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男としての自我

 大学までの電車の中。俺は一番端の席に座り、目の前の女子高生の汚い脚を凝視していた。向こうを向いて立っている2人の女子高生は、夢中にしゃべっているかと思えば急に下品な声で笑い出す。俺の視線に全く気付かず、さっきからずっと同じことを繰り返している。2人は両方とも茶髪で、美人であり、短いスカートを穿いていた。1人はつけまつげを付けて、さらに目の周りを真っ黒にしてという具合に、両目を強調していたのでやや怖そうな顔だったが、足は白く細くてきれいであった。もう1人は、丸顔で目はそのままで優しそうだったが、足は全体的に黒っぽい上に、ところどころ黒ずんでいて、ふくらはぎはいくらかましだが太ももが丸太のように太かった。

 俺はこの2人を見比べて、丸顔で足が太い方の女に惹かれていた。理由は何故だかわからないし、わざわざ考えもしなかった。ただ、俺が考えていたのは、この目の前にいる女の子と自分との距離であった。

――遠い。目の前にいるのに。

 今まで生きてきて、たくさんの女の子と出会い、何人かの女の子を好きになった。しかし、その想いが叶ったことは1度もなかった。3回、女の子に告白したことがあるが悉く振られ、完全に望みがなく告白する以前に諦めたことも少なくとも5回はあった。彼女たちは、同じクラスだった人、同じ部活だった人であった。すぐ俺の近くにいたし、話もした。

 だが結局距離は埋まらなかった。もちろん、目の前の汚い脚の女子高生と俺の距離が縮まることは絶対にないだろう。だが、いやだからこそか、俺はどうしても考えてしまう。俺の人生は、ずっとこんなことの繰り返しなんじゃないかと。人間50年、いや今の平均寿命は70歳後半だ。ずっと、こんなことの繰り返しかと思うと生きる希望を失う。

 電車が駅に着いた。ここで乗り換えないといけない。俺は席を立った。

――あ、バットケース…

席の横に立てかけておいたバットケースを忘れるところだった。中学と高校は野球部で大学では野球サークルでと、俺はずっと野球をやっている。このバットケースは、中学のときからずっと使い続けてきたものだ。あくまでケースであり、消耗品ではないはずだが、 長い間使っているとやはり擦り切れが至る所に見えてくる。

 このバットケースを見ると、今までの俺の野球人生(もちろん、選手としての実力はヘタクソな部類であるが)が走馬灯のように思い出される。果たして、いい野球人生だったのだろうか。野球をやっていて良かったのだろうか。



 中学で野球部に入ったのは、単純な理由だった。小学校の時遊びでやった野球や、昼休みにやったキックベースが楽しかったからだ。あと、テレビでプロ野球を見るのが好きだった。あのころは毎日のようにテレビでプロ野球がやっていた。特に好きな球団があったわけではなかったが、純粋に野球を見るのが好きだった。豪快なホームランも魅力だったが、細かい駆け引きも同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に俺にとっては魅力だったかもしれない。バントやヒットエンドランといった、両チームが知力の限りを尽くす攻防、駆け引き。1球ごとにバッター、ランナー、そして守備、球場全体を巻き込んだ大きな駆け引きのドラマは非常に見応えがある。この「ハラハラ」する駆け引きがたまらないのだ。自分もそれをやってみたかった。

 ところで、中学生と言えば、女子を意識し始める年ごろではないだろうか。学校にエロ本を持ってくるヤツがいたり、学校のパソコンでいかがわしいサイトにアクセスするヤツがいたり。学年が上がるに連れ、同級生に彼氏・彼女がいるヤツも多くなっていく。そんな中で、俺は全くモテなかった。見た目が悪いのに加え、プレーも小技が中心で決してかっこいいものではなく、キャーキャー言われているエースや4番が羨ましかった。いや恨めしかった。だが、自分でもわかっている。1番の問題はコミュ力のなさだと。モテるヤツらの話はおもしろかったり、または、自分の武勇伝を語ったりと自信に溢れていた。確かに、あいつらは自分とは違う。中学生になり、芽生えたばかりの自我で真っ先に、そして最も強烈に認識したものは、女子にモテる見込みがないこと、そしてそれ以上に自らの存在がつまらないということだった。

 しかしそんな俺でも、野球部で最高学年になった時は、レギュラーの座をつかんでいた。3番セカンド。しかし、決して俺は運動神経の良い方ではなかったし、体格も良くなく、伸長は3年の時点で160cmくらいで、非常に非力だった。今にして思えば、レギュラーを掴めたのは俺の実力ではなく、いくつかの幸運が重なった結果だった。まず、人数が全校で200人を切る小さな中学校で、野球部が弱小だったこと。そして、サッカー部はそこそこに強くて、3~4回に1回くらいは県大会に行くほどの実力であり、運動神経の発達した男子の多くはサッカー部に入ったということだ。ただ、それでも俺がクリーンナップを打つのは不思議な縁だったと言わざるを得ない。俺は、打撃練習の時ですら、打球が外野の頭を超えるのが稀だった。俺よりもボールを飛ばす選手は何人もいた。

 練習試合で初めて3番に起用されたときは驚いたが、その謎解きは意外にもその日のうちに終わってしまった。単純に4番の前に安定感のある打者を置きたかっただけだったのだ。この4番はすごい打者だった。まさにチームの軸と言っても良い存在感と実力があり、中学卒業後は県内の強豪私立高校でレギュラーを張っていた。中学校で野球部に入る生徒は、活発でやんちゃな者が多い。悪く言えば、性格にむらがある者が多いということだ。その点、俺は違った。俺は子供らしさのかけらもない、真面目でねちっこい性格だった。前のバッターが出塁していればランナーを進めたし、相手投手のコントロールが悪いときは、フォアボールを選んで出塁しと、顧問の先生から見ればいい「脇役」だったであろう。

 そして、俺の代のチームは強かった。もちろん、普段地区予選2~3回戦敗退程度の、もともと弱い学校が例年よりは比較的マシ、という程度ではあるが。しかし、俺たちはそれがすごく楽しかった。夏休みの練習試合の時から、「今年はいける!」という予感めいたものはあった。それは、秋の新人戦で確信に変わった。

 俺たちは幾度の接戦をものにし準々決勝まで進んだ。相手は、前年の夏、県大会に出場した学校だった。5対4。俺たちは勝った。サヨナラだった。そして、サヨナラのヒットを放ったのは、俺なのだ。あの時の感触は今でも覚えている。――いや、忘れるはずがない。



 俺の打席は、最終回2死2塁で回ってきた。次の4番には絶対に回したくないので、無理をしてでも俺と勝負してくることはわかっていた。相手は、球の速い投手だった。が、疲れてやや球威が落ちていた上に、コントロールが甘くなってきていて、ボールが2球先行した。

――次のボール。俺は次のボールをどうするかで、ちょっと迷ってしまった。もし打つのなら、相手が自信を持っていて、なおかつコントロールしやすいストレートに狙いを絞るべきだ。だが…打っていいのだろうか。――あいつが後ろにいるのに。俺は打席を外しベンチを振り返った。が、…そこには俺が思っていたものは何もなかった。「思いっきり行けー」とか「よく見ていけー」とか、顧問や誰か部員の声があったらその通りにするつもりだった。俺がベンチを見たとき、みんな、ただ無言で俺を見ているだけだった。その時、俺の中で何かが切れた。次のボールを打ちに行く。そう心に決めた。

 再び打席に入り、次のボール――予想通りストレートが来た。そこから1秒くらい、俺は記憶がなかった。どうしてそのボールを打とうとしたのかとか、どんな風に打ったのかとか、その一瞬のことがどうしても思い出せない。気付いたらボールが、セカンドの頭の上にあがっており、センターの前に落ちた。



 サヨナラ打の後のみんなからの賞賛は、忘れられない。特に、試合後の女子からの賞賛は、生きていて良かったと思えるほどの喜びだった。

「中島君すごーい。」

「中島やるじゃん。」

他愛もない言葉だったが、そんな風に言ってもらったことはなかったのだ。

 今思えば、この時から引退試合までが、俺の野球人生最高の時だった。準決勝には敗れ、県大会の出場こそ逃したが、みんな自分たちの成績に満足していた。俺はこの大会の活躍で、みんなに自分の実力が認められ、部活の中でもいいポジションを築くことができた。自分の実力を認めてくれる人がいる。自分の声に耳を傾けてくれる人がいる。それって、すごく幸せなことだ。相手が男だとか女だとかは関係なく、自分を認めてくれる人がいるってことは、簡単に、生きている意味を見出せるということだ。自分の行動に意味を見出せている時は、生きている意味がないと思うことはないからだ。逆に、常に生きている意味を考えながら生きるのはつらい。俺の引退までの時間は、生きている意味を考えなくてよい時間だった。


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