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喪失のアウトランド

作者: 藤 達哉

 喪失のアウトランド        藤 達哉


 空は晴れあがり、寺の境内は蝉時雨に包まれていた。炎暑の夏だった。圭彦は纏わりつく暑さから逃れるように速歩で、大学の研究室に入った。

彼はデスクに着き、汗を拭いながらパソコンを開きデータを調べ始めた。大学院生の時に新薬の研究を始めて五年が経っていた。

「先生、明日の特別講義の準備はできてるんですか」

助手の絢子が隣のデスクから声をかけた。

「えっ、なにそれ」

圭彦は不意をつかれたように応えた。

「あら、いやだ、また忘れてたんですか、明日はオープンキャンパスで見学に来る高校生に講義をする予定でしょ」

「あっ、そうだったのか、ねえ、それじゃ、わるいけど資料用意してくれるかな」

研究に没頭するあまり講義を忘れるのは珍しくはなかった。

「どんな資料が必要なんですか」

「えーっと、新薬開発の現況というテーマでやろうかな」

それは彼が今まさに取り組んでいるテーマだった。

「そう思って資料はもう揃えてありますよ」

絢子は微笑んでファイルされた書類を圭彦のデスクに置いた。

「さすが絢子、ありがとう」

彼も白い歯を見せた。

資料に眼を通したが、自身の研究テーマにもつながる内容なので、講義用にまとめるのは容易に思えた。

夕刻、仕事を片づけた彼は研究室を出て、自転車で自宅へ向かった。陽が傾いても暑さは去らず、ペダルを踏んでスピードを上げると、頬を撫でる風が生暖かく感じられた。

彼は大学からほど近い町屋を借りていた。旧い家だが手入が行届いていてひと目で借りることに決めた。

玄関から細い廊下を通って奥の間に入ると、坪庭が見わたせた。そこには観棕竹が植えられ、石の手水鉢が配されていた。縁側に立てかけたよしずを通して吹いてくる風は外とはうって変わって涼やかだった。

 彼の研究は最近大きな前進を遂げていた。それは、これまでにないまったく新しいタイプの精神薬の実現を意味するものだった。大手の製薬会社と共同で研究を進め、漸く開発に目処が立ちはじめていた。

 彼が大学院時代に始めた研究は学内でも高い評価を受け、指導教授の協力もあって、文部科学省の最先端科学支援の十億円を超える研究補助金を得ていた。そういった背景から、彼はどうしても成果を上げなければならない立場にあった。幸い、大手製薬会社が興味を示し、共同開発の結果、漸く試用品ができる段階にいたった。

新薬はごく少量で精神的安定を得ることができる安定剤で、既存の薬剤と比べ格段に優れたコストパフォーマンスを発揮する画期的なものだった。間もなく治験を開始する予定で、約一年間の試験投与を行い、問題がないと判定されれば、厚労省の認可を得て生産に入る手筈になっていた。

思えばここまで漕ぎつけるには紆余曲折があり、数えきれないほどの問題を解決しなければならなかった。研究が遅滞すると大学から研究を疑問視する声さえあがった。文科省には研究の進捗を逐一報告しなければならず、思うような進展がないときには大きなプレッシャーを感じた。

それら諸諸の力から漸く解放される時が近づき、彼は肩の荷を下ろした気分だった。


 彼は医学部に籍を置いていたが、臨床医になる気はなく、研究医を目指していた。しかし課程が進むにつれて、身体と精神の繋がりの重要性に気づいた。健康を維持するためには精神の健全がなにより重要だという結論にいたった。精神への治療を行うためには薬理学の知識が必要となり、彼は医学部を卒業後、大学院で精神薬理学を専攻した。

卒業後、助手として採用され、いまは講師として勤務していた。


 彼は資産家の一人息子として育った。父親の郁彦は不動産で財をなした。小さな不動産会社を経営していた彼はバブルの波に乗り、次つぎと不動産を転売し、瞬く間に経営規模を拡大していった。バブル崩壊時にも旨く売り抜け手元には多額の現金が残った。

彼は下落した株を狂ったように買いあさった。しかし、景気回復の道筋は見えず、株価は長期に停滞した。欲望に限りはなかった。もっと稼がなければ、そう思った彼は何かに憑りつかれたように信用取引に手を染めていった。

景気はさらに悪化し、株価は下落、彼は築き上げてきた財産のほとんどを失った。自宅を売払い、妻とは離婚し、圭彦とのアパートでの生活が始まった。

圭彦は子供のころから生物に興味を持っていた。高校に入学し、医師になるべく医学部受験を心に刻んでいた彼は父親にそのことを言った。

「医学部へ行きたいんだけど」

「そうか、お前本当に医者になる覚悟があるのか」

ちいさいころから、なに不自由なく我儘に育ってきた息子にそんな根性があるとは、父親には思えなかった。

「昆虫とか魚とか生き物に興味があるんだけど、社会に貢献して人助けをするには医者が一番だと思うんだ」

圭彦は真顔だった。

「お前、医者がどういう仕事なのか分っているのか」

「・・・」

彼は応えに窮した。

「医者というのは、なった瞬間から自分というものを捨てなきゃならんのだぞ、それほど大変な仕事なんだぞ」

父親は圭彦の顔を見つめた。

「そうかも知れないけど、そういう仕事をやってみたいんだ」

圭彦の眼の奥に宿る強い意志を見てとった父親は意外に感じた。

「そうか、そこまでいうならそうしなさい」

「だけど医学部は学費が高いから」

圭彦は眼を伏せた。

「大丈夫だ、それくらいの余裕はある」

父親は微笑んだ。

「本当に大丈夫なの」

「お前の学費として、子供のころから連年贈与してあるんだ、もう一千万円くらいにはなってるはずだ、心配はいらん」

父親の言葉に圭彦は不動産業に勤しんでいた父親の姿を思い出した。そのころ、父親はバブルの真只中で寝食を忘れて土地の売買に奔走していた。早朝から鬼気迫る形相で電話をかけまくっていたかと思えば、さっと外出し、深夜まで帰らないことも珍しくなかった。幼かった圭彦は父親の仕事を知るよしもなかったが、長じて、あれは金の亡者の姿ではなかったのかと思いはじめ、父親に対する軽蔑の念が生れた。

そんな父親が自分のための教育資金を用意していたとは意外だった。

 母親は、花びらが散るように財産を失った父親のもとを去っていった。

ある日の下校時、圭彦は二条城近くで偶然母親の姿を見た。彼女は男と寄りそいながら、枯葉の舞う歩道を愉しげに話しながら歩いていた。彼女はこれまで圭彦が見たこともない笑顔だった。男は紺のジャケット姿で恰幅がよかった。母親の服装は以前より洗練され、随分若返って見えた。圭彦は一瞬声をかけようとしたが、他人を寄せつけない雰囲気に圧され思い止まった。彼は女の欲望を見た思いがした。

 父親のようにはなりたくない、その思いが圭彦を勉学へと駆り立てた。受験勉強には体力も必要だろうとテニス部に入ったが、想像以上に激しい練習を目の当りにして、あまり練習に参加することはなかった。付きあいの悪い彼は級友からも疎まれた。唯一、気が合うのが親友の慎也だった。

「勉強はかどってるのか」

慎也がコーヒーカップを口に運んだ。

下校時、彼と圭彦は木屋町のコーヒーショップに席をとっていた。

「やってもやっても追いつかないね」

圭彦は微笑んだ。

「おいおい、そんなことで大丈夫なのか」

「どうなるかな、お前はどうなんだ」

「俺は医学部志望じゃないから気楽なもんさ」

「どこを狙ってるんだ」

「べつにどこでもいいんだ、経済か経営学部なら」

「ビジネスマンを目指すのか」

「そうだ、ビジネスでがっぽり儲けるのさ」

「どういう手立てを考えてるんだ」

「まずは、大手企業に潜りこんで、そこでビジネスのイロハを習得する」

慎也は得意気だった。

「それで」

「決まってるさ、そこで得たノウハウで起業するのさ」

「どんな起業なんだ」

「うーん、そこまではまだ考えてない」

「なあんだ、そんな程度か」

圭彦は込みあげてくる笑いを抑えきれなかった。

「まあ見てろ、金稼いで、成功して、巨万の富を築いてやる」

慎也は唇を真一文字に結び、虚空を睨んでいた。

こいつ、本気なんだ、と圭彦は思った。

「お前も医者になるなら名医と呼ばれるようになって、富と名声

を独り占めって言うのはどうだ」

慎也は表情を戻した。

「僕にそんな気はないさ」

圭彦は素気なく応えた。

「それにしても、まず試験に受かることが先決だな」

「それもそうだな」

二人は顔を見あわせた。

窓の外を流れる高瀬川の川面は透きとおった秋の空を映していた。


 圭彦は高校三年の春を迎え、受験勉強も佳境に入って行いた。事件はそんなときに起こった。

離婚した母の冴子が殺人事件の容疑者として逮捕された。彼女は交際相手の男をナイフで刺殺したのだ。報道で事件を知った圭彦は刺された相手はあの男だと直感した。

「お父さん、大変なことになったね」

帰宅した父親にすがるように言った。

「ああ、そうだな」

父親は気のない返事をした。

「ねえ、どうしたらいいんだい」

圭彦は言葉を継いだ。

「お母さんのことはもう忘れなさい」

父親は俯き加減で言った。

「えっ、どうして」

圭彦は彼の言うことが理解できなかった。

「お母さんはそういう女なんだ」

「えっ、どういうこと」

彼は訊きかえしたが、父親は黙して応えなかった。

腰の重い父親に代って、圭彦が母親の面会に行った。地下鉄とバスを乗り継いで郊外の拘置所に着き、明りにとぼしいの面会室で母親に会った。五年ぶりの再会だった。

「元気そうね」

相対した母親が口を開いた。街中で見かけたときの輝きは、彼女の顔から失せていた。

「どうしてこんなことになったんだい」

圭彦は彼女の心中を窺うように訊いた。

「お母さんにも分らないの、気がついたらあの人の胸にナイフが突き刺さっていたの」

「どうしてそんなことを」

「あの人が許せなかったの」

「一体、なにがあったの」

「あの人に若い女がいたの」

「そんなことであの人を刺してしまったのかい」

「あなた、あの人のことを知ってるの」

「うん、一度街で見かけたんだ」

「そうだったの。私はあの人を独占したかったの。でも。裏切られて、それに耐えられなかったの」

冴子の両眼は赤く充血し涙が溢れていた。

あの幸せな笑顔を交わしていた相手を、そう簡単に葬り去ることができるのだろうか、と圭彦は訝った。

彼に慈愛に満ちた眼差しをむけていた母親のどこにそんな力が潜み、なにが憎しみを呼醒ましたのか、女の欲望とはそういうものなのか、それは圭彦の感覚を超えていた。

 夕刻、帰宅した彼は疲れを覚え、机に着くこともなく、リビング

のソファに茫然と坐っていた。

「どうしたんだ、なにやってるんだ」

陽が落ち、薄闇に包まれた部屋に郁彦が入ってきて灯をつけた。

「今日、お母さんに会ってきたんだ」

圭彦は俯き加減で口を開いた。

「なんだって、母さんのことは忘れなさいと言っただろう」

郁彦は声を上げ、圭彦を睨んだ。

「だって、心配で、お母さんがあんなことをするなんて信じられないよ」

「あの女のことは放っておくようにあれほど言ったのに、どうして会いになんか行ったんだ」

「だけど、まだ弁護士も決まってないらしいんだ」

「そんなこと、お父さんには関係ないことだ」

郁彦の語気の強さに圭彦は言葉を失った。父親がなぜ母親にそれほど冷淡になれるのか、夫婦間の憎しみはそれほどやっかいなものなのか、彼には分らなかった。それからも、郁彦の心は冴子に開くことはなかった。

このことがあって以来、父との間にしこりが残ったように思えた。


 母のことを忘れんがためか、その後一年、圭彦は受験勉強に邁進した。しかし、医学部受験は甘くはなかった。志望校に合格せず、彼は浪人することになった。

圭彦は一年の浪人生活のあいだ、自分でも信じられないくらい受験勉強に集中した。食事、睡眠、生存に最低限必要とされる時間以外は全て勉強に充てた。深山の修行僧のような生活に耐え、一年後、見事志望校へ合格を果たした。


 週明け、フェイザー製薬の新薬開発チームが大学を訪れ、同社との間で治験契約と機密保持契約が結ばれた。

「ありがとう、これは新薬開発の第一歩ですが、見通しはとても明るいと思いますよ」

開発チーム長は満面の笑みを浮かべ、圭彦を見た。

「ありがとうございます、これで新薬の実現に向けて大きく前進できると思います」

圭彦も微笑んだ。

「優秀な指導教授と研究者がいらして羨ましい限りです」

チーム長は指導教授の大久保に微笑みかけた。

「いや、今度の研究は圭彦君の努力の賜物です、私はなにもしてませんから」

「先生、新薬ですが、アルカディアZと命名しようと思いますが、いかがでしょうか」

「うーん、いいんじゃないかな」

大久保教授は圭彦に視線をやった。

提携先に外資の製薬会社を選んだのは大久保だった。圭彦は提携先に国内の製薬会社を考えていたが、大久保は資金が豊富で対応の速さを理由に外資を選んだ。多くの製薬会社が画期的な新薬を共同開発したい旨オファしてきたが、他社には眼もくれず彼はフェイザー製薬を選んだ。

あまりの速さに学内では彼とフェイザー製薬との癒着が噂された。彼と製薬会社との癒着はいまに始まったことではなく、従来からきな臭い噂が流れていた。彼は国立大学の教授に似合わずいつも派手なスーツに身を包み、とても給料では買えないドイツの高級車を乗り回していることが噂に真実味を与えていた。

彼は京都で代代続いた旧家の出身だった。黒縁の眼鏡をかけ、長身痩躯の彼はいかにも科学者然として、剛腕を弄ぶ人物にはみえなかった。しかし、若くして教授選に臨み、その際にも札束をばらまいたと噂された。教授会でその行為を非難する声もあがったが、彼はそれさえ金の力で抹殺した。こんどの新薬開発でも圭彦は彼から指導らしきものはなにも受けていなかったが、開発を契機に大久保の体内で魔物のような欲望だけが限りなく巨大化していった。


 圭彦と絢子は疎水脇の道を辿っていた。桜並木は白桃色に膨らんだ蕾で春を迎えようとしていた。柔らかな光のなかで、絢子の透きとおるような肌が輝いていた。

「もう春ね」

絢子はセミロングのほつれ髪を細い指で押さえた。

「そうだな、だけど春風とともに忙しくなるよ」

「そうね、圭彦さんの研究も実を結びそうね」

「ここまで永かったよ。フェイザー製薬と契約交わして、ここからが本当のスタートなんだよ」

「そう、よかったわ、これで多くの人の精神を救うことができるのね」

絢子は微笑み、美しい形の頬が揺れた。

「治験で安全性が確認できれば、多くの人の精神の不安を解消できることになると思うよ」

圭彦は新薬の効力に自信を持っていた。

絢子は彼の横顔を頼もしく感じた。

黄昏時、二人は長い影を落しながら南禅寺から祇園へと道を辿り、こじんまりとした割烹へ入った。

「よさそうな所ね、お腹すいちゃったわ」

店には白木のカウンターが設えられ、小振りのテーブルが四つほど置かれていた。二人は奥のテーブルに席をとった。

「僕も一段落してほっとしたせいか、今日はみょうに腹が減るんだ」

「まずは乾杯ね」

二人はビールグラスを上げた。

絢子は運ばれてきた会席料理を口に運んだ。

「まあ、美味しい、久しぶりだわこんなお料理」

彼女はすっかり和んでいた。

「ねえ、ちょっと話したいことがあるんだ」

圭彦はグラスを置いた。

「あら、あらたまってなにかしら」

「ここじゃなんだから後で僕の家にこないか」

彼は真顔だった。

「ええ、いいわよ」

そーら、きた、真面目な顔してやっとその気なったのかしら、と絢子は一瞬体が熱くなるのを感じた。

大学院生のときから、絢子は圭彦に思いを寄せていた。脇目もふらず一心不乱に研究に打ち込む圭彦の姿に彼女は心をときめかせていた。卒業後、彼女は自身を大久保教授にあの手この手で売り込み、圭彦の助手として採用された。それからというもの、アシスタントとして、この三年間、圭彦の手足となり彼を支えてきた。食事をしたり軽く呑みにいくことはあったが、それ以上の関係になることはなかった。圭彦の誘いに彼女はこれまでにない夜を想像した。

「そう、よかった。じゃあ、もうすこし呑もうか」

「そうね、私は日本酒にするわ」

「えっ、日本酒がいけるんだっけ」

圭彦は絢子のそんなことも知らなかった。

冷酒の盃を重ねた二人はほろ酔い気分で店を後にした。彼は絢子をともなって八坂神社近くの自宅へ戻った。

「まあ、いいお家ね、雰囲気あるわ」

絢子は彼がここに住んでいることは知っていたが、なかに入るのははじめてだった。

「さあ、入って」

二人は居間の卓袱台を挟んで坐った。坪庭からよしずを通して吹き込んでくる風は、酔った肌にこのうえなく心地よく感じられた。

「静かね、それに涼しいし」

「外の暑さが嘘みたいだろう」

胡坐をかいた圭彦が微笑んだ。

「ほんと、町屋って素敵ね」

「僕も気に入ってるんだ」

「ねえ、ところで、話ってなに」

絢子はこれから起こることを想像していた。

「あ、うん、ちょっと言いにくいんだけど・・・」

「なに、いいのよ、なんでも言ってみて」

彼女の胸は期待で膨らんだ。

「じつはたいへんな発見をしたみたいなんだ」

「えっ」

なんのことか、彼女には分らなかった。

「新薬を発見したんだ」

「ええ、そうよね、だからこの間、製薬会社と契約したんでしょう」

「そうじゃないんだ、べつの薬なんだ」

「べつの薬?」

彼女はなんの話かと思った。

「うん、今度のアルカディアZよりずっとすごい薬効のある薬なんだ」

「そうなの、それってどんな薬なの」

「人間の欲望をコントロールする薬なんだ」

「どういうことなの」

彼女は圭彦の言うことが理解できなかった。

「つまり、欲望をコントロールして悲劇を防ぐ薬なんだ」

「悲劇を・・・」

「人間は欲望に振り回されているだろう、それを取り除くんだ」

「なんだかよく分らないけど」

彼女は腑に落ちない表情をした。

「人間にはいろんな欲望があるだろう、それを旨く制御できればいいんじゃないかと思っていたんだ」

「それはそうでしょうけど、それで研究を始めたの」

「そう、アルカディアZは安定剤だからそう難しくはなかったんだ、だいぶ前から目処はついていたんだ」

「そうだったの」

「この新薬は大学に入ったころからずっと考えていた薬なんだ、大学院に進んだのもこの薬のためだったんだ」

「じゃあ、院に進んだときから研究していたの」

「そうなんだ、この新薬とアルカディアZと研究過程が似てるから秘密にして同時に進めていたんだ」

「まあ、そうだったの」

「アルカディアZなんて、僕にとってはたいした意味はないんだ、真の目的はこの新薬なんだ。僕はこれをニルバーナZと名づけたんだ」

「そういえば、アルカディアZとは関係のなさそうな実験データがあったわね、それが新薬のものだったのね」

「そうなんだ、絢子には知らせないで手伝わせしまったんだ、ごめんね」

「そんなこといいの、それで、欲望を制御するってどういうことなの」

「脳にはいろんな欲望を支配する部位があるんだけど、ニルバーナZはその欲望を選択しながらコントロールするんだ」

「へー、そんなことができるの」

「様ざまな欲望をべつべつに制御できるいろんなタイプの新薬ができそうなんだ」、

「すごいわ、それが実現できれば、さすが圭彦さん」

「それはそうなんだけど」

「どうしたの、なにか問題あるの」

「動物実験ではすべて予想どおりの結果がでてるんだけど、まだ人には投与したことがないんだ」

「それはそうよね、秘密で進めていたんですものね」

「それで、どうしても人で実験が必要なんだ」

「それなら、発表して治験をすれば」

「それは難しいと思うんだ」

「あら、どうして」

「もしこのニルバーナZが完成したらどうなると思う」

「みんなが助かるんじゃないの」

「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」

「そうね、だって誰も試したことのない新薬ですものね」

「それで考えたんだけど、大久保先生に実験台になってもらおうかと思うんだ」

「えーっ、先生に、だけど先生がうん、って言うかしら」

「言わないよ、なんにでもあんなに貪欲な人だから、だからこそ実験台としてはぴったりなんだ」

「そうね、でもどうやって実験台になってもらうの」

「知らず知らずのうちにニルバーナZを呑んでもらうのさ」

「そんなことできるの」

「絢子ならできるんだ」

「えっ、私が」

「朝、決まって絢子がコーヒーをいれるだろう、そのときニルバーナZをコーヒーに混ぜるんだ」

「えー、そんなこと・・・」

絢子は眼を丸くした。

「絢子にしかできないだろう、頼むよ」

圭彦は彼女の眼を見つめた。

「いいわ、やってみる」

絢子は頷いた。

「これがニルバーナZなんだ」

圭彦が取り出したちいさなカプセルはパープルに輝いていた。

「まあ、綺麗な色、これひとつでいいの」

絢子はその妖しげな色に眼を奪われた。

「そう、一日一回これを呑めば効果があるはずなんだ」

いつのまにか絢子に寄りそった圭彦は彼女の手を握り、眼を見つめていた。絢子は、一瞬にして周りの世界が消え去り、宙に浮かんでいるように感じた。気がつくと、彼女は圭彦に強く抱かれていた。

窓の外では白い月影が坪庭を静かに満たしていた。


 治験に向けて研究室は活気を帯びていた。

「圭彦君、治験の準備は進んでいるのかね」

大久保教授が声をかけた。

「ええ、付属病院のベッドも確保できました」

圭彦は笑顔で応えた。

「そうか、これから一年が勝負だからね、そのつもりでやってくれよ」

治験が成功裡に終り、市販が承認されることになれば、指導教授とし大久保の名も世に出ることになる。いつものように、彼は野心溢れる表情だった。


 夕刻、圭彦と絢子は大学近くのコーヒーショップに席をとっていた。

「どうだった」

圭彦は身をのりだした。

「入れたわよ」

絢子は声を潜めた。

「で、先生、そのコーヒー飲んでた」

「ぜーんぶ飲んでたわ」

「そうか、よーし」

圭彦は唇を結んだ。

「ねえ、どれくらいで効いてくるの」

「毎日呑んだとして一週間くらいで効いてくるはずなんだ」

「そうなの、じゃあ明日も旨く入れないといけないわね」

「うん、毎日頼むよ」

圭彦は絢子の眼を見つめて拝むような仕草をした。

絢子はコーヒーを口に運びながら、昨夜の心と身体の疼きを思い出していた。


 新入生を迎え春のキャンパスは活気に満ちていた。圭彦は正門から入り、時計台の手前で左に曲がり、自転車置場で自転車を降り、研究室へ向かった。

「おはようございます」

圭彦は研究室の大久保に声をかけた。

「ああ、君か」

大久保は物憂げな表情で振り返った。

絢子がコーヒーにニルバーナZを入れ始めてから三週間が経っていた。

「治験の現状報告をしようと思いまして」

「そうか、まあ坐りたまえ」

圭彦と大久保はソファをはさんで相対した。

「被験者は三名とも順調です。精神が安定して、気分もよさそうです」

「そうか、そりゃよかった」

大久保は穏やかに他人事のように応えた。


〈先生の顔は随分柔らかくなったみたいだ、それにいつもの薫陶の言葉もなかった、薬効で彼の精神に変化が生じたのだろうか、それなら期待どおりだ〉


圭彦は父親のことを思いだしていた。彼に、突然湧いて出たようなギャンブルへの欲望がなければ没落貴族のような生活をせずにすんだはずだ、欲望というものがなければ、あのような愚行に走ることもなかったはずだ、と。

 

 絢子は圭彦宅を訪ねていた。

「先生はどうだい」

「変ったわ」

「どういうふうに」

「なんだか柔らかくなって、みょうに優しくなったみたい」

「薬効のせいだね」

「ええ、そう思うわ、仕事のとき、速くしろ、間違うな、なんてしょっちゅう怒鳴られてたのに、それも言わなくなったの」

「うーん、薬が効いてるんだ、上々の滑り出しだね」

「このままいけばすごいことになりそう、さすが圭彦さんの薬ね」

「このままで副作用がなければいいんだけど」

「そうね、なんらかの副作用はあるはずよね」

「うん、そのへんよく観察しておいてくれよ」

「わかったわ」

気がつくと絢子が圭彦に寄りそい、潤んだ眸で彼を見つめていた。深夜、ベッドのなかで彼女は白い肌を紅潮させ、暫くの時間小さく反応し、やがて大きな波のように身も心も弾けさせた。

 朝の薄明りのなかで、圭彦は目醒めた。朝露を思わせる湿気をかんじながら見ると、傍らで絢子が気持よさそうに寝息をたてていた。

 

〈彼女の欲望はどれほど深く、大きいものなのだろう、律動を繰り返す彼女の身体の芯にあるのはどんな欲望なのか。もしこのニルバーナZがあれば、母親は殺人者になることもなかったかも知れない〉


彼は母親のことを思いだした。生の発露のような絢子の欲望と母親の欲望が重なって感じられた。


「もう起きたの」

気だるい眼で絢子が身を起こした。

「うん、早く眼が醒めちゃった」

「なんだかまだ眠いわ」

カーテンの隙間から射しこむ朝陽を浴びて、絢子は妖精のように煌いていた。


 学部長室の窓からブラインドを通して柔らかな午後の光が射しこんでいた。

「次の学部長は君に頼もうと思っているんだ、異存はないだろう」

学部長の城山と大久保はソファで対峙していた。

「はあ、いや、私は適任ではないと思います」

大久保は視線をそらしたまま応えた。

「おい、一体どうしたんだ」

城山は耳を疑った。

「私に学部長は難しいかと思います。齢も齢ですし」

「君、自分で言ってることが分っているのか」

大久保の言葉が信じられず、彼は困惑した。

「はあ、充分分っているつもりですが」

「君はずっと学部長になりたくて、いろいろ手立てを考えて頑張ってきたんじゃないのかね」

「そうなんですが、今となっては優秀な人材も育ってきましたので、後進に途を譲るべきではないかと考えております」

「そういう考えか。今日のところは一応聞いておくから、もう一度考え直してくれんか」

「分りました、しかしお時間を頂けるのはありがたいですが、考えは変わらないと思いますが」

大久保はそう言い残して静かに部屋を出て行った。

城山は言葉を失い、デスクで暫く茫然としていた。


〈あれほど権力欲の強い男がどうしたというんだ、あの男になにかあったのか〉


 大久保は毎朝のコーヒーは欠かさず飲んでいた。絢子はニルバーナZをコーヒーに混ぜ、せっせとカップを彼へ運んだ。

「先生、お身体大丈夫ですか、このところ元気がないように見えますが」

デスクに坐っている大久保に絢子が訊いた。

「そう見えるかい、だがね、このところ体調もいいし、気分もいいんだよ」

大久保はにこやかに応えた。

「そうですか、それならいいんですが」

絢子も微笑みを返した。


 翌週、教授会が開かれた。本来、城山が大久保を学部長に推薦するはずの会議だった。

「諸君も承知していると思うが、次期学部長に推薦を予定していた大久保教授がその職を辞退された」

城山の発言に会議は動揺した。

「それで、この件は仕切り直しだ、自薦、他薦があったら私のところに言ってきてくれ」

「大久保先生はどうして辞退されたんですか」

教授のひとりが質問した。

「いや、それは・・・、そのことは城山先生にお話ししてますから」

大久保は歯切れがわるく、俯いた。

教授会は盛り上がりを欠いたまま終わった。


 圭彦と絢子は八坂神社近くのバーにいた。

「今日は面白いことがあったのよ」

絢子はカクテルグラスを口に運んだ。

「どうしたの」

「大久保先生が学部長を辞退したのよ」

「へー、でもどうしてそんなこと知ってるんだい」

「今日、教授会のときお茶を運んだの、そのときなかの話を聞いちゃったの」

「そうか、しかし、あの先生がね、信じられないね」

「ほんと、やっぱりニルバーナZのせいかしら」

「そうだ、薬がいよいよ効いてきたんだ」

「なんだか性格まで変わったみたいだわ、だってこのごろ全然叱られないんですもの」

「そうか、性格まで変わるんだ、それは動物実験では判らないことだからね」

「やっぱりこの薬すごいんだわ」

「そうみたいだね、だけど、どんな副作用がでてくるのか心配だな」

圭彦はショットグラスのシングルモルトを舌にのせた。十年にわたる年月のあいだ閉じ込められていたスモーキーな刺激が口一杯に広がった。

「でも、これで大きな副作用がなければ公に治験に持っていけるかも知れないわね」

絢子はカクテルグラスを空けた。

「そうなればいいな」

 その夜、酔いにもかかわらず圭彦はなかなか眠りつけなかった。


〈新薬の効力は一体どこまでのものなのか、人の性格まで変えてしまうとすれば・・・・、それは悪魔の所作だ、そんなことが許されていいものだろうか。大久保教授の未来には何が待ちうけているのだろう〉


 一か月後、大久保教授より若い教授が学部長に選ばれた。教授会で最多の推薦を得た教授だった。

「おはようございます」

絢子がコーヒーを大久保のデスクに置いた。

「ああ、おはよう」

大久保は笑みを見せた。

「新しい学部長が決まったそうですね」

「ああ、そうらしいね」

彼はゆっくりとコーヒーを口に運んだ。

「先生はそれでよかったんですか」

「よかったもなにも、もともとそんな気はありゃせんよ」

彼は弱弱しく微笑んだ。

「そうですか、それならこれからも研究を続けられるんですね」

「そうだとも、私は圭彦君のアルカディアZが完成するまでサポートするつもりだ」

「そうなんですか、それじゃ圭彦先生をよろしくお願いします」

大久保の態度を見て、ニルバーナZのすごい効果がでてるんだ、と絢子は思った。


 大久保は仕事を終え研究室を後にした。彼の自宅は大学から歩いて三十分の旧くからの住宅街にあった。教授就任時に購入した鈍色に沈む瓦葺の家は周りの風景に融けこみ静かな佇まいを見せていた。彼にはこれといった趣味もなく、研究室と自宅を往復する日々だった。

彼は石畳を歩き玄関の引戸を開け居間に入った。

「あら、あなた早かったのね」

妻が彼を迎えた。

「ああ、仕事も一段落したし、当分はゆっくりできそうだ」

「そう、じゃあ一杯呑まれますか」

「うん、ビールにしよう」

妻が注いだグラスのビールをひと口呑むと、いままでとは違った味がした。

「若いひとが学部長になったんですって」

「えっ、お前なんでそれを知っているんだ」

「奥さんどうしのネットワークがあるんですよ」

「そうなのか、臨床医の教授がなったんだ」

「まあ、あなたは学部長の椅子を目指してらしたんではないんですか」

「うん、まあ、そんなことより後進の育成が大事だと思うようになってな」

大久保は暮れゆく老松のある庭に眼をやった。

「そうですか、あなたがそれでよろしければいいんですが」

妻は夫の変化に気づいていた。すこしづつ生気を失っていく夫を気づかっていたが、はじめのうちは齢のせいでしかたないのか、と思っていた。しかし、最近では性格もすっかり変わってしまったことを、妻は訝っていた。夫がこれまでになく優しく接するようになったのも不思議でならなかった。しかし、彼の表情にはこれまでにはなかった安らぎが見てとれた。数数の異変に気づいていたが、妻は夫の身になにが起ったのか知る由もなかった。


 上下左右も分らない漆黒の空間だった。大久保はなぜ自身がそこにいるのかも分らなかった。

仄暗さのなかで、車座に坐っている幾人かの人影が見えた。みんなウエットスーツのような身体にぴったりフィットした黒い服で身を包んでいた。身体の線がきれいに現れ、それで男女の区別がついた。彼は俯き加減で坐っている人たちの顔を見ようと、近づいたとき息を呑んだ。沈んだ灰色の彼らの顔には眼も口も鼻もなかった。

そのなかの一人が手招きをした。気味悪く思った大久保は顔をそむけたが、身体はいうことをきかず、脚は車座へ向かった。彼は踏み止まろうと膝に力を入れたが、身体は彼ら方へ滑って行った。

気がつくと、彼は車座の一員として坐っていた。

表情を持たぬ彼らはお互いに顔を見合い、そして大久保に顔を向けた。彼が恐怖に駆られた瞬間、頭上に光が射した。眩しさに眼を細めたとき、彼らと大久保は一団となって天空の光を目指して上昇していた。

彼はもとに戻ろうと懸命にもがいたが、ますます勢いづいて上昇していった。彼の脳中に妻や一人娘の顔が浮かび、叫ぼうとしたが、声にならなかった。つぎに圭彦の顔が浮かび、助けを求めて手を伸ばしたが、彼に触れることはできなかった。大久保は白雲を突き抜け、白光の世界へ消えて行った。

やがて瞼に明るさが射し、彼は布団のうえで目醒めた。


 絢子は圭彦の居間にいた。

「大久保先生、すっかり様変わりよ」

「どうしたんだい」

「今日、他の教授が学部長に決まりましたねって言ったんだけど、全然平気みたい」

「そうか、すっかり脂が抜けた感じだね」

「そうみたい、それで先生の顔が優しくてとってもいいの。人間って、すぐにあんなに変われるものかしら」

「思ったよりニルバーナZは効果があるみたいだね」

「ええ、それはそうなんだけど、あることに気づいたの」

「なんだい」

「大久保先生の表情よ」

「表情がどうしたんだい」

「とってもいい顔してるの、まるで菩薩像みたい、そう、どこかのお寺で見たような」

「ニルバーナZで悟りをひらいたのかな、こりゃすごい」

「先生の顔を見ていたら、私もああいうふうになれたらなあ、って思っちゃった」

絢子は圭彦を見つめた。

「・・・」

圭彦も黙って彼女の顔を見つめ返した。

「絢子も呑んでみる」

彼が静かに言った。そのとき、母親のことが心を過った。

「えっ、ニルバーナZを呑むってこと」

「そう、もし絢子が心安らかになれるなら、いいかなって思うんだけど」

「そうね、呑んでみようかしら、圭彦さんの実験にも役立つかもしれないし」

絢子は唇を結んだ。

圭彦は書斎からカプセルを持ってきた。

「あら、お水がいるわね」

絢子は水の入ったグラスをキッチンから持てきた。

「じゃあ、これ」

仄暗さのなかで、圭彦はカプセルを彼女に手渡した。彼女は掌で鈍くパープルに輝くカプセルを躊躇いもせず、グラスを傾け水とともに呑込んだ。

グラスを置いた彼女はなにか一仕事終えたような表情をした。

「どうだい」

「まだ効いてこないみたい」

「そりゃそうだよ、そんなにすぐには効かないよ」

圭彦は微笑んだ。

「そうよね」

絢子も笑みを見せ、両腕を伸ばして彼に抱擁を求めた。


〈母も安らかな心を持っていれば、あんな事件を起こすこともなかっただろうに。ニルバーナZをもうすこし早く開発できていれば、母を救えたかも知れない〉


圭彦が絢子を抱きながら母親のことを思うと、哀しみとも悔恨ともつかぬ思いが胸に込みあげてきた。


 キャンパスのマロニエが山吹色に染まり、秋の到来を思わせた。

絢子は大久保と自身が呑むコーヒーにニルバーナZを入れ続けた。

学部長問題も口の端に上ることもなくなり、研究室は落着きをとり戻し、大久保も何事もなかったように研究に勤しんでいた。

アルカディアZの治験は予想どおりの結果をみせ、新学部長も余裕の表情をみせていた。

「その後どうなんだい」

圭彦はフォークを置いた。

彼と絢子は祇園の老舗といわれる洋食屋に席をとっていた。

「なんだか、このころとってもいい気分なの」

彼女は梅酒のグラスを置いて微笑んだ。

「いい気分って、どんな感じなのかな」

圭彦は料理を口に運んだ。

「口で言うのは難しいわ、なんていうのか、とっても心が落ち着いて幸せな気分なの」

「そうか、やっと薬効が現れたんだな」

「そうみたい」

「ほかになにか変化はないの」

「そうね、なにかあっても焦ったり、いらいらしなくなったわ」

「それだけ」

「そうそう、それになにか物が欲しいということがないの、以前はあれも欲しい、これも買いたいって思ってたのに、そんな欲がなくなったみたい」

「そうか、そうだとしたら想像以上の薬効だね」

圭彦はニルバーナZの効力を改めて認識した。絢子は潤んだ眼で彼を見つめた。

彼女のすっかり和んだ表情を見た圭彦は、これほどまでに素晴らしい薬効のある新薬があれば、母親は違った人生を歩めたはずだ、と心のなかで呟いた。

「僕もニルバーナZを呑んでみようかな」

自分でも信じられない言葉を、圭彦は口にした。

「えっ、そんなことだめよ」

絢子は語気を強めた。

「どうして」

「だって、なにか副作用があったらどうするの」

「だけど絢子はもう呑んでるじゃないか」

「私はいいの、圭彦さんの助けになれば、でも圭彦さんに万一のことがあったら、私はどうすればいいの」

彼女は懸命に訴えた。

彼女の強い言葉に圭彦は戸惑ったが、嬉しくも思った。

「分ったよ、そんなことしないよ」

圭彦は優しく微笑んだ。


 朝露に濡れた下草を踏みながら、絢子は歩みを進めていた。陽は山の端から顔を出したばかりで、暑さは感じられなかった。彼女は身も心も軽やかに、遥か彼方に横たわる群青色の山脈を目指していた。しかし、なぜ歩いているのか分らなかった。

やがて陽が頭上に昇り、汗を感じた彼女はハンカチを探ったが、着ている黒い服にポケットらしきものはなかった。気温が上がり、喉の渇きを覚えたが、飲物の手持もなかった。

晴れた空を見上げると大型の鳥が遥か上空に浮かんでいた。

日本海の海辺で育った彼女は港を舞う海鳥を思い出した。子供のころ、真夏のビーチでよく女友達と泳いで遊んだ。しばらく泳いで疲れると浜辺に上がり、白熱の太陽の下で身体を焼いた。身体が火照ると海の家でかき氷を食べて渇きを癒した。そのときの友達の顔は思いだせたが、名前は記憶から消えていた。

すこし離れた松林の陰から、同じクラスの男の子がちらちら彼女を見ていたことも思い出した。それらの想い出はみなこのうえなく懐かしく思えた。

歩き疲れたころ、こんもりとした森が現れた。森の辺りは別世界のように霧が漂っていた。森のなかへ脚を踏み入れると、心地よい冷気が身を包んだ。暫く歩いて眼を凝らすと、霧の向こうに湖が見え隠れしていた。

汀にしゃがみ、喉の渇きを癒そうと彼女は両手で湖水をすくい口へ運んだ。清冽な味が渇いた喉に吸込まれて行った。

彼女が作った湖面の輪が消えると、なにかが湖面に映っていた。眼を凝らして見ると、それは人の顔のように思えた。はっとして振り返ると、眼も口も鼻もない顔があった。

「きゃーっ」

彼女は恐怖の叫び声をあげ、飛びあがり走りはじめた。視界の利かない霧のなかを暫く駈けて振り向くと、その顔は後ろから迫っていた。逃れようと懸命に走っていると、前方に圭彦が姿を現した。

「絢子、速く」

彼は手を差しのべた。

「圭彦さん、たすけて」

絢子は走りながら叫んだ。

彼女の背中に顔が迫り、なにかが彼女の肩を押えた。

「速く、僕の手を握って」

圭彦も声をあげた。

しかし顔の横からでた手が絢子の両肩を?み、怖ろしい力で彼女を引き戻そうとした。

「あれー」

絢子は覚醒した。彼女の全身は自室のベッドのうえで汗にまみれていた。


 週明け、圭彦がいつもどおり自転車で出勤すると、研究室は騒然としていた。

「どうかしたんですか」

彼は先輩の教授に訊いた。

「大久保先生が自殺したんだ」

「先生が自殺、一体どうして」

彼は言葉を失った。

「私にも分らんよ、自宅で頸を括ったって、さっき奥さんから電話があったそうだ」

誰もが事情を測りかねていた。


葬儀は東山の菩提寺で行われた。現役教授だけに参列者は多数に上った。

夕刻、葬儀から戻った圭彦は疲れを覚えた。


〈先生はどうして自ら命を絶ったのだろう、平穏な日日を送っていたはずなのに。まさかニルバーナZの副作用ということはないだろうな。もしそうだとすると、絢子はどうなるんだろう〉


欲を捨て精神的安定を獲得したはずの大久保が自殺するなど、彼は信じられなかった、納得できる理由も見当たらなかった。


 翌日、絢子は圭彦の自宅に来ていた。

「大変なことになったね」

圭彦は眉をひそめた。

「ほんと、びっくりしたわ」

「このごろ先生の様子はどうだったんだい」

「先生、お元気だったわよ、自殺なんて考えられないわ」

「そうだよね、僕もそう思うんだ、それで、ひょっとしてニルバーナZの副作用じゃないかと思って」

彼の心中には心配の種が蒔かれていた。

「そうだとしたら大変だわ、でも私はなんともないけど」

絢子は腑に落ちない表情をした。

「成分はアルカディアZの一部を変えただけだから、問題はないはずなんだけど。投与する量は変えてないよね」

「もちろん、同じよ」

「そうすると自殺の原因も見当たらないね」

「ねえ、一度奥様に会ってみたらどうかしら」

「そうか、そうすれば先生の最近のことが分るかもしれないね」

 一週間後、圭彦と絢子は大久保宅を訪ねた。

通された応接には、生垣の間から射し込む午後の光が深く射しこんでいた。

「さあ、お茶をどうぞ」

大久保の未亡人は盆で運んできた湯呑をテーブルに置いた。

「生前、先生には大変お世話になりました。今日は先生のことを忍びたいと思いお伺いしました」

圭彦は静かに口を開いた。

「そうですか、ありがとうございます」

明るい色調の和装で髪を短くまとめた彼女は齢より若く見えた。

「先生がこのようなことをなさるとは、どうしても信じられないのですが」

絢子も口を開いた。

「そうですね、わたくしも主人に一体なにが起きたのか分らず、いまだに夢を観ているようですわ」

未亡人は静かに眼を伏せた。

「このごろはとみに落着いておられ、私の研究にアドバイスもして頂き、大変ありがたく思っておりました」

「そうですか、あの人はあなたの研究に随分期待していましたのよ」

「先生には大変助けて頂きました。それで、このごろ先生になにか変ったことはなかったでしょうか」

圭彦は訴えるような眼をした。

「ええ、とくには・・・、そういえば、よく夢を観ているようでしたわ」

「夢をですか、そのときどんなご様子でした」

「よかった、よかった、とか、これで安心して旅立てる、とか寝言を言ってましたわ」

「怖い夢じゃなさそうですね」

「そうね、寝言のあとはすやすやと寝てましたから」

「そうですか」

圭彦と絢子は顔を見あわせた。

「思えば、あのとき主人は死ぬことを考えていたのかも知れませんわ、私が気づいてあげればよかったのに・・・」

未亡人の眼から溢れ出でた涙が頬を伝わった。


 その夜、圭彦は絢子と居間で顔をつきあわせていた。

「ほかに原因がなければ、やっぱりニルバーナZのせいかな」

圭彦は表情を曇らせた。

「そうね、でも私は異常は感じないわ、むしろ気分も落ち着いて体調もいいわよ」

絢子は和んだ表情だった。

「絢子はまだ呑みはじめてから日があさいからね、先生はもう半年以上だろう」

「そういえばそうね」

彼女は真顔に戻った。

「呑むの、中止するかい」

「えーっ、そんなのもったいないわ、せっかくいい気分なのに」

「でも、絢子のことが心配だし」

「ねえ、もうすこし続けたいわ、もし異常を感じたらすぐ止めるから、お願い」

彼女は懇願した。

「わかった、でもなにか異常があったらすぐに言うんだよ」

「ええ、そうするわ。圭彦さんとの夜もこのごろは変わったのよ」

「えっ、どういうふうに」

「肌が触れあうとなんだかとっても気持よくなって、なんて言ったらいいのかしら、快感が身体中に広がって、まるで雲の上に浮かんでいる感じよ」

彼女がこれほど訴えるのは、ニルバーナZの薬効はよほどいいものなんだろう、と圭彦は思った。

肌と肌を重ねるとき、その熱さにかわりなかったが、初めのころとは違った優しさが感じられるようになっていた。彼女の愛撫は絹布の優しさで圭彦を包みこんでいた。


 出勤した圭彦は城山学部長に呼ばれた。

「アルカディアZの治験だけどね、病院からの報告では予想以上に順調で、旨くいけば年内に承認申請できるかも知れんよ」

城山は笑みを浮かべていた。

学部長に就任以来、彼の心中にはにわかに野心が芽生えていた。

「そうですか、それはよかったです」

「申請が決まったら記者会見をやるから君も同席したまえ、私も指導教授として鼻が高いよ」

圭彦がアルカディアZの開発に成功したのは大久保教授の協力があってこそだった。城山教授から指導を受けたことは一度もなかった。権力を握るために野心が必要なのか、野心が権力を握らせるのか、と圭彦は思った。

影のように目立たなかった城山が、権力を握ったとたん野心の虜になっていた。

城山にこそニルバーナZが必要だ、と圭彦は思った。城山を第三の被験者にすることを彼は考えたが、城山の助手は絢子ではないのでニルバーナZを呑ませるのは難しかった。しかし、大久保の自殺の原因がニルバーナZではないという確証を得るために、彼にはもう一人の被験者が必要だった。しかし、絢子が既に被験者になったいま、さらに被験者を見つけるのは容易ではなかった。


 夕闇の迫る自宅の縁側で、圭彦は灯もつけず佇んでいた。身動ぎもせず黙考するうちにすっかり夜の帳がおりていた。

「やはり僕がやるしかないんだ」

彼は呟いた。

仄暗さのなかで、パープルに輝くカプセルを口に運び、呑みこんだ。

その日から、絢子に話すことなく彼は毎日ニルバーナZを呑み続けた。

呑みはじめて二週間ほど経つと、眠りが浅くなり、様ざまな夢を観るようになった。眠るたびに過去のいろいろな情景が浮かんでは消えた。子供のころ幼稚園の庭で仲間と遊ぶシーンや高校生の親友と下校時に蕎麦屋で受験について語り合ったこと。登校時、電車で気になる女子高生がいて、視線を合さないように見ていたこと。

あるとき、見知らぬ集団が歩いて行く夢を観た。薄暗い空間を何人かの黒装束の男と女が、急ぎ足でどこを目指すでもなく眼の前を通り過ぎていった。彼らの顔を見ようとしたが、暗さのせいで顔は判然としなかった。

彼も脚を速め彼らの後を追ったが、彼らはさらに速度を増し、むしろ彼との距離は離れていった。彼はついに駈足となり集団を追った。懸命に駈け一団と並び、やがて追い越した。走りながら振り返ると、暗さのなかに彼らの顔が浮かんでいた。

顔を見た彼は息を呑んだ。沈んだ灰色の彼らの顔には眼も口も鼻もなかった。


 歩道のプラナスの枯葉が風に舞い、乾いた音をたてていた。頬を撫でる冷たい風が冬を告げていた。

研究室に出勤した彼は絢子の姿が見えないことに気づいた。周りの助手やアシスタントに訊いてみたが、誰も彼女の所在を知らなかった。無断欠勤するような女性ではないことを、圭彦はいちばん知っていた。不審に思った彼は絢子のスマートフォンにかけたが、応答はなかった。

夕刻、仕事を終えた彼はいつもどおり自転車で帰宅した。玄関の鍵を開けて入ろうとしたが鍵はかかっていなかった。絢子がいるのかと思いながら、灯をつけ居間に入ったが彼女の姿はなかった。

寝室が気になり、そこに入るとベッドのうえでうつ伏せになった絢子の姿があった。

「絢子」

圭彦は一瞬不安を感じ、ベッドに近づいた。抱きおこした彼女の手首の斬裂かれた傷口から鮮血が流れ出し、深紅の花びらを敷きつめたようにシーツを赤く染めていた。

「絢子、どうしたんだ」

叫んだとき、彼は覚醒した。

枕元のスマートフォンが鳴っていた。

「おはよう、圭彦さん」

絢子だった。

「ああ、おはよう、絢子大丈夫かい、絢子が手首を切ったのかと思ったんだ。大久保先生も自殺されたから、心配していたんだ」

「あら、いやだ、まさか私は自殺なんかしないわ、それに大久保先生はお元気よ。ねえ、とってもいいお天気よ、どこか遊びに行きましょうよ」

もうろうとした圭彦の耳に絢子の声が弾んだ。

坪庭には明るい朝陽が射していた。

                    (了)





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