第百九十一話 晴信に従いし候う
武田上洛編 九章スタートです。
明けて翌日の早朝。
奇妙丸様は近習を含む五百の兵に守られながら尾張清洲に戻っていった。
「では義父殿。また会いましょう」
「うむ。今度は京でな」
「はい!」
晴信は奇妙丸様を大手門まで見送ると、笑顔で手を振り別れを惜しんでいるように周りに見せていた。
すっかり骨抜きだな奇妙丸様は。
徹底的な合理主義と情理の扱いに長けた男。
それが武田晴信だ。
昨日は俺に利を説き、弱みを握っているぞと脅し、そして今度は奇妙丸様に見せる穏やか笑顔。
これが戦国で生きる強かな君主の姿だと言わんばかりだ。
俺は昨日、感情的になっていたが今日の晴信を見て思った。
この男を見て学ぶのが良いのかも知れないと。
俺はこっちに来てから戦国の君主という者を見てきた。
情に厚くまた冷酷さを持つ市姫、全てを意のままに動かそうとする長姫、そしてしぶとくふてぶてしく生きる道三。
俺は三人から学び、その中で俺らしい君主像を探している。
そして目の前のこの男は身内を食らって生きる非情さと故郷を慈しむ慈愛と家臣達を惹き付けるカリスマを持っている。
信長が居ないこの世界ではこの晴信が一番の人物だと思う。
その男が俺を認めている。
はっきりと言えば嬉しいのだがやり方が気に入らない。
それでもこの男を見ていたいと思わせる何かがある!
「では木下、いや、藤吉。我らも行こうか」
「……はい」
俺を振り返る事なく進む晴信。
その背中は俺に付いてこいと言っている。
自信に満ち溢れて見える晴信の背中。
今は従ってやろう。
だが、いつか越えてやるぞその背中!
そして翌日には武田織田連合軍が一路、京に向けて出発した。
総数三万を越える大軍。
しかし内部を見ると戦闘が出来るのは二万ちょっとである。
残りの一万は荷駄を運ぶ人足達だ。
我が織田家木下隊も兵五千のうち二千くらいは人足だ。
なぜ人足が多いのかと言われればそれは種子島を運んでいるからだ。
種子島は予備を含めて六百丁を用意し、火薬と玉もありったけ持ってきている。
その為に大勢の人足を必要としたのだ。
それだけではない。
この上洛期間中は乱取りを行わない方針なので糧食も必要以上用意した。
これが思いの他大量で難儀している。
そしてこれは長姫が提案した事だ。
『そもそも上洛の兵が乱取りなどの野蛮な行為を行えば、そこらの戦と代わりありませんわ。少しでも評判を良くして名を売るのです。それが貴方の先々の為です』
この意見はごもっとも。
『考えてもみい。武田はおそらく行く先々で乱取りを行うぞ。そしたら武田は略奪者じゃ。織田の木下はどう振る舞うが利になるかのう?』
口角を上げて笑みを浮かべる悪い男道三。
武田とは違う織田、いや、木下藤吉を全面に出せと言う事だ。
言われなくてもやってやるよ。
非道を行う武田を止める。
それが俺の役割だ。
補給に関しては津島熱田商人の全面協力を得ている。
晴信とは既に交渉済み。
上洛軍が通った後に商人達が通れるように手配する。
円滑な補給を行う為には商人の力は必要不可欠だ。
『これで京までの販路が出来れば我らも協力のしがいがあると言うもの。頼みますぞ藤吉殿』
我が同士にして出資者、堀田道空からも激励を頂いた。
海路と陸路の販路拡大は商人にとっては大切な事だ。
堺に続いて京の販路を手に出来れば商機が増える。
商人達の思いも熱い。
さて、連合軍の先頭は武田の馬場民部が率いている。
中央は晴信率いる武田本隊。
我らが木下隊はその本隊の後方。
殿は次郎信繁が率いている。
間に挟まれた形になっているのはどうもよろしくない。
それに木下隊には武田のお目付け役が付いている。
「き、緊張しますね。私はこれが初陣なんです。木下様は初陣の時、緊張なさいましたか?」
若武者姿が似合う勝姫。
どこからどう見ても女の子には見えない。
でも口調は女の子に戻っている。
「そうですね。あの時はまだ右筆で安全な場所に居ましたからそれほど、いや、大分緊張してましたね。犬千代が近くに居て色々と教えてくれました。あ、それと勝頼様。木下、様は止めてください。どうぞ、藤吉と呼んでください。お願いします」
「そうなんですね。犬千代さんには私もお世話になってます。その、藤吉、様」
「だから様は入りませんよ」
「は、はい。藤吉殿」
顔を真っ赤にして俯く勝姫。
「ははは。勝頼様。心配ご無用です。この昌景が付いてます。それに我が精鋭山縣隊が付いてますぞ」
チビッ子昌景さんが自分の胸を叩いて勝姫を励ます。
そしてトレードマークのポニーテールをゆらゆらさせて馬に乗っている。
その後ろには全身真っ赤な鎧を着ている山縣親衛隊。
真っ赤と言うか。
どす黒いと言うか。
あれ、本当に血で染まってるんじゃないのかと思う。
強面の男達五百人。
この上洛に合わせて増員した。
正真正銘『山縣赤備え』だ。
勝姫を含めた山縣昌景率いる赤備えが俺達木下隊に付けられたお目付け役だ。
こういうところが晴信の手なのかも知れない。
あえて自分の手札を相手に預ける。
自分はお前を信用しているぞと思わせる。
その実。
勝姫ごと俺達を消す覚悟も持っている筈だ。
怖い男だ晴信は。
「物々しいですな。木下様」
「三左衛門殿。そんなに固くなるな。笑えよ。笑え。ははは」
「前田殿はこの空気を感じていないのか?」
「だからだよ。ピリピリしなさんな」
さすがに森三左は気付いているな。
前の本隊と後ろの殿。
そのどちらからも戦の緊張感に近いものを感じる。
「嫌だねえ。なんであんなに気を張ってやがんのさ。ねえ、藤吉」
甘い声で囁く小六。
うん、お前も場違いだよ。
「この空気でも発情出来るのですか。貴女は」
「あら、やだ。もっと図太くなりなよ。子犬ちゃん。あははは」
「く、この色魔め!」
いつも通りだなこの二人。
「兄者。兵達が疲れてるよ。少し足を緩めたほうがいいと思うよ」
小一はこの状況でよく兵を見ている。
頼りなるね。
「長康。兵達に小休止を取らせろ」
「良いのか大将。勝手に休息なんか取ったら後ろがなんて言うか?」
「構わん。俺達はどうせ手伝いだ。それにこの雰囲気で兵が疲れている。いざというとき動けませんでは済まないからな。それに、織田の兵は武田と違って弱いからな。ははは」
事実、武田に比べれば織田は弱い。
こんな挟まれた状況だと兵が疲れて使える状態じゃなくなる。
それに……
「大将。俺達はすぐにでも殺れるぞ」
「そうそう。俺の種子島が火を吹くぜ!」
「当たればな。ぷっ」
「守重。俺に撃たれたいのか?」
「いやいや冗談だよ。冗談」
元気が有り余ってる鈴木家の面々。
こいつら逆に緊張感が無さすぎる。
戦に慣れてるからなのか?
それとも慣れすぎて麻痺してるのか?
休んでガス抜きしないとな。
それにしても一は初陣なのに元気だよな。
あいつ人を撃ったことないのに大丈夫なのか?
「ああ、嫌だ、嫌だ。どいつもこいつも血に飢えやがって。俺達民百姓の迷惑を考えないのかね?」
弥助さんはまだ百姓のつもりなのか?
足軽大将で千人の兵を率いることも出来るのに?
まあ弥助さんがいるから民の心が分かると言うもの。
そして簡単な陣幕を張って小休止していると半兵衛がやって来た。
「殿。次郎信繁様がこちらにやって来ました。どうされますか?」
「決まっている。会うさ」
「では、お通しします」
さて、では始めますか。
武田家家臣調略戦の始まりだ。
先ずは晴信の半身『武田 典厩 信繁』
お前からだ!
永禄四年 六月某日
木下 藤吉 武田晴信の上洛に参陣す。
右筆 増田仁右衛門 書す
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