第百七十六話 偶然にて候う
犬姫の思い人は『こいち』と言うらしい?
ふーん、こいちか。
自慢の弟と同じ名前だな。
「その方とはどこでお会いしたのですか?」
「はい。私が中庭に居るとその方がやって来て微笑んで言うのです。泣いていると幸せが逃げてしまう。笑っていると福が来るから笑うと良いですよ、と。とても優しい笑顔でした」
ふーん、そんなキザなセリフを言ったのか。
なら小一じゃないな。
他の人だ。
うん、間違いない。
「私、その時勝頼様に振られてしまって泣いていたのです。とても胸が苦しくて涙が止まらなかった。でも、その方の言葉で前を向けるようになりました。とても感謝しているのです。その後たびたび城にやって来られて話をしました。その時は……」
あー、呆け話はもういいかな。
犬姫の話は出会いから気になる人、そして恋に落ちるまでを俺に話してくれた。
しかし、事の元凶は勝姫か?
わざわざ登城して御断りしていたのか。
律儀なもんだ。
後で勝姫にも話を聞いてみることにしよう。
「ですから私。あの方と添い遂げようと思ったのです。市姉様にもお話して応援されました。幸せはこの手で掴むものだと! ですが私には頼れる方が居ないのです。女中や近習の方々に協力を求めたのですがどなたにも断られてしまって困っていたのです。きっと私が近々佐治家の者と婚姻関係を結ぶのでその話が流れてまで協力出来ないと思われたのです。でも藤吉殿なら協力してくれますよね? なんと言っても市姉様の思い人なのですから」
目をキラキラ輝かせている犬姫。
しかし惚れやすい人だな?
振られてすぐに惚れるなんて正にチョロイン!
それに佐治家との婚姻が無くなれば朝日の婚姻話も無くなるだろう。
それなら協力するのも吝かではない。
それに義妹になる方のお願いを無下にも出来ない。
いやーしょうがないなー。
犬姫に直接頼まれては俺は断る事は出来ないなー。
うん、しょうがない、しょうがない。
よし、朝日の話もぶち壊してやる!
でだ、その『こいち』なる人物の特徴を聞き出すと……
うん、あー、そのー、なんだ、そんな偶然あるかー!
これは誰かが糸を引いている者がいる。
間違いない!
だが、市姫に会って確かめるのが先だ。
それに佐治家の話もしないと行けない。
「……と言う訳なのですが、お心当たりはおありですか?」
清洲の奥の間にて俺と市姫、それに信光様が同席している。
市姫はお腹を擦りながらが聞いている。
その顔は慈愛に満ちていた。
「うむ、犬からはその話は聞いていたが名前までは聞いてなかったな。そうか、お主の弟であったか」
犬姫は信光様にも話していたのか?
それなら信光様が近習や侍女達に協力を拒むように話したかもしれないな。
うん、納得した。
信光様は顎髭は擦りながら思案顔だ。
しかし市姫は何の反応も見せていない。
「その、こう言っては何ですが。おそらくは流行り病のような物だと思われます。時が経てば自然と忘れると思われますので事を大きくするよりはこのままにしては如何かと? 犬姫様はまだお若いですので一時の事で感情を乱されたに過ぎないと思うのです」
なるべく穏便に済ませよう。
只でさえ木下家は他の織田家臣団とは仲が良くないからな。
これ以上揉めるのは御免だ。
あ、でもこの話が無くなって俺が関与していた事が分かったら余計に反感を買うかもな?
どっちにしても貧乏クジを引いてしまうのか?
「それはそうだな。では佐治家の話は無理に進める必要はないな。強引に話を進めて犬を追い詰めるは良くなかろう。どうかな市よ?」
お、あっさり受け入れて貰えたぞ。
さすがに無かった話には出来ないが時間を掛ければ八郎も朝日に対する熱も冷めるだろう。
いや、冷まさせてやる!
問われた市姫は視線をお腹から前に向けて俺を見る。
少しだけ拗ねたような顔をしたがすぐにキリッとした顔になる。
「犬には犬の幸せがある。私は姉として犬を応援したい。此度の婚儀の話は我ら織田家の者で進めた話。叔父上達の手前私が真っ先に反対するのは憚られる。しかし、藤吉達家臣の進言は大事にせねばならぬ。よって今回は延期と致す。犬には私から話そう。叔父上は一門の者達に話をつけるように」
この話は信光様達が主導してたのか?
「延期? それで良いのか?」
信光様の言葉に市姫は一瞬驚いた顔をした後、ため息を吐いた。
「叔父上。犬が暴走すればどうなるか分かりませんぞ。私や兄に似てあれも中々に難物です。時が経つのを待つよりも話を無かったほうに持っていく方が良いでしょう。幸い相談したのが藤吉であったから良かったものの他の者で有ったらどうするのです?」
自分の事を難物と分かっていたのか?
そうか、犬姫が成長したらこんな風になるのか?
でも小一とは絶対に一緒には成れないと思う。
生まれとか生まれとか生まれが違うから。
「あ、いや。そうだとは思ったが事が婚儀の話であるからな。確かめただけだ。うんうん」
あの顔は本気で分かってなかったな。
しかしこれで朝日の話も流れるわけだ。
いやー惜しいなー。
うん、実に惜しい。
せっかく佐治家と縁戚になれたかもしれないのに。
うん、実に惜しい話だった。
それに『こいち』と言う人は家の小一じゃない。
うん、違う違う。
全然別人でした。
よっしゃ、やったぜ!
「では佐治家には私から話を致しましょう。実は為景殿から此度の事で相談を受けておりまして、佐治家もいささか急な話で困惑気味な様子でした」
別に嘘は言っていない。
困惑気味なのは本当だ。
それに朝日の話をすればおそらく話が拗れる。
「そうか。佐治家には悪い事をしてしまった。では藤吉に頼むとしよう。詫びに関してはその後としよう」
佐治家の立ち位置は半独立半臣従だ。
織田家から姫を貰えばそれを認めて貰えたようなもの。
為景からしたら渡りに舟だった筈だ。
それを壊したのはさすがに可哀想だったかな?
しかし、この話で悪いのは八郎だ!
八郎が朝日に懸想してなければ俺はこの話を纏めただろう。
そうだ、俺は悪くない。
悪いのは八郎なんだ。
それとは別に勝姫と小一が絡んでるのがどうも引っかかるんだが、まぁ話が流れたからどうでも良いな。
うんうん、すべて丸く治まっためでたしめでたし。
「では私は仕事に戻る。ではな藤吉。市よ」
あ、ちょっと、信光様。
待ってください。
二人きりにしないでプリーズ!
「藤吉。こっちに来て触ってくれないか?」
市姫がお腹を擦っている。
俺は恐る恐る近づいてお腹に手を当てる。
う、う~ん、布越しでよく分からない。
「ぷ、なんて顔するのよ。ははは」
俺の顔が可笑しかったのか市姫が突然笑い出す。
「その、直に触らないと分からないですよ!」
「あははは、では触ってみるか?」
市姫は俺をからかうような顔をして帯を緩める。
着物で分からなかったが市姫のお腹が膨らんでいるのが分かった。
それを見て俺は自然と涙が出ていた。
「あ、あれ? 何で」
「しょうがない人」
俺は市姫に抱き締められながら彼女のお腹に手を置く。
暖かい温もりを感じる事が出来た。
その後長姫にも会って話をしたが佐治家の話は知らなかったようだ。
まぁ当然だよな。
つい最近まで俺と一緒だったんだから知らないのは当たり前か?
となるとあの人物しか居ないと思う。
「じいさん、居るかー!」
「だから開ける前に確かめんか」
さぁ話せ。
今すぐ話せ。
ネタは上がってんだ!
キリキリと白状しろ!
「そんな事。わしは知らんぞ。色恋なんぞわしが利用出来ると思っておるのか?」
あ、あれ?
違うの?
「そんな事よりも、早う為景と話をした方が良かろう。すぐに文を出さんか」
「あ、はい」
え、え?
もしかして全部偶然なのか?
いや、そんな筈は……
数日後、為景殿がやって来た。
文にて婚儀の延期を知らせたが直接話を聞きたいとやって来たのだ。
俺は朝日や小一の事は話さず、織田家の事情が変わったと遠回しに出来るだけ分かりやすく話した。
為景殿はそれを神妙に聞き、納得してくれた。
うん、我ながら上手く話せた。
じいさんに何度も駄目だしを食らったがな。
「ですが、朝日殿の事はどうなのでしょう?」
「は?」
「あ、いや。織田家の話は無くなった訳ですから朝日殿の話を進めて宜しいかと思うのですが?」
え、いやいや待て待て。
なんでそうなるんだよ!
「朝日の件は犬姫との婚儀が前提の話。それに佐治家と我が家では家格が違います。嫡男の八郎殿の名に傷を付けますぞ」
どうだ!
農の出である木下家と武士の出の佐治家では釣り合いが取れまい。
あ、蜂須賀家と前田家、浅野家は別だよ。
そんな事全く気にしないと言ってるからね。
本当に有難いよ。
「構いませぬ。付きましては八郎を藤吉殿に預けようと思い連れてきました。おい!」
「え?」
為景がパンパンと手を鳴らすと戸が開かれて、一人の少年が入ってくる。
「じ、自分は佐治為景が、嫡男。佐治八郎に御座いまする。しゅ、主君と思いお仕えする所存にて宜しくおたのもうしまする」
深々と俺に頭を下げる八郎。
若いのにしっかりしてるな。
覚えるの大変だったろうに?
は、いかん。
同情するな。
こいつは朝日を連れ去るかもしれない奴なんだ!
油断しては駄目だ!
「為景殿?」
「八郎には我が家とは別の家で鍛えようと思っておったのです。まだまだ八郎も若いですからな。それに藤吉殿に八郎を見極めて欲しいのです。その上で朝日殿の件、前向きに考えて貰えんでしょうか?」
だから何でそんなに腰が低いんだよ。
少し前の自分を見てるみたいだ。
これも俺が偉くなったからか?
「約束は出来ませんよ」
「分かっております。八郎。励めよ」
「は、父上」
はぁ、断れなかった。
断ると佐治家が敵に回る可能性も有るからな?
それはなるべく避けたい。
ふふ、だが八郎。
俺はそう簡単にお前を朝日の婿になんてしないからな!
八郎が俺を見てビクッと震えた。
「宜しく八郎、君」
「は、はい。木下様」
こうして俺は八郎君を受け入れた。
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