第二百二十四話 信虎の最後
三河岡崎近郊
武田信虎と今川長得が対峙していた。
「おほほほ、随分な格好ですこと。ここまで来るのに大分難儀したようね?」
長得は輿から降りてから信虎を見てそう言った。
信虎はここまでの逃避行で鎧を脱ぎ捨てていた。
髪は乱れ顔には疲労の色が見える。
しかし眼光はいささかも衰えてはいなかった。
「何故だ。何故貴様がここに居る。それに竹千代はどうした?まさか貴様らと和睦したのでは在るまいな?」
長得は胸元から扇子を取り出すとバッと広げて口元を隠す。
「ふふ、そうですわね。まぁこのままここで殺しても良いのだけれど、それでは納得が行かないでしょうから手短に話してあげますわ」
長得は信虎の質問に答えた。
長得は信虎が長島を包囲した頃、駿河今川に文を書いていた。
文の相手は太源雪斎。
雪斎は長得の文を読むと直ちに行動を起こす。
寿桂尼に長得の文の内容を話すと、彼女は上総介氏真と家臣達を集め軍議を開く。
「三河松平と一向宗の間に和議を結ばせるですと?」
氏真は寿桂尼に聞き返す。
「そうです。その後は竹千代を隠居させるのです」
「それは、その、上手く行くのですか?」
「上総介様。全て我らにお任せあれ」
半信半疑な氏真に雪斎は自信をもって答える。
そして寿桂尼は雪斎に全てを任せる。
「では和尚。頼みますよ」
「お任せあれ」
今川当主である氏真の了解を取らず、事は進んだ。
「あれ? 私の栽可は?」
三河は松平と一向宗が激しく戦っていたが膠着状態が続いていた。
松平は兵糧が不足しがちで思うような行軍が出来ず、また一向宗は織田(木下)と今川から援助を受けていたが松平を苦しめる事は出来ても、倒すところまでは行かなかった。
そして対峙する両軍の前に今川の大軍がやって来た。
雪斎は両軍に軍司を派遣し、和睦交渉を進める。
しかしこれは松平に対する脅しであった。
松平が和睦を蹴ったらすかさず今川は松平に襲い掛かる事になっている。
家康は顔面蒼白であった。
「何で今川が出てくるんだよ!五郎兄さんには攻めて来ないでって言ってあったのに!」
家康は一向宗と揉め始めた時に秘密裏に氏真と連絡を取り合い和睦していたのだ。
家康と氏真は個人的には仲が良かったので、家康はそこに付け込んだのだ。
「おい半蔵!どうなってんだよ!」
「は、申し訳ありません。しかし、我らは殿の命で一向宗の動きを追っておりました故」
「言い訳するなよ!ああ、どうしよう。そうだ!武田に援軍……は無理か。織田……も無理か。ああ、もう!」
松平の忍び伊賀の服部はこの時、一向宗に掛かりきりであったので今川の動きに気付かなかった。
そしてそれは信虎の忍び達も同様であった。
信虎の忍びは織田家の動きと木下藤吉とその配下を探し回っていたので三河松平、駿河今川の動きに気付いていなかったのだ。
結局、家康はこの和睦を受け入れる。
そして雪斎は岡崎に兵を入れて家康を幽閉する。
「ちょっと。何で誰も助けに来ないんだよ!僕は松平家当主だよ!」
家康の叫びは三河武士達には届かなかった。
松平家臣の多くは一向宗に手こずる家康に失望していた。
それに長く続いた一向宗との戦いに疲れてもいた。
また三河武士同士で戦う虚しさも感じていたのだ。
松平家に対する三河武士の結束は既になかった。
しかし一部の家臣は家康への、と言うよりは松平家の忠節を貫いた者も居る。
「遅いよ。忠次。何してたんだよ!」
「申し訳御座いませぬ」
酒井忠次が家康を幽閉先から逃がしたのだ。
そして家康の向かう先は北条家。
今川家での人質時代に知り合った北条氏規を頼っての逃亡であった。
「持つべき者は友達だよね」
この時雪斎は家康の逃亡を見逃している。
「無理に追わずとも良い。捨て置け」
追わなかったのか、追えなかったのかは分からない。
しかし家康が逃げ出したお蔭で三河を掌握する事が出来たのだ。
そしてそれが終わったのが年明け。
年明け後、長得は清洲を発ち雪斎と合流し信虎を待ち構えていたのだ。
「貴様。この刻を待っていたのか?」
「そうよ。貴方を捕らえるのに苦労したわ」
信虎は愕然とした。
全ては長得の掌の上であったと信虎は確信した。
もっとも長得は全てを計算していた訳ではない。
それに信虎が三河に来る可能性は低かった。
しかし、信虎の悔しそうな顔を見るためにハッタリをかましたのだ。
「観念なさいなお祖父様。ここが貴方の墓場よ」
「ほざけ!このわしを誰だと思っておるのだ。わしは甲斐の虎。武田信虎であるぞ!!」
信虎は自ら刀を抜いて長得に向かって走り出す。
そしてそれに付き従う信虎の兵達。
既に勝ち目もなく、逃げ出す事も出来ない。
しかし彼らは投降しない。
「はぁ。後は任せるわ。朝比奈、岡部」
「はは」「お任せを」
長得が後ろに下がると、後ろに控えていた朝比奈泰朝と岡部元信が手勢を率いて信虎に当たる。
怒声と悲鳴が上がる中、信虎は鬼の形相で今川兵を斬っていた。
そしてそれにつられるように武田兵も奮戦する。
しかし、信虎の兵は五百。今川兵は数千。
更に今川兵は武田兵を押し包むようにして包囲する。
弓を射り槍衾を作り、そして槍衾を抜けてきた者達を数名で囲み斬って捨てる。
一人、また一人と倒れる武田兵。
しかし彼らは前進を止めなかった。
彼らの前に信虎が居る限り、前進を止めなかったのだ。
「わしは、わしは、ここでは死ねぬ。死ねぬのだー!」
遂に信虎は長得の前までやって来た。
しかし彼の後ろに味方の兵は居なかった。
信虎の息は荒く、返り血を浴びて服は血塗れそれに切り傷も多い。
信虎の足下に血が流れている。
その出血は多い。
その場に倒れても不思議ではない出血量だ。
しかし、信虎は歩みを止めない。
一歩、また一歩と前進する。
「死なぬ。甲斐の、武田の天下を見るまでは。まだ、まだこれからぞ。これから、武田の……」
信虎はぶつぶつと呟き歩む。
その目は何も写していないようだ。
今川兵も遠巻きに包囲するだけで近寄らない。
「治部様。我らで介錯を」
「これ以上は」
朝比奈と岡部が長得に許可を求める。
「不要よ。私に任せない」
「治部様。危険です!」
「大丈夫よ」
長得は信虎の前に立つ。
「武田、……天下。太郎、次郎。……旗を掲げよ!武田の、旗を!」
「さようなら」
長得は刀を振り抜く。
「わしは、まだ……」
永禄五年 一月某日
三河岡崎にて武田信虎 死す
享年 五十八
木下家 右筆 増田 仁右衛門 書す
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