決意、新たに
蓮はグラウンド付近に停めていたバイクに跨った。
「くっ……」
激しい頭痛が、先ほどからずっと続いている。感染者の鎧を取り込んだあとは、いつもこうなる。まるで脳味噌がパンク寸前にまで膨れ上がっているかのようだった。
あの女性の名は、北条仁美。
もう一人の感染者である男性――金子時貞の、元恋人。
些細な喧嘩をきっかけに別れてしまったが、彼女はずっと彼のことを想っていた。叶わぬ想いを募らせた挙句、自らを傷つける行為に走るようになった。心が苦しいから、肉体を痛めつけた。
そんな矢先にMファージに感染し、異形の姿を得た。
彼女は、時貞に近づこうとする全ての女性を憎んだ。彼に気づかれないように後を付け回し、彼に話しかけた女、目が合った女、擦れ違った女を憎悪した。そのうちの何人かは、既に手をかけて殺害している。
そして、学校の後輩である岸谷真理と言う女性が、彼の教え子であることを知る。時貞は、家庭教師だ。
仁美は、独りで葛藤した。真理のことは気に入っている。彼女と話すことは楽しいし、これからも付き合っていきたい。
だが、時貞が真理のことを想っていたと知った瞬間、真理に対する罪悪感は息を潜めた。
そして、今日の行為に及んだ……。
蓮は頭を抱えた。異形を取り込むと、知りたくもないことが頭の中に入ってきてしまう。まるで他人の心を勝手に覗いているかのようで嫌になるし、感染者の負の精神を丸ごと抱え込む羽目になる。
何度やっても、こればかりは慣れない。だが、続けるしかない。
Mファージ根絶のためには、こうする以外の手段はない。奈津子を救うには、これしかないのだ。
感染者を倒し続ければ、いずれ自分の存在は要正元の目に留まることだろう。蓮はそのときを待っている。待っているだけでなく、『アンチドゥーム』の関係者にはなるべく接触するようにしている。
――これは、俺の贖罪だ
奈津子の姿を変え、Mファージをばら撒いてしまった自分の罪。
それを、自分勝手な方法で償う。蓮は、奈津子を救えばその罪が許されると考えている。それを否定したくても、できないが故に。
――奈津子……
蓮は、あの日奈津子に救われた。
ならば、今度は自分が奈津子を救わなければならない。
彼女を想えば、蓮はどんなことでもできる気がした。頭痛を無視して、ヘルメットを被る。早くこの場を離れなければいけない。
バイクを走らせながら、蓮は先ほどのグラウンドでの出来事を思い出していた。
あのとき感じた気配は、合計で五つあった。
一つは、金子時貞。
一つは、北条仁美。
一つは、要眞澄。
一つは、雪岡如。
そしてもう一つ――グラウンドの外から、感じた、もう一つの気配。
仁美の鎧を取り込んだ時点で、その気配は遠ざかっていった。
考えられることは、ただ一つ。
――あの場を、誰かが監視していた。
だが、蓮には関係のないことだ。感染者である以上、いずれは戦う。それだけだ。
信号で一時停止し、蓮は空を見上げた。
灰色の空。灰色の世界。何もかもが、死んだように見えてしまう。
「なあ奈津子、今日は、いい天気なのか?」
○
「北条仁美は、結局私欲に走ってしまったのか」
どこかの暗闇で、声が響いた。
「はい」
「哀れな……彼女は、自ら選ばれし者になる道を閉ざした」
「はい」
声に、機械的な返事がなされる。
「己が欲望ではなく、我々のように一つの崇高な目的のために行動しなければならないというのに」
「はい」
返事でない声は、何重にもだぶって聞こえてくる。まるで何人もの人間が、一斉に同じ言葉を発しているかのように。
「我々の目的を阻む者……近いうちに、手を打たなければなるまい」
「はい」
声は、そこで途切れた。何かの気配も、消えた。
暗闇には、何も残らなかった。
○
「……にわかには、信じられない話ね」
グラウンドでの出来事を聞き終えた晴香は、顔を顰めた。
居間のソファには、眞澄と如が彼女と向かい合う位置に座っている。
二人は、感染者と蓮がいなくなった後、『アンチドゥーム』の処理班と共に事態を収拾した。
巻き込まれた真理と、元感染者の仁美は病院に運ばれたが、命に別状はないようだった。仁美に至っては、感染者であったこと自体を完全に忘れていた。金子時貞の存在も、記憶から抜け落ちているらしい。
「真田君はつまり、感染者を治療した、ということになるのかしら」
「私見では、そう思います」
如が言うので、眞澄も頷いた。
「感染者を殺すことなく……まさか、そんなことができるなんて」
「あの、一つ提案があるんですけど」
眞澄は恐る恐る手を挙げた。それが、如と決めた合図だった。
「何かしら、眞澄君?」
「俺――いえ僕達も、できるのであれば彼と同じ改良を施したMファージを使用するべきだと進言します」
それが、眞澄の出した結論だった。人を殺さずして、感染者と戦えるのであれば、それに越したことはない。
戦う覚悟は、とっくに決めた。日常を守るため、理不尽から守るため、そして何より――
「私もそう思うけど、少なくとも真田君と接触できないと……彼のDNAでもあれば、研究の足しにはなるかもしれないわ」
「それなら、持ち合わせがあります」
如が即答した。
「え?」
「私の人核装甲の翼に、真田先輩の装甲の一部が付着していたんです。これを元に研究を進めれば、少なくとも真田先輩と私達の装甲の差異についてはわかるかと」
それは、如がビルの屋上で戦った際に手に入れたものだった。翼で切り裂いた際に、偶然装甲の一部――ごく小さな一片を抉っていたのだ。
如はそれを、小さな小瓶に入れて保存していた。ポケットから取り出し、机の上に置く。
晴香から思わず、笑みが零れた。
「これなら、真田君を捕まえる必要はなさそうね。上には報告しないでおきましょ」
その笑みは、どこか悪戯っぽい。如も、つられて微笑む。
真田蓮の件に関しては、『アンチドゥーム』上層部――特に要正元が目を光らせている。彼に知れれば、どうなることはわかったものではない。
「この研究は、この支部のみで極秘に行いましょう。他言は無用よ、これは命令」
「はい」
眞澄は威勢よく返事をした。ふと時計を見ると、午後三時を回ろうとしていた。そろそろ、約束の時間だ。
「あ、じゃあそろそろ……」
眞澄が立ち上がると、如は悪戯っぽい笑みのまま彼を肘で突いた。晴香が不思議そうに問う。
「何処か行くの?」
「ええ、岸谷さんのお見舞いに」
「眞澄も隅に置けないなー全く」
如はどこか楽しそうである。
眞澄は少しだけ複雑な気持ちになった。だが、真理のことをなんとも思っていないわけではない。
――この気持ちも、いつかはっきりさせないといけないのかな……
そんなことを考えながら、眞澄は病院へと向かった。
当初の目的を、果たさなければならない。どんなことを話そうかと空を見上げると、晴れ渡った青い世界が目に飛び込んできた。
眞澄は、思わず微笑む。梅雨入りは、まだ先のようだ。
そのおかげで、最初に何を話すかが決まった。
これにて完結です。
読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。