第百五十八話 京の夜にて候う
近衛前嗣と龍千代の会談は秘密裏に行われていた事になっていた。
後日、幕府からの呼び出しに出向いた龍千代はその後京を去ることになる。
そして、龍千代が京を去る前に俺は一人で龍千代と会うことになった。
既に同盟の為の証文は政景に渡している。
市姫様のサインが入っている証文だ。
後は龍千代のサインの入った証文を受けとれば織田家と上杉家の同盟がなる。
政景からは龍千代が俺に直接証文を渡すと聞いている。
だから俺は警戒もせずにノコノコと一人で龍千代に会いに来たのだ。
後に、せめて長姫か半兵衛を連れてくれば良かったと後悔した。
案内された部屋に入り奥の間で龍千代が待っていると言われた俺は、一声かけて返事が有ってから戸を開けた。
そこに居たのは獲物を逃すまいとする一匹の獣が居た。
そう、泥酔した龍千代が居たのだ!
「ふふふ、そこにすゅわりなさい藤吉」
額から汗が出てくる。
龍千代は既に目が座っている。
に、逃げてー!
「座れ!」
「ひゃい!」
なるべく距離をおいて座る。
近くで座ったら間違いなく捕食される。
怖い、獰猛な肉食動物と対面しているみたいだ。
「もそっと、ちこうよれ。な?」
「い、いえ。ここで」
「ごい」
「は、お側に参ります」
すっげえ野太い声で言われた。
それに少しだが殺気も感じた。
拒否すれば殺されるかもしれない。
「杯をどれ」
へ、あ、杯を取れって言われたのか?
俺は龍千代の前に置かれていた杯を手に持った。
「ん」
龍千代は頷いて杯に酒を注ぎ込む。
朱色のお銚子だ。
注ぎ込まれた酒は透き通っていた。
おお、これはもしかして清酒か?
今まで飲んでいた酒はどれも濁っていたやつばかりだからな。
幕府主催の宴席で出た酒もこれほど透き通っていなかった。
「のめ」
「は、頂きます」
俺は杯を両手で持って口をつける。
かー! 喉に来るな、これは!
今までの濁り酒はやや甘めの味がするやつだった。
だがこの酒はからい。
うん、間違いない。
これは清酒だ!
「ん」
龍千代が自分の杯を俺に見せる。
杯は空だ。
俺に返杯しろと言うことか?
「では」
俺は龍千代の杯に酒を注ぐ。
それを龍千代は片手で持って口につける。
ぐいっと一飲みだ。
なんて男らしい飲み方だ。
幕府の宴席では席が離れていたから龍千代の酒の飲み方なんて見てなかったが何とも豪快な飲み方だな。
長姫は片手で杯を持って口につける。
その仕草は何とも色っぽい。
女性らしいしなをつくって飲む姿に頭がぽ~としていたのを覚えている。
だが、龍千代と飲む酒は男と飲んでいるのと変わらない。
まあ、龍千代は美人だから別に飲み方くらいどうでも良いけどな。
でも目が怖いんだよな?
前にも言ったけど龍千代の目は他の人とは違う。
今、近くで見てはっきりと分かった。
彼女の瞳は『重瞳』だ。
重瞳とは一つの眼球に二つの瞳孔がある眼のことをさす。
貴人と言われる人に多いらしい。
一説には秀吉も重瞳だったと言われている。
その瞳が俺を捕らえて離さないのだ。
「なぜ、私ではないのだ」
俺は答えない。
答えれば彼女は俺を斬るだろう。
彼女の手元には彼女の愛刀がある。
戦場でも平時でも手離さない愛刀だ。
下手な答えは彼女の逆鱗に触れる。
「答えぬか?」
彼女の瞳が俺を見ている。
重苦しい雰囲気が漂う。
濃厚な殺気が俺に触れている。
僅かでも動けば俺の命はないだろう。
彼女の瞳がそれを語っている。
どれくらい時が経っただろうか?
俺の額から汗が手に落ちる。
杯は既に置いている。
「ふん」
龍千代が俺から目を離した。
ふぅ、一息つけるぞ。
「そんなにあいつが良いのか?」
あいつ? 市姫のことか、それとも長姫か?
「私と居るのは嫌か?」
龍千代は俺を見ずに問い掛ける。
だが、俺は答えない。
今の彼女には何を言っても無駄だと思うから。
「はぁ、少しは私が分かったのか。それだけが救いか」
ため息をついた後にまた酒を飲み始めた。
今度は自分で注いでいる。
並々と溢れそうになるほど注いでそれを飲み干す。
「ぷはー。なんで私は、はぁ。もっと、自由に。ひっく。なりたい。長が、うぐ、羨ましい。わたしは、なあ! 家など、どーでもいいのだ! 兄上が、もっと、しっかりしてれば…… いや、宇佐美だ! あいつが、よけーなことを、ひっく、しなければなあ。わたしは、わたしは、なあ! 自由なんだ! どこでも行けた。行けたんだー!」
凄いことを言っているのは分かるが、これは酔っぱらいの愚痴だよな?
しかし、龍千代はストレスが溜まっているな。
そのストレスの捌け口が、酒であり、戦なのかもしれない。
「くうー。のめ!のめ、とうきち!」
俺の杯に酒を注ぐ龍千代。
俺は無言でその酒を飲む。
そして龍千代の杯に酒を注ぐ。
そう言えばこの部屋。
周りに酒樽がいっぱい有るな?
もしかしてこれを二人で飲むのか?
おれ、死ぬじゃん。
酒で死ぬのか?
そこで俺に一つの考えが閃いた。
龍千代を酔わせてしまえばいいじゃないか!
思い立ったら即実行!
俺は酒を飲むふりをしてから龍千代の杯に酒を注ぎ込む。
龍千代は俺からお酌されて嬉しいのか。
機嫌が良くなったのが分かる。
目が笑っているからな。
「うう、今日の酒は旨い!のめ、のめ、とうきち」
「はい、頂きます」
こうして龍千代との夜を過ごしたのでは…… なかった。
どしん、どしん、どしん。
地響きが鳴るような足音と共に誰かが近づいてくるのが分かる。
足音と騒ぎ声が近づいてくる。
「だ、駄目です。誰も通すなと言われて」
「退きなさい」
「お、お願いです。ここはお退きくださいませ」
「触るな!」
声と共にズダダダンと音がした。
あ、これは投げ飛ばされたな?
「ここね」
スパーンと戸が開くとそこには長姫が仁王立ちしていた。
右手で龍千代を指差し長姫は宣誓する!
「藤吉はわたくしの物です!」
「あー、とうきちはだれのものでも、ひっく、ないだろう、がー!」
そ、そうです。
俺は誰の物でもないです。
強いて言えば俺は俺の物です、はい。
刀に手をかけた龍千代はスッと立ち上がり長姫の前に立つ。
あわわ、ヤバい、ヤバいよ!
「ふん、丸腰のわたくしを斬るの?」
「ち、これは、その、なんだ」
そう言って龍千代は刀を畳に突き刺す。
ああ、畳が傷ついた。
俺はソッと近づいて刀を抜くと鞘に納めた。
「なんて酒臭い。それでも一国の守護ですの」
「だまれ! 成りたくて成ったわけではない」
「それはわたくしも同じですわよ!」
あ、そう言えば長姫は仕方なく守護を、今川の当主に成ったって言ってたな。
ぎゃあぎゃあ、と二人が言い争う中を俺はこそっと部屋を出ていこうとしたのだが……
「「ここにいろ!(いなさい)」」
「はい」
帰りてえー。
翌朝、ほぼ徹夜で起きていた俺は仲良く寝ている二人に上衣を掛けてから部屋を出ていった。
その数日後、上杉家は京を後にした。
そして俺は龍千代のサインが入った証文を手に京を後にした。
何とかミッション達成だ。
二人とどうなったかは皆様の想像にお任せします。
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