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贖罪装甲  作者: 饂飩粉
第一章:胎動する黒き鎧
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ダイヤの意思


 手元の携帯電話が、先ほどから何度も鳴っていた。本社からの着信だろう。留守電には、「体調はどうだ?」と身を案じるメッセージが何度も録音されている。時貞にとって、それらの音も声も、全て耳から耳へと通り抜けていく雑音でしかない。

 早退した時貞は、狭い賃貸マンションの一室で寝転がっていた。ずっと、考え事をしていた。というよりは、考えざるを得なかった。

 岸谷真里のことが、どうしても頭から離れない。彼女のことを考えるだけで、他に何もできなくなってしまっていた。体は動かせるものの、電話を取ろうという気にはなれなかった。

 自分が岸谷真里のことをどれだけ愛しているのかから始まり、今は「どうすれば彼女を自分のものにできるか」にまで達している。

 既に、答えは出ている。昨日の夜――あの事故の直前に、悟った。

 恋敵を、殺してしまえばいい。

 時貞はその答えと、溢れ出る衝動を必死に抑え込んでいる。

 自分の中で起こってしまった変化と、必死に戦っている。

 もう何本、鉛筆を齧っただろうか。

 鉛筆を噛み砕く度に、衝動をほんの少しだけ抑えることができた。

 その度に鉛筆の芯だけが、そっくり消失してしまっていた。

 今なら、その理由がわかる。

 芯は時貞の中にある。取り込んでいるのだ。あの事故の夜、自らを覆っていた黒い鎧の正体は、鉛筆の芯だ。

 時貞は理解していた。この衝動に負けてしまえば、自分はまたあの姿になってしまう。欲望や、残虐な意思のままに行動する異形の化け物になってしまう。

 口の中で、また鉛筆が砕けた。それが、最後の一本だった。例に漏れず、芯はすっかり無くなっている。

 時貞にはもう、自制の手段が残っていなかった。

 汗が、どっと噴き出る。間違いなく、昨日の夜と同じ感覚が、時貞に襲い掛かってきていた。

 それは言うなれば、時貞の裏の顔だった。彼の心を突き動かそうとする衝動――間違いなく、彼自身だった。

 恋敵を殺す。

 少なからず、時貞の脳裏で芽生えていた邪悪で醜い考えだった。今やすくすくと育ち、真っ黒い花を咲かせている。

 時貞の心を、真里の面影が満たしていく。夢のような心地に、彼は思わず身を委ねかけた。

 その瞬間、全身が裏返った。

 心の裏に巣食っていた変化が、体に変化をもたらし始める。時貞の内側で、黒い鎧が徐々に大きくなっていった。やがて鎧は、内側から時貞をすっぽりと覆った。

 変化は、あっという間の出来事だった。

「殺そう」

 はっきりと、彼は口にした。自分に言い聞かせるように。何度も、何度も。

「殺そう。真里が想いを寄せる者を。殺してしまおう」

 それは呪文のように、言葉にする度に鎧に力が込められていくのを感じた。

 鎧は段々と隆起が少なくなっていく。削り出された宝石のように、表面は滑らかな多角形へと変化した。頭はフルフェイスのヘルメットを被せたかのようなシルエットで、目も鼻も覆われていた。口元だけが、時貞の呪文に合わせてうごめいている。

「殺そう。そいつを殺せばいい。たとえその後、真里が僕に振り向いてくれなくても、また誰かを殺せばいい。真里が振り向く者全てを殺して、僕を見てくれればいい」

 異形となった時貞は、ゆっくりと起き上がった。携帯電話が懲りずに鳴り響いたので、玄関へと向かう足で踏み潰す。

 そのまま普段と変わらぬ足取りで、外に出た。時貞の住むマンションは六階建てで、彼は二階に住んでいる。

 マンションの廊下は外周に沿って伸びている。彼は廊下の手すりの上に乗って、跳躍した。足元を軽く叩いただけだったが、一気に屋上まで跳んだ。

 青々とした空が広がっている。見渡す景色が、いつもと違うように感じた。身体が軽いせいか、どこまでもこの身一つで行けそうな気がした。

 だが、今ははっきりとした目的地がある。岸谷真里の通う学校だ。

 幸いまだ人には見られていない。この姿が公に出てしまえば、身動きが取りづらくなることは考えずともわかる。

 だから時貞は、建物の屋上を伝っていくことにした。

 手始めに、道路を挟んだ向かい側の高層マンションに狙いを定める。膝を軽く曲げ、両脚に力を込める。鎧は時貞の身体に密着しており、神経も繋がっている。尋常ならざる力は、筋肉も兼ねた鎧のおかげだ。全身がバネのように撓らせ、一気に――

「待てよ」

 背後からの、声。

 解放しようとした力が、空気が抜けるようにしぼんでいく。

 誰かに、見られた。

 時貞は、恐る恐る振り返る。

 小屋のような、屋上にある唯一の出入り口。その扉は、たった今開け放たれたかのように揺れている。

 その前に、見覚えのある男が佇んでいた。

 事故の現場で、不自然な接触をした男だ。

 同じ格好、同じ目つき、そして新たに感じる異様なまでの殺気。

 時貞は、自身に向けられている敵対心を、手に取るように感じていた。男から発せられる曲々しい雰囲気が、真夏の直射日光のように全身を貫く。

 朝方出会ったときの、人当たりの悪い不機嫌な男ではない。時貞は直感した「この男は、敵だ」と。

 時貞は足だけでなく、腕にも力を込めた。握った拳が、固くなっていく。

 男が、一歩一歩距離を詰めてくる。男の右手も、時貞と同様に握り拳になっていた。

「お前は俺が壊す」

 男の声は、決意に満ちている。それは、言い聞かせているかのようでもあった。男の歩幅が変わる。全速力で、時貞に接近する。

 時貞は特に何もしようとはしなかった。

 たかが生身の人間ごときに、この鎧が破れるはずがない。何より彼には、昨日よりも格段に鎧が強固なものになっているという確信があった。

 男の拳が、時貞の異形の顔面へ叩き込まれる。勢いの乗った一撃だった。

 時貞は、最後までその場から動かなかった。腕で防ぐこともせず、首すら動かさずに、その拳を受け止めたのだ。昨夜の車との衝突に比べれば、蚊が止まった程度の感触しかなかった。

 だが時貞は、蚊が止まることを好む性格ではない。お返しと言わんばかりに、男のそれよりも数段速く、重たい拳を放つ。

 男は咄嗟に突き出した右手を戻して、顔面への攻撃を防いだ。しかし勢いは殺せない。男は屋上の床を後ろ向きに滑り、やがてバランスを崩して転倒した。

 だというのに、時貞の拳が得た手応えは違和感だけであった。運転手を殴ったときのような、骨を砕く爽快な感覚が一切ない。むしろ、男を殴ったはずの手が痺れている。

「なんだ……?」

 違和感が思わず、声に出る。男の方を見ると、彼は既に立ち上がっていた。異形の拳を受けた生身の男は、厄介そうにジーンズの汚れを掃っている。

 そして時貞は気づいた。

 男の右手が、形容しがたき異形へと変化していることに。正確には、その男の変化は右手から肘、肩へと上っていき、全身へと及ぼうとしている最中であった。

「一発殴らねえと、始まらねえんだ。俺のは」

 男が、緑色の異形に包まれていく。爬虫類のような生々しさを持つ表面に、血管とも木の根とつかぬ管が幾筋も這っている。それらの管や生物的な隆起は、左右非対称で規則性がない。

 時貞の鎧と比べて、男のそれは随分と歪な形をしていた。頭部は、恐竜が獲物を丸呑みにした瞬間を切り取ったような形状だった。

「行くぜ」

 男の異形への変身に呆気にとられていた時貞は、僅かに反応が遅れた。緑色の異形が、眼前に迫っている。

 次の瞬間には、時貞は床を転げ回っていた。頭部に痛みが走っている。鎧を貫通して、中にいた時貞にまで衝撃が及んだのだ。

 起き上がろうとしたとき、何かが自分の頭から零れ落ちた。それは、鉛筆の芯を細かく砕いたような、黒色の破片だった。

 鎧が砕けている!

 時貞は、即座にその場を離れた。コンマ一秒遅れて、男の踵が時貞のいた場所に突き刺さる。

 時貞の頭は混乱していた。

 得体の知れない者に対する、本能的な恐怖が体を支配する。

 男のスピードは、時貞を遥かに上回っていた。反射神経のみで、男の素早い連打を腕で防御する。男の拳を受ける度に、ぼろぼろと鎧が砕けていき、激痛が走った。このままではいけないとわかっていても、男の攻撃は嵐の如き激しさで、一向に休まる気配がない。

 時貞は遂に防御すらままならなくなっていった。両腕が力を失って虚空を漂う。

 男は、その隙を見逃すはずがなかった。無防備になった時貞へ強く踏み込みながら、容赦なく両の拳を連続して叩き込む。時貞には、もはや目で追うことすら叶わなかった。何十発という殴打が、長い長い一撃のように感じた。

 とどめと言わんばかりの一発は、再び顔面に入った。時貞は宙を舞い、そして仰向けのまま落ちた。殴られた箇所に亀裂が走る。

「うがっ、があああああああああああああああああ!」

 まるで刃物で切りつけられたかのような痛みに、時貞は絶叫した。口からでた声は、とても人間のものとは思えなかった。

 そこに追い討ちをかけるように、男の殺気が背筋を駆け抜けた。時貞に近づく足音は、何かのカウントダウンのように鼓膜を震わせる。

 ――殺される。

 本能だけでなく、心の底から、時貞は恐怖した。体を動かそうとしても、仰向けのままもがくことしかできない。

 どうすればいい? どうすれば逃げられる? いくら考えても、その答えは見つからなかった。

 ――違う。逃げるのではない。

 時貞の中に起こっていた変化が、そう告げた気がした。その言葉に、時貞は目を見開いた。

 自分が何のためにこの姿になったのか。戦いの中で忘却していたその理由を、彼は掴んだ。

 男が、時貞の視界の隅に入った。男を覆う装甲に目らしきものはないが、こちらを見下ろしているのは確かだった。

「終わりだ」

「違う……」

「!?」

 男は既に振りかぶっていた腕の動きを、止めた。

「終わりじゃない……まだ、これからだ」

 時貞は、震える両腕を酷使して、身を起こした。黒い鎧の破損した箇所が、内側から盛り上がるかのようにして埋まっていく。それと同時に、再び力が湧いてきた。

「僕には、行かなきゃいけないところがある。やらなきゃならないことがある」

 男の振りかざした腕に向かって、時貞の手が伸びる。そして、掴んだ。かつてない速さだった。男の動揺が、腕越しに伝わってくる。

 時貞の手は、宝石のように輝いていた。浴びた光を乱反射させながら煌く。今まで以上の力と、強い意志が、右手一点に宿っていた。

「お前に邪魔されて、たまるか――!」

 渾身の力を振り絞って、時貞は男を振り回した。恐怖はもう、時貞の心には残っていなかった。

 砲丸でも投げるかのように、男を天に向けて放った。自分の目指す場所とは正反対の方向へ、異形の男は消えていく。

「行かなくちゃ。殺さなくちゃ」

 時貞は男の飛んでいった方を顧みず、跳躍した。向かい側のマンションの屋上へと、難なく着地する。それを繰り返して、時貞は真里の通う高校へと向かっていった。


 ○


 緑色の異形の男は空中を漂いながら、自らの傲慢さを呪った。

 完全に油断してしまった。まさかあの異形にあれほどの執念があるとは、考えもしなかった。

 マンションの郵便ポストから得られた情報は、名前だけだ。彼が普段何をしているのか、何を考えているのか、そんなことは男にとってどうでもいいことだった。

 ただ一つ、あの異形に感染してしまった以上、あの男――金子時貞を倒さなければならない。

 男は体勢を整えて、高層ビルの屋上に着地した。男を覆っていた異形の装甲が、体の内側へと吸い込まれるようにして消える。

 これからどうするかなど、既に決まっている。時貞をすぐに追いかけなければいけない。彼には、どこか目的地があるようだった。男は、今朝方の事故現場での記憶を手繰り寄せた。

 感染者の気配を追って辿り着いた、自動車事故の現場。

 そこで出会ったのが金子時貞――感染者だ。彼は男が犯した大いなる過ちの余波を受けた、不幸な男になってしまった。

 だからこそ、この手で倒す。

 その現場で、時貞は誰かに呼び止められていた。

 ――そう、確か先生と呼ばれていた。

 誰が呼んだのかは知らないが、少女の声だったことを覚えている。

「学校か……」

 男は腕時計を見た。時刻は午後三時を回っている。丁度放課後になろうかという頃合だ。男は感染者の存在を察知することができるが、それでもある程度近づく必要がある。それが誰なのかを突き止めるには、さらに接触しなければいけない。

 ふと、空を見上げた。雲ひとつない晴天が、どこまでも広がっている。

 しかし、男の目に映る空に、色はなかった。

 くすんだ灰色のベールがどこまでも続いていて、この世界を覆っているように見える。世界が灰色に見えている限り、男は自らの過去を決して忘れることはない。色を失ったときに得た決意も、この先ぶれることはない。

 男は感傷に浸ったことを自嘲するように、口元だけで笑った。次の瞬間には気持ちを切り替え、急いでビルを駆け下りる。タクシーを拾って、自分のバイクを停めた場所へと向かった。その後は、近くの学校を手当たり次第に探していくだけだ。

 男の意思は固い。とあるウィルスの感染者全員を、この世から消す。一人残らず。跡形も残さず。

 それが、男を突き動かす唯一無二の原動力だった。

 過去の過ちを経て見つけ出した道に、迷いなどあるはずもない。

 たとえその道や己の心が、歪んでしまっているとしても。

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