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Black Laws

作者: 伊藤紙幣



「初めまして、麗しいお嬢様。お近づきのしるしに受精させていただけませんか?」


 そんな、即座に起訴したくなるくらいの素敵な言葉で、フレイア=ヒースデルクの新米検事補佐官としての生活が始まった。





 人の背丈ほどの高さもある本棚が壁伝いに間断なく並ぶ朝の書斎に、コンコンと控えめなノックの音が転がった。


 書斎の椅子に足を組んで座っていたティーウ=メリッサはそれに気付き、手に広げていた朝刊を丁寧に折りたたみながら「どうぞ」と促した。


 間もなくドアが開いて、その向こうから新品の検事官の制服を纏った小柄な女性が入ってくる。


「失礼します。ティーウさん、先日行われたカンゼル銀行強盗殺人事件の公判録が本署から送られてきましたけど、どこにやっておきましょうか?」


 努めて恭しい口調でフレイア=ヒースデルクが訊く。


 肩までかかるワインレッドの長髪に明るい真鍮色の金目という少し変わった出で立ちの女性だ。ぱっちりと開いた両目の上には濃すぎず薄すぎないシャープな眉が引かれており、卸したての赤を基調とした検事官の制服とも相まって眉目秀麗といった雰囲気を醸し出している。


 秘書然とした細い眼鏡をかけており、ぴしっと絞められた襟元が彼女の生真面目さを表していた。

 フレイアが話しかけた人物は真正面の机の椅子に座っていた。


 書斎の広さは奥行きこそないものの両側に大きくスペースが空いていて、一面には緋色の高級そうな絨毯が敷かれている。


 机の後ろに縁取られた窓からは柔らかい朝日が降り注ぎ、そこに腰掛ける青年の髪を目が覚めるほどの金髪へと輝かせていた。


 ティーウは長いブロンドの下から覗く翡翠色の眼を細めながらうーんと唸ると、


「そうですねぇ。置き場所も無いですし、表に置いてある青いポリバケツの中に厳重に保存しておいてください」


「あの、それって……もしかしてごみ箱のことですか?」


「フレイアさん。あれはごみ箱ではありません。入れておくと一週間周期で中のものが消えてなくなる魔法のバケツです」


「業者が回収してるだけだと思いますけど」


「そうとも言います。雑多な資料の多いこの職場で最適な保存空間ですよ」


 と簡潔に言ってのける。


 いつものぞんざいな返答に、フレイアは綺麗な眉をひそめた。


「せめて目を通された方がよろしいのではないですか?」


「ご丁寧にどうも。しかし結構です。もうその事件についての全貌は記憶しておりますから」


「記憶って。でもこれ、厳重保管指定書類の印が入ってますよ? ウチの事務所に監査が入った時にどうするんですか? 破棄したのがバレたら大問題なんじゃ……」


「その資料が要るはずの僕自身が一字一句を記憶しているんです。問題ないでしょう。ああ、それよりフレイアさん、応接室に置いてあるコーヒー豆を挽いてもらえませんか? 知人から先日頂いたもので、随分とおいしいらしいですから。僕に淹れてきてくれたらぜひ召し上がってみてください」


「はぁ、分かりました」


「あ、あとフレイアさん」


「はい?」


「今日はメイクが少々濃すぎます。ルージュもワントーン濃いのに変えたんですか? 全然似合いませんよ。むしろ昨日くらい薄い方が子供っぽくていい感じにエロく――」


「余計なお世話ですっ!」


 ぶぁさっ、と、フレイアの手から放たれたくだんのファイルが数メートルの空間を羽ばたくかのごとく跳躍し、ティーウの頭に突き刺さった。


 同時にフレイアはぴしゃりと尖った言葉で一蹴し、勢いよくドアを閉める。


 ドアを閉じると、書斎の中からバサッと乾いた紙が広げられる音が聞こえた。

 おそらく額のダメージも意に介さず、手に持っていた新聞をもう一度開きなおしたのだろう。


「……ハァ、何なのよ。もぅ」


 フレイアは表情を歪めて困り果てた溜息を吐いた。

 第一級検察衛士(クラス・ファースト)であるティーウ=メリッサの下に補佐官として赴任してきて一週間。


 まだ一件も事件の検察要請が来ず、ずっと庶務(雑用の綺麗な言い回し)を任されっぱなしの上に、毎日セクハラ発言をされていればたまったものではない。


 新任早々この業界では敏腕と謳われる元軍部の美系青年衛士に付けると知った日には、新しい出会いがあるかも?


 とか浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。超馬鹿みたいだ。


 蓋を開けてみれば、ただの顔が良いだけの変人で変態ではないか。

 これから検事の正式な資格試験を取得できるまでの二年間は修習も兼ねて、あのセクハラ大魔王の下で補佐官を務めなければならない。


 そう考えただけでも胃にくるフレイアだった。

 そしてお腹が下ったフレイアはトイレへと急いだ。



 §



 世界で唯一、様々な人間の亜種、亜人達が共生する国。

 法治国家アイオーン共和国。


 古代から争いが絶えなかった彼ら亜人同士と人間達が共存できる理由は、この国が持つ高度な政治力にあった。


 特にその内の一つ、『司法』に関しては間違いなく世界一秀でており、人種間で起こる様々な争い事を厳正で平等な観点を用いた審議――つまり裁判によって解決することで、平和と安寧を今日まで維持していた。




 フレイアにとって初めてとなる担当事件が舞い込んできたのは、希少と言われるミースエーデル地方の猫の糞から抽出したコーヒーの香り――実にかぐわしい!――を嗜めて終わるかと思われたその日の午後のことだった。




 2


 クッ、と車のブレーキが最後までかかったのを確認してフレイアとティーウがドアを開け外に出る。

 法治国家アイオーンの主都、レッドガーネット。そして目の前にある巨大な国旗が屋根に立てられた議事堂こそ、この国の最高法曹機関であるアイオーン司法機構の本署だ。


 周囲はぐるりと赤いレンガの壁で覆われていて、正門である鉄格子の扉がある。その両側には青い軍服を着た憲兵が配されていた。一般人がはじめてここに来ればその迫力にはすくむものがあるだろう。


 一週間前までここで補佐官になるために研修を積んでいたフレイアでさえ、いまだにうかつには近づけない厳正さを感じてしまう。


 門を見つめていたフレイアの横で、所在なさげなため息をついたのはティーウだった。


「難儀なことですねぇ……強姦事件の担当になるなんて。どうみてもやっつけ仕事じゃないですか。普通の検察官に任せればいいようなものを」


 呆れたような、根からやる気のないような。そんな響きのつぶやきにフレイアは不安を感じざるを得ない。

 ティーウの服装はフレイアの赤い検事官の制服とは違い、白をベースに赤いラインが入っている検察衛士の制服だ。


 フレイアより頭一つ分ほど背が高く、言動にそぐわない精悍な顔立ちと腰に下げられた長めのサーベルから、かなり見栄えはよい。眩しいほどの金髪とも相まって人の目を惹きやすいシャープな印象がある。


「ティーウさん。私、被疑者の事情聴取なんてはじめてで。その、ちょっと緊張するんですが」


「どうしてです?」


 真顔で不思議がられた。


「どうしてって言われても。だって目の前に居るのは十中八九、犯人ですよね? なんか怖くて」


「うーん、そうですか。僕には分かりませんね。無神経、ですから。あなたも無神経になられてはどうですか? 練習がてら淫語しりとりでもしながら歩きます?」 


「……まじめに訊いた私が馬鹿でした」


「自覚があるじゃないですか。その調子です。じゃ、行きますか」


 軽い口調でうそぶきつつ運転手に片手を挙げると、出頭用に出迎えてくれた車が広場を旋回して敷地の外へと向かう。


「…………。」


 一週間も一緒に居てつくづく思うことがある。


 なんでこの人、訴えられてないんだろう?

 ていうか訴えていいですか?


 むしろ関係書類の下書きできてます。あとは捺印だけです。っていう段階なんです。


 そしてなぜこんな変態の怠け者にあまつさえ検事職の最上級である『検察衛士』が務まっているのだろう、と。


 フレイアは頬を引きつらせつつ眼鏡を指で直し、車とは逆の本署へと気だるそうに歩む上司の背を追った。



 署内は教会によく似た造りになっている。

 もっとも、いかなる状況でも中立を護らなければいけないこの職において、宗教をやっている人間は誰一人としていない。


 実際に裁判が行われる講堂を基点として、その周りに宿舎や軍部の駐在所、被疑者を収容しておく牢や検察官達がはたらく施設が立ち並んでいる。


 そして何より、すべてが大きい。

 廊下だけでも街中の広場を連想するくらい幅広で奥行きがある。窓も教会のステンドグラスのような大きさのものが廊下の果てまで並び、太陽の光を余すことなく取り込む構えだ。


 まるで自分が小人になったのではないかと感じるほどである。

 案内された取調室に通されると、ひんやりとした空気のただよう石造りの部屋の中に、こじんまりとした机が一つ。


 そこに座るのは中年の男。

 そしてその横、申し訳程度に備え付けられた窓の下には軍服を着た若い監視員の男が立っていた。


「ご苦労様です。今から取り調べに入りますので、席を外してください」


 開口一番にティーウが丁寧な響きで言うと「はい」と監視員が動く。


 それに揺さぶられるかのように中年の男は視線を机に落としたままビクリと肩を竦めた。

 中年の男は白い麻のシャツの上に黒いジャケットを羽織っている。白髪のまじった頭は焦りからか汗による湿りが見てとれ、普段はなで肩であろう身体がさらに萎縮しているように見えた。


 監視員の退出を確認し、ティーウが席に着く。それと同時にフレイアは小さく一息をついて眼鏡を持ち上げ、さっそくと手元の書類を読みあげはじめた。


「被疑者、ラルフ=ネルソン。造船会社カーラルドの営業長で、51歳。妻子あり。

 子供は長男と次女。三日前に猫亜人(キャッツレイス)の少女娼婦、ミウ=ノゥを路地裏に連れ込み、強姦した疑いで確保。原告はミウ=ノゥの娼館の主です。

 なお、被疑者は容疑を容認。――内容は以上で間違いありませんね?」


「はい……間違い、ありません」


 泣き枯れたようなしゃがれた声で男が答える。


「ふむ。フレイアさん、資料を」


 ティーウは振り返らないままフレイアに手を差し出す。そしてひとまとめにした書類の束を受けとり、パラパラとめくりはじめた――その時。


「なっ……!!」


 突然だった。突然、ティーウは目を見開き、鋭い驚きを放って息を呑んだ。


 過敏になっていた男も身を跳ね上げるかのようにドキリとし、フレイアも驚いて緊張の声をあげた。


「な、なんですか? なにかあったのですか!?」


「これは……っ」


 フレイアがティーウの肩越しに書類をのぞきこむ。そこには被害者の猫亜人キャッツレイスミウ=ノゥの経歴書類があった。


 書類の右上にクリップで猫耳のかわいらしい少女の写真が添付されている。ティーウの視線はそこに釘付けだった。


「……――でしたか?」

「は、はい?」


 ふるふるとティーウの手が震え、力のあまり書類の端がくしゃりとゆがむ。


 次の瞬間、ティーウは椅子を蹴り上げる勢いで立ち上がり、机に手をついて身を乗り出した。





「さぁ、さっさと吐きなさい! この子とピィーーーーしてピィーーーーして無理やり、そう、無理やりプィーーーィしたんでしょう!? どうでしたか!? 感想を300文字で!!」




「………………っっっ――、、?」


 絶叫に次ぎ、そしてこの絶句である。


 フレイアは卒倒しそうになった。むしろ、この場でこうなって卒倒しなかった自分を恨んだ。


 ティーウてめぇこの野郎いい加減にしろコラ、マジで死ねクラァ、とよっぽど口を衝いて出かけたが、途中で成分構成脱力感100%のため息に変わってどこかへ吹き出てしまった。


 男はあっけにとられている。

 無理もない。この目の前で繰り広げられている言動の意味を即座に呑みこめという方が無理である。


 数秒の間の硬直を経て、ティーウは椅子を手で引きなおし、ンンンとわざとらしいせき払いをうった。


「失礼。僕ともあろう者が取り乱しました」


「……ティーウさん。この取調べ、一言一句、パーティクルスロットで録音してるんですケド……」


「いいですかフレイアさん。今しがたのは事故です。お忘れなさい」


「分かってます。あなたの人生一望を賭けた大事故です。分かってます」


 もう好きにしてよ。知らんよ私は。暗にフレイアは語尾にそう付け足した。


 パーティクルスロットとは、正式名称『量子装填石』という。


 人間には魔術が使えない。代わりに、魔術が使える亜人達が特殊な媒体鉱石に魔力の根源となる量子霊力を込め、人間達にも魔術を使えるように加工した石のことをパーティクルスロットと言う。


 周囲の空気の振動数を保存し、再生することで録音機ともなるなど、使い方は多様を極める。


「……気がついたら」


「え?」


 ふいに男が口を開いた。声が震えている。


「分からないんです! 自分が自分でなくなったみたいに、気がついたらあの子を襲ってしまっていた……っ。でも違うんだ! あの時の私は私じゃない! 少なくとも正気じゃなかった!」


 惨めなほど必死に男が訴える。目からは後悔の涙が頬を伝い、声が雨に打たれる水面のように動じていた。


 しかし、フレイアは両の手に拳を握り、眉をひそめた。


「……ええ。確かに正気じゃありませんよね。通りがかっただけの女の子に、自分勝手に乱暴するだなんて!」

「違う、本当だ! 私には妻も子供もいる! それに会社だって不祥事続きの状況からやっと立ち直りつつあるんだ。こんなところで棒に振るはずがないだろう!? 今のカーラルドは社員一丸になって――」


「あなたが何を言おうが……あなたが容認した限り、事実は揺らぎません。あなたは……あなた達男の人は、分かっていない! 乱暴された女の子がこれからどんな気持ちで生きていくかなんて想像できない! だからそんな無責任なことが言えるし、できるんでしょう!?」


「そんな……っ、――ってあなた、なんですか?」


 急に冷めた声で『なんですか?』って、私は検事補佐官ですよっ!


 とフレイアは激昂しようとした、が。

 それはフレイアに向けられた言葉ではなかった。


 見れば、いつの間にか席を立ったティーウが、男の体中に顔を近づけて何かをしているではないか。見る限り鼻孔を動かしている。ニオイをかいでいるのか?


 まさかこの人、男もいけるクチなのか!?


 さすがにそうなら絶縁したくなる――って、そうじゃなくて!


「ちょっとあなた、何してるんですかティーウさん!」


「あ? ええ、ちょっと気になることがありまして」


 失礼しました、とティーウは一礼して立ち上がる。

 そしてその足で席に戻る――かと思いきや、そのまま出口の方に歩を進めていく。


「えっ、ちょっと、ティーウさん? 事情聴取終わりですか!?」


「いえ、少し気になることができましたので確認をとってきます。すぐ帰ってくるので聴取はフレイアさんのペースで進めてください。じゃ、そゆことで」


「そゆことでってあなた軽薄な……えェ、ちょっと、マジすか!?」


 フレイアが言い切らないうちにアホ検察衛士の白い外套の裾が扉の向こうに消える。

 マジだった。

 その跡には言いようもなく気まずい空気だけが残った。



 3



「……はぁ、もう、コンチクショーが」


 乙女がコンチクショーなんて言っちゃいけません。


 結局あの後はいくら待ってもティーウは帰って来ず、それのせいか、さして聴取に身も入らず、すべてがうやむやのままに終わってしまった。


 今はレッドガーネットのユーウェル通りを南に歩き、一旦ティーウの事務所に帰るところだ。

 夕焼けに染まる石畳の街が異様に目に染みるようだ。


「はぁ。私、一体なにしてるんだろ……」


 今日で何回目のため息だろうか。数えるのも億劫になってくる。

 自分は一体どこで間違ってしまったのだろう。


 あのまま、元貴族の縦社会の習慣が色濃く残る家に居たほうが良かったのだろうか。

 そんな家の末娘として生まれたことに嫌気が差し、それでも自分に見向きもしない親に認められたくて、意を決してレッドガーネットの法曹育成機関に入った。


 今まで好きではなく、あまりやってこなかった勉強というものに身をやつしてきた。それこそ法律の一字一句までを暗記する勢いで勉学を重ねてきたはずなのに。


 あのわけのわからない上司なんかに、自分の努力をすべて無駄にされるのか?

 そう思うとなぜか途方もなくやるせない気分になってくる。このまま夕焼けの黄昏色に溶け染まってしまいたいような、そんな諦観に。


 と、その時だった。


「フレイアさん」


 遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。ちょっと涙目になっていたので袖で目を擦ったあとに振り向くと、そこにはくすんだ色の金髪に染まったティーウが歩いていた。


 いつもの僧たらしいくらいの均整の取れた顔でこちらに微笑みかけてくる。


「ティーウさん! もう、どこ行ってたんですか! すぐに帰ってくるって言ったでしょう!?」


「いえ、ですから事実確認に。それよりフレイアさん、今からちょっと付き合いませんか? もちろん残業手当は出しますから」


 この期に及んでまだ言うか。本気で一度殴り倒されなきゃ分からないのか。


「ああっと、そんな怖い顔しないでくださいって! 事件のことですよ、事件」


「……え?」


「立ち話もなんですから、話は借りてきた車の中でしましょう。ちょっと今夜のデートは危険な香りがしますけどねぇ」






「――じゃあ、あの人の言うとおりなんですか?」


「ええ、僕の推測ですが、彼自身は無罪ですよ」


 言いながらティーウは軍用の車の厳ついギアを切り替える。

 どこへ向かっているか分からないが、運転はかなり慣れた手つきだ。元軍部の少尉というのは本当らしい。重機の運用は身体が覚えていると言っていた。


「彼の身体から人魚之媚薬マーメイドパヒュームの香りがしました。あれはたしか人魚の間に伝わる秘薬です。ですが、僕はその存在と香りくらいしか知らなかったんで、仲の良い女人魚ウンディーネに色々と訊いてきたんです。

 まぁ、本人はシャイで匿名希望なんで――そうですね、ウンディーネのウン子さんとでも呼びましょうか」


 それはひどい。


「ウン子さんいわく、人間ひとりの理性を惑わせるほどの強力な媚薬を作るのはかなりの手間だそうです。そもそもこれを作る魔術は法律で禁じられている。人に害を与える禁術(マレキフィウム)の分類を受けていますから、薬の素を集めるのも一苦労でしょう。この国にはない麻薬の一種の密輸も必要になると聞きました。いち娼婦、ならびにいち娼館で準備できるとは思えません。そこで僕の予想が〝これ〟です」


 言うと、ティーウは紙の束を懐から取り出してフレイアに渡す。


「これは……今朝の朝刊、ですか?」


 間違いない。今日の日付が入ったレッドガーネットのタイムズだ。


 おそらくティーウが今朝持っていたものと同じだろう。


「ええ、六面の記事と十三面の記事を見てください。六面には『造船会社カーラルド』のここ最近の不祥事が連続しているとのニュース、十三面には『新鋭造船会社グノーヴル』の経営規模拡大、とあります。何かひっかかりませんか? 今回のことも含めて」


 はっ、とフレイアは顔を上げた。


「いち娼婦、ならびにいち娼館ごときではダメ。ならば〝いち企業〟はどうでしょう?」


「まさか、ライバル会社を潰すための工作だって言いたいんですか?」


 ご明察です、とティーウが笑った。


「船って、航海をする人たちにとっては命綱も同様だと思うんですよ。ならばより信頼できる商会の造ったものを選ぶのは当たり前ですよね。それに加えてタイミングを図ったかのような規模拡大。これまでのカーラルド製の船の不備という懸案と、今回の専務さんのピィーーーーが正式に有罪と位置づけられれば――」


「決定的な信用失墜と顧客離れにつながる……!」


「そう、ピィィーーーーとプィフィーーーーとのつながりが顧客離れにつながる。なんとも皮肉(シニカル)な話です」


「 」


 フレイアの言葉――言葉……――とほぼ同時に車が止まる。


 ティーウが先に車を降り、フレイアがそれを追うと、街中には吹かない独特のにおいを孕んだ風が緋色の髪を靡かせた。


 あたりを見る。向かって左には一面が水の野原が世界の果てまで続いている。

 海だ。


「もちろん、証拠なんてなにもありません。だから今から調査しに行くんです。『検察衛士』の権限でね」

 暗くなり始めた港の先に目を凝らす。そこには看板に大きく『グノーヴル営業本所』と書かれた建物が屹立していた。




「ごめんくださーい」


 石造りの壁に埋まるように据えつけられた扉をノックしながらあっけらかんとティーウ。

 少しの間を置いて、その戸が内側に引かれた。


 中から出てきたのは顔中が薄黒いうろこで覆われた蛇亜人(ナーガ)の男だった。

 茶色の麻の服と黒いズボンを履いている。体格的には蛇というか、トカゲを人化したような人種だ。


「なんだい? お客さんかい? 悪いけどもう営業は終わってるから閉め――」


 と、そこまで言いかけた時、爬虫類独特の縦長の瞳孔がティーウの格好を見るや否や、急に丸みを帯びた。

 にやりとティーウは口元に不敵な笑みを浮かべつつ、懐からアイオーン司法機構の紋章が入った手帳を取り出した。


 紋章の色は金字。これは検事職相当の者を表すときに使われる色である。

 そしてその裏表紙には、ひとつまみほどの無色透明な水晶じみた石が平面になるように加工され、埋め込まれていた。


「こんばんは。アイオーン司法機構、第一級検察衛士のティーウ=メリッサと申します。突然の訪問ですみません。少しばかりお尋ねしたいことがありまして」


「は、はぁ。こいつはどうも……ウチがなんかやらかしましたかね?」


「いえ、まだそうと決まったわけではありません。ちょっとお話を訊きたいだけですよ」


「そうですかい……。なら、悪いが日を改めてもらえると嬉しい。俺も今日はこれで上がりだし、経営関係の事務員も全員帰っちまってる。正直俺も疲れてるんだ、勘弁してくれ」


 それもそうだ。許可や話を通さずに直接ここに来たって掛け合ってくれる人がいるとは限らない。フレイアは男に同意し、日を改めるように提言しようとした――が。


「へぇ。そうしてあしらっておいて、今夜中に証拠隠滅しておくというわけですか」


「……は? 何の話だ?」


 ティーウの無神経な一言のせいで、一瞬にして空気の流れが険悪に変わる。


「一般の方でもご存知かと思いますが、『検察衛士』が事件の調査に当たる際にはあらゆる国家権限の制約から逸脱した行動が取れます。それがなぜか分かりますか?」


「はぁ? 知るかよ。兄ちゃんよぉ、変なイチャモン付ける気ならてめぇを訴えてやろうか?」


「そうそう、そういうことなんですよ」


 くくく、とティーウはこれはしたり、といった意地の悪い含み笑いをしてみせた。

 本当にこの人は初対面の人に悪い心象を植えつけるのが得意らしい。


「法律、倫理、平等、経済。俗に治安と言われる政治システムが発達するにつれ、本来はそれら弱者救済のために割り当てられる決まりごとを悪用する者が出てくる。

 僕たち検察衛士は、そういうクレバーな人たちに対応するために作られた遊撃部隊のようなものです。自分の判断で参考人としてあなたを拘束することもできるし、押し入って物品を捜索することもできる」


「なんだと? そんなの職権乱用だろうが!」


「いいえ? 僕たちにとってはそれが法で定められた『仕事』です。多少のリスクを背負ってでも罪のない人や責任の無い被害者のために、より真実に近い証拠や証言を揃えて審議に臨む。そして真に悪い者を厳正な客観の下に裁く。いわば絶対中立にして最高正義、それが僕たちの立ち位置です。ご理解いただけますか?」


「つまり俺が今、あんたの邪魔をすればどうなるんだ……?」


 ナーガの男が無表情のまま聞き返す。


「まぁ、どうなるか気になるならやってみられて確かめるのも一興かと」


「……分かったよ、入りな」


 ため息混じりに諦めたような響きの返答を残し、男が部屋の中へと身を退く。

 そしてティーウが部屋に入って二歩、三歩と辺りの書類が並んだ煩雑なデスク群を見回しながら歩み進んだ――その時。




 ガシュッ!!


 鋭利な刃物が肉を掻き裂いたような音がフレイアの耳に障った。


 次いで、何か大きなものが床に倒れる鈍い音。


「なっ!?」


 急いで中を見れば、男の立つ向こうにティーウがうつぶせに倒れていて――その背中には、まるで剣でけさ切りにされたかのような斬傷から血が滲み始めているではないか!


 そしてゆっくりとこちらを振り向く蛇の人間。

 その双眸から放たれる視線には、さきほどまでにはなかった確かな狂気が込められていた。

 口元から太い顎にかけて血が滴っている。


「きっ……」


 腹の底から叫ぼうとするが、怯えのあまり声が出ない。

 すると男は、打って変わった低いドスの利いた声でしゃべりだした。


「ったく、運のねぇ野郎だな。おとなしく帰ってりゃ死なずに済んだもんを」


「ティ、ティーウさん!」


「あぁ、無駄無駄。俺らナーガはそこいらの毒蛇より強い毒を持ってるの知ってるだろ? 牙で引っ掻いてやったんだ、助からねぇよ」


 倒れているティーウの背中が痙攣しているのが遠目に見て分かる。

 なんてことを……! フレイアは歯を噛み締めて男を睨んだ。


「多分おたくらの疑ってることは正解だよ。俺らグノーヴルはカーラルドを貶めるために色々と仕掛けていたのでした~! どう? これで満足(サティスファクション)ー?」


「許せない……! あなた、これからどういう目に合うか分かってるんでしょうね!?」


「あー? 馬鹿言うな、分かってるよ」


 嘲笑を含んだ言葉を吐くと、男は有無を言わせない速さでフレイアの腕を掴んで強引にティーウの倒れている横へと押し倒す。


「きゃっ――」


「最っ高の女を犯させてくれるんだろう? てめぇも同じ毒で死ぬ。そんでもって死体で遊びつくしてやるよぉ。俺、別に生きてなくたってあんたみたいな美人なら全然オッケーだしぃ!」


「いやだっ! やめて、離してっ!!」


 そして首筋に蛇の牙が突き立つ。

 直前。




 ドゴォン、と岩が破砕するような強烈な打撃音が上がり、四方八方の壁に跳ね返って響いた。


 突如の音に耳を塞いで目を瞑っていたフレイアが目を開けると。


「――残念ですが私に毒は効きませんねぇ。どんな毒でも体内血清を作るまで120秒はあれば足りますから」


 そこには全身に翠の怪しい輝きをまとうティーウが立っていた。

 確かにそこに立っていたのはティーウだったが、それはフレイアの知らないティーウの姿だった。


 目つきはいつもの数百倍近く鋭敏になり、声色も澄んだ剣の切っ先のように怜悧だ。

 そして、その背中の傷を見たフレイアは唖然とした。


「嘘……!? 傷口が……〝燃えてる〟……?」


 文字通り、翠色の炎が傷に沿ってメラメラとたゆたっているのだ。

 毒々しく深い――言い得るなら緑黒い色というべき炎が。


「ティーウ? ティーウ=メリッサ!? アイオーン軍の名誉衛生兵の……〝聖炎(セントエルモ)のティーウ〟か!」


 ティーウに蹴り飛ばされた先でデスクを巻き込み、書類に体中を埋めた男が言う。

 ティーウは裾の埃をはたきながらそちらにゆっくりと歩み寄って行く。


「そういうことです蛇ヤロー。こちとら諸事情につき体内の酵素を作る器官が異常発達しておりましてね。体内で色んな成分を合成できるんですよぉ。軍では『ヒュギエイア体質』とか呼ばれてましたケド。それをパーティクルスロットの効果で炎として具現できるんです。毒にも薬にもなる炎ですね、便利でしょ?」


 しゃがんで蛇男の胸倉をつかむと、その手に翠色の炎が現れる。男の服がちりちりと焼けて行く。


「あなたの体内毒はα‐ブンガロトキシンとファシキュリンの複合毒ですね? これはヒドイ。一般人なら即死モノです。そんな強烈なものを遠慮なく人の身体にぶち込むあなただ、いつでも死ぬ覚悟はおありとお見受けしてよろしいですね?」


「ひ、ひっ、火ぃぃぃいい!」


 次の瞬間、ティーウはもう片手でサーベルを抜き。


「ちぇすとぉぉぉ!!」


 と、翠の炎を宿した直剣でナーガの頭をみねうち。


 するとどうだ。男の身体が弛緩したようにぐらりと揺れ、そのまま横になって意識を失ってしまった。さっきのティーウと同じように倒れた身体が痙攣している。


 ティーウはそれを確認すると、ため息を零しながらゆっくりと立ち上がった。


「……ふぅ、まったく困ったものです。ですがこれで裏は取れたでしょう。フレイアさん、急いで本署に連絡を。証拠捜索のためこちらに人員を回してもらってください。あとコイツ、適当にしょっ引いて帰りましょう」


「あ、あのティーウさん? その人は……?」


「え? ああ、この人ですか。この人の持ってる毒と同じ毒を数倍の濃さで入れておきました。じきに良くなりますよ」


 とは言っても2週間後くらいでしょうけど、と朗らかな口調で言う。

 その顔にはいつもの好青年的な笑顔があった。





 あれから数日。


 無事に事件の裁判も終わり、一息がついた朝。


 結局、あの事件に関してはグノーヴルの倉庫から発見されたマーメイドパフュームの残り材料と組成式を書いた魔導書が見つかり、それを証拠としてグノーヴルという会社が訴えられる羽目になった。


 被害者かと思われていた娼婦もグノーヴルに金で雇われていたらしい。


 それらの記事を見ながら、ティーウはフレイアと同じテーブルでコーヒーを啜っていた。


「こわいこわい。職は公務に限りますね。度を越えた潰し合いが起きにくいですから。

 ――あっ、お化粧とルージュ元のに戻したんですか。いいですねぇ……我が事務所の招き女神ですねぇ」


 とかなんとか、ぬかす。

 私はあなたというセクハラ上司を潰したいのだけれど、と思うフレイアだった。



 でも、起訴状への捺印はもう少しだけ様子を見ることにしよう、とも思うフレイアだった。


end

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― 新着の感想 ―
[良い点] ティーウとフレイアのやり取りが面白い! [一言] とりあえず、フレイアは頑張ってほしいです(笑) 凄く面白かったです! 二人の事件を解決するところをもっと読んでみたかったです(笑)
2015/07/30 22:04 退会済み
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