第二百二十三話 逃げた甲斐の虎
大鳥居の戦いが終わりを向かえた頃、武田本陣付近から撤退する部隊があった。
武田信虎の部隊であった。
信虎の部隊は五百あまり。
他の武田敗残兵達がうろうろする中を突っ切り、長島を離れようとしていた。
それを追うのは前田利久と斎藤道三。
しかし、二人の率いる兵は徒兵で在るためにその距離は開く一方であった。
「くそっ!追い付けねえ」
「これでは追い付けんな」
道三は信虎が他の武田兵と合流して自分達を迎え撃つと思っていたのだが、信虎はひたすら逃げの一手を打っていた。
信虎は大鳥居から北上し揖斐川を渡り美濃国境を目指す。
が、しかし。
美濃国境沿いは逃げてくるだろう武田兵を待ち受ける稲葉、氏家の軍勢が待ち構えていた。
「御屋形様。この先は通れませぬ」
「ええい。忌々しい。他を当たれ!」
「はは」
美濃に逃げるのを諦めた信虎は尾張領内に入る。
信虎は長良川を北上して美濃井ノ口に逃げ込もうと企むもこれを断念、そしてそこに待っているのは四郎勝頼事勝姫と山本勘助。
「左京大夫は、祖父はここに来ますか。勘助?」
「いえ、来れぬでしょうな」
「では、何処へ?」
「それは、おそらく」
勘助は信虎の逃走先を予想する。
信虎が逃げ込む場所はたった一つしかない。
信虎は忍びを四方に放ち、そして彼らは次々に報告を持ち帰る。
「秋山殿討死。原殿は山縣に捕らわれたとの事」
「大鳥居本陣は典厩様と保科殿に抑えられました。内藤殿は降伏したようです」
「中江では馬場民部殿がまだ戦っております」
「長良川を越えられませね。ここは陸路にて」
信虎は考える。
既に長島の戦いの決着は着いた。
武田の敗戦である。
馬場隊が残って戦っているがそれも長くない。
美濃への退路は断たれた。
残る道は一つ。
「三河の小僧の下に行く。幸い尾張には関所がない。誰も我らを阻めぬ。行くぞ!」
「はは」
「このままでは済まさぬぞ。木下藤吉!織田市!」
信虎は一路三河を目指す。
一方、大鳥居武田本陣では木下藤吉と織田市、池田恒興が武田信繁、保科正俊と会っていた。
「信虎はここには居なかった。すでに逃げ出したらしい」
「おそらくは馬場民部の下と思われる。我らが兵を出し、降伏を促そうと思うがどうか?」
信繁と正俊は中江で戦っている馬場民部の下に信虎が居ると思っている。
しかし、藤吉はそれを否定した。
「信虎は馬場の下には逃げていないだろう。あそこに逃げ込んでも退路が断たれる。それにそろそろ利久達から報告が有る筈。ここで少し様子を見るべきだと思いますが、姫様はどう思われます?」
「へ、あ、その、そうだな。えーと」
市は藤吉と会ってからその側を離れなかった。
今も藤吉の腕を掴み体を密着させている。
市は既に考える事を放棄していた。
そして二人の様子を見て恒興と信繁、正俊は苦笑していた。
とそこに道三と利久がやって来る。
「おお、ここに居ったか。黒頭巾を被った者達が藤吉がここに来ておると言うから来てみたが。無事であったか」
「すまん藤吉。あの爺を取り逃がした。逃げ足の速いこと速いこと」
「久しぶりだなご隠居。それに無事で何よりだ利久。そうか、逃げたか。どこに向かったか分かるか?」
「おそらくは美濃で在ろうな?」
藤吉の問いに答える道三。
「それならば直ぐに捕らえられる。美濃井ノ口では勝と勘助が待ち構えておるからな」
「おお、そうか。それは上々。ところでそなたらは……」
道三の問いに藤吉が二人を紹介する。
信繁と聞いて驚く道三。
そして道三が生きていた事に驚く市と信繁達。
しばし説明に時間が掛かったがそれを問題にするのは後にした。
「では我らは馬場の下に向かおう。これ以上の戦いは必要ないからな」
「頼みます。典厩殿。保科殿」
信繁と正俊はそれぞれ兵を率いて中江に向かう。
そして織田家からは佐久間信盛が付いていった。
残った面々は藤吉に詰め寄る。
道三が恒興が利久が、しかし今はそれどころではない。
戦後処理はもう始まっているのだ。
「質問は後だ、後!それよりも負傷者の手当てや投降者の人数確認が先だ。ほら動いた、動いた!」
藤吉の号令に文句を言いながらも従う面々。
そして藤吉と市、二人が天幕に残った。
「藤吉。これからどうなる、どうする?」
市は弱々しい声で藤吉に問う。
およそ彼女らしくない声であった。
そんな市を藤吉は優しく抱き締めて耳元で囁く。
「大丈夫。何も心配ない。心配ないから」
「うん。うん」
二人だけの世界を作る藤吉と市。
そんな二人の世界は長くなかった。
「ううん。うん。あ、あー、そのー」
「うわ!」「ひゃあ!」
いつからそこに居たのか。
竹中半兵衛が二人の側に居た。
「いつから居たんだ半兵衛」
「失礼な。始めから居ました。ずっと側に居たじゃないですか」
「そ、そうか?」
「そうです!」
ない胸を張る半兵衛。
悲しいかな、まだまだである。
「ところで信虎を追わなくて良いのですか。今ならまだ間に合うと思いますが?」
「美濃に行ったんなら、頑固親父達と勝姫や山本殿が居るから大丈夫だろう?」
「いえ、信虎は美濃に向かわないと思います。信虎の草は多いんですよ。伊賀であれほど苦労したじゃないですか?今頃は別の場所に向かっていると思いますよ」
「何処だ?」
「三河です」
藤吉の顔が微かに歪む。
「直ぐに追おう。山中と百地を使う。それで良いな。半兵衛」
「既に動かしてます」
「うっ、そうか。では行くぞ!」
「ま、待って藤吉」
信虎を追おうとした藤吉を市は止める。
怪訝な表情をする藤吉。
「姫様?」
「必要ないわ。彼女に任せて」
「彼女?」
「長よ」
尾張を越え三河までやって来た信虎一行は岡崎まで後少しの所まで来ていた。
「申し上げます。前方に数千の軍勢が見えまする」
「小僧の兵か。わしを迎えに来たか。いや、待て。そんな筈は……」
「も、申し上げます!後方に織田勢。鳴海の山口と思われまする」
「なぜ、鳴海の山口がここにやって来る?どうなっておるのだ。ここは直接小僧に会わねばなるまい。前方の松平勢の下に向かうぞ!」
「「「はは!」」」
信虎は前方に待ち構える兵達の下に向かうが途中で歩を止める。
なぜならその前方に居る兵達は松平ではなく、今川の兵だからだ。
「今川だと!なぜ今川が居るのだ!」
「それは私が居るからよ。老いた虎殿」
今川勢の真ん中から朱色の輿がやって来てその中から声がした。
その声を聞いた信虎の顔に焦りが見える。
「今川、長得。ここに居ったか」
「お久しぶりね。信虎、いえお祖父様」
ここ岡崎近郊で長島合戦最後の幕が上がる。
十章は後、二、三話で終わりです。
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