黒き鎧
帰り道は、来たときよりも暗さが増していた。背の低い一軒家やアパート、ビルが建ち並ぶ道を、等間隔に置かれた街灯が照らしている。
その道を歩いていると、朝と夜を何度も繰り返しているような感覚になる。辛い日は、こんな風にさっさと過ぎてしまえばいいのにと時貞は思った。
――今日という日は、早く過ぎるべき日だろうか。
思い返した途端、あのフラッシュバックが再発した。
不安、後悔、怒り、悲しみ、負の感情全てを、彼女の頷きが肯定していく。時貞に制御できるようなものではなかった。街灯の間の暗闇で、彼は電柱に手をついて立ち止まる。
ポケットの中の鉛筆を探るが、既に噛み砕かれたものしかなく、使い物にならない。
息が苦しい。立っているのがやっとだった。たかが色恋沙汰で、肉体も精神もこんなに磨り減るものなのか。
別に、期待なんてそれほど大きいものではなかった。昨日までは、別に彼女が振り向いてくれなくても構わないと諦観していた。はずだった。
心臓を破裂させる勢いで、脈が波打つ。全身から汗が噴き出す。
心を沈めた深い絶望が、沸々と熱を帯びていく。
「あ…………」
時貞は、今度こそ感じた。自分を突き動かす、衝動めいた何かを。少なくとも昨日までは存在しなかった、心に巣食う激情を。
「真里、ちゃん」
時貞はぼそぼそとその名を呟きながら、車道へと出た。足取りが軽い。スキップしてしまいそうなほど、気分が高揚していた。
再び街灯の真下に立って、光を浴びる。このとき既に時貞の身体には変化が起こっていたのだが、彼自身は全く気づかなかった。
「好きだ、真理ちゃんのことが。大好きなんだ」
気持ちを言葉にする度に、身体が軽くなった。
「好きで好きでしょうがないんだ、真里ちゃん」
まるで言葉が、心の膿を少しずつ掬い取っているかのようだった。
「僕は、君と付き合いたい。付き合って結婚して、子供が欲しい。今時結婚なんてって思うかもしれないけど、僕は憧れてる。君以外の相手なんか、もう想像することだってできない」
我ながら気持ち悪い、心に留めておきたいセリフが、滝のように流れ出てくる。そのおかげか、逆に心は雲を取り除いた空のように澄み切っていく。
――なんだ、簡単なことじゃないか。
カラオケで大声で歌い、ストレスを発散するようなものだ。声を出すだけで、気持ちを露出させるだけでいい。それだけで、いい。
真里への想いは、尽きることがなかった。まだ出会って二ヶ月ほどしか経っていないのに。今までの、これからの人生においてこれ以上気持ちが昂ぶることはないと断言できる。
時貞は既に、真里に事実上振られたことがどうでもよくなっていた。あのときの自分は間違っていたのだ。遠回しに気持ちを確かめようとするから、その分期待も不安も高まってしまう。
「真里、愛してるよ」
彼女の目の前で、素直にそう告げればいい。
しかし、そこで時貞はあることを思い出した。街灯の光の届かない車道で、ぴたりと足を止める。
真里には、他に想い人がいるのではなかったか。いわば、恋敵だ。
「邪魔だな……邪魔だ、殺そう」
そう決心するのに、一切の躊躇いがなかった。
「真里が悲しんだら、抱きしめてあげればいいんだ」
時貞は目を閉じて、自らの腕を交差させて背中に回した。自分で自分を抱きしめるような格好だが、彼の瞼の裏には、その腕の中で微笑む真里の姿があった。
突如、クラクションが耳をつんざいた。目を開けると、眼前に車が迫ってきている。
時貞は、その場から動かなかった。真里を抱きしめている最中だったから。
二度目のクラクションの直後、鈍い音と共に時貞は車と衝突した。骨が砕けたか、内臓が破裂したか、どちらにせよ不快な音がした。
しかし壊れたのは、車の方だった。
時貞にぶつかった車のフロントが、Uの字にひしゃげている。
目の前に、ガラス越しの運転席が迫っていた。エアバッグが作動したため、誰が運転しているのかはわからない。助手席にも、後部座席にも人はいない。
時貞はそこで我に返った。自分は真里など抱いていない。しかし、この車が来なければ、その妄想にもう少しだけ浸っていられた。
苛立ちは、バケツをひっくり返したかのように突然心を埋め尽くした。
鉛筆は持っていない。この怒りを収める方法は、一つしかない。
時貞はぐしゃぐしゃになった車のボンネットに乗り上げて、ガラス越しの運転席と向かい合った。腕を勢いよく振りかぶり、エアバッグに沈んだ運転手の頭めがけて叩きつける。
ガラスは一発で砕け、エアバッグもろとも破裂する。貫通した時貞の右手が、運転手の頭を掴んだ。そのままボンネットへと、運転手を引きずり出す。運転手は、鉛筆のように軽かった。
時貞は運転手の頭を掴んだ右手を掲げる。
意識が朦朧としていた運転手が、目を覚ました。
視線が交差する。運転手の顔が、歪んだ。単に驚いただけなのか、恐怖したのか、そんなことはどうでもよかった。
時貞は手ぶらの左手で握り拳を作ると、運転手の腹に一発食らわせた。軽いジャブのつもりだったが、それだけで運転手は嘔吐した。口から湧き上がる吐瀉物が右手にかかり、時貞の怒りは振り切れた。運転手に、容赦なく拳を浴びせていく。腹に、胸に、腕に、足に、顔に、何度も何度も叩きつけた。一発殴る度に、相手の骨を砕いた感触が伝わってきた。殴り続けていると、気持ちが落ち着いてきた。
気の済むまで殴ってから、時貞は運転手を車の屋根に放り投げた。運転手は既に息をしておらず、男か女かの判別すらできない状態になっていた。
一息ついたところで、時貞は自分の体の異変に気がついた。
彼の拳は、黒い岩のようになっていた。
手だけではない、腕も、脚も、身体も、全身が艶のない黒の隆起で覆われていた。恐る恐る手で顔に触れると、固いもの同士がぶつかり合う音がした。
「一体、何が――」
言いかけた途端、全身を覆う隆起が一斉に収縮を始めた。黒い鎧は、時貞の肌に吸い込まれるようにして消えていった。
しかし、衝撃は終わらなかった。
時貞の手には、血と肉片が残っていた。さらに彼の前には、人の原型を留めていない肉塊が転がっている。自分が何をしてしまったのかを思い出すには、十分すぎるほどの現実が突きつけられていた。
吐き気がしたが、もう胃に吐けるものなど残っていなかった。時貞はボンネットから飛び降りると、一目散にその場から逃げ出した。
その日、時貞はほとんど眠れなかった。目を瞑っていると、左手に人を殴った感触が蘇ってきた。
あれは殴ったのではない。壊したのだ。確かな実感が、そこに宿っている。
居ても立ってもいられなくなった時貞は、夜が明けた頃を見計らって家を飛び出した。
「犯人は必ず現場に戻る」というお約束のセリフが頭を掠める。刑事ドラマの犯人の気持ちが、少しだけわかるような気がした。自分の行為の結果がどうなっているのか、確かめずにはいられなくなる。何か証拠や致命的な見落としがないか、不安でたまらない。
電車での移動中は、気が気じゃなかった。現場に着いた途端に、逮捕されるのではないだろうか。最悪の事態を想像しながらも、時貞の足は立ち止まることがなかった。
現場の付近には、朝早い時間だというのに野次馬が大勢たかっていた。よく見ると、ニュースのリポーターやカメラマンなどもいる。時貞は人の間を縫って、警察が張り巡らせた黄色いテープの前まで辿りつく。
昨日の惨状は、ほとんどそのまま残っていた。車の屋根に捨てたはずの死体は既に回収されていたが、それ以外変わったところはない。
車は一般的な白のミニバンで、時貞のいる場所からは車体の後方しか見えなかった。現場保存のための規制が敷かれており、反対側へ回るには一旦道を外れなければならないようだ。
野次馬たちの話し声が耳に入る。
「人が死んだって……」「独身だったそうよ」「この車、もしかして……」「誰が死んだの?」「車の反対側、凄いことになってるわよ」
時貞は、反対側へ回り込もうと動いた。が、人だかりは増えていく一方だ。
無理やり隙間を通ろうとしたとき、誰かと肩ぶつかった。
「あ、すいません」
反射的に、時貞は謝った。ぶつかった肩の主は、男性だった。時貞よりも年をとっているが、老けてはいない。何も言い返してはこないが、時貞に向ける視線には、微かな怒りを感じた。
ぼさぼさの黒髪に無精髭、Tシャツにジーパンという姿だというのに、時貞はその男の目つきから逃れることができなかった。本能的な恐怖を感じる。
「…………」
面識があったかと時貞は記憶を手繰ったが、知らない男だ。だというのに。男の目は鋭く、時貞を射抜く。
だんだんとその態度が不快に思えてきたところで、男は遂に一言も喋らずにその場を去っていった。
その行動が、ますます時貞にとっては疑問だった。一旦この場を離れようとした彼と進行方向は同じだったはずなのに、何故肩がぶつかったのか?
不審に感じた時貞は彼を追いかけようとした、そのときだった。
「あ、先生!」
聞きなれた少女の声に、時貞は立ち止まらざるを得なかった。
「真里ちゃん?」
振り返ると、現場を挟んだ向かい側から、岸谷真里が手を振っていた。彼女は一旦視界からいなくなったかと思うと、しばらくしてこちら側にやって来た。回り道を使ったらしい。
真里は学校の制服を着ていた。半そでのセーラー服姿が、よく似合っている。胸が大きいせいか、セーラー服の裾とスカートの間からへそが見えそうだった。
だが時貞には、その制服に対してあまりいい思い出がなかった。真里以外の誰かであったなら、避けてでも視界の外へ追いやっただろう。
「先生どうしたんですか、こんなところで」
時貞の胸中も知らない真里は、いつもの調子で話しかけてくる。
「ああ、たまたま近くを通りかかったら、人だかりが見えたんだ」
「そうだったんですか。よかった、先生が無事で」
真里はほっと胸を撫で下ろした。
「えっ?」
「この事故、昨日の夜に起こったみたいなんです。もしかしたら先生が巻き込まれたんじゃないかって、心配で……」
時貞は彼女に心配されたというのに、大して自分が嬉しく思っていないことに気づいた。嫌な気分ではない。
ただ、ひたすらにむなしい。
「見ての通り、全然平気だよ」
「はい、よかったです。本当に」
真里は、昨日となんら変わりない、優しい笑顔を向けてくる。しかしそれは、時貞の想いに気づいていないがゆえのことだ。
彼女の態度一つ一つに可能性や期待を感じていた頃とは、何もかもが変わってしまった。
「それじゃ、僕はそろそろ行かなきゃ」
時貞は、自分からそう切り出した。出勤時間まではまだ十分に余裕があったが、これ以上彼女の前に立っていられなかった。
真里の返事も聞かずに、彼はその場を後にした。
肩がぶつかった怪しい男は案の定、見失ってしまった。
結局、なんとか出社はしたものの、時貞は体調不良を訴え仕事を早退した。




