確かめる、意思
眞澄の自宅は、八〇六号室だ。3LDKと、一人暮らしするには広すぎるくらいで、まだ使用していない部屋もある。週に二回は掃除しているので、常に清潔を保っている。
家具は必要最低限用意されており、リビングに直結しているダイニングキッチンには身の丈以上の大きさの冷蔵庫もある。
夕食には少し早いが、人核装甲を装着した後は腹が減るし、何より疲労感がすごい。汗一つかいていないのに、全身に鉄の輪をびっしりと嵌められたように体が重い。頭もおぼろげで、次は何をしようかなどと考える余裕もなかった。
習慣的に、眞澄はキッチンへと向かう。そして、冷蔵庫の中の余り物を適当に料理する。今回は、肉も野菜もまとめて卵でとじた。その気になればレシピ本などに書かれているようなものも作れるが、そんな手間をかけられるほど、眞澄は元気ではない。
冷蔵庫に突っ込んでおいたご飯を電子レンジで温め、先ほど作った卵とじも一緒にリビングへと持ち運ぶ。
リビングといっても、ソファとテーブル以外には、大型テレビとブルーレイプレーヤーが置いてあるだけだ。テレビは七〇v型で、縦九五センチ、横一六〇センチの超大型サイズのものである。眞澄は幼い頃から、あまりテレビ番組を観たことがなかったのでテレビを欲したのだが、最近は映画を観ることにハマッている。
テーブルに食事を乗せ、眞澄はテレビの横のラックから今日観る映画のソフトを物色する。『アンチドゥーム』からは、毎月一定の額が口座に振り込まれるようになっており、テレビもソフトも、全て自腹で揃えたものだ。
――人核装甲での訓練の後は、何も考えずに観られるアクション映画に限る。
迷った末に眞澄が選んだのは、香港の映画だ。日本ではあまり有名ではない香港のアクションスターが主演を務めている。上映時間も短く、ストーリーよりもアクションの出来に目が行ってしまうタイプの映画だ。しかし、アクションだけを見ても、日本版ブルーレイが発売していないことが悔やまれるほどの一品だ。
映画を観ながら、眞澄は黙々と食事を口に運んでいく。冒頭から、そのアクションスターは総合格闘技を取り入れた身軽なアクションを披露する。
正直、ストーリーはあまりいいものとは言えない。テンポは良いが、後一押しに欠ける。しかし、主人公の「信念や義理を貫く」という姿勢には、大いに共感できた。己の信念のために悪を許さないその姿を、眞澄は自分に重ねてしまう。
世界の平和を守る。人々を危険から遠ざける。
そのために、自分が先立って戦う。
不安は、ゼロではない。眞澄はまだ、一度も戦ったことがない。
しかし、期待を背負っている。自分は、改良したMファージに適合した、選ばれた者だ。
感染者達は、人々を理不尽な不幸で襲うだろう。暴走した衝動は、主に殺人などの凶悪な行為へとその者をそそのかす。誰もが、自由を、平和を奪われる。
――そんなことは、絶対にさせない。
眞澄は映画を観ながら、心に誓った。映画を観ていると、自然と疲労も癒えてくる。
○
放課後、岸谷真里は自らが所属する部室へと向かった。正確には同好会なのだが、部室だけは持っている。去年の代が卒業した時点で、部員が規定人数を下回ってしまったのだという。
今年入部したのは、真里のみだ。本来ならば廃部なのだが、真里が友人を募って名前だけ借りたおかげで、なんとか部活動として認められている。
ちなみに正規の部員は、彼女を除くと一人しかいない。
その残りの一人は、既に部室で真里を待ち構えていた。
「来たか、真里」
部室は縦に長い六畳一間で、壁の一方には本棚がずらりと並んでいる。主に漫画とアニメのDVDが占めているが、中にはノートやら小物入れやら様々なものが詰め込まれている段もあった。
部屋の中心には、小さな丸いテーブルとパイプ椅子が三脚。テーブルの上には大型のノートパソコンがある。
そして、ドアの向かい側の壁に沿って、古ぼけたソファが置かれている。声の主――同好会の会長は、そこに寝そべって漫画を読んでいた。その手には、手首を覆うように銀のブレスレットが嵌められている。左手には、同じように腕時計が巻かれているはずだ。
艶のあるストレートの黒髪、大きな目、高い鼻、制服が逆に似合わないほどの長身……挙げていけばきりがないほど憧れの要素を、彼女は持ち合わせている。
しかし、大人びた美貌を持っていながら、その姿勢はひどくだらしがなかった。
「仁美先輩、パンツ見えてます」
挨拶よりもまず、真里は彼女の慎みのなさに言及した。
「そうか。もっと近くで見ていいぞ」
「私以外の人が入ってきたらどうするんですか?」
当然のように返事をする彼女の性格には、もう慣れている。
「この同好会は真里と私、二人だけじゃないか。もう六月だし、今更新入部員など来るはずもない。ろくに勧誘もしなかったからな」
「堂々と悲しいこと言わないでください」
「なんだ、君は私と二人きりでいるのが悲しいのか?」
「そんなことありませんってば」
わざとらしく可愛らしい声を出す部長に、真里は思わず笑みがこぼれた。
真里がこの同好会の存在を知ったのは、入学して早々に行われる新入生歓迎期間にたまたま部室を訪ねたからだ。
ちなみにその時は先客の新入生がいたのだが、真里と入れ違うようにして出て行った。しかもその生徒は、泣いていた。
初めて部室を訪れた際も、今と同じような姿勢で部長が佇んでいた。そして彼女は、真里をじろじろと見つめたあと大声で、
「合格!」
と叫んだのだった。どうやら、彼女のお目に叶ったのは、真里だけらしい。
どうやら相当に変な部長だと真里は思ったが、それが同時に好奇心をそそった。新しく始まる高校生活で、これ以上の刺激はなさそうだと直感し、入部を決意した。
果たしてその勘が当たったのかそうでないのか、今となってはわからない。
とにかくアニメ・漫画同好会の部長――北条仁美は、いわゆる奇人変人の類に該当する性格であった。
「真里、突っ立ってないでこっちに来て座ったらどうだ」
仁美が姿勢を正して――ソファに胡坐をかいて――促すので、真里は言葉に甘えた。
しかし彼女が座った瞬間、仁美の両手は漫画から離れ、彼女の胸をまさぐった。
「ひゃあっ!?」
「うむ。素晴らしい、素晴らしいぞ真里。これなら君の想い人もイチコロだろうに」
「いや、ちょっと……先輩っ……」
仁美の手は、ただのセクハラにしては恐ろしく早い。
「――って、どさくさに紛れて何言ってるんですか!」
「可能性を述べたまでさ。君のおっぱいは男を魅了するのに十分すぎるほどの価値があるぞ」
仁美は得意げに微笑む。
「そ、そんなこと……」
「おやおや、試してもないのに否定する気か? とにかく一度やってみろ。消しゴムをわざと落として谷間をちらつかせるなり、教科書を忘れたなどといって相手の二の腕に押し付けるなり、いくらでも方法はある」
「う~~~~」
仁美のまくし立てに、真里は言い返せなかった。想像するだけで、顔が真っ赤になってしまう。
「よし! 今日は『YOUに届け』のDVD第五巻でも観るか!」
仁美は唐突に宣言した。
アニメ・漫画同好会とは名ばかりではない。毎日のように活動がある。といっても、漫画を読むかアニメを観るかの二択なわけだが。
仁美は真里よりもずっと漫画やアニメに詳しく、何度かオススメのものを借りたこともある。どれも真里にとってはストライクな作品ばかりだった。仁美は観察力が高く、その観点に真里はいつも驚かされるばかりだ。最近では、彼女のようになれればと憧れすら抱いている。
「あ、今日は昨日配信されたアニメの最新話が観たいんですけど……」
「――ああ、今日は早めに帰るんだっけか。家庭教師を雇っているんだったな」
「はい、ごめんなさい」
真里は木曜日と日曜日に、家庭教師を雇っている。苦手な英語と数学を補うために、母が許可もとらずに雇ったのだ。反発こそしたものの、その教師が気さくで好感の持てる人物だったので、今ではむしろ楽しみの一つとなっているくらいだった。おかげで今のところ、学業で遅れをとるような事態には陥っていない。
「謝らなくていいよ。確かにDVD一本観る時間はなさそうだし、君の言うとおりにしようか」
そう言って仁美は、テーブルの上のノートパソコンを立ち上げた。
観たアニメはロボットアニメで、クライマックスに向けての前哨戦といった回であった。
奇しくも主人公とヒロインが結ばれるシーンがあり、真里は自分のことでもないのに再び顔が赤くなった。それを仁美が見逃すはずもなく、観終わった直後には、
「真里もこのヒロインのように思い切って告白すればいいと思うんだがな」
と野次を飛ばしてくる。
「そうは言っても……全然、話しかけても返事してくれないんですよ。クラスでも浮いちゃってるみたいですし」
「どんなことを話しかけてるんだ、君は?」
「えっと……今日もいい天気だね、って」
仁美の表情が、ほとんど無になった。
真里には、何がまずかったのか見当もつかない。
「……君はそんなお天気お姉さんみたいな第一声で会話が弾むとでも、本当に思っていたのか? それで弾むのはこのおっぱいだけだ!」
再び仁美の両手が、真里の胸を襲った。が、今回はすぐに仁美の方から解放する。
「まあ、この二ヶ月で思い知っただろう。当たり障りのない話じゃ、その彼の興味は惹けないということを」
「はい……」
真里はひどく落ち込んだ。確かに、今日の天気以外の話題を彼――要眞澄に振ったことがあっただろうか。少なくとも彼女の記憶には、ない。
「時間をかけてでもいい。一日一回、もっと突飛な話をしてみたらどうだ? どこかで振り向いてくれるかもしれんぞ。少なくとも今日の天気について話すよりは、ずっと可能性がある」
「な、なるほど」
「それと、もう一つ」
仁美は人差し指を立てた手を、真里の眼前へと向けた。
「正直言って私は、君が本当にその彼に好意を寄せているのかが疑問でならない」
「え、どういうことですか?」
まるで自分の感情を否定されたかのような物言いだったが、真里は怒るよりも驚愕した。彼――要眞澄に片思いをしていることを、仁美には四月の時点で打ち明けている。以来、からかいながらも、ずっと応援してくれているものだとばかり思っていた。
「要するに、恋に恋をしているんじゃないか、ってことさ。君の好意はもしかすると、ただ彼に対する興味本位でしかないのかもしれないぞ」
「っ……」
真里は言葉に窮した。
確かに、自分は要眞澄のことを、何も知らない。入学当初からの人を寄せ付けない態度に、好奇心を刺激されただけなのかもしれない。例えば、この同好会に入部を決意したときのように。
仁美は前触れもなく、物事の核心を突いてくることがある。単なるコメディ調のアニメに隠された意図を読み取ったり、漫画をコマ割りから分析したりなど、全ては彼女の憶測かもしれないが、論理的で納得がいくものばかりだ。
いざその矛先が自分へ向けられると、まるで心を見透かされてしまったかのような感覚に陥る。
「真里、大丈夫か?」
よほど不安な表情になっていたのか、仁美が心配そうに訪ねてくる。
「大丈夫、です。ただ……」
「ただ?」
「仁美先輩って、本当にすごいですね。なんでも知ってる、っていうか」
改めて、真里は仁美との差を感じた。真里にとっての憧れは、あまりにも遠く離れたところにいる。その距離を埋めるためにはどうすればいいのか、考えても答えは出てこない。
「別に大したことじゃないよ。私は、知ろうとしているだけさ」
俯く真里に、仁美は寄り添いながら言った。
「確かめずにはいられないのだよ。色々とね。君の片思いについても、同じように確かめたいだけなんだ。要はエゴだな、私の」
仁美は自嘲的な笑みを浮かべた。彼女なりの励ましかと思うと、真里は嬉しくなった。寄り添う仁美の肩に、頭を預ける。
「じゃあ、明日確かめてみます」
「うん。それがいい。まずはちゃんと知るべきだ。自分の気持ちをな――」
「先輩」
さりげなく真里の胸へと伸びていた仁美の腕を、今度こそ阻止する。
「なんだ真里。私は気持ちというものが何処にあるのかを教えようとしただけだぞ」
「今日はこれ以上セクハラさせません」
「ふむ。ならば続きは明日にしよう、明日」
「……じゃあ私、そろそろ時間なんで」
「ああ、また明日な、明日」
「はい、また明日。お先に失礼します」
仁美の笑顔に、真里はいつもつられてしまう。
アニメも観たし、仁美とも話せた。充実した放課後だと、真里は思う。
○
明け方――突然据え置きの電話が鳴り響いて、眞澄は飛び起きた。言伝だけ受け取って、すぐに五〇一号室へと向かう
居間には、晴香や如の他に、何人かの職員が座っていた。昨日彼女がコーヒーを飲んでいた場所とは思えないほどの緊張感が張り詰めている。晴香と如の他にも、支部内で地位の高い人物ばかりが席を囲んでいる。
「来たわね、要眞澄」
昨日とは打って変わって、晴香の口調は鋭かった。彼女が長官としての顔でいるときは、他人をフルネームで呼ぶのが常だ。
眞澄は姿勢を正して振り返った。
「なんでしょうか、蒲生司令長官殿」
晴香は言葉を返す代わりに、空いている席へと真澄を促した。他の職員達の視線は、明らかに彼のことを子ども扱いしていた。支部の中で彼と話してくれるのは、晴香と如を除いてほとんどいない。
眞澄がソファに腰掛けるのを確認してから、晴香が口を開く。
「つい先ほど、本部からMファージ感染者の覚醒が確認されたとの通達が入ったわ」
その言葉に、眞澄は反射的に背筋を伸ばした。
日本のどこかにある『アンチドゥーム』本部では、全国に飛散したMファージの感染者が覚醒――異形と化した瞬間を感知できるシステムが整っているらしい。その連絡は、覚醒場所から一番近いところにある支部へと送られるのだ。
つまり、眞澄が属する支部が担当する感染者が現れたということだ。
「覚醒地点は、経度139度83分85,39秒、緯度35度66分86,08秒。東京都江東区東砂八丁目三-八。私たちの管轄内よ」
場所を言われてもピンと来なかったが、その位置の正確さには鳥肌が立った。一体どんなシステムが本部で稼動しているのか、眞澄には想像もつかない。
「覚醒時刻は午後九時前。今から丁度五時間前になるかしら。加えて、同地点で自動車事故が発生したと、警察が通報を受けているわ。運転手が撲殺されたみたい……感染者が起こしたもので、間違いなさそうね」
「……!」
眞澄は膝の上に乗せた両の拳を、きつく握り締めた。
――既に、犠牲者が出ている。
ここに座っている時間すら、惜しい。
しかし、感染者の覚醒を感知してから場所を特定するまでには、大きなタイムラグがある。『アンチドゥーム』は、常に感染者が覚醒した後に対応せざるを得ない状況に置かれているのだ。
そのもどかしさは、恐らく此処にいる全員が抱いているであろう。だから眞澄も、ぐっと堪えた。力んだ拳の震えに、全ての感情を押し留める。
「現時点をもって、『アンチドゥーム』関東第二支部は感染者駆逐を第一目標として行動することになる。今回も感染者の駆逐は雪岡如に担当してもらうけど、依存はないかしら?」
「はい」
如の返事は短かった。その声音は、普段の飄々とした彼女とは別人と思えるほど、威圧感に満ちていた。
「それと、要眞澄」
「は、はい」
突然晴香に名前を呼ばれ、眞澄は若干上ずった声で答えた。
「雪岡如が出動する際には、今後あなたも同行するように」
「わかりました」
実際に人核装甲の適合者――感染者に対抗しうる力として出動するのは、これが初めてということなる。眞澄は思わずこぼれそうになる笑みを、頬の内側を噛んで堪えた。
「出動は、今夜からよ。報告は以上だけど、何か質問のある者はいるかしら?」
挙手する者はおらず、その場は解散となった。眞澄は誰とも言葉を交わさず、自室へと引き返す。寝室でベッドに横たわっても、頭の中では思考がぐるぐると巡っていた。
今から出動しないのは、現場に警察が大勢いるからだろう。質問するまでもない。
日中は恐らく、感染者の方が身を隠している場合が多い。
彼らは危険な衝動に駆られているものの、その衝動を満たすためには人目を避けなければならないことを知っている。奇しくも、この感染者の習性のおかげで、事態を公にせずに済んでいるのは皮肉と言えよう。
夜になった後で、現場を中心とした周辺を地道に探索していくしかない。犯人は必ず現場に戻るとは言い得て妙で、確かにその通りになることが多いらしい。
とはいえ実際のところ、感染者の覚醒を感知した数と、駆逐した感染者の数には大きく差がある。その現状を、何とか打破したい。これといった考えは浮かばない。自らの足を頼りにするしかない。
そして感染者と相対したときは――
「必ず、倒す」
眞澄は自らの意思を確かめるかのように、声に出して誓った。
世界を守る力を発揮するときが、すぐそこまで迫ってきている。