鬱金色の微睡み
白壁の部屋の中を支配しているのは、光だ。
けれど一度窓を通り抜けてきた光は、戸外を飛び交っていたときの自由を二度と取り戻すことはできない。
そんな捕らえられた光明の中で、彼は静かに微笑んでいる。金褐色の髪に、小麦色の肌に、しなやかな肢体に、まばゆさを纏いつかせて。
ジョアンは、思わず木炭でスケッチしていた手を止めて、つくづくと美しいモデルに見とれた。
「ジョアン、さぼらないでとっとと終わらせてくれないかな?」
金紗の幕を揺るがせて、疲れたような声が飛んでくる。
「こうしてじっとしているのは疲れるんだ。この後用事もあるんだから、これ以上描かないなら喜んで帰らせてもらうよ」
「い、いや。そうじゃないんだ。すまないアンリ」
ジョアンはあわてて、視線と意識を紙の上に戻す。改めて全体を眺めてみると、描きかけのデッサンはいかにも散漫で不出来だった。
とても、目の前のこの美しい者を写し取る過程とは思えない。
アンリは窓からの陽光を纏って、じっと座っている。昼下がりの日差しは真白く、目を上げるふとした瞬間に白い紗のようなそれがアンリを包み込み消し去ってしまうのではないかと、ジョアンはどきりとする。
画家として売り出したばかりのジョアンにとって、作品を発表する場はすべて己の人生を試す機会だ。一度たりと無駄にはできない。そのために必要なのは、彼だと思ったのだ。
なのに。
デッサンは、四割ほど完成していた。背筋を伸ばして座る青年の凛とした風情、ほっそりとよく伸びた肢体が木炭で描き込まれている。しかし、ジョアンはどうしても満足できない。
顔を、彼の美貌を、写し取ることができない。
木炭の線を、パンで擦って消す。もう何度、顔の部分を消しては描き直しただろう。
「まだできないの?」
声が意外に近くで聞こえて、ジョアンはぎくりと顔を上げた。右手から、パンが落ちる。
「昨日も顔のところ、消してなかったっけ?」
いつの間にか、アンリがキャンバスの向こうに立ってスケッチを覗き込んでいた。
「そんなに僕の顔は難しいの?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
描けないはずはない。今までアカデミーで、いくつもの石膏像や人間の顔をデッサンしてきたのだから。教授達も、ジョアンのデッサン力や基礎的な技術力の高さを褒めてくれた。それは卒業時の成績にももちろん反映され、今彼を後見してくれている裕福な貴族の目に留まった。
親切な人で、ジョアンがやりたいようにやればいいと言ってくれてはいるが、いつまでも厚意に甘えてはいられない。後見してもらうということは、一人前になったときにこれまで受けた恩を何倍にもして返さなければならないということだ。
だから、ジョアンは焦る。制作中は特に。
そういう気持ちで描くことはよくないと、わかってはいるけれど。
「まあいいや。それより、青の絵の具見せてくれない?」
アンリはさっさとジョアンから離れて、壁際へ移動していく。そこには、絵の具を入れた箱がいくつか積まれている。
「青の絵の具って……」
仕方なくジョアンも彼を追ったが、青と言っても何種類もある。ジョアンの好きな色だから、いくつかは残り少ない。
「兄さんが使うんだ。もらっていいよね?」
青い絵の具だけが入った箱を、アンリは抱え上げるなりジョアンの目の前で攫っていってしまう。
そうして嬉しそうに頬を紅潮させて、背中を丸めてキャンバスへ向かう兄の傍らへ駆け寄っていくのだ。
モデルになってほしい、とジョアンがアンリに頼み込んだとき、かなりの金額とともに条件としてジョアンに提示されたのが、ひどい猫背の男の同伴だった。
「僕の兄のヴィクター」
男に寄り添ってアンリはそう言ったが、到底信じられなかった。それほど彼らの見た目は隔たりが大きかった。
ヴィクターの背中は、ひどく曲がっている。それを隠すためなのか、身体の大きさに合わないぼろぼろのコートにくるまっていた。そのために顔がよく見えなかったが、何年もカミソリを当てていないと思われる髭と長い髪の毛が、すり切れた襟から零れていた。ほつれ具合からして、碌に洗ってもいないようだった。
眉をひそめたジョアンに、アンリは素早く言い放った。
「兄さんには才能がある。たぶん君よりもね。だから、僕は君のモデルをやるのと同時に兄さんにも描いてもらうんだ。それが条件」
描く。
それが絵画のことなのだと理解するまで、しばらくかかった。
「兄さんは天才だ。だから……ふんだんな量の絵の具と世に出る機会が必要なんだ」
アンリは蕩けるように呟いた。兄の汚れた頭髪に砂糖菓子のような指を触れさせて、うっとりと頬を寄せる。
ヴィクターの方は、身じろぎ一つしなかった。呼吸しているのかどうかすら、ジョアンは疑った。
しかしそんなことは、アンリにはさして問題ではないようだった。兄に寄りかかったまま、眼差しだけでジョアンに問いかけてくる。
いや、迫っていた。
決断を。
さんざん悩んで、結局ジョアンは折れた。
そうしてこの、奇妙な制作の日々が始まったのだ。
「兄さん、どれがほしいの?」
ヴィクターのそばに膝をついて、アンリは上目遣いに彼を窺っている。
瞳の甘く潤んだ緑色が、ゆらゆらと光を溶かしている。唇はふっくらと半ば開かれて、微笑んでいるようにも見える。
ヴィクターは、しかしそんな弟には一瞥もくれなかった。
乱暴な仕草で箱を漁る。そして目当てのものを拾い上げると、パレットに色を絞り出し、筆で具合を確かめ始めた。
そんな無愛想な態度を、アンリは気にした様子はない。絵の具箱の蓋を元のように閉じて、持って帰ってくる。
ジョアンの傍らを無言で通り過ぎて、箱を片付ける。立ち上がり踵を返して、椅子に座ってポーズを取る。
淡々とした動作だった。
無視された形になったジョアンは、一瞬どうしていいか戸惑った。しかし、制作を再開する以外の選択肢はない。アンリがモデルを務めてくれる約束の時間は、一日のうち午後から夕方までと決めてあるのだから。
心なしかぼんやりと薄らぎ始めた光を意識して、ジョアンもキャンバスの前に戻る。すっと伸びた細身の姿の、清々しい様を木炭で画布の上に記す。
笑った顔よりも、澄まして遠くを見つめる表情の方が、アンリの魅力を引き出せると思った。モデルの時は極力長くそんな顔でいてくれるよう、ジョアンは念を押した。
だが。
彼の描きたい表情は、いつもあっという間に消えてしまう。
アンリは、ジョアンには横顔を見せている。そういう構図で描きたいと言ったから。
その目は。
アンリの正面には、ヴィクターがいる。
キャンバスとモデルを、時折交互に見比べている。アンリを見る時間の方が短いくらいの、本当に一瞬の動き。
けれどアンリは、その度にうっすらと微笑むのだ。
その瞬間を逃さないよう、一心に兄を見つめ続けるのだ。
木炭の線は、どんどんキャンバスから消えていく。パンばかりが無駄に消費されていくのが、ジョアンにはいたたまれない。
制作期間は、絵を描くことだけではなく絵の具の乾くまでの時間を見ておかなければならない。だから早く完成させるに越したことはないのだが、焦れば焦るほどジョアンの木炭は無意味な線ばかりを生み出してしまう。
スケッチの手を一旦止めて、ジョアンは背筋を伸ばして座るアンリに視線を投げかけた。
やはり彼は、微笑んでいた。
緑色の瞳が、エメラルドのようにきらきらと光を反射している。そこに何が映されているかは、考えるまでもない。
柔らかそうな唇が、笑みを深くした。ヴィクターと目が合ったのだろう。
桃のように瑞々しい薄紅色を、しかしヴィクターは無感動に一瞥するだけなのに。
ジョアンは、歯ぎしりする。
描けない。描きたいのに。
アンリを。
描けないのは。
なぜだ。
木炭を持ち上げ、重ね合わせる。アンリの姿と。
ほっそりした青年の向こうには、窓とチェストがある。構図は完璧だ。遠近法を生かし、バランスよく配置されている。色の配置もすでに考えているし、下書きさえできあがればあとはすぐなのに。
なのに、見えないのだ。
アンリが。
彼の、内面が。
彼の中の何をテーマにすべきか、未だにジョアンは掴めずにいる。
ヴィクターに視線を移す。むさ苦しい猫背の男は、やはり一瞬だけアンリを見ながらキャンバスに色を跳ねさせている。
「アンリ」
思わず、唇が動いた。
「少しポーズを変えたいんだけど、いいかな」
わからない。わからないから。
自分が何をしたいのかも、明確ではない。
「……兄さん、いい?」
「ああ」
投げやりで無関心なヴィクターの返事を聞く前に、ジョアンは動いていた。
椅子から、立たせて。
乱暴に、シャツを脱がせる。
「何?」
「上だけでいい。そうだな……これを巻いて」
露わになったアンリの細い肩に、ジョアンは隣の寝室のベッドからシーツを取ってきて軽く巻き付けた。
シーツの白と、肌の小麦色。
絶妙の対比だ。
「昔のギリシア人みたい」
アンリは言って、小さく笑う。そしてそのまま、ジョアンの指示に従って真っ直ぐ背を伸ばし立った。
窓からの光が、彼の姿で遮られた。
ジョアンの位置からは、逆光になって顔が見えない。
立ち位置を変えるよう言おうとして、ジョアンはふと口を噤んだ。
何度か眺めてみる。静物との配置を見比べてみる。
「……よし、じゃあそのままで」
影のままのモデルは、小さく頷いた。
光に縁取られた輪郭を、木炭でするりと描く。
線に躊躇いは、ない。
見えないから、かえって開き直りにも似た気持ちになれる。
ふわふわとゆれる金褐色の髪は、光と影の境界で淡く輝いている。そこから続く顔のラインは対照的にくっきりとして、青年らしい鋭利さがあった。
顎から首へ、そして肩へ。
白鳥のように気高く伸びやかな、美しい曲線。
鼓動が高まるのを、ジョアンは感じた。
自分に描けるのは、あるいはこの影だけかもしれない。
けれど、それでもいい。
頭の中に、色のイメージが次々わき起こる。
影の黒、そこから明るい方へ溶けてくる小麦色。それらを包む、白。
光。
そう、光だ。
均整の取れた完璧な姿態は、光に包まれている。
全体像ができあがる。影のできている部分を、木炭で軽く塗りつぶす。陰影の濃さも、細かく。
これでいい。あとは下塗りをして、今日のところは終わっておこう。
明日からが、ようやく本番だ。
いい出来になると直感していた。そういう時常に感じる高揚感をしっかりと噛みしめて、ジョアンはキャンバスから顔を上げる。
そして、硬直した。
猫背の絵描きは前のめりになり、ほとんどキャンバスに寄りかからんばかりだった。生乾きの絵の具が服や髭に付着しそうなのに、絵が台無しになりそうなのに、そんなことは彼の念頭にはないようだった。
――見ている。
長く伸びた髪に覆われているのに、なぜかジョアンにはヴィクターが瞬きもせずアンリを凝視しているのがわかった。
アンリは。
半裸の肌を少し肌寒そうに空気にさらした青年は、微動だにしなかった。
ただ、微かに笑っていた。
兄の視線を全身に浴びて。
ほんの僅か、ヴィクターが顔を動かした。アンリはふっさりと長い睫毛を伏せ、ほうと息を吐き出す。
ジョアンの心臓が、ぞわりと震えた。
健康さと若さが瑞々しいアンリの肌が、白い光を浴びてしっとりと滑らかに息づいている。呼吸する度緩やかに上下している胸から、目が離せなくなった。
それはどうやら、ヴィクターも同じだったらしい。
むさ苦しく伸びた髭の合間から、ほんの少しだけ垣間見えた喉が、大きく脈打っていた。
いつもは丸めていた背中を、ぴんと伸ばして。
瞬きすらしない。息も止めているのではないだろうか。
アンリが、ゆるゆると目を開けた。兄の視線が変わらず自分に向けられていることを知ると、戸惑ったように二度瞬きをした。
けれどすぐに、その頬にははにかんだ笑みが浮かぶ。
細い肩から、シーツがずり落ちた。反射的にアンリはそれを受け止めたが、元のように身体に巻こうとしたのをふとやめてしまう。
へその辺りまで、惜しげなくさらされた身体を、ヴィクターはじっと見つめていた。
アンリの頬に、ほんのりと赤みが差す。少しの間躊躇って、彼は微かにわななく手からぱさりとシーツを床に落とした。
深い深い溜息は、いったい誰のものだったのか。
真っ直ぐに、アンリは立っていた。光を纏って。
すんなり伸びた細やかな体つきは、男になりきれていない時期特有の危うさと曖昧さでかそけく震えている。
ヴィクターが、唸った。いや、呻きだったかもしれない。
いずれにせよその些細な音で、沈黙の均衡は破られる。
「兄さん……」
アンリは、途方に暮れた顔をしていた。縮こまった肩が寒そうで、思わずジョアンは駆け寄りたくなる。
だが、結局動けない。
アンリもヴィクターも、ジョアンには見向きもしないから。
彼らの世界から、拒まれている。
そうひしひしと感じたから、ジョアンはただ固唾を呑んで見守ることしかできない。
ヴィクターは、覚束ない仕草で絵筆を探った。パレットを持ち直し、筆を構える。
片時もアンリから目を離さずに。
アンリの表情から、困惑は去らなかった。しかし、そこにゆっくりと別の感情が加わりつつあるのが、ジョアンにははっきり見て取れた。
潤んでいく緑色の双眸。
熱い吐息を漏らす、唇の薄紅色。
美しい肌は、熱情そのものの朱に色づいている。
ヴィクターは、じっとそんなアンリを見つめていた。
絵筆が、動く。画布をなぞり、優しく。
アンリが息を呑む音が聞こえた。
唇をわななかせ、彼はきゅっと瞼を閉じる。しかしすぐに刹那の戦きは甘い吐息へと変わり、切なく唇を震わせる。
ジョアンは、もう木炭を持ち続けていることすらできなくなっていた。
木炭は力なく落下し、彼のつま先を軽く打った。しかし、彼は動かない。
動けない。
ヴィクターが、キャンバスにそっと顔を寄せた。ただそれだけの動作だったのに、アンリは恥じらうように肩をすぼめ、俯いてしまう。
「動くな」
「だって……」
ほとんど囁きに等しい小声のやりとりは、なぜか妙にはっきりと聞こえた。
アンリは、おずおずと再び顔を上げる。そしてヴィクターの凝視にぶつかると、大きく目を見開いた。
互いの視線が絡み合ったのは、ほんの刹那だったはずだ。
アンリは戸惑い顔ですぐにきつく瞼を閉ざし、ヴィクターもキャンバスへと目を逸らしてしまったから。
そのままヴィクターは、筆を静かにキャンバスへ下ろす。
優しく、撫でるように、動かす。
意を決したようにもう一度目を開けたアンリは、兄の仕草を黙って見つめていた。
震える睫毛。目の縁は、ほんのりと染まっている。
ヴィクターは、筆を置いた。
少し骨張った指が、ついと空を横切って。
何かを確かめるように、筆の軌跡に触れ。
目を細めて、ゆっくりとなぞる。
愛しげに。
何度も。
アンリが大きく息を吐き出したのは、その時だった。
いったい何が起きたのか、ジョアンにもわからなかった。
突如部屋中を打った大きな音が、ヴィクターの倒した椅子だと気づいた時には、もう終わっていたのだ。
「兄さん!」
驚きと焦りの混じった、アンリの叫び。
狼狽えるジョアンなどには見向きもせず、ヴィクターは猛然と部屋を飛び出していった。
頭、肩、腕、腰、そして足へ。
デッサンのバランスは完璧だった。周囲にある静物との対比、遠近法の構図も申し分ない。このまま色をつけていっても、いいものができあがるという確信はあった。
不満があるとすればただ一つ、モデルの――アンリの顔を描けないことだけ。
それでも、いい作品ができあがれば問題ではないのだ。ジョアンの気持ちよりも、作品を発表することの方が大事なのだから。
怖いのは、この満たされない気持ちがずっと続くこと。描けなくなるかもしれない、ということだ。
ヴィクターは、アトリエに姿を見せなくなった。あとはモデルを見なくても描けるから、という伝言を、ジョアンはアンリ経由で受け取った。その時のアンリの寂しそうな表情が、今でも目に焼き付いている。
「こんにちは」
ドアが開いて、アンリが入ってきた。ジョアンは反射的に椅子から立ち上がり、中途半端な姿勢で彼を迎える。
「……始めようか」
ジョアンとは目も合わせようとせず、アンリはさっさと部屋の中央の定位置に向かい、シャツを脱ぎ始めた。
腕を抜いたシャツは、ぱさりと落ちる。だが露わになった肩のどきりとするような青黒い痕跡に、ジョアンは思わず声を上げた。
「どこかにぶつけたのか?」
「ああ……痣になってたか」
痛々しい痣に軽く指を這わせて、しかしアンリは淡々としていた。
「今日の仕事の時、ぶつけちゃったんだ。モデルに障るなら申し訳ないけど、ごまかそうと思えばごまかせるんじゃないかな?」
「それはそうだけど……」
問題は、そんなことではない。
「まず手当てしよう。痛いだろう?」
アンリを半ば強引に座らせておいて、ジョアンは薬の入った箱を続きの間の寝室から取ってくる。あまり怪我の手当をしたことはないが、薬を塗って冷やしておけばいいのだろうか。
「へたくそだね」
しばらく不器用に薬だの包帯だのと格闘していたところで、アンリがふっと笑った。
「包帯はそんなにいらないよ。貸して、自分でやるから」
言いながら彼はジョアンの手から薬や包帯を奪い取り、さっさと自分で処置を始めてしまう。
そして思わずジョアンが見とれるくらい手慣れた素早い動きで、アンリは痣の手当を終えた。
「ずいぶん慣れてるな」
後片付けをしながら、ジョアンはそう言うことしかできなかった。
「よくあることだからね。力仕事の方が手っ取り早く稼げるし、いつもどこかで人手が不足してるから、すぐ雇ってもらえる」
アンリのような華奢な青年と、荒っぽい力仕事というのがどうにも結びつきにくかった。
初めて出会った時は、偶然迷い込んだ路地裏の汚い酒場から、アンリは出てきたのだった。だから何となく、そこで働いているのかと思っていたのだが。
「兄さんと二人だから、僕が少しでも多く稼がないとならないんだ」
ジョアンの考えを見透かしたわけではないだろうが、アンリの呟きに彼はぎくりとした。
ちょうどアンリの背後にいたことを、ありがたいと思った。顔が互いに、見えないから。
「両親が早くに亡くなって、僕は兄さんに育ててもらったから。昔から絵が好きだったのに、僕の面倒を見なきゃならなくなって、兄さんは絵をやめたんだ」
裕福というわけではなかったが、子供の楽しみのため木炭と粗悪な紙で絵を描かせてやるくらいの余裕はある一家だったのだという。ヴィクターは絵を上達させていったが、両親の不幸を境に、大切にしていた画材はひっそりとしまい込まれたままになったらしい。
「この街に来たのは、その方がきっと仕事があるだろうと思ったから。うんと稼いで、兄さんにまた絵を描いてもらいたかった。だから、あんたからの話はすごく都合がよかったんだ」
包帯の巻かれた肩が、寒そうに見えた。ジョアンは脱ぎ捨てられていたシャツを掛けてやったが、アンリは身動きすらしなかった。
「兄さんがあんな風になったのは、僕が十五になった頃からだった。僕のこと、まともに見てくれなくなったのも……」
あんな風、というのは、むさ苦しい現在の風体のことだろうか。思い返せば確かに、ヴィクターは務めて弟を見ないようにしているようだった。
兄を一心に見つめる、アンリとは対照的に。
「だから、すごく幸せだった。絵を描いている間は、兄さんは僕を見てくれるから……」
アンリの声音が、変化する。
うっとりと、甘く。
「嬉しかった……僕のこと、あんな……」
細い腕が、身体を掻き抱くように。
ジョアンは、はっと息を詰めた。
舌は干からびて言葉を紡ぐことができない。手足も動かない。
唯一自由なのは、両眼だけ。
アンリの背中は、寄る辺なく弱々しい。なのに、言葉だけはとても、温かくて優しい。
「兄さんの役に立ちたい……どんなことでもいいから、兄さんの喜ぶことをしてあげたい。世界で一番大切な人だから」
ジョアンは、動けないまま直感した。
なぜかはわからないけれど。
「たとえ兄さんが……僕のことを疎んじていても」
今アンリは泣いていると、そう確信していた。
「……風邪を引くよ」
ようやくそう言えるまでに、かなり努力して覚悟を決めなければならなかった。
細い肩に、ジョアンはシーツを掛けてやる。たった布一枚なのに、アンリが潰れてしまいそうに見えて腹の底が冷えた。
重さの影から、アンリはゆっくりとジョアンを振り返った。長い睫毛の影になって、緑色は沼のように深く暗い。
「あんたは、兄さんと同じ目をしているね」
感情を二つの沼に沈めたままで、アンリは笑う。
「ひたむきで、真っ直ぐで、苦しいのに楽しそうな顔で……あんたも絵を描くんだね」
「アンリ」
ゆっくりと伸びてくる指先を、ジョアンはただ黙って待っていた。
静かに。
目元を、なぞられる。
アンリの指は、少し冷たい。触れるか触れないかの距離を保って、目尻から鼻の方へ、そして下へ降りていく。
時折混じる爪の硬い感触が、ふわふわと漂いそうになるジョアンの意識を醒まさせる。彷徨わせた視線が、ふとアンリのそれと絡み合う。
近い。
緑色が。
目をつぶった方がいいのだろうか。それとも、このままの方が。
ジョアンが決めかねている間に、アンリの指はとうとう動きを止めた。
唇の端。
触れるか、触れないかの。
「……嫌いじゃないよ」
曖昧な笑みを浮かべて、アンリは離れていった。同時にジョアンの足はふらつき、ぺたりと床に座り込んだ。
鼓動が騒いでいることに、ようやく気がついた。
どんな顔をすればいいのだ。
どんどん熱くなる頬を、隠すこともできないのに。
「あんたにその目で見つめられるのは、嫌いじゃない」
すっぽりとシーツにくるまって、アンリは立ち上がる。
踵を返し、部屋の中央へ歩いていく。いつも彼が、モデルをする箇所へ。
熱い頬をもてあましたまま、ジョアンは茫然と美しい人を見上げる。
「兄さんと同じ目をしているから」
その言葉が胸に突き刺さったのは、なぜだったろう。
ジョアンは何も言わず腰を上げ、キャンバスと木炭を取りに行く。
アンリの正面にイーゼルを立て、座るのももどかしくスケッチを開始した。
アンリを知りたいと、ジョアンは今強く思っている。
「好きな食べ物はある?」
二の腕から指先への部分を描きながら、ジョアンはアンリに尋ねた。
「ご馳走してくれるの?」
「そう高いものでなければ」
ポーズは崩さないまま、アンリは喉の奥で笑う。その顎から首へのラインも、キャンバスの中で光にさらしてやる。
肌理の細かい、本当に美しい肌だ。恐らく触れることができれば、しなやかな弾力が感じられるのだろう。
「兄さんが、パイを食べたいって。肉の入ったやつ」
アンリの頬が、柔らかく緩んだ。兄のことを話す時、彼はいつだって優しい表情をする。
「僕はよく覚えてないんだけど、母さんの得意料理だったんだって。兄さんの一番の好物なんだ。でもなかなか食べさせてあげられなくて」
アンリの言葉は、留まる様子を見せない。兄さんが、兄さんが。そう繰り返す。
「ねえ、アンリ」
彼が一息つくのを待って、ジョアンは遠慮がちに口を挟んだ。
「ヴィクターじゃなく、君の好物を訊いてるんだけど」
「え?」
アンリは、ジョアンを振り向いた。不思議そうな顔をしている。
「いや、ヴィクターのことばかり言うから。君の食べたいものは?」
「……僕?」
「うん」
何気ない会話、簡単な問いかけのはずだ。
なのに、アンリは小さく首を振る。
「僕はいいんだ。兄さんの好きな物、食べさせてあげたいから」
「アンリ」
「兄さんが喜んでくれればいい。僕は、それが一番嬉しい」
早口でまくし立てると、アンリは崩れたポーズを元に戻した。唇は閉ざして。
ジョアンは少し考えて、結局それ以上の会話は諦めた。
金褐色の髪に纏いつく陽の光を、木炭で簡単にスケッチする。この光の色は、白と橙を混ぜて作り出すのがいいだろう。暖かくて柔らかな、見ている者の心を安らがせるような色で。
周囲の壁は、淡い白だ。でもそのまま描けば光の色と溶け合ってめりはりがつかなくなってしまう。少し灰色を入れた方がいいかもしれない。
いや、いっそまったく違う色に塗ろうか。
「少し休もうか、アンリ」
考え事に夢中になって、木炭が止まってしまった。ジョアンはふうと息を吐き出し、道具を置いた。
「ちょっと疲れた」
アンリは、部屋の隅に脱ぎ捨ててあった上着を取りに行く。室内は暖かだが、長時間肌をさらすのはやはり肌寒いのだろう。ジョアンは申し訳なくなり、せめて紅茶を淹れてやろうと台所へ立った。
お湯が沸くまで時間がかかり、カップを載せた盆を持って戻った時には、部屋の中に小さな変化が起きていた。
「アンリ……」
椅子の背もたれに身体を預けて、中途半端にシャツを羽織ったままの姿で、アンリはうたた寝していた。
窓辺は暖かくて、気持ちがよかったのだろう。降り注ぐ光の中で眠る顔はあどけなくて、ジョアンは思わず微笑んでいた。
だがすぐに、その表情は凍り付く。
部屋に入ろうとした直前、それまで壁の死角になっていたところに、座り込んで一心にスケッチをする見知らぬ男の背中を見つけたから。
盆を取り落とさなかったのは、奇跡のようなものだった。どうにかそれを静かにテーブルに置き、ジョアンは息を殺して男とアンリの様子を窺う。彼の位置からは、男のスケッチがよく見えた。
無断で家に入ってきた男なのだから、飛び出していって取り押さえてもよかった。そうしなかったのは、男にどんな悪意も見られなかったことと、スケッチをする様子に既視感を覚えたからだ。
眠っているためか、アンリの頬のラインはいつもより柔らかく見えた。長い睫毛はふっさりとあえかな影を作り、時折夢に細かく震えている。
それまで軽快に動いていた男の木炭が、ふと止まった。
彼は、じっと見つめていた。微かに開いた、柔らかな唇を。
熟れた桃のような、愛らしい薄紅色。ふっくらとした優しい丸み。
見とれていたジョアンがふと気づくと、再び男の木炭は動き出していた。
描いている。あまりに無防備にそこにある、薄紅色を。
上から、下へ。
曲線の変化。
下唇の、ゆうるりとした弧はいっそ蠱惑的だ。
木炭を、乗せる。生まれる線で、なぞる。
柔らかく。
自分の鼓動がこんなにうるさいと感じたのは、生まれて初めてだった。
口中にたまった唾を飲み下す音も、妙に大きく聞こえる。
窓からの光が、一瞬だけ何かに遮られた。鳥が横切ったのだろうか。
眠りの中にもそれを感じたのか、アンリは軽く眉をひそめた。小さな呻きが喉から零れ、溜息となり唇から零れる。
ジョアンは知らず知らずのうちに身を乗り出していた。
何という絶妙の色だろう。温かそうで、柔らかそうで。
心なしか、甘い薫りがするようだ。香水や香料ではない、もっと微かでもっと優しい。
胸に満ちて、息ができない。
どこから薫るのだろう。
柔らかそうな髪からか。
手に滑らかであろう頬か。
ふっくら開いた唇。
それとも。
無防備にも微睡みに預けられた、細やかな首筋。
眠りのゆっくりとした呼吸が、時折穏やかに胸を上下させている。ぞんざいに羽織ったシャツが、その度少しずつずれていく。
見てはいけない。
そう思う心とは裏腹に、ジョアンは目を離せない。
あと、ほんのわずかで。
絹のような肌は、どんな感触だろう。吸い付くようだろうか。それとも、絹の手触りだろうか。温かいだろうか、冷たいだろうか。
――確かめたい。
息さえ止めていたから、ジョアンは気づかなかった。その時まで。
「……邪魔をしましたか?」
小さな声だったのに、沈黙に慣れきっていたジョアンの耳には花火の爆発にも等しかった。
「驚かせてしまいましたか?」
スケッチをやめ、見知らぬ男は肩越しにジョアンを振り返っていた。型は古いがこざっぱりとした服装をして、髪をきちんとなでつけている。カミソリを入れたばかりらしい頬の剃り跡が若々しかった。
ジョアンが誰何するより先に、相手は彼の疑念を悟ったようだった。
緑の瞳が、優しく笑う。
やはり、既視感があった。この色を、この緑を、確かに知っている。
知らないはずの男は親しげに笑い、そして。
「ヴィクターです。少し話をしても、よろしいですか?」
猫背で、決してジョアンやアンリを真っ直ぐに見ようとせず、碌に口もきかなかった男。
それが目の前の青年と同一人物だと、ジョアンが理解するまでかなりの時間を必要とした。
「話というのは、アンリのことです」
アンリを起こさないよう、ジョアンとヴィクターはアトリエから続く居間へ移動した。アンリのために淹れた紅茶は、代わりに彼の兄がおいしそうに飲んでいる。
「アンリのこと?」
「ええ」
半分ほど中身の減ったカップを、ヴィクターは静かに受け皿へ戻す。節くれ立ってはいるが長く繊細な指に、図らずもジョアンは見とれた。
この指が、この手が、あの絵を描いたのだ。
「あなたは、アカデミーで基礎から絵を学んだ方なのですよね?」
静かな問いの意味を、咄嗟にジョアンは計りかねた。
「そうですが……」
「さすがに、技術の粋を学んだ方は違います。スケッチを見てもとても緻密で正確で。私はデッサンなど見よう見まねですから、あんなに綺麗な人体は描けない」
目を細めているヴィクターは本心からそう言っているようで、ますますジョアンは反応に困る。
ヴィクターと一緒に制作していた時は、描けなくて描けなくて歯がゆかった記憶しかない。
「絵は、数日前に完成しました」
ヴィクターは、静かにそう言った。
「絵の具を使わせていただけて、とてもありがたかった。素晴らしい品でした」
「いえ、そういう条件でしたから」
「……本当に、よろしいのですか? あんな貴重な絵の具を」
「ええ、いいんです」
もともとそういう条件でアンリはモデルになってくれたのだから、ジョアンにも最初から代金請求などするつもりはない。
「そうですか……本当に、ありがとうございます」
ヴィクターは深々と頭を下げ、そこで会話は途切れた。
ジョアンは、落ち着かない気持ちになる。何か、不自然な気がする。
「何か、他のお話があったのでは?」
だから、思い切ってそう尋ねてみた。
ヴィクターは一瞬目を瞠ったが、すぐに真顔になり腕を伸ばしてきた。
驚いたジョアンが反射的に身を引くより早く、ヴィクターは彼の手を自分の掌ですっぽり包み込んでいた。
「アンリのことを、お願いしようと思って」
「アンリ?」
両手に伝わる、ヴィクターの力が強くなるのがわかる。思いの外ごつごつと骨張って、大きな手だ。絵筆はあんなに繊細に動くのに。
あんな、壊れ物にでも触れるように、アンリの絵を撫でていたのに。
「それは、どういう?」
「あなたは、アンリの世界に初めて入ることのできた他者だから」
ヴィクターは、しばらくの沈黙の後顔を上げ、真っ直ぐにジョアンを見つめてきた。
「……どういうことですか?」
「私はしばらく、彼から離れようと思うのです」
一瞬だけ、ヴィクターの眼差しは揺らいだ。ジョアンは、告げられた内容をすぐには理解できず、ただただそんな彼を見つめることしかできない。
離れる。
どうして。
アンリから。
「またいつか戻れるかもしれないし、戻れないかもしれない。これは逃げることだと、自分でも思います。だけど……」
ヴィクターは、その先を言い淀む。
半ば俯いた顔と瞳の揺らぎに、ジョアンは不安を覚えた。
「どうか、お願いします」
結局、ヴィクターはそれしか口にしなかった。尋ねたところで固く挽き結ばれた彼の唇は、きっと答えなどくれはしないと思えた。
でも。
でも。
――何か言わなければ。
焦る気持ちで言葉を探す。明白な沈黙はきっと、ヴィクターにとっては肯定となってしまう。
アンリは。
そうなったら、アンリは。
「もう行きます」
だが結局、ジョアンは何も言えなかった。ヴィクターは、深く微笑み、そうしてゆっくりと手をほどく。
「ありがとう」
静かに立ち上がり、一礼してから彼は踵を返した。出口までの数歩を、振り返らずに大きな歩幅で進んでいき。
「ま、待って!」
ジョアンがやっと動けるようになった時には、すでにその後ろ姿は消えていた。
ようやく静かになったアンリをベッドに寝かせ、ジョアンは全身の力を抜いた。疲労で、身体が重かった。
兄の失踪を知ったアンリは暴れ、泣きわめき、怪我すらしかねない有様だった。それを抑えつけて、声と言葉の限り今の今まで一時間以上宥め続けていたのだから無理もない。
さんざん泣き喚いて、力尽きたアンリは気を失うように眠ってしまった。納得したわけではないのだから、目を覚ましたらまた同じ事の繰り返しになるかもしれない。
未だ乾いていない涙を、そっと布で拭ってやる。起こさないよう注意を払っていたつもりだが、アンリは軽く眉をひそめ呻いた。ジョアンはすぐに手を引っ込め、目を覚ます様子がないことを確かめてから再び同じ動作を続ける。
眠っていても、夢に泣いているのだろうか。寝顔は苦しげだった。すっかり涙を拭き終わって、ジョアンは椅子を引き寄せベッドの脇に静かに座った。
そうしてつくづく、ヴィクターが恨めしくなった。彼を止められなかった、自分自身も。
わからない。なぜ、ヴィクターは突然アンリから離れていったのか。戻れるかもしれない死戻れないかもしれない、その言葉の真意は何だったのか。
――なぜ、自分になどアンリを託そうと思ったのか。
ぼんやり見下ろした手は、怪我だらけだった。引っ掻いたような傷は、暴れるアンリが抵抗した痕跡だろう。青黒くなっている部分もある。
自分がアンリにできるのは、この程度の事なのに。
なぜ、ヴィクターは。
重く沈んだ気持ちで、ジョアンは何気なく辺りを見回した。その視線が、ふと止まる。
散らばったキャンバス。幸いなことに絵の具も乾いていたし、アンリの狂騒からも離れていたので完成していた絵は無事に済んだ。
静かに立ち上がり、拾い上げてイーゼルに乗せる。
そうして、息を呑んだ。これは、自分の絵ではない。
黄昏の光に混じり、絵の中の世界は踊っていた。
ヴィクターの絵だ。いつの間にジョアンのアトリエに持ち込まれていたのかはわからない。別れを告げに来た時、こっそり置いていったのだろうか。
ジョアンの目には、ヴィクターの筆致は実に拙く未熟と映る。荒々しくて、乱雑で、大雑把で。デッサンはまあまあだが、所々線が曖昧だったり、躊躇いが見られる。そのため現実にはあり得ない被写体の歪みが目についた。
しかし、その色使いは。
黄色、ではない。白でもない。橙色でも。
何と名付ければいいのだ、この色彩を。
ただただ明るいとしか言い表せない色が、背後に深い青を従えキャンバスと現の境を今しも飛び越えようとするような勢いで、そこにはあった。
ジョアンは名状しがたい色の軌跡を視線で辿り、思わず身震いした。
こんな風には、とても描けない。
こんな絵の描き方を、ジョアンは知らない。少し離れて眺めると、全体の色彩の輝きが胸に迫ってくるようだ。
胸が震えた。鼻の奥が痛くなり、強く目頭を押さえた。
泣いてしまいそうだった。
同じく絵を描く者だから、わかる。共感する。
これを描いていた時のヴィクターの喜び、楽しさ。幸福に。
「……兄さんの絵……」
どれくらい、そうしていたことだろう。
背後からの声にどきりとして振り返ると、目の周りを真っ赤にしたアンリがいつの間にか佇んでいた。
力の抜けた身体を壁にもたせかけ、彼は瞬きもせず絵を凝視している。
ジョアンは口を開きかけたが、結局何も言わず身体の位置を少しずらした。
アンリから、絵がよく見えるように。
アンリの視界に、余分な者が入らないように。
あるいは、と思ったのだ。
ヴィクターが唯一残していったこの絵なら、と。
アンリは、一歩踏み出した。ゆっくりと、絵に近づいていく。
ジョアンが見守る前で、彼はほっそりした指でキャンバスをなぞった。壊れ物を触る時のように、その手は緊張で震えている。
すべての感情が消えていた顔に、ゆっくりと変化が表れる。
大きく目を見開いて、唇をわななかせて。
それはやがて、アンリの全身を襲った。
ジョアンが再びの狂乱を危惧するほど、細い身体は激しく痙攣していた。荒い呼吸が不規則に、静かな部屋の中に響いた。
緊張の時間の終わりは、やはり唐突だった。
「アンリ!」
ぐったりと床に倒れたアンリに、ジョアンは急いで駆け寄った。抱き起こした身体はぐんなりして、また気絶したのかと一瞬ひやりとする。
しかしその直後、思いがけない強い力で腕を掴まれた。
「兄さんは……」
喘ぐように、アンリは言葉を紡いだ。
「兄さんは……!」
その先は、聞き取ることができなかった。
アンリは泣いていた。今度は、声すら殺して。
ジョアンはそっと、彼を腕の中に包み込んだ。
彼にも伝わったのに違いない。だから、こんなに泣いているのだ。
ヴィクターは、知っていたはずだ。アンリの世界がすべて、兄を基準に構築されていたことを。
だからきっと、選んだのだ。
自由を。
――あなたは、アンリの世界に初めて入ることのできた他者だから――
ヴィクターが託そうとしたものの重さを、今初めてジョアンは理解した。
次第に静かになっていく青年の背中を撫でながら、ジョアンはただじっとその絵を見つめ続けていた。
絵の中のアンリは、笑っている。無邪気で屈託のない表情で。この世のすべての光を集めたような、明るい色彩の真ん中で。
これは、ヴィクターの願い。
ジョアンはそっと嗚咽に震える身体に寄り添った。
できる、だろうか。自分に。
一つしかないベッドをアンリに譲ってしまうと、ジョアンにはソファーで眠る選択肢しか残されていない。
寝心地の悪さに何度も寝返りを打った挙げ句、とうとう諦めてジョアンは静かに起き上がった。
部屋の中は、薄明るい。夜明けが近いようだ。横になってから、思いの外時間が経過していたらしい。
絵の練習でもしようか。
ジョアンは毛布を羽織り、静かにひやりとした床に足を下ろす。音を立てないよう気をつけてアトリエに向かった。扉を閉めておけば、次の間の寝室に明かりが漏れることはない。アンリを起こさずに済む。
だが足音を忍ばせてアトリエに入った途端、ジョアンは危うく大きな声を上げるところだった。
「あ、アンリ……」
アトリエの中央辺り、椅子に座って片膝を抱き寄せているアンリが、窓から密やかに忍び込む薄明かりにぼんやり照らし出されていた。
アンリは、ジョアンを振り向きもしなかった。その目は瞬きもせず、彼の正面にある何かを見ている。
「眠れなかったの?」
毛布を肩にかけてやっても、やはりアンリは答えない。しかしやはり寒かったのか、もぞもぞと身じろぎし毛布を頭からかぶる。
「アンリ……」
自分が楽観しすぎていたことを、ジョアンは否応なく思い知らされた。
ヴィクターの失踪は、そう簡単に癒えるような出来事ではない。アンリはまだ、傷ついている。深く。
ヴィクターは言っていた。ジョアンは、初めてアンリの世界に入ることのできた他人だと。だが現実には、アンリはまったくジョアンを見ようとしない。
ジョアンを、受け入れようとしない。
項垂れて、彼は力なく床に座り込んだ。
どうすればいいのだ。どうすれば。
ヴィクターは、こんな自分を信じてくれたのに。信じて、託していったのに。彼が何より愛した弟と、彼を描いた絵を。
――……嫌いじゃないよ。――
声、が。
聞こえた。恐らく心の中から。
のろのろと、ジョアンは顔を上げた。目はだいぶ暗さに慣れてきている。
――ひたむきで、真っ直ぐで、苦しいのに楽しそうな顔で……あんたも絵を描くんだね。――
初めて、アンリが真っ直ぐに間近で見つめてくれた時の。
あの時からようやく、彼に近づけたような気がする。
――あんたは、兄さんと同じ目をしているね。――
彼は記憶を頼りに薄暗い部屋を探し回り、ようやくそれを見つけ出した。
スケッチブックと、木炭。
――あんたにその目で見つめられるのは、嫌いじゃない。――
「アンリ……」
デッサンするには、まだ部屋は暗すぎた。ランプを持ってきて点し、傍らに置く。その光のためかようやく呼びかけが届いたのか、アンリはのろのろと顔を動かした。
そこでやっと、ジョアンは気づいた。アンリが今まで見つめていたのが、ヴィクターの絵だったことに。
「ヴィクターは、戻ってくる」
意識しないまま、そんな言葉が口を突いて出た。
「きっと戻ってくる。そのために、君を描くよ」
ヴィクターは、幸せそうに微笑むアンリを描いた。それが、何より彼の望みなのだろう。
アンリの幸福。
でもそれは、ヴィクターが傍らにいてこそのものだ。
これは逃げることだ、と彼も言っていた。わかっているのなら、いつまでも逃亡したままではいさせない。
ジョアンも、同じだから。アンリの笑顔を見たい。
アンリに、幸せでいてほしい。
どうせなら、そんなアンリを描きたい。
だから、今は。
部屋の中は、真っ青だった。朝と夜の混じり合う、曖昧な時の色だ。
ジョアンの一番好きな色。
スケッチブックは、床に捨て置く。まっさらのキャンバスを取りだして、イーゼルに置いた。
イメージが迸るようだ。視える。描くべき絵が。
アンリは、ジョアンの方を向いたままだった。哀しみを抱き続けたままの彼を強く見つめ、ジョアンは木炭を画布へと突きつけた。
線が生まれる。
少年のあどけなさをまだ僅かに残す頬の優しい輪郭、それを縁取る緩やかな髪、乙女のように柔らかな唇。
奥の見えない、二つの緑。
木炭が躊躇いを示した時には、すでに彼の前にはそれができあがっていた。
アンリ。
もう、影ではないその美貌。
アンリは、ゆっくりと瞬きした。視線は外さない。ジョアンを見ている。見つめている。
ジョアンの、目を。
――兄さんと同じ目をしているね。――
それでも、いい。自分にできる事を、今のジョアンはこれしか思いつくことができない。
アンリを慰める術を。
けれど、いいのだ。
「君を描くよ、アンリ」
今なら、それができるから。
初めは死したイエスを抱くマリアを、と思っていた。
最優秀作品に選ばれた聖母画の作者は、はにかみながらそう語ったという。
――でも制作中、モデルといろいろ話をするうちに僕の中でもいろいろ変化がありました。モデルに対する印象、モデルへの感情、そして何より、モデル自身の変化が一番大きかった。だから愛する者を喪ったマリアの悲哀ではなく、慈愛と安息を彼の姿に重ねて描きたいと思ったのです。――
新聞では、若いその画家の経歴やアカデミーでの成績、パトロンである貴族の談話なども細かく記事にされていた。
その部分を無心に読みふけっていた男は、やがて顔を上げ、目の前の建物へゆっくりと入っていった。
画廊は、展覧会の期間中は誰でも入れるように解放されていた。入場料は必要だが、中産階級や労働者にとってもそれほど苦にならない値段に設定されている。そのため、建物の中には質素な服装の者もちらほらと見受けられた。
展覧会の主催者や絵の選考者達は、猛反対したという。上流階級の者以外を受け入れたりしたら、会と画廊の品格や伝統が損なわれると。しかし結局は、画廊の経営者でもある貴族が押し切ったらしい。
その貴族というのが、最優秀賞を獲った画家のパトロンだ。
つまりそれは画家の望みだったのだと、男は思った。
いや、わかっていた。
『蒼の聖母』と題された、その絵を目にした時に。
彼はきっと、これを見せたかったに違いないのだから。
この、自分に。
素晴らしいという言葉が、心の奥から沸き上がる。そんな作品だ。真っ青な世界で、蒼に染め上げられた聖母は目を閉じている。とても安らいだ表情で。
頭からすっぽりとかぶった布は、あどけなくも美しい顔立ちを半ば隠している。にもかかわらず、はっきりと感じられるのだ。聖母の優しい微笑みから溢れる、慈愛が。
「すべてを受け入れて、乗り越えた者の表情だと僕は思います」
『蒼の聖母』の前で立ち尽くしていた男は、その声にゆっくりと後ろを振り返った。
「何がきっかけだったのか、僕にもわからない。でも気がついたら、哀しみではなくこういう顔を見せてくれるようになった」
声の主は、男の隣に立った。そして男を見つめ、静かに微笑んだ。
「あなたとの約束は、どうやら守れました」
「ええ。……私の願った以上のことを、あなたはしてくれた」
男――ヴィクターは若い画家に向き直り、深々と頭を下げた。
「ありがとう。アンリを守ってくれて」
「や、やめてください。そんな……」
周囲を憚ったのか、ジョアンは狼狽えた様子でヴィクターの肩に手をかけ、顔を上げさせる。
「僕は当初の目的通り、出品する絵を描いただけです。それに最初は、哀しんでいるアンリを描いてあなたに見せつけてやろうと思った」
でも、と彼は苦笑混じりに続けた。
「でも嬉しいことに、アンリは日に日に立ち直ってくれた。あなたのことはいつも気にかけていたけれど……なんて言うか、最初の頃とは別の気持ちに変わっていったようでした」
ヴィクターは頷く。新聞記事にあったジョアンの言葉から、それは窺えた。
「あなたがアンリを変えてくれた。それは間違いありません」
「何もしていませんよ。ただ絵を描いて、一緒に過ごして、話をして。そんなことしか」
ジョアンはしきりに首を振るが、それこそが必要なことだったのだとヴィクターは思う。
だから、聖母はこんなにも優しい顔をしているのだ。
「彼、少し前から料理を始めたんです」
礼を言われることに面映ゆくなったのか、ジョアンは唐突に話題を変えた。
「パイ料理が得意なんです。肉のパイをおいしく作りたいんだって」
「そうですか……」
母の思い出をほとんど持たない弟に、かつて話したことを思い出す。母が料理上手だったこと、ヴィクターの好物のこと。
覚えていた、のだろうか。だから。
「あ、でも」
内心の複雑さがヴィクターの表情を変えるより早く、ジョアンは言葉を継いだ。
「彼が好きで一番よく作るのは、木イチゴのパイなんですよ。甘くておいしいからって」
そしてとても嬉しそうに、ジョアンは笑った。
ヴィクターもつられて微笑んでしまう、そんな幸福感を全身から滲ませて。
「ぜひ、食べてあげてください。きっと喜ぶから」
「ええ……」
ヴィクターは、短く応えた。こみ上げてくるものが喉を塞いでいて、それ以上は何も言えなかった。
何とかそれを飲み下してから、彼は改めて口を開く。
「ぜひ……そうしたい」
ジョアンの笑みは、一層深くなった。
そのまま彼はヴィクターの手を引いて、画廊の出口へと歩き出す。
眩く射し込んでくる光の色が、淡く潤んで世界に溶けた。