要奈津子 2
「だからお前も他の皆も、何も言わなかったのか」
奈津子は黙って頷く。
そこまで聞いて、蓮にもおぼろげながらわかったことがあった。
他の助手は知っていた。奈津子が教授の娘であることを。そして、奈津子だけが何の作業も言い渡されない理由がそこにあると考えているのだ。
仕事はしないけど、研究所にはいる。もし研究が成功を収めれば、教授だけでなく同じ研究所にいた全員が大きく評価されるだろう。社長の息子という理由だけで、重要なポストにつくようなものだ。
しかし、蓮はそうだと信じ切ることができなかった。
これは研究だ。成功するかどうかは、正直言ってわからない。手伝っているはずの蓮にも、今どの程度まで人工ウイルスの開発が進んでいるのかはっきりとしない。教授から渡されたサンプルは既に千を超えている。それでも、蓮を含む助手達が行う実験のどこかで必ず躓いている。あと一歩――というのも、まだない。
このまま研究が長引けば、出資者の方から援助を打ち切られてしまうだろう。そうなれば、実の娘まで巻き込んでしまうことになる。
親の過保護が理由で奈津子がこの研究所にいるとは、とても思えないのだ。
それに……
「ここに来ること、断ることはできなかったのか?」
「それは、そう……うん。できなかった、かな」
奈津子の返事は曖昧だった。
「助手のみんなは、教授のことを科学者として優秀だが過保護な父親だと思い込んでいるのかもしれない。でも、毎日一人で引きこもっているような人だ」
「うん……」
「聞かせてくれ、教授じゃなくて、奈津子のお父さんのことを」
最初、奈津子は首を横に振った。だがここまできて、蓮も引き下がるわけにはいかなかった。互いに深く踏み入らないという決まりを、気にしている場合ではない。奈津子は明らかにこの状況に苦しんでいる。それを少しでも和らげることが、できるかもしれないのだ。
なにより、事情をよく知る人間が一人でも傍にいてやれば、それが支えになる。それだけで人は救われる。
話し合いの結果、「他の皆には言わないでね」という約束の上で、奈津子は父のことを話し始めた。
奈津子から話を聞いた翌日以降も、他の者の態度が変わることはなかった。
だが蓮は、時折彼女の方を見て微笑むことにした。奈津子は、彼に普段通りの笑みを返してくれるようになった。
蓮の思った通り、奈津子の父正元は、あまり父親らしい人物ではなかった。
母は奈津子を生んですぐに他界(これは既に聞いたことがあった)し、正元は家政婦を雇い家事や育児を任せたという。奈津子の性格は、良き家政婦のおかげだと彼女自身が語った。
正元は微生物や細胞の分野に優れており、奈津子の成長を見守ることなく研究に没頭していたらしい。どうやらそこには、妻の自殺が関係しているらしい(奈津子の母の死因は、初耳だった)。
精神疾病から自殺した妻が原因で、正元は父親であることを放棄したのかもしれないと、奈津子は語った。推測の域を出ていないが、今正元が創り出そうとしているウイルスのことを考えれば、納得がいく。
――精神の病を治すウイルス。
研究に携わっている蓮でさえ、まだその言葉に現実味を感じない。生成段階には何も関わっていないためか、そうした熱意を三ヶ月以上経った今も得られずにいる。
それにしても、何故そんな父親失格の男が娘を研究所に呼び、拘束を強いるのか。目的だけが未だに不明だった。こればかりは奈津子を問い質して答えの得られることではない。教授に詰め寄ろうにも、既に一回忠告を受けてしまった手前、気が引ける。自分が追い出されてしまっては、元も子もないのだ。奈津子を一人にするわけにはいかない。
歯がゆさが残るものの、打開策は一向に思いつかなかった。現状を維持すること――奈津子の味方であることを暗に伝え続けること。それが蓮に残されたたった一つの手段だ。
誰もいないところでは、積極的に話しかけることにした。
しかし研究所の中という狭い世界では、話題を仕入れることも難しい。新聞や郵便物は、一度別の場所を経由し担当の者が此処へ送り届けるという面倒なシステムをとっているため、新聞も一日遅れでやってくる。
「今日は、いい天気なんだってさ」
蓮は貯まった給与で、小さなテレビを買った。さすがに電波は届いているらしく、久しぶりに見たニュースキャスターや芸能人の顔が妙に懐かしく思えた。
研究所には窓もほとんどない。研究室や居住空間にもなく、何処にいても閉塞感から逃れることはできないのだ。
「ほんとに? いいなあ、見たいなあ、空」
「お昼、屋上に行くか」
「え?」
「ここにだって屋上はあるよ。昇降口があるのを、今朝確かめてきた」
「本当に?」
奈津子は嬉しそうだった。ここ数日は、あまり思いつめた表情にならない。この状態が続くなら、現状維持も悪くないと、蓮は思い始めていた。
約束通り、昼食休憩の時間になると同時に、蓮は奈津子を連れて食堂を出た。廊下を居住施設に向かって進んでいき、ある地点で立ち止まる。
「ほら」
蓮が天井を指さした。白で統一された細長い天井の一か所だけが、金属の枠で小さく囲まれている。枠の中には、同じ金属色の取っ手らしきものもあった。
「あれ、開けて」
「へ?」
あんなの蓮が背を伸ばしても届かない――と言いかけた瞬間、浮遊感が彼女を包んだ。蓮がいきなり肩車してきたのだ。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて前後を見渡すが、誰もいない。ほっとしたものの、恥ずかしいことには変わりないのだが。
「いいから、早く開けて」
「あ、うん」
取っ手を掴み、強く手前に引く。手応えと共に、ガタッと音がして枠が一片を残して開いた。奥に、もう一つ正方形の扉のようなものが見える。枠の内側には、スライド式の梯子がくっついていた。それを下に伸ばしていくと、丁度先端が床にぴったりと接触した。
蓮は彼女を下ろすと、梯子を上る。奥にあった扉は、外向きに開くタイプのものだった。
ロックを外し、重い扉を持ち上げと、隙間から心地よい風が吹いてきた。眩しさに目が眩む。
「屋上だ!」
蓮はそう叫ぶと、勢いよく梯子を上りきってその先に出た。研究室の中と同様、真っ白な屋上だった。柵はない。見渡す周囲は背の高い木々がぐるりと研究室を囲うように伸びている。元より、森の中に建てた施設なので当たり前のことだが、蓮はその光景に圧倒された。
「すごーい!」
遅れてやって来た奈津子は、感嘆の声を上げた。
天気予報で言っていた通り、空は快晴だった。東京のどこかだとは言っていたので、東京の天気をあてにしていた蓮は正直ほっとした。
一面が水色の空に、綿のような小さな雲が良いアクセントになっている。雲一つないのもいいが、やはり久しぶりに見上げる空なのだから、雲ぐらいないとリアリティに欠ける。
空は距離感を狂わせる。手を伸ばせば触れることができそうだと、錯覚してしまう。そう思っている矢先に、奈津子は天に手をかざしていた。
「空、青いね」
「ああ」
これが学生時代なら、当たり前のことだと一蹴していただろう。だが今は、そんな当たり前を実感するのがとても心地よかった。
だが、昼食休憩が終わるまでには戻らなければならない。蓮たちは、屋上でのひと時を早々に切り上げて、来た道を戻っていった。空が恋しくなれば、またここに来ればいい。蓮は奈津子に、そう言い聞かせた。
梯子を下りると、ある人物が二人を待ち受けるかのように立っていた。
「……雪岡?」
そこにいたのは、蓮や奈津子にとっては後輩にあたる雪岡如だった。彼女はレポートの入ったファイルを腕に抱えたまま、しかめっ面で蓮を見据えた。
「もしかして、休憩もう終わってたか?」
如は黙って首を横に振った。その動作に、二人はほっとする。
如と蓮は同じゼミに所属していたこともあり、それなり互いを知る仲だった。何度彼女と試験勉強をしたこともある。とはいえ、蓮の方が彼女に教わっていたのだが。
「真田先輩、お話があります」
如はぶっきらぼうに言って、今度は奈津子を睨みつけた。蓮を見るときの視線と違い、明らかに鋭く、非難が込められていた。
蓮は気圧された奈津子に優しく声をかけ、先に行っているよう促した。彼女が廊下の角を曲がって視界から外れた後、蓮は再び如に向き直った。
「話をするの、ここでいいか?」
「はい。構いません」
如は軽く辺りを見回してから言った。他には誰もいない。
「それで、話って何だ?」
「…………その、真田先輩の、恋人についてです」
「奈津子のことか?」
「はい」
「それなら奈津子に言えばいいだろ」
「それは……」
奈津子についてと聞いた直後から、蓮の言葉の端々に棘が混じった。如は凄みをきかせた彼の態度に、思わずたじろぐ。
「何もないんなら、俺ももう行くぞ」
「待ってください!」
強引に彼女の横を通り過ぎようとしたとき、如が叫んだ。
「真田先輩は、どうしてあの人――要先輩と今も付き合ってるんですか!?」
そう告げる彼女の頬は赤らんでいたが、蓮は気づかなかった。
「今も、だと?」
「はい。だって、要先輩は教授の娘さんで、この研究には何も関係ないのにここにいて――」
「過保護な父親が、奈津子にも研究に携わったって事実を作るためにここに呼んだって、そう思ってんのか?」
「っ……」
図星だったのか、如は口を開けたまま、言葉を継げなかった。
「やっぱり、そんなこと考えてたのか」
蓮は苛立ちを露に、深く溜息を吐いた。
「これだけは言っておくぞ。そんな理由で、奈津子はここにいるんじゃない。絶対にだ」
「でも、そうだっていう証拠は……」
「お前らの方こそ、証拠はあるのか? 疑いだしたって、キリがねえんだぞ」
「こっちには、要先輩が何もしていないっていう事実があります。立派な状況証拠です」
「…………」
そう言われると、蓮も返す言葉がない。その理由だけが不明のままだからだ。
「だから、真田先輩も、こっちの説を信じるべきかと…………」
段々と消え入りそうになりながらも、如ははっきりとそう口にした。蓮の頭の中で、彼女と試験の勉強を――彼女に教えを乞うていたときのことが過ぎった。
「雪岡、これは試験じゃない。そういう理由で、決めつけていいことじゃねえ」
蓮は今度こそ、如の横を通過した。彼女が彼を呼び止めることは、もうなかった。