要奈津子
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起きて早々に気配のする先へ向かった蓮を待っていたのは、昨日拉致した少年だった。
学校の屋上までの道のりは、そう楽なものではない。死者の出た事件ともなれば、警察も入念に現場検証を行う。現在は立ち入り禁止状態で、事件から一夜明けた今も正門と裏門の前には制服警官が立っている。
わざわざこんなところにいるということは感染者かと思ったが、その予想は裏切られた。校舎を囲む木々の合間を縫い、学校の外壁をよじ登った見返りとしては、多少物足りなさが募る。
昨日の時点で既に分かったことだ。あの少年は何も知らない。
そして屋上に来てみても、他に誰かが隠れているとも思えない。屋上は、コンクリートがタイル状に敷き詰められてた空間が広がっているだけだ。階下に続く階段のある小屋以外には何もない。周囲を囲んでいるフェンスは、飛び降りを防止するためか途中で内側に折れている。逆に外側からよじ登る分には楽だったが。
屋上の中心に、その少年は立っていた。蓮が何かをする前から、肩で息をしている。瞳だけが真っ直ぐに蓮を見ていた。
彼が来るまでの間に何をしていたのかは、想像に難くない。蓮はますます気が重くなった。
「あまり無理すんな。敵も何もいないところでの変身は体力使うぞ」
「でも、こうしなきゃ、あなたとは会えませんから」
少年は息を荒げていた。蓮は頭を掻きながら、このまま引き返そうかと考えた。何も知らない彼が、わざわざ装甲を纏って蓮をおびき出した理由など一つしかない。
「教えてください。昔、蒲生司令長官や雪岡さんと何があったのか」
――やっぱりな。予想が当たって、今度はため息が出てきた。
「お前、そんなこと知ってどうする?」
「決めたいんです。自分の道を。これから、どうすべきなのかを」
「…………」
少年の言葉に、蓮は少しだけ驚いた。表情にも声にも出さなかったが、彼のことを少しだけ見直した。
「お前、疑ってるのか。あの二人のこと」
少年は答えなかった。だが、否定もしない。
蓮は気になった。仮に全てを知ったこの少年が、どんな道を選ぶのか。全てを聞かなかったことにするのか、絶望するのか、永遠に迷うのか。
それとも、自分と同じ道をたどるのか。
「俺が嘘を吐いているって可能性もあるぜ?」
「嘘だとしても、全ての元凶だなんて名乗りませんよ、普通は」
「それはつまり、俺が元凶だってことも疑ってるってことか?」
「半信半疑なのが本音です」
「つまりは、俺に教えてもらわないと、どうしたらいいのかも何もわからない、と」
少年は渋々頷いた。今時珍しい、正直な性格だな、と蓮は思った。最も、少年自身にも気づかれないように『アンチドゥーム』がそういった矯正を行っていた可能性もあるが。
「お前も、被害者か」
「え?」
「いや、なんでもない――いいぜ。話してやる。昔、一体何があったのかをな」
○
四年前、蓮はある研究所にいた。
研究所は東京郊外にある森の中に、ひっそりと建てられていた。公的な手続きこそされているものの、住所は公開されていない。職員全員の居住環境も用意されているので、研究所を出入りする者はいない。そもそも、外に出ることは禁じられているのだが。
蓮はそこで、ある教授の研究を手伝っていた。
研究内容は簡単に言えば、人工的な無機生命体――ウイルスの創造だ。ウイルスといえば、アクション映画などでは兵器に転用されることが多く、安っぽい世界の危機に何度も手を貸している存在だ。
この研究所では、逆に人の役に立つウイルスの開発をしている。近年医療技術において注目されているナノマシンのように、直接人体に入り――感染し――病を治すウイルス。
当初蓮は、そんな話を絵空事として受け止めていた。研究所に入ろうと決めたのも、たまたま募集がかかっていたからだ。医学部を卒業したものの、蓮は就職活動も医師免許の獲得もサボっていたため、よく考えずに募集した。落ちるだろうと思っていたが、何故か合格した。
外出禁止であったり、厳しい情報規制など制約こそ多かったものの、研究が終わるまでは衣食住に困らないというだけで、蓮にとってはありがたかった。将来のことなど考えてもいなかったので、両親にも愛想を尽かされたばかりだ。ほとんど学生の真似ごとでしばらく食っていけるのなら、何も文句はない。
同じ研究所に奈津子も入ったのも、朗報だった。蓮の唯一の懸念は、現在交際中の奈津子のことだったからだ。
「あ、蓮も同じ研究所に行くんだ」
そう言った奈津子の顔が何かを憂いているようだったが、すぐに笑顔に戻った。彼女の笑顔に、蓮は何度救われたかわからない。
要奈津子の笑顔には、人を救うような不思議な力があったような気がする。特別美人というわけでもないし、これといった特徴もない。それでも、人を惹きつける魅力を持っている。目には見えない何かを。それでも、蓮は彼女の目や腰のくびれが好きだった。勿論見た目だけではない。でなければ大学入学当初から現在まで交際が続いているはずもない。
「よかったね、ニートにならなくて」
「ニートになるつもりはなかったよ。あるとすればフリーター」
軽口で返したが、奈津子には散々迷惑をかけているという自覚があった。卒業後の進路も定まらず、両親と喧嘩ばかりしていた彼にとって、奈津子はただの恋人と呼ぶわけにはいかないくらい大きな存在となっていた。
「でも、蓮はバイトもやめちゃったでしょ」
「この研究所に入るんだから、もう関係ねーだろ」
「そうかもしれないけど、蓮ならすぐ辞めちゃうかも」
「研究が終わるまでは絶対に出られないらしいぞ。だから平気だよ」
「それもそうだね」
奈津子は笑った。
彼女と彼以外にも、同じ大学からは雪岡如が研究所に入ることになった。彼女はまだ三年生のはずだが、大学を休学してでもその研究所に入りたかったらしい。
彼らは四月から、その研究所に寝泊まりする手筈が整えられた。
研究所を初めて目にした時の感想は、デカいの一言に尽きた。居住空間が確保されているのを考えると、妥当なのかもしれない。二階建てのアパートに、三階建ての学校のような施設がくっついているような印象を受けた。森林の中でそこだけが切り開かれている。上空から見ると、さぞかし奇妙な光景に見えるだろう。
研究所の所長も務める壮年の男性が、今後についてを話してくれたが、あまり深くは聞かなかった。後で名前だけでも知っておこうと奈津子に聞いてみたのだが、どうやら名乗らなかったらしい。
研究所での生活は、楽なのか辛いのかが自分でもよくわからないくらいだった。ほとんど何も聞かされていない助手達は、蓮も含めて完全に雑用だった。時には食事の準備や使用していない部屋の掃除までさせられる。
しかし、月々に振り込まれる給与は、逆に申し訳なるほど高額だった。口止め料も込みとはいえ、口外できるほど研究に携わっていないのが現実だ。
時折、大学で興味本位で専攻していた心理学の知識を教授に求められることがあったが、助手らしい仕事といえばそれくらいだ。他の者も、皆どうやら心理学や精神科に詳しい人物が集められたらしい。
研究といえど、基本的に教授が単独で作り上げたサンプルを受け取ったら、ひたすら実験を行う。その繰り返しだ。人の体内に限りなく近い環境での活動などを観察し、その結果を教授に渡すだけだ。ほとんど流れ作業同然である。
「本当にこんなんでいいのかね?」
「うん。いいんじゃない?」
奈津子の返事は素っ気ないものだった。そういえば彼女は歯科医師免許を取得するために大学に通っていたはずだ。なぜ、彼女は呼ばれたのだろうか。気にはなったが、蓮は問わなかった。互いに深入りしすぎるのはよくないと、彼女と約束したのだ。
しかし、蓮以外の助手達も段々と異変に気づき始めた。
研究所での生活が始まって一ヶ月が経っても、奈津子にだけはサンプルが渡されたことはなかった。教授は他の全員に順番にサンプルを渡しているのに、彼女だけは無視していた。
そのせいか、初日から奈津子だけが時間を持て余している。やるべきことを与えられない彼女に、蓮は時折一緒に作業をしないかと誘うだけで精一杯だった。
誰も、そのことを指摘する者はいない。無理もない。知り合いは蓮しかおらず、また蓮自身もどうすればいいのかわからなかったのだ。一度教授に尋ねようとしたものの、無駄な口を聞くなら追い出すぞと言われては引き下がるしかなかった。
蓮は、奈津子のために自らの全てを投げ打つことができずにいた。
そして時が経つに連れて、奈津子は精神的に疲弊していった。言葉もろくに交わさない助手達の視線は、彼女に対してのみ刃物のように鋭く、冷たくなっている。そこに非難の意が込められていることは、蓮の目から見ても明らかだった。
研究子での生活が始まって三ヶ月ほど経った頃、ようやく蓮は夜中に奈津子を呼び出し、そのことについて話し合おうと決めた。
「なあ、変だと思わないか?」
「何が?」
わざわざ夜中に食堂へと呼び出したというのに、奈津子は気づいた風な素振りも見せなかった。
「ここでのお前の扱いだよ。どうして奈津子だけ教授からサンプルを渡されない? 他に何の指示もないのに!」
「…………」
「お前だって変だ。どうして何も言わない? 向こうが今の今まで気づいていなかったなんてことは絶対ないぞ。部屋の割り当て表にはお前の名前があるんだ」
蓮は溜まっていた疑問を、苛立ちごと吐き出した。
「助手の仲間達も、皆不審に思ってる。研究所にいるのに、何もしていない奴だと誤解されてる。後輩の雪岡や、まとめ役の蒲生さんも俺に聞いてくるんだ。どうして彼女だけ何もしないのかって!」
奈津子は何も言わない。唇を噛みながら目を逸らす彼女からは、普段の人を惹きつける何かが抜け落ちているように見えた。
痺れを切らした蓮は、薄々思っていたことを口にした。できればこういうことは、あまり言いたくはなかった。
「奈津子、お前何か心当たりでもあるんじゃないか?」
そう言った瞬間、はっきりと奈津子の表情に変化が起こった。
彼女の核心を突いた――わけではなかった。一瞬引きつったかに見えた顔は、笑顔へと転じた。
「ほんと蓮って、頭はいいのに、人の話を聞いてないんだね」
「この件に関しては、奈津子が何も言ってくれないからだろ」
くすくすと笑い声を漏らす彼女に、蓮は怒るよりも先に混乱していた。
「私の話じゃなくて、教授の話」
「教授の?」
「そう。実は最初の挨拶の時点で名乗ってたんだよ? そもそも、助手募集の張り紙にも書いてあったし」
「え?」
それが一体、今話していることとどう関係するのか、蓮には想像もつかなかった。
「見てないし聞いてないんじゃ、しょうがないよね。蓮にもわからないか」
奈津子は伏し目がちのまま、口元に笑みを残していた。しかし、楽しさや嬉しさからくる笑みではなかった。
「教授の名前は、要正元。少し年取ってるけど、私のお父さん」
どこか自嘲めいた口調で、彼女はそう告げた。
「…………は?」
教授が、父親?
蓮はそう言われたところで、教授――正元の顔をまともに見たことすらない。確か腰が曲がっていて頭は総白髪だったような気がする。
しかし今は、教授の顔などどうでもよかった。明日になったら顔を観る機会ぐらい幾らでもあるはずだ。
「だから他の人たちは、私が教授の娘だって知ってるんだよ」
「……ってことは、知っててあんな態度を?」
「知ってるからこそ、だと思う。そもそも私は、お父さん――教授に呼ばれたから此処にいるの。何のためかは、正確にはよくわからないけど」