何が為に
○
真里は疲れ果てていた。
警察の事情聴取は、日付が変わろうかというところでようやく終わった。というのも、一番近い距離で現場を目の当たりにしていた彼女は、しばらく保健室で横になっていたのだ。
かといって、眠れるわけでもなかった。保険医が言うには、一時的なショック状態だったらしい。今はもう落ち着いたが、その分疲れが押し寄せてきている。
真っ黒な怪物――警察は凶悪な変質者扱いしている――が学校に現れた事件は、生徒のうち一人から死者を出すという大惨事に発展した。
死んだ生徒は、二年生の男子だ。顔も名前も知らないとはいえ、人が死んだ。それだけで、真里の心はひどく傷ついた。
漫画やアニメとは違う、本物の死。そこには崇高さや美しさ、感動などは一切ない。その事実は、未だに真里の胸の奥に突き刺さり、ぶら下がっている。何をする気にもなれず、ただ勝手に頭が放課後の出来事を再生し続ける。
こんな状況から、どう立ち直れというのか。
警察からは、現場に一番近かったという理由でしつこく問い質された。まるで容疑者になった気分だった。
その時自分は何処にいて、周りはどんな様子で、何が起こったのか。真里はたどたどしい口調で、ありのままを語った。
黒い怪物の他に、もう一人緑色の怪物が現れたこと。さらに薄紅色の怪物も現れた。近くにいたクラスメイトの一人は、その緑色の怪物に連れ去られてしまったこと。
「連れ去られたっていう生徒の名前は?」
「要君です。要眞澄君」
「その生徒との関係は?」
「え、あ、たっ、ただの、友達です」
「なるほどね。その要君だが、先ほど自宅に帰ったそうだよ。要君のお母さんから、連絡があってね」
「そうですか……よかった……」
ほっとしたのは、そのときだけだ。残りは、まるで粗を探すかのように似たような質問が繰り返された。本当なら事情聴取は明日でもよかったらしいのだが、どんな理由にせよ自宅に警察を招くような真似はしたくなかった。
また警察は、真里の言う「怪物」をあまり信用していないようだった。今思えば、信じてないのなら話なんて聞かないで欲しかったのだが、その時は心に余裕がなかった。
それに、あの時見たのは間違いなく怪物だったと、真里は断言できる。あれは黒づくめの服装だとか、そんなものとは断じて違う。
最後に警察から教えてもらったのは、しばらく学校は休校になるということだけだった。詳しいことは、連絡網で回ってくるらしい。それまではなるべく外出を控え、自宅待機せよとのことだった。
真里は今、ベッドの上に転がりながら連絡網のプリントを蛍光灯に透かしていた。連絡は五十音順に回すことになっているので、要眞澄の次は岸谷真里、ということになる。その連絡は、真里が帰ってくる前に母が済ませたらしい。
――連絡網が回ってきてるってことは、要君、無事なんだよね……。
警察や母からの伝言を聞いても、真里はまだ安心できなかった。
何故なら彼女は、この目で見たからだ。
怪物に、眞澄が襲われるのを。彼が、まるで人形か何かのように放り投げられ、地面を転がったその瞬間を。
眞澄の自宅に連絡を入れれば、彼の安否が確認できる。しかし真里は、そうする勇気がなかった。
もし、警察が眞澄に関しての情報を伏せているのだとしたら――その理由が、彼の生死に関わっているのだとしたら。
真里は、確認することを恐れていた。
「やっぱり無理ですよ、仁美先輩……」
仁美に相談しようと思ってかけた電話も、繋がらなかった。しかし、こんな時に恋愛相談など不謹慎かもしれないとも思う。
クラスメイトの中には、真里に電話やメールを寄越してくる者もいたが、内容は事件に関する噂ばかりだった。肝心の怪物については、誰も知らないので憶測が飛び交っているようだ。
脱獄した死刑囚だとか、国外逃亡してきた猟奇的な犯罪者だとか、近所のスーパーで以前見かけたとか、下校中にすれ違ったとか、どれもこれも信用できないものばかりである。
それに、あの怪物に関しては気になることがあった。警察にもそのことだけは話していない。
「要君……」
彼の名前を呼んだとき、怪物の様子が変わった。二度呼んで、二度反応した。
名前に反応したのか、それとも――
何故か、真里は怪物そのものに対してはそれほど恐怖を抱かなかった。むしろ彼女をその場から動けなくしたのは、校庭に転がった死体や、傷ついた要眞澄の方だ。
確かに怪物は恐ろしい。怪物が生徒を殺し、眞澄を傷つけたのだから。しかし、唐突だったはずの怪物の登場は、今思えばそれほど驚くようなことではなかったようにすら思える。
まるで道端でばったり知り合いと出会ったような、そんな感覚だった。
似たような瞬間が他にもあったような気がするのだが――そこまで考えて、真里はがぶりを振った。
何か、とてつもなく恐ろしい可能性に突き当たってしまった。
「…………先生」
一度浮かんだ疑念は、中々頭から離れてはくれない。
日曜日、彼は――金子時貞は、来るだろうか?
○
眞澄が『アンチドゥーム』の支部である高級マンションへ戻る頃には、零時を過ぎていた。
すぐさま自分の部屋でベッドに倒れこみたい気分だったが、まずは五〇一号室へと向かう。
予想通り、晴香をはじめとする支部内の面々が巨大な居間に集合していた。厳しい視線が、眞澄に切っ先を向けている。早朝のときとそっくりだ。ただ、全員の目つきが一際険しくなっていることを除いて。だが、それでよかった。眞澄の方も、聞きたいことが山ほどあるのだ。
唯一、如の瞳だけが彼のことを案じているようだった。それが、少し嬉しかった。
「遅かったわね。要眞澄」
晴香の口調は、早朝よりもずっと冷徹だった。
「遅くなった理由は、先ほど電話で伝えたとおりです」
「……人核装甲を装着した、第三者なる人物との接触だったわね」
「はい」
「では、順を追って説明して頂戴。学校内で感染者と遭遇したところから」
眞澄は空いている席に腰掛けて、日中の出来事を簡潔に説明した。ここに帰ってくるまでの間に、要点は頭の中でまとめておいた。
校庭に黒い異形となった感染者が現れたこと。
感染者は、何故か眞澄を執拗に狙ったこと。
そこに、人核装甲を装着する謎の男が介入してきたこと。
決着が着くと思われたとき、もう一人の感染者が出現し黒い異形を連れ去って消えたこと。
自身は謎の男に拉致され、そこから脱出して今に至ること。
話を聞いていた組織の者達は、謎の男の存在よりも、感染者が二人現れたことに驚いているようだった。これまで、感染者は基本的に一人ずつ出没していたことを考えると、初めてのケースだと言える。感染者が感染者を助けるような行動を取ったのも、勿論前例はない。
「二人の感染者に、謎の男ね……男の方は、もしかすると別の支部から出動した適合者の可能性もあるわ」
「そうだとすると、今回出現した二人の感染者のうち一方が、別の支部の管轄から、こちらの管轄へと移動してきた、ってことですね」
晴香の言葉の後を、如が補足する。
「いえ、その可能性はありません」
眞澄は断言した。再び、彼に視線が集中する。
「どういうことかしら?」
「その男は、真田蓮と名乗っていました」
「っ――何ですって!?」
全員がその名を聞いた途端にどよめいたが、一番声を荒げたのは如だった。立ち上がった勢いで、椅子が後ろに倒れる。
「眞澄、あんた真田せんぱ――蓮に会ったの?」
「は、はい」
「落ち着きなさい、雪岡如」
「っ……申し訳ありません」
如の動揺は眞澄の目から見ても明らかだった。椅子を直そうとする手が、震えている。
「皆さん、どうやら真田蓮という人物のことを、知っているみたいですね」
「…………」
晴香は口を閉ざしているが、否定もしない。これで、真田蓮の言っていたことが正しいと証明された。
「教えてください。真田蓮について。彼は人核装甲を装着できるだけでなく、自分がMファージを飛散させた元凶だとも言っていました」
晴香の眉がぴくりと動いたのを、眞澄は見逃さなかった。
「それに、俺が適合者であることも、見抜いていました」
その言葉には如がわずかに反応したが、彼女は平静を保とうとしているのか、声を出そうとはしない。
「彼が元凶なら、『アンチドゥーム』に属しているはずありませんよね。すぐにでも捕らえるべきだと思います」
「……そうね、あなたの言う通りだわ」
晴香が、ようやく口を開いた。
「一応本部にも報告を入れるつもりだけど、これより本支部は二人の感染者の捜索と平行して、真田蓮の行方も追跡する」
「なら、私が真田蓮を捕らえます」
冷静さを取り戻した如が、今度は音も立てずに立ち上がった。
「雪岡如、手がかりはあるの?」
「少なくとも、接触することはできるかと」
「……戦えるの?」
「はい」
「では、明朝より出動を――」
「いえ、今から出ます。一刻を争う事態ですので」
如の口調に、一切の躊躇いはない。眞澄は初めて、適合者としての如の、本物の一面を目の当たりにした気がした。
「そう、わかったわ。では雪岡如には、真田蓮を捕らえるため出動を命ずる。要眞澄、あなたも今日は休みなさい」
「了解しました」
「じゃ、途中まで一緒に行こうか、眞澄」
「あ、はい」
眞澄は如と共に、五〇一号室を後にした。
一緒にといっても、眞澄がエレベーターで八階に向かうまでの短い距離と時間でしかない。
「あの、一ついいですか」
一階から昇ってくるエレベーターを待っている間の沈黙に耐え切れず、眞澄は言った。
「ん、何?」
如はすっかりいつもの調子に戻っていた。声に陽気さが混じっている。
「真田蓮を探すの、俺にも手伝わせてください」
「だーめ」
如は眞澄の頼みを一蹴しながら、到着したエレベーターに乗り込んだ。その拒絶は、陽気が故に残酷に響いた。
「でも、もし戦いになったら、二人の方が有利になるはずです」
眞澄は、その場から動かずに、彼女と向かい合った。
「扉、閉めるよ?」
「……どうして、手伝わせてくれないんですか?」
「大事な任務だから、失敗はできないの」
如は溜息混じりに言った。その面倒そうな態度が、眞澄を苛立たせる。
「だからこそ! 戦力は多い方が――」
「わかった、はっきり言うよ。眞澄、君は足手まといになる。だから一緒には行けない」
そう告げる如の表情は、曇っていた。本音なのは、間違いなかった。
眞澄は言葉を失った。急に目の前が、真っ暗になる。如も、エレベーターも、遠く、霞んでいく。
「ところで眞澄はさ、何のために戦うつもりなんだっけ」
「え、それは、その……」
急な質問に、眞澄は呂律が回らなかった。
「せ、世界の平和のために、です」
「本当に? それだけ?」
「は、はい」
眞澄にはわからなかった。このタイミングで、如は何故こんな質問をしてくるのだろう?
「そっか。じゃあその理由だけで、感染者とは戦えたの?」
「……」
世界の平和のために戦いたいというのは、本心だった。
だが、眞澄は戦えなかった。感染者を、異形を前にして、眞澄の覚悟は脆くも崩れ去ったのだ。
自分が戦えなかったことを、如は見抜いていた。報告してないことを、隠していたことを、彼女は容易く暴いた。人の目に晒されて、眞澄は己の覚悟のちっぽけさを再び思い知らされた。
「別に、世界の平和のために戦うって覚悟を持つことは、悪いことじゃないよ。むしろ、すっごく良いことだと思う」
如はそこで言葉を切った。同時に、押し続けていた「開」のボタンから指を離す。
エレベーターのドアが閉まっていく。
眞澄は、動けなかった。
「でもね、人は世界の平和なんかのためにって理由なんかじゃ、戦えないんだよ」
ドアが完全に閉まる直前、如はそう呟いた。
エレベーターは眞澄を残し、八階を通り越して最上階へと昇っていった。
○
エレベーターの中で、如は大きく溜息を吐いた。
眞澄には少し、強く言いすぎたかもしれない。今まで彼が持っていた覚悟を打ち砕いたのは、紛れもなく彼女自身だ。
だが、実際に彼は戦えなかった。世界の平和のためには、戦えなかった。
「そんな理由じゃ、駄目なんだよ」
如はひとりごちる。
「もっと、もっと、自分勝手な理由じゃないと」
戦争や犯罪と同じだと、如は思う。突発的な衝動の裏に、どす黒いエゴが潜んでいる。
適合者も、感染者と大差はない。無理矢理相手を敵と認識して、人核装甲――異形を身に纏って戦う。相手を敵だと認識するためには、相応の理由が必要だ。
何が何でも、相手を敵――目の前にある障害だと思い込まなければいけない。なんのためにその障害を乗り越えなければいけないのかを、自己の中で確立する必要がある。
自分勝手な理屈で、覚悟で、敵と対峙することで、初めて戦えるのだ。
「眞澄には、まだ早すぎるかな」
エレベーターが最上階に到着した。
如は廊下を渡り、屋上へと続く階段へと向かう。途中で、エレベーターの方を振り返ったが、この階で停まったままだ。他のエレベーターも、動いてはいない。
本来屋上に続く扉は施錠されているが、鍵は開けられている。どうせこのマンションに、一般人は住んでいない。
屋上に辿り着くと、そよ風が肌に心地よかった。涼しい夜は、あと何日続くだろうか。
夜の帳には、満月が風穴のように穿たれている。如は空を見上げたまま、集中状態に入った。
「――人核装甲、鋼鳳」
そして、彼女は飛んだ。
漆黒の空に、身を委ねた。
真田蓮は、必ず現れる。如は確信していた。
眞澄の報告が正しければ。そして、彼女の推測が正しければ。
――真田先輩…………。
夜空を漂いながら、如は彼のことを頭に思い浮かべた。
目を閉じれば、あの頃の記憶が蘇る。しかし、今は感傷に浸っている場合ではない。
如は、目をかっと見開いた。加速を始める。
まずは眞澄が拉致された場所を中心に、己の推測を試してみる。
待っていれば、彼はやって来るだろう。