暁
○
それは痛みと言うより、重みだった。
時貞の意識は、ブラシで擦られていくかのように薄れつつある。
仁美が腹を突き刺したおかげで、血が大量に流れ出ている。なのに、体はどんどん重たくなっている気がする。これが地獄に堕ちるということなのであれば、納得がいく。
――謝れ、なかった……
声を出そうとすると、代わりに逆流してきた血がごぼごぼと音を立てた。
これが最善の方法だったとは、時貞自身思っていない。自分勝手な罪滅ぼしだ。都合の良い贖罪を選んだに過ぎない。
仁美と付き合ったことを、後悔した日などない。彼女と過ごした日々は、どれも良き思い出ばかりだ。
別れたきっかけは、本当に、本当に些細なことだった。ただ、間が悪かったのだ。
仕事に追われ、互いの時間を作れそうにもないときに、彼女がほんの少しヒステリックになっただけ。今思えば、どうしてあんなに怒り狂ったのか自分でもわからない。あの瞬間は、自分がこの世で一番不幸な気がしていた。一番理不尽な目に遭っていると思っていた。
誰にも理解できない苦しみの中にいると、一人で結論づけていた。
そんなときに出会ったのが、岸谷真理だったのだ。今思えば、呆れるぐらいタイミングが良かった。
――本当に、間が悪いな
時貞にとって真理の存在は、大袈裟に言うなら女神に等しかった。あるいは、最初はそう思い込むことで現状から救われたかったのかもしれない。好意もあった。彼女と恋仲になれたら、それ以上の幸せはないくらいに。
だというのに、時貞の心は、その妄想が現実になったのかと思うほど満たされている。
今、この瞬間に。
――ああ、そうか
真理と添い遂げたわけでもないのに。
――僕は、ずっと……
時貞は、目的を果たしたのだ。
それは、真理に近づこうとする者を全員殺すことではない。それよりも更に深いところに、彼の目的はあった。
――守りたかったんだ、君のことを
微かに、瞼を開ける。
守りたかった女性が、仰向けに倒れた彼の顔を覗き込んでいる。必死に何かを叫んでいるようだが、どういうわけか聞き取れなかった。頬には傷が一線走っている。あと一歩早ければ、この傷も、足首の傷も、防げたかもしれないのに。
少し視線をずらすと、口を抑えながら動揺している仁美の姿も見えた。捲れた袖から、無数の傷が窺える。
――すまない、仁美
時貞の思っていた以上に、仁美は寂しかったのかもしれない。自分が傍にいてやれば、救えたのだろうか。
「これ以上寂しい思いをしたくない」
彼女が別れ際に電話で告げたその言葉に、今も時貞は答えることができない。どんな慰めも、抱擁も、彼女を余計に傷つけるだけだ。
――臆病だな、僕は
がくん、と意識が引きずり下ろされる。限界が近い。
深く深く沈んでいくうちに、時貞は心地よい眠気に包まれていった。とても、抗えそうにない。
――誰、か
時貞は願った。自分勝手な祈りを捧げた。
――誰か、彼女を
瞼が完全に閉じる間際、もう一度だけ彼女を見やる。彼女の瞳から零れた涙が、時貞の頬を伝っていった。
――彼女を、守ってくれ
○
「あっ――」
真理は、思わず時貞への呼びかけを、やめてしまった。
彼の表情から、完全に生気が失われてしまったのだ。まるで眠りについてしまったかのような、穏やかな表情のまま。
でも、彼が目覚めることは、二度とない。
否定したいのに、本能的に時貞の死を悟った。途方もない無力感が、真理を呑み込んでいく。真理の太腿に乗っていた彼の頭が、見えない支えを失ってずるりと地面に落ちた。
人の死は、こうも呆気ないものなのだろうか。血が、血が出ただけで、死んでしまうものなのか。
漫画やアニメで描かれるキャラクターの死とは、それこそわけが違う。魂の重みが、圧倒的に違う。
心なしか、時貞の屍が小さく見える。魂が抜けてしまうと、そう思えてしまうのかもしれない。
そのことが、とても悲しかった。
「せ、せせせせせ先生が…………」
歯をガチガチと言わせながら、仁美は目を瞠っている。彼女が手を伸ばしてきたので、思わず真理は体を引きずって後ずさる。
しかし、仁美の手が触れたのは、時貞だった。両手で抱きかかえて、彼の死に顔を見つめている。
仁美はしばらく、そのまま動こうとしなかった。真理にも、彼女の気持ちを察することぐらいはできた。
真理は時貞に好意を持っていたとはいえ、それ以上の気持ちに成長することはないと自分でもわかっていた。
だが仁美は違う。仁美は、時貞を愛していたのだ。愛する者を失うことは、どれほど辛いのだろうか。その経験がない真理には、推し量ることなど到底不可能だった。
時貞を殺したのは仁美だ。だが、彼女を恨む気にはなれない。何故なら……
「……お前のせいだ」
仁美が、ゆっくりと立ち上がる。およそ表情と呼べるものが、彼女の顔つきには存在していなかった。虚無という言葉が、真理の脳裏を掠める。
「お前のせいで、先生が……私の先生が…………」
仁美の姿が、怪人へと変わっていく。皮膚の内側から膨らむようにして現れる、薄紅色の表層。無数の傷が、今は口ではなく渇いた涙の筋に見えた。
「先輩……」
「せめて、お前だけでも殺さないと、私の気が済まない」
真理は、完全に気圧されていた。自覚はないが、罪の意識が心の中で少しずつ積み上げられていく。こんな状況を招いてしまったのは、自分なのかもしれない、と。
危機感が臨界を超えて、現実そのものさえ揺るがしている。今ここで彼女に殺されることが、贖罪であり必然なのだと、状況だけを鑑みて判断してしまう。
そこに、真理の思考が介入する余地はない。
「一思いに殺せばよかったんだ。時間をかけようとしたから、先生が死んだ。そうやって殺したいと思ってしまうほど、お前の罪は深い」
呪詛めいた言葉を連ねながら、怪人となった仁美が真理に迫る。素早く地面を蹴る足音が、連続して響く。
素早く? 連続して?
その音の主は果たして、仁美でも真理でもなかった。
視界の隅から飛び込んできた人影が、怪人に横から体当たりを仕掛けた。
周囲に気を配る余裕がなかったのか、怪人は容易くその勢いに負けて倒れる。
――誰……?
一瞬の出来事に、真理の思考が蘇った。
そこに立っていたのは、
「要、君?」
「岸谷さん……」
要眞澄が、そこにいた。
○
眞澄は思う。
どうしてこんなことになっているのか。
自分はただ、岸谷真理と話がしたくて、彼女を追いかけていただけなのに、いつの間にか役者が増えている。
そして彼は今、異形の姿となった感染者と対峙している。
最初は、フェンスの向こう側からグラウンドの様子を窺うことしかできなかった。真理はどうやら知人と会うために外出したらしい。
それだけならば、自分がわざわざそこに首を突っ込む必要はない――はずだった。
だが、その知人は感染者だった。昨日の放課後、黒い感染者を抱えて姿を消した、もう一人の感染者だ。
それを目撃してなおも、眞澄は動けなかった。明らかに感染者は真理の命を狙っていたのに、戦うという選択肢を取れなかった。
ただ、感染者の異形の姿に、身が竦んでしまっていた。
その後の展開が、眞澄を更に驚かせた。
もう一人の感染者が現れて、真理のことを庇った――少なくとも、眞澄の目からはそう見えた。
その光景が、強く目に焼き付いて離れなかった。
まるで、本当にそうするべきは自分だったのではないかと、語りかけられているような気さえした。
考えすぎだということは重々承知してはいるが、何か、使命に似た何かを、託された。そんな光景だった。
思考するよりも早く、眞澄は駆け出していた。フェンスの扉を開け、異形へと全速力で突っ込んだ。
その後どうするかなど、何も考えていない。
だから今、考えなければならなかった。
「要、君?」
振り向くと、半身を起こした状態の真理がこちらを見上げていた。足首や頬の傷が、眞澄の心を痛めた。
何故もっと早くに駆けつけなかったのかと、過去の自分を殴り飛ばしてやりたくなる。こんな仕打ちは、あまりにも理不尽だ。
「岸谷さん……」
彼女のすぐ手前に、もう一人の感染者――黒い異形の姿を持つ男が倒れている。恐らく、もう命はないのだろう。腹部を貫いた傷口からしても、明らかなことだった。
その傷は、真理を庇って受けたものだ。この感染者が何者なのか、何を思ってそんな行動に出たのか、眞澄には知る由もない。
「お前は、誰だ」
異形が、およそ人間とは思えない動きで立ち上がった。まるで仰向けに倒れる行為を逆再生したかのような、吊るした糸で引っ張り上げたような動きだ。
「どうして、私の邪魔をする……」
それが独り言なのか、眞澄に向けてのものなのかはわからない。だが、殺気だけはぴりぴりと空気を震わせている。
「どうして邪魔をする!」
傷だらけの異形――人間でいうところの両目にあたる個所の傷が、かっと開かれた。どろどろした深い赤色が、脈打つように蠢く。更に、両手首の傷から、カッターの刃のようなものが飛び出した。どうやら、カッターナイフを取り込んだ感染者らしい。
「私は、その女を殺す……絶対に殺す、殺さなきゃいけない!」
「そんなことは、させない」
自然と、そう言葉を返していた。
――そうだ
眞澄の心に、火が灯った。小さな火は少しずつ燃え広がり、彼の闘志へと変わっていく。
「要君、危ないよ」
「大丈夫だよ、岸谷さん。俺は、戦えるから」
――彼女が殺されたら、話をすることもできないじゃないか。
「邪魔をするなら、お前から殺す! お前を殺して、真理を殺す!」
「だから言ってるだろ、させないって!」
眞澄は、覚悟を決めた。
――彼女を守るためには、あいつを倒さなくちゃいけない。
――俺は決めた。彼女を、真理を守る。
――あいつを倒す。この手で、倒す。
眞澄の中で、改良されたMファージが覚醒する。彼の心に生まれた決意を助長させ、鎧を精製する糧とする。
改良Mファージの稼働率が臨界に達した瞬間、眞澄は叫んだ。
「人核装甲、暁!」