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2:Shoot the moon

設定のためです。動機のためです(弁解の言葉)。

深く考えずにお読み下さい。

 辛い時、思い出すのは彼女の記憶。

 同い年の妹は、僕よりずっと子供じみていて、人より何周も時計の針が遅周り。僕が彼女に尽くすことを苦に思わないのは、それが僕の所為だと知っていたからだ。

 平等に才能を分け与えられ生まれるはずだったのに、その殆どを僕が吸い尽くしてしまったから、僕は何でも出来てあの子は何も出来ない。僕は同じ年頃の子よりも頭の中身が早熟で、そのツケを彼女が背負う。

 妹はすぐ泣き、よく笑う。怒り以外の感情が乏しい僕に代わって、喜びや悲しみを分かり易く表現するのだ。僕が一方的に彼女を支えているのではなくて、僕も彼女に救われている。そう気付いた時から、僕はもっと彼女が好きになったんだ。

 寂しいと言えない僕の代わりに寂しいと、苦しいと言えない僕の代わりに苦しいと。そう言い彼女が傍へ寄る。

 船上の夜、あの檻の中……震えていたのは本当は、僕の方だったかもしれない。

 あの子の温もりを思い出し、時々手を掲げるんだ。まるで眠って居るみたいなんだ。彼女だったものに触れたら、まだ暖かいだろうかと。

 でも、僕はすぐに手を下ろす。それが冷たいだけだと当たり前のことを知るだけで、僕はもっと辛くなるから。


(温かさ……)


 みんな、冷たくなれば良いのに。生きている者は気持ちが悪い。人の温度を感じることは、ぞっとするほどおぞましい。奴隷として道具として使われる度、思うこと。僕は罰を受けるために、生まれたのだろうか? と。


(母さんは、こういう目に遭った)


 十字法に守られ僕らは生まれることが出来たけど、それはあの人が望んでのことではなくて。使われる度呪いの言葉を向けるのは、顔も知らない父親へ。本来父が受けるべき報いを、僕が背負わされて受けている。憎んで恨んで乗り切るに、この瞬間は長すぎる。これが母への償いなのだと喜べるほど、僕は愚かにもなれなくて。耐えることより他にはない。痛みにも耐えた。苦しみにも辱めにも。だけどあいつらは、僕の弱みを知っている。死して尚、彼女は僕の聖域だ。


「うちの混血メイドは優秀でして何でもするのですわ、この子は」


 そう思われても仕方ない。事実、僕はどんな命令さえも受け入れる。


「面白いですわよね、ちょっとエントランスまで散歩させて見て下さい。面白い物が見られます」


 客人に首輪の紐を渡して、あの女は僕に指輪を見せつけ嘲う。

 何をされるか解った僕が暴れるのを見、夫人は指輪を撫で回す。従わなければどうなるか。これは無駄な抵抗だ。屈辱に顔を歪めながらも僕は従った。


「この子は、あの子がお気に入りなんですの。だからあの子の前で何かされるのをとても嫌がって……とても愛らしいのです」

「おお! これは……!! 」


 それまで人形のようだった僕が、反応を変えるを見、客人共は悦んだ。


「やめて……みるな、見ないでっ……ぎめる」

「見られて興奮しているのか、はしたないメイドがいたものだなぁ……! 」

「ええ。ですから教育熱心な皆様に、この子を躾けて頂きたいのです」


 僕の主人達は、僕にあらゆる悪徳を積ませようとする。僕の片割れは天使になった。だから僕を悪魔にしたい。汚れという汚れで汚したいのだ。


「さぁ。お客様をたっぷり持てなしなさい。頭の良い貴方なら解るわね? 楽しみなさい。狂いなさい。その姿を持って悦ばせるの。出来るでしょう? 貴方は天使では無いのだから」


 悪徳こそが、最高のご馳走だ。そう思い込め。目の肥えた変態共を楽しませるには、嫌がり痛がるだけでは駄目だ。主人がそれを望むなら、痴態さえ演じさらけ出さねばならない。

 そうしなければ……ならない。逆らえない理由が僕には在る。

 エントランスに飾られた妹の亡骸。あれは、唯の剥製ではない。使えるように出来てある。一度だって悪趣味な主人達が僕に命令したことはない。僕がやらないなら、彼女にさせるとそう言えば……僕は泣いて頭を下げて、僕を汚して下さいと頼み込む。奴らが大事な作品を汚すことはしない。解っていても怖い。本当は意味なんか無いのに。ここにまだ、彼女の魂があると僕は信じていたいんだ。


(ギメル……)


 君は僕の幸せを願って死んだ。生き延びた僕が今を不幸だなんて思ったら、君の命が無駄になる。泣きながら笑う僕が、快楽に支配されたと思うだろうか。そう思うならば思え変態共。


(きみは、今日も綺麗だ……ギメル)


 自分が惨めで汚らわしくて、呪わしい。そう思う程、罪も汚れもない君が、僕には美しく見える。こんな目に遭うのが、君ではなくて良かった。君はそんな美しいまま、死ねたんだ。


(ごめん……ごめん、ギメル)


 そんなはずないのに。君だって辛かっただろうに。自分の境遇を呪う度、君の方が幸せだったんじゃないかって、そんな風に思う自分が嫌だ。君が祈ってくれた。君が願ってくれた。不幸だなんて思うものか。血反吐を吐いたって僕は幸せになる。ならなきゃいけない。だから僕は、笑うんだ!! 


「見えてなんかいないのに、生きてなんかいないのに。嗚呼、可愛い。可愛らしいわイグニス。貴方は最高の作品よ」


 仕事を終え気を失った僕が目を覚ますまで、彼女はずっと傍に居た。うっとりと、恍惚の表情で僕の頬を撫で、メイクィン夫人が笑っている。こんな顔は、実の母さんよりもずっと慈愛に満ちている。あの人は一度だって僕を見てくれたことはない。愛されているのだ、ある意味で。僕はこの人達に。だけどそれを幸せと思ってはならない。その瞬間、僕は彼らの興味を失うから。


「疲れたでしょう、お風呂にしましょ」

「僕は……」

「さぁさぁ! 遠慮はしないで。今日もとびっきりのを用意したのよ! 」


 入浴剤と思えば安いものだ。そう言い彼女が鼻歌交じりに浸かる湯船は赤い色。材料は有り触れたカーネフェル人女性の血液。エントランスの骨がまた増えていたと思ったら、こういうことか。形が良くなかった物の骨や皮は、粉にでもして薬剤通りに売り飛ばしているのだろうな。

 変なもので、生きた人のままではさほど価値が付かなかったものが、死んで分解され商品になると、有り難がられて倍の値段で売れたりもする。利き目なんてないだろうに、数術の実験や治療法がない病の薬として欲しがる者もいるのだとか。勿論それ以外の変態も居る。若い女の粉末を、食事に混ぜて食べるのが趣味だとかそういう輩もこの国には。

 商業国セネトレア。金さえ払えば何でも買える。それは人の命さえ……購うことも、奪うことも。でもそれは同じ人が生き返るのではなく、死んでも代わりが手に入る。別の代用品がと言う意味で。人の命も尊厳も、金が無ければここでは意味が無い。


(しあわせ……)


 それが生きていることだと、そう定義するなら。この湯船の中身となった人より僕は幸せ? それとも、まだ逃げられないという意味で……解放された者より僕は、苦しみが続くという意味で不幸せ? ここは血の匂いが酷くて思考も揺らぎが生じてしまう。


「人間が、神様になる瞬間を知っている? 」


 神の存在なんて信じていない、セネトレアの者からそんな言葉が飛び出すのを聞き、僕は目を見開いた。


「例えば人は簡単に、虫を叩き潰せるでしょう? だけど足のもげた虫を元に戻せるかしら? 簡単なことではないわよね」


 創造より破壊の簡単さ。美しいものを生み出せないなら、美しいものを壊したい。その瞬間の切なさ、高揚感。それが神の心を味わう瞬間なのだと彼女は言った。


「イグニス、例え貴方があの子に連れられここから逃れても。貴方の傷を癒せる人間は居ないわ。私とあの人という神が、貴方にそうしたのだから」

「それが、僕という作品の完成形ですか? 」

「どうかしら? 私とあの人は最高の共有者だけど、真の理解者ではないの。あの人にはあの人の美学がある」


 風呂の際も夫人は指輪を外さない。見せつけるよう白い指先で赤い湯船を叩いて笑う。そして「これは私の推測だけど」との前置きで、語り始めた内容は……酷く不快なものだった。


「夜会で他の混血を見たことが何度かあるわ。数年越しに会っても姿が変わらない子も大勢居た。貴方達混血は、愛されることが生き延びることだと知っているのね。環境への適応能力、進化速度が異常なの。だから主に望まれる姿を保とうとするのよイグニス」


 これは心的外傷だ。精神のダメージが成長に狂いを生じさせただけ。僕はそう思うけど、彼女の言葉が否定できないまま耳に残った。


「成長期の少年として、貴方の変化は乏しすぎる。ちゃんと食事を与えているのにね。うちの馬鹿息子なんか未だに貴方を女の子だと思い込んでいるわ」


 愛されるため、生き延びるため。望まれた姿を留める。もし僕が成長し、もっと男らしくなったなら……時を止めた片割れとかけ離れた姿になったら。それは主人の望む結果ではない。僕はこの姿だからまだ生きていられる。


「純血が混血を愛しても、間に子が出来た前例はない。遊ぶだけの奴隷なら、男も女も関係は無い。だからどちらを残しても良かった。それでもあの人は貴方達に選ばせた」


 それこそが、夫の美学なのだと夫人は頷く。


「私やあの人が決めたなら、残される貴方は私たちを心の底から恨めるわよね? だけど選んだのは貴方とあの子。今がこうならなかった可能性も選択肢も貴方達の中にあった。だから貴方が責めるのは貴方。そうして苦しむ貴方を見るのがあの人はきっと、何より好きなのよ」


 夫人は無防備だ。身を守るものは何もなく、あるのは指輪と首輪だけ。どうせ焼くのだ、埋めるのだ。破壊してしまっても良い。今すぐこの女を殺せば……

 そうすることだって出来るのに、飾れた彼女の姿を思い出す。美しいのだ。彼女は何も悪くなく、何の罪も犯さなかった。笑顔を浮かべたままのあの子に、どうして傷を付けられよう。


「もっと堕ちなさい、もっと狂いなさいイグニス。まだまだ貴方は美しくなれる。醜くなれる。私の作品には、まだ足りない」


 泣き崩れた僕を背から一度抱擁し、夫人は先に上がって行った。


 *


 ギメルを失ってから、変わったことがある。それはこれまで数値ばかりだった世界に、形が生まれたことだ。彼女を失った世界は相も変わらず色がない、それでも人の顔が顔として、体が体として見えるようになった。

 それが良いことではないのは、日々の仕事を思えば当然か。それが数にしか見えない方が、仕事は幾らも楽だった。

 ああ、それでも一つだけ嬉しいこともあった。硝子や鏡に映る自分の顔が見えるようになったんだ。そこに彼女の面影を見て、僕は彼女を真似て表情を変えてみたりした。


(……何やってんだろ、僕)


 ギメルの死後に、首輪の数式は書き換えられている。ルールに背いて爆発するのは、彼女の体内に刻まれた数式だ。彼女がバラバラになっても良いなら僕はすぐに逃げ出せる。

 心配はしていない。僕が救われる日も、解ってる。その時まで耐えれば良い。その時にせめて彼女も連れ出したい。そして……弔ってあげたいんだ。

 この家を飛び出したという跡継ぎが、戻って来た時は驚いた。まず、名前が似ていた。おまけにカーネフェル人の男。しかも調子の良いことなんか言うから、僕を助けるのはこいつじゃないなと決めつけた。予言の日よりも大分早かったし。

 でも、彼はあいつとは違う。言った言葉に向き合い真摯に取り組むその姿勢。夢を語るのではなく、やりとげる意思を感じる。屋敷で聞き耳を立てれば、その理由も見えて来た。

 噂好きのメイド達の会話を盗み聞くのは簡単で、“アイギス”の居場所が判明するまで一月も掛からなかった。それでも二人が離れを離れた上で僕にも自由がある時に、メイド達の目も余所に向いた時はと言えば……それはかなり限定される。

 跡継ぎ様が屋敷に居る時間は、その妻の座を狙うメイド達が寄っていくからあの人が外に出て居ない日に、チャンスは重なりやって来た。


(日数的に、あいつが帰ってから来る別の人だ。それに間に合わせるために、あいつを追い返す証拠が欲しい)


 それが“アイギス”。以前この屋敷にいたという混血。その人の今を暴けば、あんな優男すぐに逃げ帰るだろう。そして、本気でこの家を何とかしようと思うはず。


「どうだい、美しいだろう? 」

「だ、旦那様! 」

「これが“アイギス”、此方が彼女の弟の“ケートス”。君たちとは逆だったがね」


 出かけたはずの屋敷の主人が、その地下室の先客だった。僕が来るまで眠って居たのだろうか? 感情数も殆ど感じられなかったから、気付くのが遅れた。


「死後に体のパーツをいくつか交換してね。実に退廃的だ」


 明かり窓から差し込む光。照らされたそれを見た瞬間、僕は込み上げる吐き気と戦うことになる。悪魔が天使を襲っている官能的なその像は、それも元は生きた人間。無理矢理一つにされた二人の外見はよく似ていて、髪が長い方が少女、短い方が元は少年。胸部や局部を入れ替えられていて、無性と両性具有に作り替えてある。おそらくは、少女が両性の悪魔で、少年が無性の天使だ。新たに生じる目眩とも、僕は戦わなければならない。何かが違っていれば、こうなっていたのは自分達だったのだ。そう言い聞かせても体の震えが止まらない。

 “逆”ということは、先に死んだのは少年だ。辱められたのは……跡継ぎの思い人だったという少女の方。アルゴールが出ていったことを、彼女にはどう伝えられたのだろう。きっと正しく伝わらなかった。彼女は大好きだったはずの人を、呪いながら死んだんだ。この悪魔は……苦悶と慟哭を宿した表情でいる。


(可哀想に…………)


 彼らを他人と思えない。自分達のことのように辛く、悲しく思えて震える手が祈りの形に変わっていた。気付いた時には妹を眺めるように、悲しい二人に跪く僕がいた。


「何故祈る? この子達が恐ろしいのか? 」

「違います。最期の時には、笑っていて欲しかったから。そうでなかったことを悼んで、です」


 頭を下げて僕は部屋を抜け、ギメルに会いに行った。そこにあの人がやって来て……連れ戻されて仕事をし、血生臭さを取るため体を清めた頃には夜も更けていて。部屋へと戻り夜風に当たっている内に、跡取り様のことを思い出す。


(そう言えば、あの人あれからどうしただろう? )


 純血であんな技を使うのだから、教会の手の者。最初は彼自身がそうとは思わなかった。逃げ帰った彼の通報で、上が動くと思っていたから。


(嫌いなんだよな、あの人の名前。“似てる”から)


 耳障りだからさっさとお引き取り願おうと思ったし、こうしてあの人を追い返す情報は手に入れた。それでも……あの人には、話せない。僕はそれまで彼を他の男と重ね見ていたが、愛する人をあんな形で辱められたと思うと、彼を他人と思えない。


(アルゴール様は、僕を助けて自分が救われたかった)


 僕はあの人を救って、僕が救われたいのだろうか? それが知りたくて、僕はあの人に近付いたんだと思う。僕があの人の部屋に向かったのは、月もない新月の夜だった。蝋燭だけが照らす道行き。手探りで歩く自分の姿は、今の身の上と同じく思えて寂しい。


(“アルドール”……)


 あの男は今、この人のように藻掻いているだろうか。いや、希望に縋って生きて居る。何も知らない。あの子が僕がこんなことになったこと。知らずにのうのうと、幸せで不幸なつもりのお貴族様で生きてる。どうしてあんな奴が生きて居て、僕のギメルがもういないのか。


(どうして僕は)


 お前がこんなに憎いのだろう。直接彼女を殺した者よりも。切っ掛けだからか? 元凶だからか? セネトレアに売り飛ばされた以上、誰に買われても何処に行ってもジャンルの違う最悪が待ち受けていた。悲しみを絶望を怒りで塗り替える際、真っ先に思い出すのはお前のこと。


(彼女は、綺麗なんだ)


 死の際も、お前を恨んだりしなかったのだろう。彼女がお前に残した言葉をそのままに。


(綺麗、だからか……? )


 彼女が見るも無惨な姿にされていたならば、僕はこのメイクィン家の者達をすぐに殺せていただろう。すでに壊された妹がいたならば、首輪のことなどお構いなしに。

 確かに、おぞましいけれど……綺麗なんだ。あの人の求める物は。あってはならない物だから、この世に存在するはずのない美しさを表現できる。

 彼女が死んだ、僕のせいで死んだという事実は辛く悲しい。しかしこのセネトレアで、彼女が無垢で美しいまま殺せて貰えた。その点で、僕はあの人達に感謝もしている? まだ、“まともな飼い主”であったと。下らない。死は死だ。痛みは痛みだ。それは何も変わらない。それでもあの子は美しいから……


(僕は、誰を呪えば良いんだ…………)


 知っているだろうか、アルゴール様(このひと)ならば。

 部屋をノックしたが返事がない。鍵は掛かっていないよう。見れば寝台で眠りこけた青年の姿があった。横には所在なさげな精霊が居るし、もう中に彼の精神は戻って来ているようだが、随分と魘されている。

 屋敷のメイド達に狙われているのも気付いて居ないのかな。部屋の鍵までかけずに不用心。いや……この隙を見せるやり方で、彼は罠を張り獲物を誘い込む? 

 ずれ落ちた毛布を掛けようとした僕の手を、目覚める寸前無意識のまま彼が掴んだ。


(“アイギス”)


 掴まれた痛み、温もりの気持ち悪さより先に、流れ込むのは強い感情。意識を取り戻し目に飛び込んだ僕を見て、彼はぎょっとする程驚いた顔。


(……見え、た)


 この人は……本当に、僕の味方なのかもしれない。彼を信じてみよう、そう思った僕は……彼に提案を持ちかけたのだ。


 *


 行く先は、“あの日”で良かったのかと神が聞く。

 彼は道化師にとって重要な“切り札”だ。奪えるものなら奪った方が楽に事を進められる。


  《どうして彼を、残したの? 》

(貴方がたには解らないかも知れないけど、人間は追い詰められると何をするか解らない。行動を読みやすくするには、一つくらい……安心出来る場所を残しておく必要があるんだ)


(それに、僕ばかり有利になるようなら、面倒な制約を零の神が持ち出すだろう? 彼は何時だって“本当の神子”側なんだから)


 彼を僕の手札に加える方法ならあった。彼がセネトレアに向かう前に、僕が彼に出会えば良いだけ。いいや、そもそも本当にやり直したいだけなら、あの選択肢まで戻れば良い。或いは……彼女があの男に出会う前に全てを終わらせるという方法もある。それでも僕があんな願いを口にしたのは……可能性と希望を夢見たからだ。


 《それは、かつて貴方が彼に救われたから? 》

(……誰が誰に救われただって? )


 とりあえず壱の神には口答えをしておいた。でも、……そうなのかもしれないな。先代神子の運命の輪。神子の親衛隊兼暗部は、代替わりにより情報保持のため闇に葬られる存在。本来アルゴール=メイクィンは僕の台頭により死ぬべき存在だったのだ。


(もしもあの時、僕の前に彼が現れなかったなら……)


 僕はもっと苦しみ、追い詰められて、より恐ろしい脅威へと変化していた。“彼”の声は永遠に届かず、嬉々として当初の願いを叶えただろう。アルゴールは、道化師の最大の理解者であり……最期の弱点なのだ。僕が彼を手放すことで、僕は道化師の弱体化を招く。


(体は、動くな)


 急がなければ。やるべきことが山積みだ。僕は目を開け、床へと降りる。

 同じ人間が、審判には参加出来ない。この神々にそこまでの力は無いのだ。並行世界を作るような余力がない以上、僕がいなかった場所に僕と僕が同時に存在は出来ない。過去に存在した僕をそのまま無かったことにも出来ない。だからやり直すなら、僕は別の誰かにならなきゃいけない。

 叶えられる願いは一つだが、その願いを達成するために必要なやりくり。この姿は僕の願いではない、神側からの要請だった。


(バレないように生身にくらい、巻き戻してくれたんでしょうね? )


 神からは肯定の言葉が聞こえたが、試しに指先を噛み切ってみる。赤い血が流れることと、……この眼が色を認識することを僕は知る。嗚呼、これは本当に……あの子の体なのだな。


折角月という章なので、毎話 月のことわざを使いたい。ラテン語格言のネタが尽きて来たわけでは断じて……ある。

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