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コクワガタの夏

作者: タイコ

 _ああ、神さま!私は死ぬのでしょうか!


 駅舎の連子窓越しに刺さる午後の夏日に黒い甲殻をてらてらと輝かせた一匹のコクワガタ、その小さな脳室から生み出された思考の断片であった。彼は死の淵に瀕していたのだ。


 彼はすらりと伸びた大顎を、微かに天に向けた。もはやその腹部は度重なる疲労と衰弱でぴくりとも動かなかった。


 _暗く湿った土の中でその瞬間だけを、ただ待ち続けた。そしてようやく光の溢れる外へと飛び出せるその日が来たというのに、この仕打ちは、あんまりなのではなかろうか!


 彼は嘆いた。

左右の足をじたばたと動かすが、どうにもならない。既に体が弱り切っているのだ。


 _ああ、神さま。もし神さまというものがいらっしゃるのなら、この哀れな私に愛を、命を、どうかお恵みください。















 少年はふと足元に目を向けぎょっとした。

というのも、そこに黒光りするゴキブリがいたように思えたのだ。少年はゴキブリが大の苦手であり、昨夜遭遇した時には大声をあげて熟睡していた家族をみんな起こしてしまったほどだ。

 しかしよく見ればそれはゴキブリではなかった。

駅舎の古ぼけたタイルの床にうずくまっていたのは、大顎を生やしたコクワガタだった。少年は安堵しほっと胸を撫で下ろすと、そっと指を這わせた。駅舎には少年以外誰もいなかった。 


 コクワガタは時折ぴくりと足を動かす以外、何の動作もしなかった。

きっと、もう死にかけているのだろう、と思った。少年は人差し指でコクワガタの体を突いてみた。軽く頭が上下する。ただ、それだけだった。

 

 _今この場で、ひとつの命、その灯が消えようとしている。

虫の寿命は短い。生まれて、そして気付けばいつの間にか死んでいる。ぼくら人間だって、それは同じだ。けれども、行き倒れて生きるか死ぬかの瀬戸際だなんて、普段のぼくらなら考えもしないことだ。平和ボケしたこの国の子供たちなら、尚更。

 

 手で衰弱したコクワガタを拾い上げた。足のちくちくした感触が手の平に伝わってきた。黒い目が、つやつやとした光を放っていた。

 その時少年は、とても美しいと感じた。

暑苦しい夏の駅舎。湧き上がる白い入道雲と、青に滲む空。遠くから響いてくる蝉の鳴き声。そしてみじめな自分の手の平には、死にかけの虫が寝転んでいる。


 少年は黙って彼を窓枠に横たえた。

あつい夏の日差しに、空気までもがその身を燃やしているかのようだった。













 彼はふとぽつぽつと黒い点に覆われつつある視線をあげた。

彼の体が、何かとても大きくて暖かい、柔らかいものに包み込まれようとしている。その白い何かは彼の体をすっぽりと収めると、ぐんぐんと上昇していく。

 彼の頭は状況の理解に追いつかなかった。

ただ、何か人智を超えた物に自分が流されていく_そう感じた。


 その時、彼はふいに理解した。


 神が哀れな自分に与えてくれたのだ。愛を、祝福を。

彼はその小さな頭で思考し、そして感動した。外に出て、夜明け前の月を見た時の激情も、それには及ばなかった。


 _ああ、私は。私は、この瞬間(とき)のために今まで生きてきたのだ。


 上昇が止まった。

彼の目に、一瞬巨大な何かが垣間見えた。何かの瞳にあたる部分が、まっすぐに彼を見つめていた。


 そして、彼はこと切れた。















 少年はとぼとぼと歩き出した。目の前には電車が停止していた。ドアをくぐり、冷房で冷やされた車内に踏み込むと、数人の目が少年に向けられた。

 少年は座席に座り込むと、目を閉じ、そして思った。


 _行ってみようかな、学校。

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