第百四十四話 嵐の前にて候う
思わぬ形で千宗易の弟子になった俺はしばらくの間、魚屋に通うことになった。
宗易の指導はそれほど厳しいものではなくやんわりと注意するものなので、穏やかな時を過ごすことが出来た。
しかし周りの状況は刻一刻と悪くなっていたのだ。
京においては将軍『足利 義輝』と幕府の実質的支配者『三好 長慶』の対立が目立ってきていた。
義輝は近江の『六角 義賢』と河内守護『畠山 高政』を味方に付けて長慶に対して圧力を加えていた。
そしてそんな情勢の折りに越後の『長尾景虎』が義輝の要請を受けて上洛して来るのだ。
景虎は去年には関東に出兵して北條と戦ったが決着が着かずに兵を退いている。
実は景虎は去年、上洛を行う予定では有ったのだが武田と北條の同盟関係に亀裂が入ったので、この隙を突いて兵を出したのだ。
武田と北條の仲が拗れたのは今川が織田に敗れて、武田が今川に攻め込んだ為だ。
甲相駿三国同盟の亀裂が史実よりも早まった結果だ。
武田は美濃を得て上洛の機会を窺っている。
正確には信虎が、であるが……
そして、その上洛の障害になるのが近江六角なのだが……
現在は浅井との従属関係強化の為に婚姻を結ぶ準備を進めている。
しかしこれは史実通りなら浅井が六角の嫁を突き返して戦になる。
『野良田の戦い』が起きるはずなのだが、どうなるか分からない。
長姫は浅井と六角が戦うと予想していたがこれが外れる可能性も無くもない。
六角で思い出したが伊勢征伐の折りに滅ぼした梅戸氏の『梅戸 高実』は、前六角当主の『六角 定頼』の弟で現当主『六角 義賢』の叔父にあたる人物で有ったのだが、六角義賢は何故か援軍を出すことがなかった。
その原因を俺はこの堺で知ることが出来た。
「三好が六角に兵を出そうとしていたのですか?」
「その通りです。畠山様が家臣の遊佐と争っている隙に六角を抑えようと思われたそうですな」
俺は宗易と茶を点てながら世間話をしていた。
宗易は茶の指導をしながら俺に近畿地方の情報を流してくれたのだ。
「では、三好の天下は磐石と言えますか?」
「いえ、そうはならないでしょうな」
宗易はさらに暴露を続ける。
三好は菅領の『細川』の家臣で織田と同じで下剋上で成り上がり者だ。
その為に三好には権威が足りていない。
その原因が主君である細川家を未だに残しているからだ。
織田は尾張統一の過程で主君である『斯波』を滅ぼしている。
史実では斯波家は残っていたのだが、こっちではどさくさ紛れに滅ぼされているのだ。
ちなみに滅ぼしたのは信長ではない。
尾張守護である斯波家が無くなった為にそれを引き継ぐような形で織田家が尾張守護を受け継いでいる。
尾張の実質的支配者である織田家が守護を継いで権威を得たのである。
しかし、三好は主君である細川が残っている為に権威による箔付けが出来ないでいた。
各地の守護職を手に入れ官位も得たが、細川が上に居る限り三好は細川の家臣でしかない。
その為に三好は将軍家から認められないでいるのだ。
三好は成り上がりの陪臣(家臣の家臣)。
それが近畿における三好の評価である。
三好が実力を付ければ付けるほどその反発は大きかったのだ。
当然、将軍義輝も三好を嫌っている。
将軍として京に居られるのは三好のお蔭なのにである。
「来年辺りは大きな戦が起きるかもしれませんな」
「そうですか」
それはおそらく六角畠山対三好の戦いだ。
それにもしかしたら武田対六角になる可能性もある。
今の近畿地方は戦続きで米が不足している。
その為米やその他の物価がこれから上昇するだろう。
近畿の商人達にとっては今が稼ぎ時なのだ。
しかし本当は戦が無くなって流通が確保される平和が一番なのだが、堺の商人は武器商人の側面も持っているので戦が無くなるのは困る。
目の前の宗易もまた武器を売って今の栄華を得ているのだ。
「こうして織田家の木下様と縁を持ったのは私にとっては嬉しい限りです。末永くお付き合いしたいものです」
「私は宗易殿の弟子ですよ。破門されることがなければ付き合いが途切れることもありますまい」
「おお、そうでしたな。これは失礼」
宗易はたまにこうして意味深な言葉をかけてくることがある。
茶の指導もこうして雑談するのにも油断出来ない。
油断出来ないのだが……
「結構なお点前ですな。前田様」
「いえ、私などまだまだです。宗易殿」
誰だこいつ?
「藤吉の点てる茶の方がわたくしは好きですよ」
「ありがとうございます。姫様」
長姫は相変わらずだよ。
「お兄ちゃん、足が痛い」
「こら朝日。姿勢を崩してはいけませんよ」
「もう少し我慢しましょうね。朝日」
朝日は足が痺れたのか姿勢を崩すと長姫と寧々に注意されていた。
「ほほほ、構いませんよ。慣れないうちは無理為さらずに」
「ありがとうございます。よし、宗易殿」
朝日はまだ宗易の名前に慣れていないようだ。
それにしても宗易は朝日に甘いな?
まさか、朝日を狙っているのか?
ううん、宗易がロリコンだったとは知らなかった。
「宗易殿。もっと三好や畠山のことを教えて頂けないでしょうか?」
「構いませんよ。半兵衛殿」
む、半兵衛にも甘いのか?
やっぱり宗易はロリコンなのか?
それに珍しく半兵衛が積極的だ。
は、まさか!
半兵衛は年上のしかも親父趣味なのか!
「ははは、これは賑やかだな。宗易」
「たまにはこうして大勢で茶を楽しむの一興。そうでしょう彦右衛門」
「確かに、確かに」
今井彦右衛門は長姫が話をして繋がりが持てた。
その為津島の堀田道空殿の依頼も何とかなった。
後は時期を見て上洛してくる長尾家と接触を図る。
俺はその時を静かに待っているのだ。
そして今の俺達は魚屋の奥屋敷で宗易と茶を点てている。
利久は和歌や詩だけではなく、茶道も出来た。
この芸達者な男は本当にハイスペックだ。
その変わり扱いが難しいのが難点だ。
長姫はもちろん茶道も出来る。
今は朝日や寧々に手解きをしている。
まだまだ宗易自ら朝日達を指導するまでには至らない。
半兵衛はもっぱら食べたり飲んだりしている。
成長期だからな。
いっぱい食べて育つと良いよ。
そして彦右衛門は度々現れては一緒に茶を点てたりして歓談している。
この堺は平和だ。
こんなに穏やか時を過ごすことになるとは思わなかった。
しかしそんな平和な時間ももう終わりだ。
「木下様。先ほど連絡が届きました。長尾家が上洛したそうです」
彦右衛門が真面目な顔で俺に告げる。
「そうですか」
「いよいよ、ですかな?」
「そうなりますね」
宗易の問いかけに答える。
宗易と彦右衛門には長尾家が上洛して来たら教えてくれるように頼んでいた。
俺の目的はすでに話している。
秘密にするよりも素直に話して協力して貰ったほうがいい。
見返りは長姫が用意していたので問題はないはずだ。
「宗易殿、彦右衛門殿お世話に為りました」
「なに、困ったことがあればなんなりとご相談下さいませ」
「左様、左様。木下様とは長い付き合いに為りそうですからな」
二人は共に笑った。
さあ、いよいよ上洛してあの『長尾 景虎』と話をしないといけない。
約三年ぶりに会う景虎は俺の事を覚えているだろうか?
それに俺を呼び出した龍千代がどんなことを言ってくるのか。
それが不安だ。
どうか面倒な目に遭いませんように!
永禄三年 七月某日
木下 藤吉 長尾 景虎と対面す
右筆 村井 貞勝 書す
これで六章は終わりです。
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