刃の行方
恐怖を覚えた真理は、反射的に後ずさった。彼女の頬を、何かが掠める。
次の瞬間には、目の前から仁美の姿が消えていた。
代わりに、そこには怪人がいた。放課後、学校を襲った黒い怪人ではない。確か、その怪人を担いで何処かへ消えてしまった方だ。
薄紅色の全身には、大小数多の傷が走っている。それらは無数の口のようにぱっくりと裂けていて、呼吸するかのように脈打っていた。怪人が翳している右腕の手首――そこにも横一文字の傷口があり、中から銀色の刃が腕に沿うように飛び出していた。真理にはそれが、巨大なカッターの刃に見えた。
真理の頬から、思い出したように一筋の赤い線が走る。触れると、チクリと痛んだ。何か鋭いもので切られたようだった。傷は浅いが、先の方からぷっくりと血が浮き出している。
その僅かな痛みが、一瞬呆けていた彼女のことを現実へと引き寄せた。
しかし、声が出ない。体も動かない。目の前にいる怪人が現実だとするなら、先ほどまでいた仁美は何処に行ってしまったのだろうか。
「……真理、お願いだから避けないでくれ」
怪人の口――人間で言う"口"に相当する部分に走る傷が、生き物のように開く。そこから発せられた声は、仁美のものに相違ない。
「え、あ、そん……な……」
「そうだよ真理。私は君の先輩である北条仁美だよ。だから私の言うことを聞いてくれないか?」
いつも通りの仁美の口調で、怪人が言う。
だが、真理には到底目の前の怪人が仁美であるとは思えなかった。少なくとも、仁美はこんな暴力を振るおうとはしない。
「次は避けないでくれ。さっさと殺されてくれ、真理」
――仁美先輩は、こんなことを言わない……。
怪人の腕が、振り下ろされる。真理はまた反射的に一歩後退する。風を切る音と共に、怪人の右手首から伸びた刃が彼女の足元に突き刺さった。ぎらりと光る刃に、真理は怪人の殺意を本能で理解した。
「嘘、こんなの…………」
昨日の放課後とは、危機感がまるで違った。あのときは悲鳴こそ上げたが、現実離れした光景に多少なりとも感覚が麻痺していた。自分が狙われているわけではなかったようだし、一枚のガラス板を挟んだ向こう側の出来事として捉えていた。
しかし今は違う。間違いなく自分はその光景の中に閉じ込められ、命を狙われている。訳のわからぬまま仁美はいなくなり、代わりに怪人が現れた。
怪人が、地面に突き立てた刃を抜いた。
「先輩、先輩は……何処……せん、ぱい…………」
「…………」
刃を振るう代わりに、怪人は大きく溜息を吐いた。
そして、仁美が目の前に現れた。
真理の祈りが通じた――否、そうではない。
「もう一度こうしないと、私だと信じてはくれないようだね?」
仁美は、怪人の内側から現れた。まるで彼女の全身を、怪人の皮が覆っていたかのように。その皮は、仁美の体の内側に吸い込まれるようにして消えていった。真理は、確かにその目で見た。
その姿は確かに仁美だったが、真理の知る彼女ではなかった。口調も表情も同じだが、先ほど感じ取ったものと同じ殺意が見え隠れしている。
「真理、君にはもっと苦しんでもらいたいんだ。苦しんで、苦しんで苦しんで苦しんだ挙句、自分自身を呪うほどの絶望の中で……」
ぎゅるり――歪な音と共に、仁美の内側から怪人が現れ、彼女を包み込んだ。
しかし、それこそが仁美本来の姿のようにも思えた。
仁美は、怪人だった。傷口が蠢く。
「――死ね」
瞬間、真理はバランスを崩した。怪人が何かをしたようには見えなかった。ただ、腕が少しだけ動いたような気がしただけだ。
「痛っ!」
だが、彼女の足首には、頬に受けたものよりもずっと深い切り傷が出来上がっていた。血が靴を染め上げ、地面を濡らしていく。斜めに走った傷は、立ち上がろうとして踏ん張ると変な方向に歪み、より痛んだ。まるで傷が「立ち上がるな」と叫んでいるかのようだった。
「存分に苦しんでくれたまえ。すぐには殺すつもりはないからね」
真理は今度こそ動けなくなった。腰は抜けてしまい、両手で上体を支えているのがやっとだった。その腕も、いつまで保てるかわからないほど震えている。
何故? いつから? 頭の中で、疑問が浮かんでは消えていく。声に出す余裕など、既に彼女にはない。
怪人の左手首からも、巨大なカッターの刃がカチカチと音を立てながら伸びてくる。
「まずは、そうだな……腕を――」
真理はぎゅっと目を閉じた。現実から逃れようとするかのように、ありもしない助けを求めるために。
「やめろ、仁美」
その声は、まるで真理の助けが引き寄せたかのようだった。
「……約束の時間には、まだ早いですよ」
「やめるんだ。どんな理由があっても、彼女を傷つけることは絶対に許さない」
「…………」
「僕が迂闊だった。あのとき、正体が君だと気づいていればよかったんだ」
「……もし気づいていたら、あのときどうしていましたか?」
「君を殺していた」
いつまで経っても、真理に対して兇刃は振るわれなかった。それどころか、懐かしい声さえ聞こえてくる。
痛みもなく、一瞬であの世に行ってしまったのだろうか――そんな考えが過ったが、真理は瞳を開けることができた。まだ、生きている。
「――即答するんですね、先生」
怪人が、仁美の姿に戻っていた。それどころか、視界にはもう一人の人物がいた。
「先生……?」
真理は思わず呟いていた。
金子時貞が、仁美と対峙するかのように立っている。
その目つきは、今まで真理が見たことがないほど鋭い。家庭教師として真理を叱るときでさえ、あそこまで敵意に満ちた目つきにはならない。
しかし、真理とっては不可解な光景だった。目の前似るのは二人とも真理のよく知る人物だが、二人に接点があるとは思えない。しかし、先ほどの会話は互いをよく知る者同士のそれであった。
「先生、酷いですよ……」
そう言ったのは仁美だ。彼女もまた、先ほどから時貞のことを先生と呼んでいる。
仁美は肩を震わせながら、左手首の腕時計を外し、服の袖を捲った。袖の中から現れた彼女の腕を見て、真理は小さく悲鳴を上げた。時貞も、顔を顰めている。
彼女の腕には、手首から肘にかけて、無数の傷が縦横無尽に走っていた。肘で一旦途切れた傷達は、袖の隙間から見える二の腕にも及んでいる。
「先生と別れてから、ずっと、ずっと寂しくて……私、確かめずにはいられないんです……本当に寂しければ、自分を傷つけられるだろうって……そしたら、こんなに…………」
「仁美」
「先生、どうして私と別れたんですか? 私、何か悪いことしましたか? 私のこと、嫌いになっちゃったんですか?」
仁美は泣きながら、時貞に訴えかけた。顔を顰めていた時貞は、黙ってそれを聞いている。
「あのとき怒ったことなら、謝ります。もう絶対、泣き散らしたりしませんから、私と、やり直してください……」
二人の会話は、聞いているだけの真理にとって甚だ信じられる内容ではなかった。とても横から口を出せる状況ではない。
真理はこっそりと、足を引きずりながら腕の力だけで距離をとった。
――仁美先輩と金子先生が、付き合っていた?
しかも既に別れており、仁美は寄りを戻そうとしている。だが黙っている時貞の様子からして、それは叶いそうにないのがわかる。事情を知らない彼女には、どうしようもない。
「それは、できない」
「――」
仁美は何か反論しかけて、嗚咽を漏らした。膝を折り、顔を両手で覆う。
真理も時貞も、彼女が一しきり涙を流すのを、見守ることしかできなかった。失礼だと思いながら、真理は初めて仁美のことを哀れに感じた。彼女と知り合ってからほんの二ヶ月しか経っていないのに、深く分かり合った仲だと思い込んでいた。
「仁美先輩……」
「黙れ」
泣き終わった頃を見計らってかけた声は、冷徹に撥ね除けられた。それが、先ほど殺意を向けられたこと以上に、真理の心を穿った。
「ねえ、先生。あいつがいなくなればいいんですよね……」
ゆらりと、仁美が立ち上がる。その姿が、次の瞬間には怪人へと変貌した。傷だらけの体が、真理の方に体を向ける。背筋に、ぞっと怖気が這い上がってきた。
「やめろと言ったはずだ。そんなことをしても、何も変わらない」
「変わりますよ。先生はそれが少し怖いだけなんです」
「仁美」
仁美――怪人は時貞の呼びかけに応じずに、真理に向かって走り出した。ゆっくりと確実に稼いでいた距離が、あっという間に貪られてしまう。
「これ以上、私と先生の邪魔をするな!」
腕の長さほど伸びた刃が、真理の首を目がけて振るわれる――が、何かがそれを遮った。
思わず目を伏せていた真理が恐る恐る顔を上げと、そこには……
「あ……」
そこには、もう一体の怪人がいた。全身が、艶のない黒い岩のようなもので覆われている。
それは、間違いなく昨日の放課後に学校を――眞澄を襲った怪人だった。
「やめろ、仁美!」
「!!」
怪人から漏れる声はくぐもってはいるものの、誰のものかはっきりとわかった。視界から、時貞の姿が消えている。
「先生、なんですか……?」
取り乱すことはなかったものの、さすがに驚きは隠せなかった。黒い怪人の正体は、時貞だった。彼が、仁美の刃を腕で受け止めている。
「真理ちゃん、大丈夫かい?」
黒い怪人――時貞の向けた顔は、岩肌のように隆起していた。表情は読み取れないが、そこには不思議と温かさがあった。真理は全力で頷いた。
「先生……どうして! どうしてそいつを選ぶんですか!」
「そういうことじゃない」
「なら、そんな奴庇う必要なんて!」
「そういうことでもないんだよ、仁美」
「っ……!」
怪人――仁美は時貞の腕を弾くように、もう片方の腕を振るう。怒りに任せた斬撃が、時貞の腕を舐めたが、黒い表層には傷一つつかなかった。
「先生、どいてください」
「断る」
「なら、仕方ありません……」
仁美の右手首の傷に、刃が引っ込んだ。
代わりに、右手そのものが、一つの巨大な刃へと変貌した。内側から突き破るようにして現れた刃は、カッターというより出刃包丁に近い形状をしている。自らの血に塗れて、ぎらぎらと日光を照り返している。
「許してください、先生――!」
仁美が、時貞に向けてその刃を突き刺す。
「ああ。それくらい、いくらでも許すよ。仁美」
「!?」
仁美の刃が、黒い岩肌に触れんとする刹那。
時貞を覆っていた黒が、彼の内側へと吸い込まれた。
人間の姿に戻った時貞の背中から、仁美の突き刺した刃が飛び出す。
その拍子に飛び散った鮮血が、真理の頬を打った。
「嘘……」
仁美もまた、人間の姿になる。時貞を貫いた刃も、彼女の内側へと帰っていく。
「君と、別れたのは……僕が、小さなことで、苛立って、いたからだ……」
時貞が咳き込みながら、言葉を紡いでいく。
「だから、真理ちゃんのせいじゃない。でも、君には申し訳ないことをした。僕の方こそ、謝るよ――」
そのときの彼がどんな表情をしていたのか、真理には窺い知れない。
やがて支えを失った時貞は、人形のように倒れた。
血が、止まらない。
腹部から、時貞の服を赤が浸食していく。背中から流れ出る血は、真理の足を伝っている。
「いやああああああああああああああああああ!」
仁美の絶叫が、殺風景な檻の中で響き渡った。