現実より観念
俺は電車を降りてサークルの集合場所に向かった。今日の参加者は6人だった。これで野球サークルかよ、と突っ込みを入れたくなる。活動日の半分は9人にならないのだ。一応、公式には30人いるということになっているのだが…。
「よし、中島君キャッチボールをやろう」
そう声を掛けてきたのは、早川副幹事長だ。早川さんはホントにいい人だった。4月の新歓練習会に1人で来た俺に、たくさん話しかけてくれた。早川さんの人柄に惹かれおれはこのサークル、グロッキーズに入会した。
グロッキーズは、はっきりいって弱いチームだった。中学だけ野球をやっていた人が大半で、高校でもやっていた人は早川さんを含め3分の1くらいだった。高校時代、周りと比べてヘタクソで、肩身の狭い思いをしていた俺だったが、グロッキーズでは上手い方だったのでノビノビと野球を楽しむことができた。そういう意味では、高校時代の下積みが役に立った。あの苦労も無駄ではなかったと思うと、少し嬉しい。
しかし、このサークル、ちょっと問題がある。まず、女子がいない!新歓練習会で初めて来たときは、10人くらい女子がいたはずだ。だが、それは全員新入生だったらしい。そして女子は誰も入らなかった…。本当に、俺は女の子に縁がない…。
そして、もう1つの問題は――
「今日の会費1人500円を集めまーす。みなさん、中島までお願いしまーす」
そう、まだ1年だというのにサークルの仕事をやらせられているという点である。サークルの仕事をこなせる上級生がほとんどいないのである。幹事長と副幹事長しか。よって、俺は1年生にして事実上の会計兼渉外である。そして、このサークルはもうすぐ、一か月後の11月に代替わりを迎える。果たして大丈夫なのか。そんなことどこ吹く風で、早川さんは嬉々として打撃練習に励んでいる。
「今の見た!?俺の見事なホームラン!」
「はい、見ました。という訳で、副幹事長、走ってボールを取って来てください」
うん、平和である。俺は自分の大学生活に一抹の不安を感じながらも、今ある平和な生活を満喫していた。ただ、いつか何かを変えなくてはいけないことは、はっきりとわかっていた。
別の日。俺は学生会館の廊下を歩いていた。学生会館とは俺の大学の中にある建物で、各サークルの部室が集まっている。俺は、5階の1番奥の部屋、「少女研究会」と書かれた扉のドアを開けた。
「やあ、中島君。一週間ぶりくらいかな。入りたまえ」
部屋の奥のパソコンをいじっていた、丸刈り坊主で大きな黒縁メガネをかけていた男が俺に向かって言った。
「失礼します。大城戸先輩。」
「うむ」
大城戸先輩はそう言って、パソコンに目を戻した。
少女研究会の部室は、一番奥に窓があるはずだが、その前には大きなテレビが鎮座しており窓は見えなくなっている。入り口から見て左側には6台ものパソコンがあり、最も窓際の席には大城戸先輩愛用のパソコンがある。今も先輩は一心不乱に画面を見つめている。右側は本棚になっており、多種多様な文献が入っている。ゲームの攻略本やグラビアアイドルの写真集、保健体育や生物の教科書。
「それに、田山花袋『布団』、谷崎純一郎『痴人の愛』…。」
他にも、『源氏物語』があったり、内閣府の「世界青年調査」がファイリングされてあったり、鎌倉時代の史料集『鎌倉遺文』が大量にあったり…。
「何でこんなものまで…」
「当然だ。古今東西の少女を研究する為、必要なものだからな。ここまで集めるのに随分とかかったものだ」
「先輩が集めたんですか…」
まったくこの先輩は。
新歓活動の全盛期だった4月の放課後、俺はチラシを手に、とある歴史サークルの新歓に参加しようとキャンパスを早足に歩いていた。
「君、ちょっといいかな」
いきなり横から声を掛けられた。ああ、いつもの新歓の勧誘だなと思い、声の方を見ると、丸刈りに大きな黒縁メガネの男が立っていた。その容姿の珍しさに、思わず足を止めてしまった。俺の今までの経験から言うと、坊主は野球部か柔道部、もしくは余程気合を入れている体育会系の部活動のヤツだ。しかし、男は全く体育会系の雰囲気ではなかった。狭い肩幅にちょっと出っ張ったお腹、そして強さを感じない目。体育会系の実力者では、多分ない。
「何でしょうか。」
気になった。一体この男は俺に何を進めようとしているのか。政治か、宗教か、外国語か、音楽か、いやそれともマイナースポーツもあるな。卓球、インディアカ、カバディーとか。いや、競技とは限らない。この人勝負事弱そうだし。盆踊りサークル、いやかくれんぼサークルかもしれない。
「少女研究会の者だ。なに、怪しい者ではない。入会するかはさておき、良かったら部室でお茶などいかがかな。」
何だこいつは。俺はスルーすることに決めた。
「すみませんが、行くところがあるので…」
そう言って立ち去ろうとすると、
「待ちたまえ。偏見は良くない」
と言って男は放してくれない。迷惑な話だ。
すると、男は俺の手に持っていたチラシに目をやった。
「ほう、君は歴史が好きなのか?」
「ええ、歴史サークルに行く予定なので。今日は失礼します」
そう言って歩き出した。さあ、行かなくては。新歓に遅れてしまう。
「君は司馬遼太郎のこの言葉を知っているか?」
「え?」
また歩を止めてしまった。司馬遼太郎というのは、歴史小説『坂の上の雲』を書いた人だ。明治維新から日露戦争の日本の勝利まで、日本という国の最盛期までの道筋を描いた作品であり、俺が好きな本だ。気になった。司馬遼太郎というのは、気になるワードだ。
「『日本人というのは本当に厄介な国民』である。『ある種の観念の方がそれに関わる現実よりもはるかに現実的』なんだから、と」
「……」
「もちろん、司馬遼太郎の頭にあるのは、戦争という「身近な」現実から目を背ける平和ボケした日本人のことだろう。だが、話は決してそれだけに限ったことではない」
「少女…。2次元と3次元ということですか…」
「ほう。私の意図に気づくとは。その通りだ」
男は嬉しそうに、ニヤリと笑い、そして続けた。
「つまり、多くの日本人は観念でしかないものを現実として認識している。だが、一方で我々はどうか。我々は2次元の少女を3次元の少女と混同して認識などしていない。あくまで2次元の少女は2次元の少女として愛している。どうだ。観念を観念として意識し先鋭化させる者の方が、よりリアリティを持って生きているとは思わないかね」
こいつ、ただのオタクじゃない…。
「そしてもう1つ。欲しい物を悉く手に入れている人間と悉く手に入らなかった人間、どちらがリアリティを持って生きているだろうか。後者ではないか?」
ふう、と男は息をつき、暗くなりかけている空を見上げた。俺の気のせいかもしれないが、俺を見つめていたさっきまでの目とは違い、どこか遠くを見る目をしていたように思う。
「今、日本は時代の転換期に来ている。あらゆる分野で言われていることだが、我々の専門でも同じことが言えると考えている。少子化が深刻なのは周知の通りだ。恋愛や結婚がどんどんしにくくなっている。私のような女性に縁のない男はもっと増え続けるだろう。内のサークルの目的は、新しい時代に男はどう生きるか、ということにつきる」
言い終わり、男はまたふうっと息を吐き、俺をじっと見た。
何だこいつは。すごいのか。バカなのか。ただ、こいつを無視しようとする気持ちは消えていた。
「ふむ。立ち話をしすぎたようだ。詳しいことは部室で話すとしよう。来たまえ」
「はい。あ、俺中島って言います」
「大城戸だ」
俺は大城戸先輩について部室に行き、そして入会した。
もっとも、あれだけ難しい話を聞かせたくせに、基本ただのギャルゲーサークルだったのだが。
「うん?どうした、ニヤニヤして。パソコンをやらないのか?」
俺が入会当初を思い出していると大城戸先輩が不意に言った。
「いや、もちろんやりますよ。ただ、ちょっと疑問が」
「どうした?言ってみるがいい。」
「このサークル、俺と先輩意外に人いるんですか?他の人、見たことないんですけど」
「ああ、…知らない方が良いこともある」
「ええ、何ですかそれ」
本当に、俺の大学生活は前途多難なようだ。