檻の中
○
眞澄との電話を一方的に切った如は、早くも後悔し始めていた。
彼を励ますつもりで、背中を押してやるつもりで言ったのだが、ちゃんと伝わっているかどうかが不安でならない。
歯がゆさを露にしながら、如は晴香に携帯を返した。『アンチドゥーム』関東支部のマンション、五〇一号室には、二人以外の気配はない。
「眞澄君なら、きっと大丈夫」
携帯を受け取った晴香の笑みは、まるで子を見つめる母親のように穏やかだった。
「蒲生、総司令官……」
「眞澄君は大丈夫。中途半端な答は、絶対に出さない」
「そう、ですかね」
如は素直に肯定できなかった。眞澄の自信を、支えを砕いた一因は、自分にもあるからだ。彼の挫折を目の当たりにしたからこそ、如は後悔しているのだ。晴香には深夜のうちに、それも含めて報告したのだから、知っているはずだ。
だが晴香の表情も、言葉も、揺らいでいるようには見えなかった。
「少し考えすぎちゃうところはあるかもしれないけど、きちんと決められるわよ。私は信じてる」
「信じてるって、それが根拠ですか? らしくないですよ、なんか」
「たまにはいいの、たまにはね」
晴香はコーヒーに口をつけた。長電話したせいか、すっかり冷めてしまっている。
「あ、そういえば」
如が思い出したように言った。
「どうかしたの?」
「眞澄が今どこにいるのか、聞きそびれちゃいましたね」
「あなたがそれを聞く前に切っちゃうからでしょ」
「わ、私のせいですか?」
「そうは言ってないわよ」
晴香の言葉に、遠回しの非難は感じられない。如はどうしたものかと頭を捻った。確か、電話越しに電車の来るときの音が聞こえた。彼はどこかへ向かっている最中だったに違いない。そしてそこは少なくとも、此処ではない。
「あ……」
如は閃いた。と言うより、自分の都合の良いように仮定を推し進めていった結果、一つだけ思い当たる場所を見つけた。
眞澄と一緒に行くはずだった場所――
「ちょっと、出かけてきてもいいですか?」
「いいわよ。今は、何もすることがないから」
晴香は即答した。が、如にはそれが嘘だと分かった。二人を除く『アンチドゥーム』の人員は、現在寝る暇も惜しんで感染者や真田蓮の居場所を突き止めようと奮闘している。二人に残された休憩時間も、あと僅かしかない。
だが如は、晴香の言葉に甘えることにした。万が一という可能性も捨てきれない。事実、昨日の感染者は白昼堂々現れたのだ。眞澄一人で対処できるはずがない。
如はすぐに支度を始めた。正直言って、昨日は連続で人核装甲を用いたこともあり、肉体も精神も限界に近い。それでも、眞澄のことが心配だった。
「あなたも、気をつけてね」
「司令官、なんだかお母さんみたいですよ?」
ほんの些細な軽口のつもりだったが、晴香の動きがぴたりと止まった。人形のようにぎこちない動作で、顔が如の方に向けられる。
「それ、どういう意味かしら?」
笑顔が怖い。
「い、行ってきます!」
如は逃げるようにして、マンションの外に出た。
――ああ、意外と年齢気にしてたんだ…………。
金輪際、晴香の前でそういった話題を振るのはやめようと、如は誓った。
○
決意を新たにした眞澄だったが、些細な眠気にすら抗えなかった。電車に揺られながら、目的の駅を二度も寝過してしまうという失態だ。
蓮を呼ぶために、何度も人核装甲を装着したのがまずかった。自分が情けない。
結局、真理の家の最寄り駅である南砂町に着いたのは、正午を回った頃だった。最初の電車に乗ったのが午前十時ごろのものだったので、少なくとも一時間は惰眠を貪ったことになる。
しかしそのおかげもあってか、いくらか体調は回復していた。乗り換え時の階段の乗り降りですらきつかったのに、南砂町駅の階段は難なく上りきることができた。
まず目に広がったのは、小さな広場だった。円形の花壇を中心に、ティッシュ配りや野菜を売っている者達が目に留まる。
眞澄はそれらを無視して道なりに進んでいく。近くには遊具の豊富な公園や、背の高いフェンスで囲まれたグラウンドなどがある。しかし、昨日の事件の影響か、遊んでいる子供は一人もいない。通行人も、住宅街が近辺にあるこの辺りでは数えるほどしか歩いていなかった。
フェンスに囲まれた巨大なグラウンドに沿って歩いていると、やがて道路に面した通りに出る。道路を渡り、マンションの建ち並ぶ狭い通りを抜けると、今度は一軒家や保育園が所狭しと並ぶ通りに出た。
事故現場は、そこから更に進んだ先にある。元八幡神社の横を通り、大通りに面した十字路の交差点を渡ったすぐ先に、目当てのものを見つけた。
マンションと幾つもの一軒家に挟まれた道路。未だに車が撤去されてないのは、『アンチドゥーム』が警察側に働きかけたからだろう。おかげで、まだ周囲は黄色いテープが一般人を遮っている。『アンチドゥーム』による現場検証が完全に終わるか、事件を起こしたと思しき感染者を倒すかしない限り、通り抜けることはできないだろう。
眞澄は一応、野次馬を装って近づいてみた。近所の住人が、行く手を遮っている警察相手に文句を垂れている。その棘のある物言い一つ一つが、眞澄にも突き刺さる。
「…………」
事故を起こした車は、眞澄がやって来た方向とは反対を向いていた。そのため、前方がどのようにひしゃげてしまっているのかがわからない。
――反対側に回り込んでもっとよく見たいな……そこまで考えたところで、眞澄は本来の目的を思い出した。現場検証ではない、真理に会いに来たのだ。
待てよ、と眞澄は返しかけた踵をぴたりと止める。ここまで来たはいいが、突然家を訪問していいものなのだろうか。
眞澄は、何も考えていない自分が哀れに思えてきた。計画性がないとは、まさにこのことだろう。
とりあえず、家を探すことにする。
が、その目的は案外すぐに達成されてしまった。
封鎖された道路の反対側に回り、一軒家の表札を順番に見ていくこと三軒目。「岸谷」という名が書かれた表札が目に留まった。家探しから、十分も経っていない。結局、どうやってコンタクトをとるのかという壁にぶち当たる羽目になった。
――あ、そういえば。
嫌なことばかり思い出す。昨日の事件を踏まえて、学校側は生徒全員の自宅学習を連絡網で回すことを決定したのだ。中途半端な口実では、ろくに取り合ってもらえないだろう。
眞澄は悩んだ。晴香も言っていた。悩む自由があるのだと。
しかし、選択を決めるために必要な事――その段階でも、また悩まなければならないのか。しかも、ごく些細な問題で。
今日は土曜日だ。インターホンを押しても、他の家族が出てくるかもしれない。真理に取り合えってもらえるかもわからない。
そもそも彼女は、放課後の感染者襲来の際、眞澄の一番近くにいた。眞澄がなす術なくやられるのも、転がった死体も、恐らくは真田蓮のことも目撃している。そんな彼女に、自分は何て言えばいいのだろうか。逆に問い質されはしないだろうか。そうなれば、『アンチドゥーム』の活動に支障を来す恐れもある。
考えれば考えるほど、眞澄は思考の渦に呑み込まれていった。家の前をうろうろしていても、逆に怪しまれる。
ここにいても埒が明かないと、とりあえずの決定を下した眞澄は、一旦大通りに戻って近くのコンビニへと逃げ込んだ。何かから逃げるようにして、映画関係の雑誌を手に取る。今時コンビニに置いてあるのは珍しいものだ。
――選択、か。
雑誌には、今月公開予定の映画の紹介やレビュー記事などが載っている。時間さえあれば――普通の高校生になれれば、こういった作品を観に行く余裕もできるのだろう。
今は特に気に入った映画のソフトを買うに留めているが、いくらテレビやスピーカーなどの電化製品が進化しようと映画館の迫力には到底及ばない。ソフトで観た作品の中にも、映画館で観たかったと思えるようなものが幾つもあった。
記事には、丁度今日から公開する映画について特集を組んでいる。近年日本の映画館にも導入された、IMAXデジタルシアターでも公開されるハリウッドの超大作だ。
今ここで、『アンチドゥーム』に属することを辞めてしまえば観に行ける。わざわざ真理と会おうとする必要はない――迷っているが故に、こうして立ち往生しているのだが。
言ってみれば、真理の存在は眞澄にとって唯一の日常だった。他愛もなさすぎる話題を毎日のように振ってくるだけではあったが、思い出せるほど強く印象に残っているのは確かだ。
会って、もし会えたとして、何を話せばいいのだろうか。
眞澄はふと、外の様子を窺った。雑誌コーナーはガラス張りの壁に面しているため、少し顔を伸ばせば空模様も確認できる。
いい天気だった。ここ最近は、心地よい晴れ模様が続いている。彼女に「今日もいい天気だな」と話しかけたら、どんな反応をするのだろうか。それを試してみるのも、いいかもしれない。
ふと口元に笑みを浮かべたとき、視界の隅を誰かが通り抜けていった。
「っ!」
後ろ姿で、私服姿。しかし間違いなく、見覚えのある人物だ。岸谷真理、彼女に違いない。
眞澄は雑誌を慌ててラックに戻し、その後を追った。
○
約束の時間よりも大分早いが、真理は外出を決行した。両親が、チケットを予約していた映画を観に行くというのだ。昼食時に偶然そのことを耳にし、真理は「私は平気だから行ってきなよ」と二人を後押しした。靴を玄関からこっそり自室に運んだりといった下準備は無駄になったが、これで難なく外に出られる。
なんでも、二つ隣の駅にあるシネコンには最新の技術を用いた大型スクリーンのシアターがあるらしい。が、真理にはあまり関係のないことだ。二人の監視がなくなるのであれば、口実はなんだっていい。
居ても立っても居られなくなった彼女は、約束の時間四十分前に家から出た。正直待ち合わせ場所のA面B面は、十分あれば着けてしまうほど近いのだが、逆に仁美をあんなだだっ広い場所に待たせるのも気が引ける。待つ時間くらいは、自分が背負いたい。
会って話をするだけなので、持ち物は最低限、私服は奮発して買ったものを選んだ。
未だに車の撤去もされていない事故現場を迂回して、真理は約束の場所へと向かう。事故現場付近にいた野次馬を除けば、土曜日だというのに人通りは恐ろしく少なかった。学校で起きた事件が原因なのだろう。犯人――怪人がまだ捕まっていないという報道が、子を持つ家族を家の中に閉じ込めているのかもしれない。
案の定、A面B面の隣にある公園にも、人の気配はなかった。こんな時に父と母は映画館に行くなど、チケットを予約していたからというものの、余程観たかったのだろうか。
A面B面を囲うフェンスは、非常に高い。野球のためのグラウンドなので当然の配慮だが、入り口が一つしかないというのは些か不便だ。真理の家の方向から来ると、ぐるりと半周しないと中には入れない。
一応、網目状になっているフェンスなので、中の様子は窺える。仁美は、まだ来ていないようだった。真理はほっと胸をなで下ろし、歩調を緩めて反対側へと回った。
グラウンドは、外側から鍵がかけられている。鍵といっても、両開きの扉の一方から伸びる出っ張りに、もう一方の穴開きの板を被せているだけの簡易なものだ。
鍵を外したところで、真理ははて、と動きを止めた。
――此処って、勝手に入ってもいいところなのかな?
そういえば、少年野球のチームが野球をしている以外に、利用者がいない。普段子供たちがここでボール遊びをしている光景など、今まで一度も見たことがない。
と、真理が考えあぐねているその時だった。
ぬっ、と突然彼女の背後から両手が伸びきて、むにゅっと胸を掴んでくる。
「ひゃあああっ!」
「ふむ、いい悲鳴だ。ゾクゾクするね」
「ひ、仁美先輩で!?」
振り返ると、仁美が頬を背中に押し当てた状態で恍惚としている。胸を掴んだ手が、いやらしい動きを加速させる。
「あの、ちょっと、先輩……」
真理が羞恥に顔を染めながらもがき始めると、急に仁美の手が離れた。
「さて、スキンシップはこのくらいにして、と」
「先、輩!」
叫びながらも、真理は笑っていた。仁美とのやり取りが、ひどく懐かしく思える。電話越しでは、やはり少々物足りない。
当たり前だが、仁美も私服姿だった。思い返すと、彼女の私服を見るのは初めてだった。上は長袖のYシャツのみで、下はカーゴパンツにヒールのあるサンダル。ともすれば雑とも言われかねないシンプルな組み合わせだが、彼女は上手に着こなしている。両腕には、それぞれ腕時計と銀のブレスレットが嵌められている。
「元気そうで何よりだよ、真理」
「先輩こそ」
二人は、互いに微笑み合った。
「まあ、立ち話もアレだ。入ろうか」
「え、入るって、此処ですか?」
真理がフェンスの向こうを指さすと、仁美は大きく頷いた。
「勿論だとも。とはいえ、グラウンドにも座る場所なんてないのだがね」
はははと乾いた笑い声を上げながら、仁美は真理を、腕を組むようにして引き寄せた。そのまま、フェンスにつけられた扉を開き、中へと入る。
「ふむ、此処なら安心だ」
周囲を見渡しながら、仁美は真理を連れてグラウンドの中心へと歩いていく。四隅のうちの二つに、ファウルフェンスやベンチがある以外は、殺風景な場所だった。中にいると、まるで巨大な檻の中に閉じ込められたような錯覚に陥る。
「安心って、何がですか?」
「監視の目だよ。我々は本来自宅学習をしていなければならないんだぞ? 人目を忍ぶのは当たり前だ」
「はあ……」
そういえば、電話でも同じようなことを言っていた気がする。てっきり待ち合わせのために利用するのだとばかり思っていた真理はしかし、どこか浮足立った仁美の態度に従うしかなかった。彼女のマイペースぶりは、重々承知している。反論すればまた胸を揉みしだかれてしまう。
グラウンドのほぼ中心で、仁美は足を止めた。周りには誰もおらず、何もない。日は高く、空は青い。
仁美は真理と向かい合うようにして立っている。じっ、と真理のことを見つめている。
「き、今日はいい天気、ですね」
恥ずかしくなってきた真理は、目も話題も逸らした。
「そうだね。ピクニック日和だ。目的は違うけどね」
「目的、ですか?」
「ああ、君をここに呼んだ理由は他でもない」
仁美が一歩、距離を詰める。真理の顔を覗き込むように、身を低くしながら。
「――まずは、邪魔者から排除しなくちゃいけないんだ」
仁美の顔から、笑顔が消えた。