子でビシッと元康を指している。
「な、何の事か。分かりかねまする。それよりも、何故織田家に居られるのです?」
「何、奇特な御仁がわたくしを救いだしてくれたのだ」
長姫が俺の方を見てウインクした。
はぅ、これは反則だ!
は、市姫様がこっちを見ているかなり怒っている。
「それはそれは。では長ちゃん。いえ、治部様はこれからどうなさるおつもりですか?」
元康は少しだけ気を取り直したかな?
「どうもせぬ。わたくしはこのまま織田家の世話になるだけよ。それよりも竹千代。そなたの後ろには誰が居る!」
「誰も居りませぬが?」
元康は自分は後ろを向いて誰も居ない事を確かめて答える。
すげえな元康。そんな返しが出来るのかよ?
「きさま、このわたくしを」
「お待ちを。冗談にて!平に御容赦を」
そう言うとまた頭を下げる元康。
なんだ、この猿芝居は?
「まあよい。大方の予想は出来ておる。それに」
「それに何か?」
「今度は負けぬぞ。竹千代。その事を覚えておれ」
「左様ですか。ですが次も私が勝ちますので」
「ふん」
これで猿芝居は終わりかな?
「竹千代」
「何ですかな。お市殿?」
「今川に長姫の事を知らせるがよい。その方の助けになろう」
「これは有り難き事に。して見返りは?」
「裏切りは許さぬ。しかとその身に刻め!」
「はは」
市姫様の目が光ったように見えた。
そして、再度頭を下げる元康。
なんだろうな。ここで長姫の存在を教える事に何の意味が有ったんだ?
俺には全然分からん?
こうして織田家と松平家の同盟が正式に結ばれた。
あ、ちなみに同盟記念に松平家に米を売ってやったよ。
記念特価ってやつだ。
値段? 聞かない方がいいよ。
これで織田家の資金が少しだけ余裕が持てた。
向こうは米が無かったし、こっちは米が少し余ってたからね。
これぞWinWinな関係だよね。
え、尾張も凶作だったろって?
凶作前に買っていた米が有ったからね。それを売ったのさ。
ありがとう元康君。また、利用させてね。
※※※※※※
「なんで長ちゃんがここに居るのさ?」
「さあ、ですがこれで今川に対しての駒が増えましたな?」
「そうだね。使えない駒だよ」
「そうですかな?」
「そうだよ! 長ちゃんが生きてるなんてあの婆さんが知ったら?」
「知ったら?」
「全力で進軍して来るよ!」
「まさか、そこまでは?」
「甘いよ。忠次! あの婆さんが本気になったら……」
「これは弱りましたな」
「くっそー。今川の間者を尾張に入れないようにしないと」
「では、服部に命じて直ぐに」
「それに長ちゃん。気づいてたみたいだね。俺が爺さんと繋がってた事」
「それは仕方ないかと?」
「ああ、もう、やりずらくなった!」
「殿!」
「大丈夫だよ。次は本気出すから。次は」
忠次のため息が聞こえて来るようだった。
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