第一話 大衡冬助(三)
叔父さんは、ダイニングと一体のリビングに上がり込んで、冷蔵庫を物色していた。いつもなら麦茶を飲むところだけど……。
というか、いくら我が家同然の家とはいえ、何も言わずに入ってくるのはどうなんだろう。僕が懐疑的になっていると、思わぬ攻撃を受けた。砂丘さんたちからだ。
「祝福された人間がエスパーみたいな能力を得るのは知ってるよね。俺もそう。俺にはエスパーが見えるんだ。
で、きみがそうなの。と思ったら、違うかもしれない。きみからエスパー糸が出ていて、窓の外へ通じている。これが何なのか、俺はとても確かめたい! というわけで」砂丘さんの腕をがっちりと掴んだ。「行くよ」
大衡先輩は説明下手だと思う。それはともかく、まずい、多分、彼らはここに来る。大衡先輩は本当に説明下手だし、強引だ。砂丘さんの感情が伝わってきて、そこにまた戻された(心は読めないがたぶん当たってる。嫌なときの気分だ)。というか、説明下手という性格に対して安心しそうになるな。安心しない安心しない……。
砂丘さんの体が引っ張られるのを感じる。
「後悔させないから、俺と一緒に走ろう。きみはきっと、この精霊社会の真実を知ることになるよ」
「わ、わかりましたから、手を離してください。走りにくいですよ」
砂丘さんは米子先輩の方を振り向いた。先輩は微笑みながら、手を小さく振っていた。砂丘さんは、どこか寂しい気持ちになっていた。
「おはよう、向日葵」
叔父さんに話しかけられた。僕は目を開けた。
「叔父さんは皮肉屋だね。僕もおはようって言っていいかな」
――とは、とても言えない状況だ。だから、「僕は外に出られるんだよ」と叫んで、実際に外へ出た。
「おいおい、待てよ。子供が夜にひとり歩きなんて、危ないぞ」
叔父さんが付いてきてしまった。ややこしいことになってきたな。
午後六時頃だけど、視界はまだ明るい。僕は瞳に入る光を遮った。手を使って覆った。
大衡先輩が見えてくる。
「今日は何が見えるんだ? 盗撮はいけないぞ」
音声だけは遮りようが無い。叔父さん、もしかしてさっきの無視的な態度に怒ったのだろうか。無視でないだけましじゃないかと思うけど。
でも、僕はここでは無視した。叔父さんはたぶん怒った。僕のまぶたを両手で触れ、指で無理やりまぶたを開けた。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと叔父さん、やめてよ」
まぶた越しとはいえ、指が眼球に触れて、僕は不安になった。漠然とだけど素早く不安になった。
叔父さんはすぐ手を離した。
「向日葵、エスパークラブって知ってるか?」
叔父さんの表情は真剣だった。
「突然なんだよ。知らないよ、そんなの」
僕はいらいらしていたと思う。目を閉じて砂丘さんたちの様子を確認したかった。でも、エスパーという言葉には僅かに惹かれた。
「目を開けてないと見えない不思議もあるってことさ。俺は名前しか知らないが、精霊社会の始まりから存在しているらしいぞ」
叔父さんの話は、話しはじめが唐突なことが多く、的を射ていないことも多い。今日の僕は特に、いっそうんざりした。だから、精霊社会の始まりと祝福の関係を見落とした。
実は、エスパーとは祝福された人間のことだったのだ。大衡先輩はエスパーみたいなどと言ったが、そうではなく、公式にエスパーと呼ばれるのだ。
「俺は逃げるのは好きではないが……、思うに、向日葵は今、何かから逃げているんだろう?」
この言葉は、僕は冷静に聞いた。
「エスパークラブは、選ばれた民しかたどり着けない、伝説の理想郷だという噂だ」
誰だよ、そんな存在理由のわからない噂を流すやつは。民とか言わせないでよ、ひとの親戚に。
「隠れるにはうってつけだろう? いい機会だから、探してみないか?」
僕は腕を組んだ。そして、バカにするくらい侮蔑的なため息をついてから、訊ねた。
「どうやって探すのさ?」
「精霊のおかげで町が狭くなったからな。しらみ潰しでやればそう遅くない段階で見つかるだろう」
早く見つからないと意味が無いんだけど。確率的にはかなり条件がいいかもしれないけど、いくら期待値が百倍になっていたとしても、そもそも低すぎる確率が低い確率に変わった程度では、普通の人は見向きもしないのだ。叔父さんみたいなギャンブラーにとって、どれほど好機に見えるか知らないけれども。
「普通のやつには見つけられないらしい。この噂を聞いてから、俺がどれだけ普通でない人間になろうと努力したことか」
「その努力は今日限りでやめようよ」
でも僕は少し苛立っていたので、最後の一回となる変態努力を提案した。
「大声コンテストで一位を取るために、公園で他人に聞かれたくない性癖を暴露してみたら。大声コンテスト最大の敵は、自身の恥ずかしさでしょ?」
叔父さんは僕の冗談に対して、まじめに悩んでいるようだった。顔を伏せるように下を向き、少し黙った。それから顔を上げ、言った。
「それって、正攻法じゃん」
正攻法は普通か。
「おいおい、そもそも今努力しても遅すぎるだろ。早く見つけないといけないんだからさ」
よくわからなくなってきたが、めちゃくちゃだというのはわかった。何かがめちゃくちゃだ。
「近くに『壁』がありますよ」
砂丘さんの声だ。
砂丘さんの声を聴いて、僕は安堵してしまった。砂丘さんは、長い苦痛から解放されたような気分でいて、それから喜んだのだ。僕は反射的に、助かったと思ってしまった。なぜなら、砂丘さんの喜びは、砂丘さんが大衡先輩から逃れられることを意味しているから。
でも違う。砂丘さんはきっと、『糸』が『壁』の外へと通じていると思ったのだ。精霊が『壁』の外にいると思っているのだろう。しかし、もし『糸』が僕につながっているならば、きっと『糸』は『壁』の外に出てなどいない。
「まあ、とにかく『壁』まで行こうよ。精霊が『壁』の外にいるってだけでも発見だよ」
「向日葵」
僕はびっくりした。叔父さんが話しかけただけなんだけど。
「何?」
僕は手で目を覆ったまま訊いた。
「噂で聞いたんだが、この先に『壁』で分断されたスーパーがあるだろう? そこが、エスパークラブの隠れ家らしいぞ」
僕は疑問に思った。叔父さんはそこに行ったことがないんだろうか。その噂を聞いた時点で行っているはずの人なのに。でも、たいして気にしなかった。
砂丘さんたちは『壁』のすぐ近くにいる。壁沿いに進めば、僕たちのいるスーパーに、いずれ着いてしまう。しかし、もし本当にエスパークラブなる集会があって、隠れ家があるなら……、なんて、それに賭けるわけはない。隠れ家に行っても、『糸』からたどられなくなる保証は無いだとか、そこまで考えるまでもない。
それより、壁沿いに移動すれば、相手はいつまでも僕のいるところにたどり着けないじゃないか。状況も把握しやすいし、悪くないと思う。
「じゃあ、行ってみようか」
「なんだ、珍しいな? どうかしたか?」
僕が、目を覆う手を取って、なおかつ叔父さんを見て答えたので、余計に意外に思われたようだ。
「とっとと行こうよ」
砂丘さんたちの声にも耳を傾ける。
「『壁』につながってないですね」
砂丘さんが残念そうに感じていたので、僕は少し笑ってしまった。叔父さんに気づかれないように堪えた。
「おーい、個人行動するなーっ」
――と、僕は言いたかった。スーパーに着いてすぐ、叔父さんとはぐれたのだ。
スーパーはまるで、『壁』にめり込んでいた。
『壁』とは、精霊社会が始まってから存在する、町を円く取り囲む、水銀のような見た目の、ゲル状の物質である。波のようにうごめいていて、手で押すと柔らかい反発を受ける。強く押しても、一定以上動かず、車で突っ込んでも破れなかったらしい。
僕らはみな、それに閉じ込められている。この町に学校があったのは、はたして僕にとっては喜ぶべきことかどうか。とはいえ、あるのは砂丘さんが通う高校だけで、僕の通うべき中学校は無いんだけど。
砂丘さんたちの声が聴こえてきた。
「精霊は内側にいるみたいだな」
『壁』の前にいて、少し休憩しているようだ。両手で壁を押す大衡先輩が見える。『糸』の見えない砂丘さんは、困惑していたが、それよりも早く帰りたそうだった。疲労が感じられる。
もう日が暮れそうだ。このまま鬼ごっこを続ければ、きっと彼らは諦める。叔父さんとも上手い具合にはぐれたし、家に帰ろうかな。
僕は不安になった。明日もこれをするのだろうか。明後日も、その次の日も、ずっと。
いつか彼らと会わなければならない。そんな予感がして、嫌だった。
変わらないといけない。
そう思ったとき、僕は目の前のスーパーに入ってみようと決めていた。なんでこんな胡散臭いスーパーに入るのか。理由はわからなかったけれど。