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贖罪装甲  作者: 饂飩粉
第一章:胎動する黒き鎧
2/22

異変

 ○


 金子時貞の生活は、大学を卒業した後も大して変わらなかった。

 就職先は、大学卒業時までアルバイトしていた家庭教師派遣会社だ。これからは、大学の代わりに会社に行く。社会人としてのマナー研修や、報告書作成のためだ。そして夕方からは、アルバイトの頃と同じように教え子の家を訪ねる。ただし、服装はスーツで。

 一つ変化があるとすれば、自由な時間がほとんど取れなくなったことだ。

 アルバイトしていた頃と比べ、教え子の数も仕事の量も増えた。一人一人のことを、常に考えていなければいけなくなった。それがたとえ休日であってもだ。

 彼の担当は三人いた。三人とも週二回ずつで、本社から直帰できるのは水曜日だけ。教え子は中学生が二人と、高校生が一人。中学生はそれぞれ英語と数学。高校生はその両方を週一回ずつ。学年も、学力も、バラバラだった。

 初めのうちは、常に手帳を確認しなければならないほど焦っていた。だが入社前研修などもあり、二ヶ月経った今では随分と慣れてきた。

 そう、慣れてしまった。

 疲れを取るためには、休めるうちに休んでおかないといけなくなった。体が、何もしなくていい時には勝手に眠りにつくようになった。

 休日など、有って無いようなものだ。

 おかげで、学生の頃から付き合っていた彼女とも別れた。原因は、一ヶ月以上二人の時間がとれなかったからだ。そのせいで彼女が泣きながら怒り、イライラしていた時貞の方から別れを切り出した。

「これ以上寂しい思いをしたくない」

 彼女が最後に電話で告げた言葉は、今も時貞の心に残っている。

 こっちは、寂しいと思う暇すらなかったというのに。

 休みがなかなか取れない仕事に就くことになるとは、予め言っておいた。言ったときは、彼女も承知していた。だというのに、結局彼女は耐えられなかった。

 だが、彼自身は彼女に耐えてほしいと思っていたわけではない。あの頃は本当に忙しくて、彼女からのメールを返すのも億劫なほど忙しかったのだ。

 それでも、別れたときは傷ついた。その夜は酒を浴びるように飲んだ。翌日は、二日酔いのまま普段通りの仕事をこなした。

 どうして自分だけ、こんな理不尽な目に遭わなければいけないのだ? 少なからず、そう考える日々が続いた。他にも自分と同じような、もしくはより酷い境遇に立たされている者はいるかもしれない。彼には、そんなことを確認する余裕すらなかった。

 時貞は、イライラすると爪や鉛筆の尻を齧る癖があった。幼い頃からの癖で親にも咎められたものの、一人でいるときはつい齧ってしまう。彼はスーツのポケットに、いつも新品の鉛筆を一本忍ばせている。職場でイライラしたときは、トイレに駆け込んで一頻り齧ることもあった。前の彼女も、こんな癖を知っていたら早々に幻滅していただろう。

 正直、仕事は辛かった。働くことがこんなに辛いのなら、何故大学はあんなにも自由なのだろうか。大学生と社会人との間には、あまりにも大きな溝がある。その溝を飛び越えたつもりが嵌ってしまい、身動きがとれずにいる者が恐らく大勢いることだろう。時貞も、その例に漏れない。精神は、現実によって蝕まれ、腐っていく。

 それでも彼は、仕事を続けた。

 辛すぎる仕事にも、唯一の安らぎがあった。

 それは、木曜日と日曜日に必ず訪れる。それがなければ、近いうちにでも退職届を提出していたことだろう。

 今日は木曜日だ。彼女に会える。そのことだけが、時貞の原動力になっていた。

 夕刻、意味の無い会議や一通りの報告書作成を終えた時貞は、浮かれ気味に会社を後にした。

 向かう先は、教え子の待つ家だ。東西線南砂町駅から徒歩十分ほど。元八幡神社を過ぎて、荒川の河川敷に続く一本道を脇に逸れたところに、目的地の一軒家がある。

 家の前で、時貞は腕時計を確認した。午後六時十五分。少し早いが、インターホンを押す。ドア越しに「はーい」と快活な返事が返ってくる。

 ほどなくして、ドアが開けられた。玄関から、少女が顔を覗かせる。高校生だが、まだ顔に幼さが残っている。自宅だからか、肩まで伸びている髪はヘアゴムで一つに括られている。

「こんばんは、金子先生」

「こんばんは、真里ちゃん」

 二人の挨拶は、通例となっている。少女――岸谷真里がドアを更に開けて、時貞を促した。

「お邪魔します」

「じゃあ、私先行ってますね」

 真里は玄関横にある階段を上っていった。彼女の部屋は、二階にある。

 時貞が玄関に上がると、廊下の先の居間にいた真里の母親と目が合った。軽い会釈を済ませて、真里の後を追う。

 これから、二時間だ。二時間だけ、彼女と二人きりでいられる。そう思うだけで、疲れ切っているはずの時貞の足取りは、軽くなった。


 真里の部屋は、良くも悪くも清潔でシンプルだった。いつ来ても、モデルルームのように整然としている。勉強机も、ベッドも、クローゼットも、新品同然だった。

 ゆえに、生活感はあまりない。

「いつ来ても綺麗だよね、真理ちゃんの部屋は」

「人が来るってわかってるときは、お掃除してますから」

 机に向かって待っていた真里は、得意げに笑う。時貞も、彼女の前では自然に笑うことができた。

「それじゃ、始めようか――と、その前に」

 時貞は手にしていた鞄から、新品の数学問題集を取り出した。彼女の学力に合わせて、彼自身が選んだものだ。

 他の二人の教え子には会社指定のものを解かせているが、正直あの問題集はあまり出来のいいものとは言えない。掲載されてる問題の難易度や順番、解答の分かりやすさなど、問題集の基準は挙げていけばきりがない。

「え、でもまだ前の問題集終わってないですよ?」

「大丈夫。今日から勉強する単元は、こっちの問題集の方が分かりやすいから」

 時貞は問題集の、予め付箋を貼っておいたページを開く。真里の勉強机の上に置き、それまで使っていた問題集は回収する。

「まずは例題から。頑張ってみて」

 新しい単元であっても、最初は自力で解かせてみる。それが時貞のやり方だった。最初は様子を見て、どう教えていこうかを考える。手取り足取り教えることで身につくタイプの子もいるが、それは学校の教師の役目だ。家庭教師は一対一による指導が強みだが、二人三脚というわけではない。

 五分経過しても、真里の握ったシャーペンは止まったままだった。

「ごめん先生、全然わかんないです……」

 真里は申し訳なさそうに頭を掻いた。

「いいよ別に。何もわからなかった?」

「……はい」

 彼女の返事に、時貞は苦笑した。これが他の教え子なら溜息の一つでもくれてやるのだが、彼女の場合は別だ。

 全くわからなかったのであれば、手取り足取り教えていく。

 そうなるように、時貞はわざと難易度の高い問題集を選んできた。案の定、彼女には少し難しかったようだ。時貞は、彼女の視界の外で笑った。丁寧に教えていく方が、彼女との会話が増える。


 勉強は、滞りなく進んだ。問題集は予定していた分を終えることができたし、真里は教えたことをちゃんと吸収してくれたようだった。

 順調に進んだため、時間が少しだけ余る。

 時貞はこういう時間を使って、次に進むのではなく雑談をすることにしている。こうしたコミュニケーションは、教え子たちのモチベーションにも大きく関わってくる。

「真里ちゃん、最近学校はどうなの?」

「それ、お母さんにも言われます。特に何もないです」

「本当に?」

 時貞はおどけてみせる。

「本当です」

 椅子の座席ごと回転しながら、真里は笑う。

「じゃあ、部活動の方は?」

「部活じゃなくて、同好会です」

「そうだったね。で、なんて名前の同好会だっけ?」

「それは……」

「それは?」

「アニメ・漫画同好会、です……」

 真里は恥ずかしそうに呟く。時貞は、思わず吹き出した。

「もう、覚えてたくせに」

「ふふ、ごめんごめん」

 このやり取りも、幾度となく繰り返してきたことだ。

 実は、一見モデルルームのように清潔な彼女の部屋には、大量の漫画やアニメのDVD(それを見るためのポータブルプレーヤーも)が隠されている。

 そういったものを好ましく思っていない母親に内緒で集めているのだという。だから彼女は、母を部屋に入れないために、洗濯物は自分で畳むし、掃除も毎週行っている。早寝早起きは当たり前で、新番組の深夜アニメはネット上での公式無料配信と、友人が録画したものを一緒に鑑賞するのだという。

 時貞はアニメなどに特に関心はなかったが、優等生そうな彼女の、意外な一面として好感が持てた。時々、オススメされたDVDをこっそり貸してもらったこともある。内容はハッキリ言って時貞の好みには合わなかったが、彼女と共通の話題を作れたことが嬉しかった。

 時貞は、真里に惚れていた。付き合いたいと願っていた。朗らかな彼女の微笑みは、彼の疲れを癒してくれる。あどけなさの残る顔に反して、体つきはかなり大人びていた。本人は体重を気にしているらしいが、彼女の大きな胸は魅力的だ(さすがに面と向かって言うわけにはいかないが)。

「真里ちゃんはさ、好きな人とかいないの?」

 自分でも驚くほど、自然と口にしていた。普段の彼なら、こんな大胆な真似は絶対にしない。今この瞬間も満たされているというのに、わざわざそれを壊しかねない質問など。

 真里は耳を疑ったかのように、「えっ?」と聞き返してくる。

「真里ちゃんも高校生でしょ。友達と恋バナとか、しないの?」

 時貞は、激しくなる鼓動を悟られないよう、表面上は冷静さを保っていた。本心を気づかれないように、ただなんとなく聞いてみただけ、という風を装うために。

 しかし、彼女の反応は意外なものだった。

「…………」

 真里はあからさまに顔を赤らめて、沈黙してしまった。

「ど、どうしたの? もしかして聞いちゃマズかった?」

 時貞の心が、不安と期待の間を行き来する。

 静寂は、永遠のように感じられた。

「それは、その……まだいるとかいないとか、そういうのじゃなくて……気に、なってる人なら……はい」

「同じクラスの男子とか?」

 時貞は、更に一歩踏み込んだ。そこで話をやめておけば、曖昧にしておけば、変わらない日々を送れる。

 だが、いつまでも様子見しているわけにはいかなかった。彼は本気で、真里のことを愛していた。まだ触れてすらいない、しかし言葉で語り尽くした彼女のことを。

 彼の問いに、真里は――小さく頷いた。

 その小さな動作は、時貞を深い闇に引き摺り下ろすには十分すぎるほど重たい行動だった。

「あの、普段はあまり話さないし、その人自身他人を避けてるっていう感じで……でもなんか、こう、気になっちゃって」

 真里が精一杯自分の恋愛事情を語っているのに、言葉は一つも頭に入ってこなかった。時貞の脳内では、彼女の頷きが何度もフラッシュバックしている。繰り返される度に、心が沈んでいく感覚に襲われた。事実、沈んでいるのかもしれない。

 時貞が持っていた、たった一つの心の支えが崩れた。

 それは元から、仮初の支えだった。

 ――もしかすると、真里ちゃんは僕に気があるのかもしれない。どうしようもなく、自分にとって都合の良いだけの考えでしかなかった。

 何故、今日という日に自分はわざわざその支えを確かめるような真似をしてしまったのか。時貞自身にもよくわからなかった。特別自信があったとか、何か後押しがあったとか、そういうわけではない。

 だが、確実に変化は起こっている。そうとしか考えられない。時貞は、己に起こった変化を恨んだ。

「先生、どうかしました?」

「あっ、いや、なんでもない。なんでもないよ」

 真里の言葉に、時貞は我に返った。彼女は、何も気づいていないようだった。時貞も、気づかせる必要はないと悟った。自分の単なる失恋に、意中の彼女を巻き込むわけにはいかない。

「本当ですか? 顔色、悪いみたいですけど……」

「ええと、実は……トイレをガマンしててさ。借りてもいいかな?」

 時貞は、咄嗟に嘘で誤魔化した。真里は疑いもせずに、ほっとしたようだった。

「それぐらい言ってくださいよー。二階のトイレはこの部屋よりも奥にありますから」

「ありがとう。ちょっと行ってくる」

 足早に真里の部屋を後にし、時貞はトイレに駆け込んだ。便器の蓋を開け、喉を逆流してくるものを全て吐いた。吐きながら、その場に膝をついた。

 おかしい。心の支えだったとはいえ、言ってしまえばたかが失恋だ。時貞は混乱していた。

 吐瀉は断続的に、三回も続いた。しかしそれが終わっても、落ち着いてなどいられなかった。

 病気か何かにかかってしまったのだろうか。明日は病院に行くべきか。そんなことを考えている間も、真里の小さな頷きが脳裏から離れることはなかった。

「くそっ……くそ、くそ、くそっ!」

 努めて小さな声で、時貞は吐き捨てる。

 自分自身のことが、まるで把握できない。時貞は、自分が誰かに操られているのではないかと疑った。

 しかし、確かめることはできない。少なくとも自分のあずかり知らぬところで、金子時貞という人間に何らかの変化があった。それが無性に許せない、腹立たしい。

 無意識のうちに、彼はスーツの裏ポケットから新品の鉛筆を取り出していた。先端を奥歯で齧る。少しずつ食い込んでいく手応えを感じる。いつもなら、これである程度は冷静になれた。だが今回は、事情が違った。

 時貞は、徐々に顎に込める力を強めていく。木製の鉛筆が、みしみしと音を立てる。

 限界は、容易く訪れた。時貞は、鉛筆を噛み砕いた。破片が飛び散る。口の中に木片が刺さって、血が滲む。何をしたのか、時貞自身よくわかっていなかった。

「あっ」

 慌てて彼は、トイレの床に散らばった破片を拾い集めた。口の中に残ったものも、全て吐き出す。

 そこで、奇妙なことに気がついた。時貞は、手に持ったままの鉛筆の残骸を見つめる。先端が砕けていること以外に、一つだけおかしな点がある。

 鉛筆には、芯がなかった。本来芯があるはずの部分は、空洞になっている。もう一方の残骸を見ても、やはり芯は入っていない。

 時貞は、この鉛筆をポケットから取り出したときのことを思い出そうとした。だが、無意識のうちのことだったので芯など確認していない。逆に、購入したときはどうだったかとも考えた。ケースに入っていたものなので、不良品がたまたま紛れ込んでいただけなのかもしれない。だが、そんなことが有り得るだろうか?

 時貞は首を横に振った。疲れているのだと、自分に言い聞かせる。やはり明日は休みをもらって、病院に行こう。

 立ち上がると少しだけ目眩がしたが、先ほどよりはずっと楽になった。

 トイレから出ると、真里が廊下で出迎えてくれていた。吐いたことがばれたのかと時貞は焦ったが、それは杞憂に終わった。

「先生、もう時間ですよ」

 彼女は携帯の画面を見せてきた。八時半を少し回っている。時貞のシフトは、六時半から八時半の二時間だ。

「ほんとだ。ごめんね、さっきは変なこと聞いちゃって」

「えへへ、そんなことないです。先生に言ったら、少しだけ楽になりました」

 どうやら、誰にも相談していなかったことらしい。時貞は、彼女の初めての相談相手だったわけだ。複雑な気持ちになったが、今は笑顔を返すことができた。

「そっか。僕でよければ、いつでも話を聞くよ」

「はい、ありがとうございます」

 真里も、恥ずかしそうに笑う。

 時貞は、今度こそ少しだけ気が楽になった。

 彼女には、気づかれていない。彼女が知らずにいれば、こうした笑顔を向けてくれる。そう考えるだけで、失恋のショックが和らいだ。

「じゃあ、今度は日曜日。英語の授業でね。単語テストもするけど、勉強はしてる?」

「も、もちろんです!」

 時貞は、彼女がまだ勉強していないとわかったが、それ以上口にすることはなかった。真里は英語が苦手だと言っているものの、なんだかんだ酷い点数はとらない。

「期待してるよ。それじゃあ、また」

「あ、玄関まで送ります」

 宣言どおり玄関までついてきた真里がドアを閉めるまで、時貞は彼女に手を振り続けた。

 そしてドアが閉まり、鍵のかかる音がした。

 これも幾度となく繰り返してきたやり取りなのに、時貞にはそれが拒絶の意思の表れのように思えた。

 心に圧し掛かるかのように、重たく、響く。もう二度と、これまでと同じようにあの扉を開けることはないのだ。

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