4:cry for the moon
「開けないんですか? 」
「ちょっと待ってくれイグニス。もう少し心の準備を」
「彼方がもう待っていられないようですけど」
「アルっ!!」
扉の前で深呼吸を繰り返す男と、内側で待つ者の気配を見比べ、僕は扉から数歩退く。そして待ち侘び飛び出したイヴ様が彼に抱き付くのを遠目に眺めた。
「い、いきなりお出迎えとは母さん」
「貴方達が遅くて折角用意した食事が冷えるところだったのよ? 」
入って入ってとエントランスへ僕とアルゴールを招いたメイクィン夫人。僕らが離れに完全に足を踏み入れたところで、彼女は確認するよう問いかけた。
「ところでアルゴール。貴方は本当にその子を愛しているの? 」
「何を突然。そんなの決まっているじゃないですか」
演技は上手いなこの男。突然振られた話題にもついていき、違和感など顔にも声にもおくびにも出さない。
「まぁ、そうなの! 疑って悪かったわ。それじゃあ……それを証明することは当然できるわよね? 」
「……そのためにここに来たんです」
「あら嫌だわ。私はあの人のように意地悪なことは言わないわ。二人が本当に想い合っているかを知りたいだけなの。可愛い我が子が幸せになれるかどうかが掛かっているんですもの」
言葉だけならまともだが、奥様の微笑みは信じられない。
「その子男の子なのだけど、本当に良いのかしら? 」
「その位、当然知っているさ。その上で言ってるんですよ」
気付いて居ない前提での話に、余裕の態度で切り返す。下手に狼狽えるよりは正しい判断、
しかしこれは墓穴にもなる。当然この女はそれを見逃しはしない。
「あらぁ、そうだったのねアル。そうよね、混血と純血じゃ跡継ぎの問題もあるわ。どうせ養子でも取ることになるのでしょうから、男や女だなんて小さな話かも知れないわ。でも母様は気になるのよ」
「心配だなんて大げさですよ母さん」
「貴方のことを嫌っていたこの子が、いきなり貴方に気を許すのは何か裏があるに違いないわ。ねぇ、イグニス? 本当に貴方がこの子に惚れたというのなら、これから何が起ころうともその気持ちに変わりはないわね? 」
ほら見ろ。だから言ったんだ。あんな演出過剰な表現は控えろって。僕が隣のご子息を憎々しげに睨んだところで、彼女は満足そうに微笑んだ。
「ふふふ、どうしたのかしら? あまり好かれている風にはみえないけれど? 」
「こいつは照れているんですよ。二人っきりになると途端に甘えて来て仕方が無いくらいです」
この男、また余計なことを! 僕はもはや苛立ちを隠さない。家を離れた貴方より、この人達の質の悪さは僕の方がずっと知っているんだ! 直接その悪意を浴びた期間は僕の方が長いのだから。
「まぁ! そんなに貴方達二人が熱い仲だったなんて母様気付かなかったわ! それならアル、一つお願いがあるの」
「何でしょう? 」
ここでようやくしまったと、このぼんくらご子息も気付いたようだ。対応こそ平静を装ってはいるが、その顔に一筋の汗が浮かんだのを僕はしっかり見ていたからな。
「この子はこの場所が嫌いなの。あの子に見られながらって言うのが良くないのね」
「は、はぁ……」
「だからねアル。見せて欲しいのよ」
「はい? 」
「口付けでもそれ以上でも良いわ。その子の理性が吹き飛ぶ顔を、ここで見せてくれないかしら? 貴方達が本当に愛し合っているならば簡単なコトよね? 」
やっぱりろくでもないことを言い出した。僕らがそういうものではないのを知っていて、弄ぶための提案だ。こんなこと従うことも抗うこともどちらも無意味。意味など無いのだ遊び以外の意味なんて。
「むがっ」
「……当然、瞬き一つ見逃さないで下さい母さん」
言い返そうとした僕の口を手で押さえ、あの男はあろうことか笑いやがった! 感情を露わにした僕を見て、この女性はとても嬉しそう。こんな活き活きと嫌がる僕は久しぶりだろうからな!
(やるならやれよ)
睨みながらも溜息一つ、気持ちを切り替えた僕の方から彼の胸へと体を寄せる。敵の隙を作るためなら何だってしてやる。
「アルゴール……さま」
ちょっと甘えた声で読んでやれば満更でも無さそうな顔だな、この変態。所詮は変態共の子供という訳か。胸の内で彼を嗤ってやったところで、予想外の事態に僕は直面する。
(い、いや)
キスくらいならば予想出来ていた。この男はまだまともだ。それ以上を僕に出来るはずもない。そう思った。それは以上でも以下でもなく、キスはキスでもあるのだけれど。
「……っと、こんな感じで如何ですか? 」
「あら、やるわねアル。薬も盛らないでこんなことが出来るだなんて」
控えさせていた画家に急いで僕の絵を描かせる奥様は、いつも通りにどうしようもない人だ。
「俺もここを離れてから、伊達に遊んでいたわけではありませんよ」
遊んでたからこんなことが出来るんじゃないですか? そんな嫌味返す余裕も無くなった。何て男だ。あいつと比べ見ていたせいで判断を誤った。
(う、動けない……)
無駄にこの男、技術がある。僕のことなんか好きでもない癖に、翻弄された事実に腹が立つ。一瞬でも、意識をここから奪われた。策とは言え“彼女”の目の前で、本物の痴態を演じることになった自分自身にも。
「立てるか? ほら……」
(ギメルの前で、よくも……! )
僕はお礼なんか言いませんからねと睨み付けても、余裕の表情。何かするよりこのくらい安いものだろと、語りかけてくる目も気に入らない。
「頑張ったな、偉いぞイグニス」
「っ!? 」
まだまともに動けない僕を抱きかかえ、そんな言葉で男は笑う。額が触れ合うくらい近くで穏やかに。
(頑張る? 頑張った……僕が? )
そんなのいつも。いつだって。でも、だけど。それが当たり前で、当然で。そのための僕で。見返りとか言葉とか、そういうのが欲しくてやって来たんじゃないんだ。僕はいつも、ギメルのために……
(あの子はもう、いないのに? )
不意に浮かんだ疑問の言葉。僕は慌ててそれを打ち消す。考えてはいけない。考えてしまったら、僕は完全に壊れてしまう。僕がどうして何で頑張ってるかなんて、関係ないんだ。こんな当たり前のこと、それ以前のことで僕を褒めるな。褒められたって何にもならない。
「仲睦まじいところ悪いけど、アル? 貴方のことを見ていた子が居るみたいよ」
そうだ、嫌がらせでこの人達が、本当に無駄なことなどあり得ない。幾重にも手の込んだことをしていたに決まってる。今のこれも、次の手に繋がる手法。今のが僕を揺さぶる物なら、今度の物は……
「お帰りなさい。なかなか会いに来てくれないから、“本当に”死んじゃったのかと思ってた」
エントランスに響いた声は、僕にとっては未知の物。口調と高さは少女の声だ。それで誰かは推測できる。これは旦那様の企みか。
随分と酷いことをする。彼女達が残した数式が、まだこの離れには深く深く刻まれている。純血であるあの人達には見えないのだろうが、殺したのは一体何人居たのやら。資産から見積もって、混血は僕らの前に二人。それ以前は純血の奴隷で遊んでいたに違いない。
そして……混血を二匹も買った後、また僕らを買うような金を何処から捻出したか。考えれば効率的だ。よく考えられている。だからこそ、許しがたい。
「遅かったわね、アルゴール」
「アイ……ギス」
人は、信じたい物を信じる。証拠なんてあってないような物。感情こそが、人間が持つ最大の弱点。どんなに体を心を鍛えても……人のそこには柔い部分があるものだ。メイクィン家の夫婦はそれをよく知っている。
「何ぼさっとしてるんですか? 僕は同じ事、二度も言いたくないですよ! 」
僕は僕を抱えた男を蹴飛ばして、倒れたそいつに舌打ち一つ。こうしなければ、今のでこの馬鹿殺されていた。飛び退いた僕と倒れた男の間に割り入った、少女は歌うよう軽やかに悪意の言葉を紡ぐ。
「残念。抱き付こうと思ったのに」
「絞め殺すの間違いでは? 」
「そんなことしないわ。刺し殺すのよ! 」
短剣を手に笑う少女に、僕は僅かの哀れみを覚える。見開かれた彼女の瞳には、本物の宝石が埋め込まれてあり元の眼球はそこにはない。
「気に入ってくれたかい、アルゴール」
悲しい二人の再会に、階段を下る男の足は軽やかだ。我が子の苦渋の表情が、堪らないと言うかのように対照的な笑顔を浮かべ……
「親父……っ、なんて、ことを!! 彼女の亡骸まで辱めたのか!? 」
「亡骸? はて……生きたままだったように思うが」
それは、眼球を差し替えるのが……という意味か? だけどこうとも取れる。彼女はまだ、“生きて”いると。
(そんな、はずがない! )
だけどこの馬鹿貴族は、それを信じたいと思ってしまう。ならば言うしかない。僕の口から。それがあの二人の思惑通りの答えでも。
「混血を、“二匹”も買ったこの家が、どうしてまた僕らを“二匹”も買えたんですか!? この国で、双子揃っての混血は珍しい!! だから価格も高価だ! この家の何処に、そんな金があると思うんだアルゴールっ! 」
あいつと違って、頭は悪くない。本当は解ってる。心だって鍛えている。それでも受け入れがたい現実に、彼は迷いを露呈する。
「骨と皮だけの人形に、心なんてない。残っているのは……あれは“数術”です。彼女が最期に残した厄介な」
「それが何故俺を狙う!? 俺が、あの子に何をした!? 俺は、俺だけはあの子を助けようとしたはずだっ!! 」
「貴方にとってはね! でも彼女にとって、それは真実ではないのなら!? 」
骨に刻まれた恨みの感情数。内臓を脳を眼球を取り出され、彼女に残ったのは髪と骨と皮。売り捌かれたんだ、そのパーツが。パーツ一つ一つに値段を付けたらまた、混血を買うだけの金を得た。笑いが止まらないだろう。美しい物をバラせば、幾らだって美しい物を手に入れられるのだ。
「直接危害を加えた人間よりも、許せない奴が居る」
一瞬でも優しくするな。希望を見せるな。どうせ裏切るなら、助けてくれないなら。
最初から酷い奴の方が良い。心置きなく恨める。本当に助けて欲しい時、救うと言った癖にそうしなかった相手の方が、思い浮かぶ物なんだ。ここから逃れられないならば、ここにはいない相手を恨む。そうすることで、痛みを今から切り離す。
「彼女は居ない。もういない! ここに見えても、もういないっ!! 貴方は彼女に、どう償うんですか!? 」
貴方が何をしたって、彼女には何も返らない。これは幻だ。それをみて苦しむことに、意味なんて無い。大声で激怒しても男は動けない。ああ。だから言ったのに!
「命は、等価じゃないんです。あの子の瞳が、僕に! 彼の瞳がギメルになった!! 僕らの目の価値は、僕らの存在全てを上回る!! 僕らの心も、思いも、記憶も…………金に何てならないのにっ!! 」
言っていて悲しい。僕だって辛い。それでもこんな言葉でなければ、彼は彼に戻れない。
僕が今、彼に選んで欲しい選択は……あいつに選んで欲しくないこと。この人が何を選ぶのか解らない。この人が選んだ答えに、僕が何を思うのかも解らない。体か心か、それでもどちらかは救われるだろう、僕だけは。
(選択を、委ねる……? 僕が? 他の誰かに……? )
自分の過ちが重なるような衝撃に、今度は僕が固まった。
(ぼくは……)
この人を試しながら、確かめながら、何が見たかった? そうしたところで見えてきたのが、自分が犯した罪だけだ。
「ずっと貴方が来るのを待ってた。ねぇアルゴール、私がどういう風に死んだかわかる? 」
「アイギス……俺は」
「私待ってた。どんなに苦しくても、何時か貴方が助けてくれるって。貴方のことを、信じていようって」
「ア……」
「でも思ったの。貴方が私のために家を出たんじゃなくて、怖くて逃げ出しただけなんじゃないかって。時間が経てば経つほど、貴方は帰ってこない気がした」
この子が死んだ理由。命を絶った理由。それは絶望だ。自分を助けてくれる唯一の人。そう思った人の死を……告げられたんだ。最初は信じなかっただろう。だけどあの二人の言葉は彼女の中から消えず、不安は日々膨れあがった。そして見せられたのが、“壊れた指輪”。あれは持ち主が死んだ場合も首輪と共に壊れるのだ。
(でも、それは)
彼女の“弟”の分だ。僕とギメルのように指輪と首輪は二組あった。けれどそれを彼女は知らない? 別の店で買った? 再会したのは既に、彼が殺された後?
(違う、まさか……)
二人のあの“加工”は、生きた内から既に? その加工により精神が崩壊? 繊細な数術を操ることが出来ない脳に成り下がったと仮定して……“弟”が首輪無しでも制御可能なくらいまで、無力化されていたとするならば。使わない首輪指輪が一組手元に残る?
双子を予め、同じデザインで飾りたかったなら……同じ物が二組あるのは不自然ではない。
「ねぇアルゴール。本当に私を助けたい? 助けたかった? その言葉に嘘は無い? 」
「あ、ああ!! 本当だっ!! 」
「じゃああの子を分解して? 眼球、内臓……そして脳。あの子の物を私に頂戴? あのこの目、私の目とそっくりじゃない! 」
考え込む内、彼女は話に僕まで組み込んでいく。それっぽく喋らせてはいるが、これはやはり“彼女”ではない。気付けないのなら、お前もあの男と同じだ。僕らを助けるのはお前じゃない。どんな手段を用いても、僕が生き延びお前を殺す。どうせ希望なんて無いなら、それを僅かでも見せる相手は許せない。この二人より、僕は貴方を嫌悪する。
(そう、“僕”が決めた)
選んだよ、今度はちゃんと。迷わない。立ち上がれ、自身に言い聞かせてから僕は再び自由を取り戻して彼へと視線を送る。そこで男は彼女を抱き締め……
「!? 」
その背に銃口を押し当てていた。
「お前が本当に生きて居て、俺のパーツで良いんなら……それも、悪くなかったんだけどな」
声には感情が滲んでいる。それでも男の行動には一切の情が含まれなかった。こいつは、“覚悟”を決めていた。
「悪いな、俺はもう組み込まれた部品なんだよ」
“車輪”に意思は必要ない。操られるまま回るだけ。だけどその方向は必ず前だ。後戻りは決して出来ない。してはならない。自身に言い聞かせるように、男の武器が一度吠え光る。そこに込められた弾に触れた場所から、彼女の体は干涸らび砂へと変わる。あれは土の数式が込められた弾に違いない。
「車輪が二度も犠牲者を、轢き殺すことは出来ない。死んだお前のために、生きたこの子は死なせない」
どうして、と言いたげな少女に向い、アルゴールは最後の言葉を送るが……そこには何の意味も無い。どうせ届きはしないのだ。そんな僕を嘲笑うよう、アルゴールは僕への言葉を口にする。
「だけどなイグニス、それはお前も同じだ!」
「や、やめろ馬鹿っ!!」
この男のしていることは正しい。僕もその通りだと思う。だけどそれは、そこに残った人の思いを打ち砕く。僕は彼女を壊されてまで、ここから逃れたくは無い!
「あ、あああああああ!!! な、なんて馬鹿なことを!! アルゴールっ!! お前には彼女の価値が解らないのか!? 」
「そこに何があったかなんて関係ない。俺は生きてる方を助ける! 」
「やめろっ!! 」
まさか旦那様と僕がここまで同じ気持ちになることがあるなんて。感情数までぴったり同じく、狼狽えた。
男が漆黒の銃を次に向けたのは……エントランスの美術品。数術が使えない僕は叫び、それを見ていることしか出来なかった。彼の銃から飛び出す弾は、空気に触れて別の姿へと変わる! 引き金を引くだけで描き込まれた数式が一瞬にして展開? 元々展開させた物をそこに閉じ込めていた? 何にせよ便利で恐ろしい。それが彼らの数術兵器。
(しまった! )
使ってしまった、数術を。間に合わないと踏んだ僕が使ってしまった空間転移。短い距離だ、数式展開なんて一瞬で済む。
僕が飛んでしまったのは、ギメルの真ん前。彼女を庇うように現れた僕に、アルゴールが焦った顔になる。彼は数術兵器を操るが、彼自身は数術使いでは無い。発せられた数術を打ち消す力を持っていないのだ。だけどその前に、僕の数術により……彼女の体が壊れてしまう。
「くそっ! 」
アルゴールは再び銃を撃ち、撃ち出した弾に続けて弾をぶつける。間に合った? ぶつかった。これは弾の種類が違う? いや、込められた数式が違うのだ。だけどどちらにしても僕は避けられない。一瞬感じるは熱さ。次は溺れるような大量の水。爆発を数術で打ち消したのか? それなら最初の弾の意味は何?
「……ギメル? 」
振り向いた先、彼女は無事だった。良かった。数術を使ったのに何故……? それを思い出す間もなく僕は、彼女をぎゅっと抱き締める。
そうした後に、自分の汚さに気がついて慌てて手を離す。何の罪も穢れも無いこの子を、僕が触れて良いはずが無い。
「ごめん……ごめんねギメル」
でも、君は今日も綺麗だ。君は動かないし喋らないし……背も伸びないし僕よりずっと変化が無いけど、だから……だからこそ。
「……過去の女を容易く葬る、か。よかろう、お前達二人のことを認めよう。この指輪は今日からお前の物だアルゴール」
先程までの狼狽はどうした。すっかり落ち着いて感心したような声? 怪しい。怪しすぎる。何を言っているんだ旦那様は。慌てて僕は彼らの方を向く。ここで首輪の異変に気がついた。だけど何を言えば良い? 嫌な感じがする、それをうまく説明できない。そのままに、旦那様は彼の指に指輪を嵌めてしまった。
「さて、本題に入ろうかイグニス、アルゴール。ご覧の通り君が数術を使っても、君の大事な子が壊れると言うことはない。だが、君が感じた通り、これに付けた指輪は偽物だ。本物はこの通り」
手品のように掌から、旦那様は指輪を取り出し笑う。当然対の指輪は奥様の手に。
「家を出て何処でどんな経験を積んだかは知らないが、体の方はどうにもなるまい」
「がっ……」
「アルゴールっ!! 」
ふらつきその場に倒れた男に、慌てて僕は駆け寄った。顔色が悪い、毒を盛られたのだ。おそらくはあの指輪に毒針が仕込まれて……
「イグニス、再び君に選択を与えよう」
新しい作品のために、過去の作品をも犠牲にするか。この人の思い切りの良さが、僕は怖い。あの二人を見つめていたのは、それが見納めになっても構わぬようにだったというのか!?
「ここに解毒剤がある。これがあれば君はこの男を助けられる」
「……っ」
「アルゴールは、死んだ彼女を壊して君を救おうとしたね? 君はこの子に恩がある」
生きているもの、死んでいるもの。どちらか一人しか助けられないならば。簡単だ。死んだものは生きてはいない。生きて居る方を助ければ良い。彼もそうした。だけど……その、死んでしまったものが、自分にとっての世界その物だったとしたら?
「その首輪はね、自害防止装置なんだよ。私や妻から一度でも逃げようとしたならすぐに解っただろうに君は本当に従順だった」
所有者から離れたら。それが嘘でも、万が一本当だったら。抗うことなど出来なかった。
第三の選択肢を選ぼうと自害を図った僕の首を絞め、首輪から飛び出した拘束具が口へと嵌まる。
「ぐああああっ! 」
舌を噛み切れないのなら、数術で死ねば良い。自身に向けての攻撃数式を作りかけたところで、悲鳴を上げるはアルゴール。見ればギリギリと指輪が彼の指を締め上げている。僕が数術を使うことで内部の針が増え、彼の骨まで囓り食うのだ!
「何、簡単なことさ。彼女は天使として完成された。そして私は君を悪魔として完成形まで育てたい。そのためには、まだ足りないのだよ。君は感情を、心を閉ざしてしまった。絶望を感じることもあまりない。悲しみだけでは駄目なんだ。もっと傷付き苦しんで、藻掻いて足掻いてくれなければね」
そう微笑む旦那様は、僕を最高級の食材を見るような目でうっとり眺める。この人にとってこれは……美味い料理のために、餌に気を使って家畜を育てるようなもの。僕にとってその餌は、美味しくなど無くて苦しいだけのものだけど。どうせ、最終的に殺される予定だったのか……僕もギメルも!! あの日悩んだ苦しんだ選択の答えがこんなことだったなんて……僕は一体何のために。
「君には数々の罪を積ませたが、最大の罪がまだ残っていた。選べイグニス。この男を救いたければ、君の最愛の人を君自身で汚すんだ。何、どうせ唯の“物”だからね。気にすることは無いさ。罪の意識なんか感じることはない」
絶望に打ちひしがれる僕と、満面の笑みを浮かべた男。僕らを眺める奥様は、この上なくはしゃいでいらっしゃった。ついでに死にかけている我が子の苦しみ喘ぐ表情にも心を躍らせている様子。
「あら貴方。そのためにこんな毒を使ったりはしませんわよね? この毒体に勿論害ですけれど、これを使って遊ぶのは、とても心地が良いそうよ? 」
「おお、そうだった。良く思い出させてくれた」
妻に軽く礼を言い、男は顔を歪め笑う。
「君がどうしてもこの子を守りたいというのなら、君はそのまま何もしなくても構わないよ。これがもう一つの選択肢だ」
「だが、その時は君の願い通り君に死を送ろう。それが嫌だというならアルゴール……お前がやるんだ」
「!? 」
「お前はこの子を死なせたくないのだろう? 死んだ物と生きた者なら生きた者を助けるんだろう? お前がこの子の心の聖域を汚すんだ」
「んっ、んんっ! 」
口枷で言葉にならない。それでも泣きながら首を横に振り続ける僕の思いは、気付いてくれたはず。それなのに、ふらつきながらアルゴールは起き上がる。
(僕は死んで良いからっ! この子だけは、これ以上……傷付けないで!! )
「……」
(僕は助けなくて良いっ……だから、“僕と一緒に死んで”!! )
「そんな、悲しいこと言うなよ」
(え……? )
言葉にならない声。聞こえるはずが無い。だってこの男は純血で、数術の才能がないはずで……?
泣きながら抱き付いた僕の言葉を、どうして彼が知ったのだろう。軽く髪と触れられた、手の大きさ、熱さに驚いた。
(血の、におい……)
「……俺はこの五年、聖十字に入った。だからできることなら、貴方がたを十字法で裁きたかった」
「あ、アルっ!? 貴方、指がっ!! 」
指輪に苦しむ振りをして、この男……指輪に食われた指を切り落としていたのか!? 指輪だけ切れば良いものを、毒が体に回らぬようにすぐに指を捨てたのだ。視覚数術でそれを気取られないようにと考える余裕まで持って。
「薬指で良かったよ。引き金は、まだ引ける」
後ろ手で逆さになった黒の銃。彼は相手を見ぬまま撃ち殺す。それを僕から見えぬよう、もう片腕で僕をしっかり抱き締めながら。
「あ、あなたっ!! しっかりして!! あなたっ!! アル、どうしてこんな……酷いことが出来るの!? あなたの、お父様なのよ!? 」
「母さん……あなた達が殺して来たのも、誰かにとっては誰かの家族だったんですよ」
今度は真っ直ぐ相手を見ながら、もう一度彼が銃を構える。だけど僅かな躊躇いを見て、奥様はその場を走り去る。殺すつもりだっただろうに、自分自身言葉で動揺したのだこの人は。どんなに罪を犯しても、その人は誰かにとっての家族で、誰かにとっては愛すべき人。奥様の涙にこの人は、一瞬揺らいでしまった。
「大丈夫だったか? 」
「……詰めが甘い」
「か、可愛くないな!! 第一声がそれか!? 」
「甘い人。命取りになりますよ、いつか必ず」
呆れる僕に嘆息しつつ、彼は死んだ男の指輪を使って首輪を外してくれる。
「ありがとう、ございます……」
「なんだ、今度はいきなり素直だな」
「いいえ、この子を守ってくれて」
「……守れてないさ。守れていたら、お前はこんな風には笑わないだろ」
間に合わなかった、生きている内に。謝られたって何の意味も無い。それでも僕はもう一度だけ礼を言う。
「僕を、守ってくれました」
「へっ、んじゃ事後処理は教会に任せて逃げようか? あの人が何かやらかしても面倒だ」
「あの、この子は? 」
「……お前、まだ気付いてないのか? お前ほどの術師を欺くなんて、凄い奴が来たもんだな」
「え……」
ギメルを置いていこうとする彼に問うと、彼は不思議な物言いをした。
「ほらよ」
男がギメルに向い手を翳し、数式を一つ紡いだところ、彼女の姿が掻き消えた。数値を視る限りでは、空間転移で飛ばしたわけでは無い様子。彼女の代わりに、その場に残った物……それは。手渡されたのはあの子が結んでいたリボンと片方の三つ編み。それから……あの男から彼女にかつて送られた……青い宝石の指輪。
「良い石だな。そこそこ上質な触媒だ。俺も生身で来なきゃ解らなかった」
「ギメルは、それじゃあ何処に!? 一体何時から!? 」
「それは俺もわからない。微量の髪と触媒で、作り出した紛い物だ。特定の数術を受けることで元の姿に戻る。君が数術を使っていればすぐに戻ったんだけどな。もっとも、うちの親父達の芸当じゃないな。あの人達才能ないから。まぁ、屋敷に出入りした数術使いか奴隷商か? その辺も教会に調べさせるよ」
彼女の遺品と憎い男の痕跡に複雑な気持ちになりながら、僕は外の世界へ連れ出された。時刻はもう夜だったのに、町の灯りが目に眩しくて悲しくも無いのに涙がにじむ。
やがて連れ込まれたのは小さな借り宿。アルゴールはセネトレアに、自分の部屋を持っていた。潜入先とでも言うのだろうか? 寛いでくれと言われても、肩身が狭く僕は膝を抱えて座っていた。
(仲間に連絡してくるって言っていたけど……)
アルゴールの帰りが遅い。次第に暇になってきて床をゴロゴロしてみたけれど、それでも彼は戻らない。ここはもうもっと贅沢に寛いでやろうと彼の非常食を持ち出し食事を始め終え、満腹になって勝手に彼の寝台で横になったところで、ようやく家主が現れた。いつぞやの演技力はどうした、青ざめた顔で彼は震えている。心の狭い男だ。非常食を食われたくらいで……
「イグニス……」
「アルゴールさんも食べますか? このイカの足なかなか癖になりますね」
「いや、酒のつまみくらい好きにしてくれ。そうじゃなくて、その……やられた」
「はい? 」
「教会に、裏切られた」




