鋼鳳
江東区の上空を、如は飛ぶ。地下鉄東西線に沿った永代通りを、西へと進んでいく。
深夜の永代通りには、終電を逃した人々を乗せたタクシーが多く走っている。ビジネスホテルも多く、眞澄が拉致されたアパートからも遠くない。
蓮と接触はできると断言したが、如は彼の居場所に見当がついているわけではなかった。策は、あるといえばあるし、ないといえばない。そもそも作戦と言っていいかもわからない。
如のすることは唯一つ、高度を落として、飛行することだけ。辺りは暗い。一般人が地上から見上げたところで巨大な鳥か何かだと思うだろう。まさか人間――それも異形の装甲を身に纏っているとは、想像もつくまい。
眞澄の報告によれば、蓮は彼を適合者だと見抜いた。拉致する前に、既に気づいていたのだろう。
さらに蓮は、人核装甲の適合者だ。彼がMファージをどう改良したのかは知らないが、『アンチドゥーム』の改良方法と似ているのは間違いない。
そう、似ている。故に、少しだけ違いがある。
蓮は『アンチドゥーム』に属する適合者にはない特性を有しているのではないか?
そしてそれは、"感染者や適合者の存在を感知する"能力ではないか?
如の仮説は、眞澄の報告から導き出したにしてはあまりにも頼りなかった。だが、手がかりが不足している以上、しらみつぶしに可能性を探っていくしかない。
だから如は、飛んでいる。いわば餌だ。
餌は大人しく、獲物がかかってくれるのを待つだけだ。
永代通りを中心に蛇行するように飛行し、日本橋駅付近に差し掛かる。
そのとき、交差点から永代通りの車線に入ってくるバイクを発見した。如の少し後ろを、追いかけるようにして走行している。
彼女は試しに、一度Uターンしてみる。するとバイクも、その場で急に進行方向を変えた。追いかけてくる。
目当ての獲物がかかった、と如は確信した。道路脇の高層ビルの屋上へと降り立ち、地上の様子を窺う。屋上はヘリポートとなっており、むき出しになった階段が下方へと続いている。それ以外には、何もない。
周囲を気にせず戦うには、うってつけの場所だった。
バイクはビルの手前で停まった。降りた人物がビルの中へと入っていくのが見える。
来る。
真田蓮が。
如は途端に、体が震えた。彼女の心が弱気になっったのを悟り、人核装甲が体の内側へと吸い込まれる。自分もまだまだだと、彼女は自嘲した。眞澄に対してあんなことを言った手前、情けないことこの上ない。
だが、自らを律しようとしても、胸の鼓動は悪い方向へと高鳴っていく。まるで"あのプロジェクト"への参加が決定する直前の頃のようだ。これから何が起こるかわからない。だが、確実に何かが起こって、自分の道が決まる。
これから真田蓮と再会して、自分は――。
屋上への階段に、人影が現れた。
その姿を目にして、如は息を呑んだ。
男だ。ライダースジャケットにジーンズという、ひどくラフな格好をしている。
その男――真田蓮に、かつての白衣姿の面影はほとんど残っていなかった。しかし、彼女の思い出とは違っていても、彼が真田蓮であることに間違いはなかった。髪も整えられておらず、無精ひげも生えている。垂れ気味の瞳から感じていたはずの穏やかさは消えており、ギラつく視線が射抜くように如を見据えている。それはまさに、餌をみつけた肉食獣そのものだった。
「雪岡か」
蓮は特に感慨もなさそうに、ぶっきらぼうに吐き捨てた。その声も、如の思い出とはかけ離れた、暗い調子だった。
「お久しぶりです、真田先輩」
如は、震えるように言った。それが限界だった。久しぶりに彼のことを呼び、如は思わず涙が出そうになった。
「お前も、適合者になったんだな。俺を誘い込んだわけだ」
「はい。さすが、察しが良いんですね」
皮肉ではなく、素直に褒めた。前にも、似たようなことを彼に言った気がする。
やはり彼は、適合者や感染者の気配を感じ取ることができるようだった。その理屈はわからないが、『アンチドゥーム』に属する適合者にはない能力だ。
「どうでもいい。何の用だ?」
「先輩のことを、拘束する命令が出ました。私と一緒に、『アンチドゥーム』の支部へ来てくださいませんか?」
「…………」
「蒲生さんもいます。そこで話し合いましょう。全てのMファージを殲滅し、感染者をこの世から無くすためには、あなたの力が必要なんです」
如は声を振り絞った。何も答えようとしない蓮に射すくめられながら、必死に。
「……一つ、条件がある」
「なんですか?」
一縷の望みが、光が、差した気がした。如は、彼の提示する条件を飲むつもりだった。晴香と相談している時間すら惜しい。
だが――
「奈津子は何処にいる? 居場所を教えろ」
「っ……」
如は、承諾することができなかった。首を縦に振ることもできなかった。
それだけは、奈津子の居場所だけは、教えられなかった。
「……いけません、それだけは」
彼女は、奈津子は『アンチドゥーム』にとって、なくてはならない存在だった。如は、彼女の置かれた環境を知りつつ『アンチドゥーム』の側についたのだ。
「場所は知ってるみてぇだな?」
蓮が、こちらに近づいてくる。何をするつもりなのか、おおよその見当はついている。
――戦わなくちゃ。
如は自らの経験を思い返す。これまでにも、何度か感染者を相手にしてきた。訓練はその何十倍以上も積んできた。
「教えられません……」
だというのに、言葉を発するだけで精一杯だった。動くことすら、ままならない。
「なら、力ずくで聞くぞ?」
手を伸ばせば届くほどに、二人の距離が縮まる。如は最後まで、何もできなかった。
真田蓮を、今も恋心を寄せる相手を、どうすれば敵と認識できる?
「すまない」
「えっ――」
蓮が何かを呟いた。と思った直後には、彼の拳が如の腹を打ち据えていた。
「かはっ……」
吐きそうなほどの衝撃と痛みに、思わず腹を抱えてうずくまる。
「出せよ、お前も」
見上げると、蓮の右手に変化が生じていた。人核装甲だと、すぐにわかった。生物的な緑色をした異形の装甲が、彼の体を右手から包んでいく。
「こうすれば、お前も戦えるだろ」
人核装甲を身にまとった蓮は、先ほど詰めた分と同じくらいの距離をとった。
緑色の異形――如の知らない、蓮の姿だった。
彼は人核装甲をまとったものの、動こうとはしなかった。如を待っているのだ。彼女が、戦う覚悟を決めるのを。
「…………」
如は集中した。
――目の前にいるのは、敵。
訓練を思い出す。適合者に選出され、初めて人核装甲の装着を試みた頃も、同じような感覚だった。
――彼は、真田先輩は……。
仕方がないと、諦めたはずだった。割り切ったはずだった。Mファージによる感染者の拡大を阻止するためには、蓮にではなく『アンチドゥーム』の側につくべきだと。
とてつもない危機に、一人の人間の恋心など、介入する余地はないのだと。
腹の痛みが、まだ余韻のように残っている。この痛みを与えたのは、目の前にいる異形だ。それを強く意識する。過去に自分で選んだ道と、そこに立ち塞がる障害。
倒す。
異形には、異形で対抗するしかない。
「人核装甲、鋼鳳!」
叫ぶ。力強い意志を伴った声に反応し、如の体内から異形をもたらす装甲が浮き出す。
光沢のある黒い装甲に、水色の筋が幾条も走っていく。体のラインにぴったりとくっついたようなそれは、装甲と言うよりボディスーツに近い。頭部には、後ろ向きに細長い突起が二本伸びている。
さらに、装甲を装着した彼女は、背中に大きなシルエットを背負っていた。
それは一対の翅だった。蝶のように広がった、Xの字に広がる等身大の翅だ。鋼鳳は、この翅を使って空を飛ぶことができる。
「真田、蓮」
「あん?」
「あなたを、力ずくで連れて行きます」
言うと同時に、如は跳んだ。まず跳躍し、翅をはためかせる。風を集めながら空中で旋回し、助走をつける。脳裏を過る雑念を、全て振り払いながら加速していく。
「しっ――」
ヘリポートに佇む緑色の異形めがけて、頭から突進する。弾丸以上の速度と質量が、空を切り、甲高い悲鳴のような音を上げた。
蓮は避けようとはしなかった。膝を曲げて腰を落とし、真正面から迎え撃つ姿勢を取る。両手を伸ばし、顔の前に掲げる。
だが如は、蓮と衝突する直前に身を一回転させた。空中で前転しながら翅を広げて、自ら作ったはずの勢いを殺す。
来るはずの衝撃もなく、突然視界を覆った翅に蓮は面食らった。
その隙に如の踵が、蓮の掲げた腕を狙って振り下ろされる。
今度こそ、蓮の腕に衝撃が走った。
攻撃と着地を同時に終えた如の攻撃は止まらない。踊るように回転しながら、連続で回し蹴りを放つ。蓮は肘や脛でそれを受けるが、彼女が繰り出してくるのは蹴りだけではなかった。
如の背中から生えた翅が、刃のような鋭さで斬りつけてくるのだ。蹴撃と斬撃が、絶え間なく交互に繰り出される。
蓮は一度翅を左肘で受けたが、装甲に浮き出た管が容易く切断されたのを見て、回避に専念した。蹴りを受け、翅を避ける。並大抵の反射神経では対応できない連続攻撃の前に、蓮は防戦一方になるしかなかった。
あくまで、防御と回避に専念した場合の話だが。
「ちいっ」
蓮は装甲の奥で舌打ちした。防御を捨て、如の回し蹴りをまともに横腹に浴びる。
だが、蓮は耐えた。痛みも衝撃も、歯を食いしばって堪えて彼女の脚を掴む。勢いを失った如は、片足で立つ姿勢で止まった。
如の脚を強く握る。先ほど受けた踵落しのダメージに腕が悲鳴を上げるが、それも耐える。
蓮の右手から、赤い突起が飛び出した。それがが彼女の脚に食い込んだ瞬間、蓮の装甲に走る管がどくん、と脈打つ。
その瞬間、如は異変を感じた。何が起こったのかよくわからないが、とにかく彼の手から一刻も早く離れなければならないと直感する。
しかし、蓮は如の脚の脛の辺りを掴んでいる。手も翅も届かない。身じろいでいる間も、蓮に掴まれた脚からなぜか力が抜けていく。
――なに、この感覚!?
如は掴まれた脚を軸に体を回転させた。もう片方の脚で、蓮の側頭部を叩く。同時に無理矢理全身を捻り、拘束から逃れた。脛の一部の装甲が抉り取られる。だが、奇妙な感覚は消失した。
如は即座に蓮と距離を取る。空中に陣取り、彼を見下ろした。
「今の、一体何をしたんですか?」
蓮の手に掴まれたときの感覚は、全く未知のものであった。力を抜かれたような気がしたものの、それだけではないのは確かだった。精神的な疲労感も凄まじい。
「お前が知る必要はねえよ」
蓮が跳躍する。再び如を掴もうと、両の五指を獣の顎のように広げながら。
如は直前の感覚がフラッシュバックし、逃げるようにしてさらに高く飛翔した。とにかく、掴まれたら危険だった。
「っ…………」
それだけで、覚悟が鈍る。人核装甲を保っていられるかが、不安になる。
おまけに、短い間隔で装着を二度も行っているため、疲労は最大限に達していた。
これでは、仮に眞澄を連れてきたとしても変わらなかっただろう。むしろ飛行能力のない彼は、容易く蓮に捕まっていたかもしれない。
どちらにせよ、今真田蓮と勝負するのは分が悪い。
如はしばらく蓮を見下ろしていたが、やがて踵を返した。空を飛べるというのは、戦うにも逃げるにも有利な力だ。
とにかく、彼の用いた不可思議な力については報告する必要がある。その上で次回は、作戦と人海戦術で蓮を捕えればいい。
如は、振り返るようなことはしなかった。蓮が装甲を解いてこちらを見ていたら、泣いてしまいそうだったからだ。
戦いを終えた後なら、いくらでも後悔することができた。人核装甲に覆われていたとはいえ、彼は紛れもなく真田蓮だった。
どうして彼と戦わなければいけなかったのか。
どうして彼と戦うことになってしまったのか。
どうして彼が『アンチドゥーム』の側につかなかったのか。
答えは全部わかっている。
わかっているからこそ、如は涙を堪えていた。
「要、奈津子……」
如は答えを、思わず口にした。
声は、過ぎ去っていく風景の中に紛れて消える。
その名は、いつまでも如の心の底に残り続ける。