泥色の青春
だが、慣れというのは恐ろしいものである。俺は、いつのまにかこの状態を普通のことと思うようになってしまっていた。このまま幸せな状態は続き、7月の引退試合をいい形で終えて、引退すると。そういう未来を当たり前のような感じで描いていた。
引退試合まで1か月を切った時、俺は利き腕の右手首を骨折した。授業のサッカーでドリブルしていた時、ボールを奪いに来たサッカー部員に押され転んだとき、咄嗟に右手をついてしまった。迂闊だった。何故転ぶときに右手を庇わなかったのか。それ以前に、何故大会前の大事な時に、授業のサッカーを真面目にやっていたのか。手を抜いてもよかったのではないか。骨折が治り、ボールを使った練習に復帰できたのは、引退試合の1週間前だった。正直に言って、コンディションは最悪だった。全く調子が上がらない状態で俺は夏の大会の初戦を迎えることになってしまった。
自分がダメなことは自分が一番よくわかった。今の自分は本調子には程遠い。俺は顧問に自分をスタメンから外すように頼んだ。
「先生、僕…かなり調子が悪いです。このままだと、みんなに迷惑をかけるかもしれません。この試合は、スタメンから外してください」
自分の悲壮な申し出に、先生はどんな反応をするかと思っていたら、意外にも、先生は優しく笑っていた。
「何言ってんだ。控えの2年生の中に、いくら調子悪いと言っても、お前以上のやつなんていやしないよ。チームとしてはやっぱり中島が出ることがベストだと思うがな。」
確かに、いくら俺の調子が悪いといっても、控えの後輩たちと比べれば俺の方がマシだということは明らかだった。先生に説得されて、俺は6番セカンドとして試合に出ることにした。
「この試合は6番で出てもらうから、この試合中に調子を上げるんだぞ。次の試合はちゃんと3番で出れるようにな」
先生はあくまでも、優しく微笑んでいた。
初戦の対戦相手は、練習試合と新人戦で2度戦ったことのある学校だった。その時は両方とも、それほど苦労することなく勝っていた。だからだろうか、顧問を含め、皆この試合を大切だとは思っていなかった。その日はたまたま、応援に来てくれた女の子が多かったので、「いっぱい来た!」と部員は皆はしゃいでいたくらいであった。「調子が悪いところを、女の子にみせなきゃいけないのか…」と憂鬱だった俺を除いて。
試合が始まった。初回、俺のエラーを皮切りに、四球とエラーが重なり、あっという間に3点をとられた。これで、俺たちは浮足立ってしまった。折角ランナーが出たのに進めることができなかったり、牽制でアウトになったりと、プレイがチグハグでなかなか点差が縮まらなかった。そして、4対6の2点差で最終回を迎えてしまった。1死1塁から4番のタイムリーツーベースで1点差に迫り、なおも1死2塁のチャンス。そして5番打者が打席に入った。
――打ってくれ、頼む…
この時までの人生の中で、これほどまでに痛切に祈ったことはなかった。そのくらい、ここでヒットが出て追いついてくれることを祈らずにはいられなかった。もし5番がアウトになってしまったら、2死で打順が俺に回ってくることになってしまう。それだけは勘弁してほしかった。この日の俺は、全く良いところがなかった。守っては2つもエラーをするし、打つ方でも今までの2打席全くヒットの出る感覚はなかった。もし、ここで回って来てしまったら…。俺は、ただひたすら祈った。自分が情けなくて、涙が出てきた。でも、それでも祈った。祈るしかなかった。空振りが続いて2ストライクになった。もうダメなのか…。ボール。ボール。2-2になった。もしかしたら、四球もあるかも…。次の投球、バットにボールが当たった。ファール。
「フー。助かったー。」
俺は大きく息を吐いた。次の投球、ボール。2-3になった。5番は、土壇場にも関わらず、ずっと打席を外すことなく、ピッチャーをにらみ続けていた。次の一球、次の一球で決まる。そして――ボールがミットに収まった。1秒だっただろうか、それとももっと短い時間だっただろうか――バッターが、キャッチャーが、審判が、全てが動きを止めたような気がした。音さえも消えたようだった。ただ、俺自身の心臓の音を除いては。
「ボールフォア」
音が戻ってきた。現実が戻ってきた。なのに、俺の足はすぐにバッターボックスへ向けて動かなかった。
まだ俺の足は動かない。どうしようもなく、ベンチを見た――代打を出してくれないだろうか。
「中島、頼んだぞ!」
顧問の声が聞こえた。信頼している選手を送り出す、という心境だったのだろう。顧問は、充実感を思わせる、非常に良い表情で叫んでいた。普通の心理状態の選手だったら、顧問のこの声は、どれだけ励みになったことだろう。顧問の表情は、どれだけの勇気を与えただろう。でも、その時の俺が感じたものは、全く逆のものだった。俺は顧問の顔を見たあと、ちょっとの間目をつむり、バットの真ん中を左手に持って静かに打席に入った。
打席で大きく息を吐き、ピッチャーを眺めた。ピッチャーは苦しそうだった。あと、後ろにいたセカンドが、ひどく緊張しているみたいで手汗を一生懸命拭いていた。俺の頭はひどく冷静だった。この試合全体を俯瞰できていた。なのに、なのに、全く自分の肉体を信頼できずにいるということは、これほどまでに皮肉なことなのか。ピッチャーがモーションに入ったので、ようやく俺はピッチャーに集中した。
もちろん、俺がやるべきことはわかっていた。考えているつもりはなかったが、考えていたようだった。1死1、2塁。ここで内野ゴロだったら併殺になり、試合が終わってしまう。最悪、それを避ければいい。フライでのアウトなら、次のバッターまで回る。だから、高めのボールに狙いを絞ることにした。高めのボールを打つ!
初球。ピッチャーが投げた。高い。俺はバットを振った。
バットに当たった。その時、どんな音がしたかは覚えていないが、ボールがバットに当たった感触ははっきりと覚えている。あの、絶望の感触は、はっきりと覚えている。飛んだボールを見るまでもなく、もう結果はわかった。ボールはショートの前に転がった。ショートからセカンドへボールが送られ、そしてファーストへ送られた。俺のことだ、きっとファーストまで全力で走っただろう。だが、ベースに届く前に「アウト」という声が聞こえた。甲子園でよく見られるような一塁へのヘッドスライディングをすることなく、俺はベースを駆け抜け、よろよろと歩き、天を仰いだ。
だが、今思えばここまでのことはマシだった。試合の後俺を待っていたのは、まわりからの罵詈雑言だった。
「下手くそ!なんでゴロ打つんだよ。」
「そもそも、何で試合来た?」
「調子悪いのに、試合出るんじゃねえよ!」
「エラーはするし、全然打てないし、何で生きてるんだよ。」
返す言葉もなかった。罵声を浴びせるのは同級生達であり、さすがに後輩達は黙っていたが、やはり不満そうな顔をしていた。新人戦では準決勝まで進出したというのに、引退のかかった夏の大会は1回戦敗退。みんなが怒るのは無理もなかった。
そして、応援に来ていた女子達が合流してきた。
「お疲れー。」
正直嫌な予感はした。いや確信というべきか。
「まさか、1回戦で負けちゃうなんてね。誰かさんのせいで。」
「本当なら、2回戦の準備をするところなのにね。ほんと、興ざめだね。」
「誰のせいで負けたのか、わかってるのかねー。」
俺も男として生きてきた訳だから、男からひどいことを言われるのにはある程度慣れている。だから、男から言われることはある程度我慢できる。だが、女の子からの皮肉の混じった非難の声を聴くのは、この上ない苦痛だった。辛くて、俺はずっと下を向いていた。が、
「中島君、聴いてるの?」
「私達、わざわざ来てあげたんだよ?」
とうとう怒られてしまった。彼女たちの顔を見て、俺はこの世に生を受けたことを呪った。
半年後、俺は高校に入った。偏差値を重視して選んだ進学校だ。だが、勉強一本に集中するのではなく、俺は再び野球部に入った。中学での終わり方が余りにも残念過ぎたから、もう一度きちんと野球をやりたかった。ただ、純粋にそれだけだった。
だが、結局その想いも夢に終わった。俺が行った高校は、進学校のくせに野球部はそれなりに強く(と言っても、「あと5回勝てば甲子園だったのにー」というレベルではあるが)俺は最初から最後まで戦力とは成り得なかった。守備位置も、セカンドから外野にコンバートされた。俺は足も速い方ではなし、肩も強くない。だが、ねちっこい性格のためか、球際には非常に強かった。たまに、練習試合などでファインプレーをしてベンチを沸かすことをやりがいに3年間部活を続けた。高校では、最後の試合は出場すらできなかった。結局、中学の時の無念を晴らすことはなく、またもや虚しい引退をしてしまった。
恋愛の方はというと、やはり全くダメであった。1度仲の良い女の子に告白をしてみたが振られ、その子とは今ではメアドの変更すら教えてもらえなくなってしまった。
俺の泥色の青春は大学へと突入する訳だが、相変わらず野球をやり、彼女ができそうにない生活をしている。
「あなたは神様の存在を信じますか」というのは、たまに聞く質問であるし、誰でも1度は考えたことのある問いではないだろうか。例え宗教に無関心な日本であってもだ。もし、今この質問を受けたら、俺は堂々と「神様などいない」と答えるだろう。その理由は、神がもし存在するとしたら、神はものすごくいい加減で適当なヤツということになるからだ。だってそうだろう。神がこの世界の創造主だったとして、どうして俺みたいな女子に縁がない、女子に近づく能力もないヤツが存在して、一方でイケメンだったりコミュ力抜群だったりして女子にモテモテなヤツもいるのか。神様、あなたの工作、出来不出来の差がありすぎじゃないですか。例えば、俺が粘土で人形をつくるとして、初めの方は不格好な作品が多いとしても、慣れれば出来不出来の差はなくなってきますよ。ってことは、神様、あなたは気持ちにむらがありすぎて、いい工作ができるときもあれば、とんでもない作品ができるときもあるってことじゃないですか。そんな気持ちにむらがあって、いい加減な人を、俺は「神様」なんて呼んで敬ったりしませんよ。