世界を知らない教室
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六月。木曜日。例年よりも入梅が遅れているらしく、窓から覗く空は雲を一つも用意していない。このまま夏になってしまうのではという声が、耳に入る。
要眞澄は、窓から自分のいる教室へと視線を流した。朝の予鈴が鳴ったばかりだが、周囲は騒がしいままだ。皆がそれぞれ数人で固まり、グループを作って雑談に興じている。昨日観たドラマの話、宿題をやって来ていない話、金欠自慢……それら全てが、遠い世界の話のように感じる。
これでいい、と眞澄は感じていた。
――どうせこの高校生活は、近いうちに終わってしまうだろうから。
入学した当初は、何度かクラスメイトに話しかけられたこともあった。
「名前だけ見たときは女だと思った」「部活何にするか決めた?」「皆でカラオケ行かない?」
それら全てを、眞澄は素っ気無い態度であしらった。四月の早々に、彼はクラスから浮いた存在となった。
五月には、友達を作らなかったことが災いし、ガラの悪い連中に絡まれたこともある。だらしなく着崩した制服に身を包んだグループには、同じクラスの者も混じっていた。
校舎裏への呼び出しを無視した翌日、彼らは昼休みに堂々と眞澄を囲んできた。胸倉を掴んできた生徒に、眞澄はつい反撃してしまった。相手の腕を掴み返し、そのまま容赦なく捩じ上げて突き飛ばしたのだ。
その一件以来、眞澄に進んで寄りつくような生徒はいなくなった。
ただ、一人を除いて。
「おはよ、要君」
わざわざ彼の顔を覗きこんで挨拶してきたのは、隣の席の岸谷真里という女子生徒だった。
眞澄は無視したが、彼女は特に気を悪くしたようでもない。無視しているのにもかかわらず、彼女は毎日挨拶をしてくる。
「今日もいい天気だね。雨、降らないのかな?」
「ああ、うん」
当たり障りのない話題を口にするのも、いつものことだった。話すにしたってもう少しこちらの興味を引けないのかと、眞澄は口にこそしないが思っていた。
ふと真里の方に目を寄越すと、彼女もじっとこちらを見つめていた。目が合うと、慌てて彼女は俯いてしまう。
眞澄は再び、窓へ視線を戻した。何も変化のない空模様と街並みが、ひどく現実味のないものに感じた。
彼の世界は、あの日一変したのだ。
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彼の両親は幼い頃に離婚した。母は、眞澄を八歳まで育てたところで力尽きてしまった。
その後は叔父夫婦に引き取られ、それまでとは勝手の違う生活が始まった。
叔父夫婦は、互いに齢七十を越えていた。二人とも腰を痛めており、眞澄はむしろ彼らの世話をしなくてはならなかった。家には他にお手伝いの女性が住み込みで働いていたので、眞澄は放課後同年代の友達と遊ぶよりも、彼女の手伝いをして過ごすことの方が多くなった。おかげで、小学生にして家事の大半をこなせるようになった。
その生活も、彼が小学校を卒業するまでのことだった。
叔父夫婦が揃って入院してしまい、真澄は家に一人取り残されてしまった。
やがてその様子を見かねた――正確には財産が目当てだった――親戚が、叔父夫婦の家を売って彼を引き取りにきた。
親戚の夫婦は、見るからに優しい態度で眞澄に接してきた。だが、その裏に潜む金銭欲が目に見えるようで、不快だった。幼いながらも、眞澄はそういった感情の機微を察することができた。
眞澄は何度も訪ねてくる親戚に、頑とした態度を崩さなかった。だが現実は、中学生にも満たない子供が一人暮らしするのを許さない。抵抗は、無意味に等しかった。いずれ嫌でも、親戚の下に引き取られなければならない。
十二歳だった眞澄とって、それはひどく理不尽なことのように思えた。彼はその時点で、家さえあれば一人で暮らせるという自信があった。
しかし結局、眞澄の意思が尊重されることはなかった。親戚が勝手に叔父夫婦の家を売却したのだ。もう子供には、どうすることもできないところまで話が進んでしまった。
そこに突然現れたのが、眞澄を養子にしたいという第三者の女性からの提案だった。
自らを「要家の者」と名乗るその女性は、親戚に対し「手に入れる財産と今後眞澄を育てるのにかかる教育費」を説き、彼らを容易く丸め込んだ。
そしていつの間にか、眞澄は要家に養子として迎えられることが決定してしまった。
唐突な展開に、眞澄はついていけなかった。ただ、眞澄を引き取りにきた女性に「何がしたい?」と聞かれたときは「一人暮らし」と即答した。断られるかと思ったが、彼女は「あなたが優秀だったらね」と微笑んだ。
まず向かった先は、高級ホテルのような外観をしたマンションだった。女性曰く、要家が所有している建物の一つらしい。
入ってすぐ目の前に広がるロビーも、外観相応の豪華な内装であった。大理石の壁に囲まれた空間には、埃一つ落ちてないカーペットが敷かれている。複雑な曲線で構成された芸術的なテーブルの数々を囲む革張りのソファには、眞澄と同じかそれ以下の年代の子供たちが大勢座っていた。
全員が、萎縮したように大人しくしている。境遇とは不釣合いな調度品に囲まれているからではない。自分の置かれている状況が、全くわからないのだ。それは眞澄も同じだった。
「ここで待ってて」
女性はそう告げて、ロビーの奥へと消えていった。
眞澄は、他の子供たちの視線を一斉に浴びた。自分と似たような境遇なのだろうということは、なんとなく理解できた。そして同じように待っててと言われたことも。
誰も何も言わない静寂で息を潜めていると、先ほどとは別の女性が奥から現れた。一人だけではない、大人たちが続々と登場し、子供たちを順番に奥へと連れていく。眞澄は一番最後だった。
案内された部屋には、生活感がまるでなかった。白で統一された壁、床、天井。そして家具の代わりに、病院で見かけるような機械類が所狭しと置かれている。そこにいる大人たちは、全員白衣を着ていた。窓の向こうで沈んでいる夕日の色が場違いなものに思えるほど、現実味のない空間が広がっていた。
眞澄はそこで、二本の注射を打たれた。一本は麻酔だったらしいが、もう一本は教えてくれなかった――まだ、その頃は。
麻酔による眠りから目覚めたとき、彼をこのマンションまで連れてきた女性がすぐ傍に立っていた。
「今日からここが、あなたのお家よ」
そこは、同じマンションの別室――生活感のある、それでいて一人暮らしには少し広すぎる部屋だった。
眞澄は中学生としての日々を過ごしながら、そこで一つ一つ世界の裏側で起こっている真実を教えられていった。