影魔
アパートの二階の自室の窓から、僕は沈みゆく夕陽を喪心したように眺めていた。
「富田マジキモイんだけど。あいつもうストーカーじゃね?」
何故、あのタイミングで女子トイレの前を通って、香ちゃんの声を聞いてしまったのだろう。
大学三年の春、香ちゃんと同じゼミに入った時は体中の血管が踊り出しそうだった。飲み会、夏合宿、大した話ができなくて、特別距離が縮みはしなかった。けれど、十月。二十二日が誕生日と知って、勇気を出して、映画にでも誘ってみようと思った、ところだった。
何故、まだ誘ってもいないのに、僕がキモイストーカーなんだ? ろくに話もしていないはずなのに、僕が何をしつこくしたというんだ?
「裏でそんな口を利いてる女、駄目だろ。正体わかってよかったじゃん」
友人はそう言った。僕もそう思う。でも、香ちゃんの正体がどうであれ、いいと思っていた女の子にあんな風に思われてしまったなんて、今後の自信が持てそうにない。
僕は容姿も成績もイマイチ、運動は苦手、非社交的で特技がある訳でもない。挙げ句、何もしていないのに女子に気味悪がられる……。
部屋中が夕紅と同化した。このまま一緒に溶け込んでしまえば、楽になれるのかな。こんな自分なんか、いなくなってもいいかな。僕はそんな気になっていた。
「でしたら、交代しましょうか?」
背後で声がした。僕は驚いて振り返る。
真後ろに、黒服の男が立っていた。
「ワ――――ッ! 何!? 誰!?」
「富田浩介様初めまして。私は影魔カゲロウと申します」
プッ。名前がダサすぎて、こんな時なのに吹いてしまった。
「影魔と申しますのは、普段は影の形をとり従者として貴方がた主を見守る者のことでございます。ですが、もともと我らは一対、私も、同じ貴方様でございます」
「はあ?」
僕は改めて男の姿を眺めた。そういえば、僕によく似た顔をしている。だが、僕より顔も体も引き締まっていて、目は知的に輝いているし、声にも張りがある。
「僕のようでも僕より格好いいじゃん」
「私の方が素材の使い方が巧いからです。浩介様、もうご自分に絶望なさっているなら、思い切って主従交代しませんか。貴方が影魔となり、影魔が主の浩介様となって活躍するのです。影魔なら、貴方より巧くアナタをやれますよ?」
何て馬鹿なことを言うのだろう? でも、この男が僕と一対というのが本当なのか、こんな非常識な話なのに、何故か僕の胸にスッと入ってくるものがあった。
「まあ、一度交代を宣言したらクーリング・オフできませんし、再度主従を交代することもできませんから、よく考える必要はあります。どうですか、一ヶ月お試しキャンペーンをご利用になってみては?」
「そんなのがあるんですか? お願いします」
「畏まりました」
僕が即答した途端、僕の目線はグルリと天井を向き、みるみる沈んだ。そうして僕はカゲロウを足元から見上げる影になった。
「では、明日から私が大学へ参ります」
返事をしようとしたが、声は出なかった。
キャンパスでのカゲロウは颯爽として人目を引いた。ゼミ発表では教授の質問に完璧な回答をし、体育の短距離走では学年新記録を出した。男女とも次々カゲロウに声をかけ、あの香ちゃんは頬を赤らめて飲みに誘ってきた。
カゲロウは生き生きと学生生活を送り、それを見守る僕も大変誇らしかった。
「いかがなさいますか? 浩介様」
一ヶ月が経ち、元に戻った僕らはアパートの部屋で相対した。
「……交代、します。君の活躍を影魔として陰ながら見守る人生の方が、いいと思う」
「畏まりました。証書を取って参ります」
カゲロウは僕の足元に消えた。
「浩介様〜、ありがとおございま〜す。交代担当の影魔カゲカゲでえ〜〜す」
突然、足元から、僕のような顔でだらしなく笑う小太りの男が伸びてきた。
「ハ!? 誰!? カゲロウさんは!?」
「カゲロウは営業担当です。我々影魔は会社組織でやってまして。浩介様の主になるのは私になりま〜す。あ、いけね、これ田所君麿様の証書だ。間違えた」
「し、仕事できねえー! お前と交代なんて冗談じゃないよ! 悪徳商法じゃないか!」
「証書はいっか。じゃ、交代しまーす」
叫び虚しく僕の目線はグルリと天井を向き、みるみる沈んでいった。電灯の陰で、カゲカゲの二重あごの下が、汗ばんでいた。 (了)