第一話 幼なじみVS彼女様 その1
まさに、晴天の霹靂。
地を這う衝撃。
魂を揺さぶられる勢いでけたたましく鳴り狂う目覚まし時計の息の根を止めるため、僕の手は条件反射的に働く。――電源、OFF。
勝ち取った静寂と微睡みの中で、僕は卓越した神のように、むくりと起き上がった。
軋まない床上から。
半覚醒状態のまま、重力に逆らってまぶたを数回開け閉めしたところで、ようやく視界が開け始める。次第に僕の世界に映りこんできたのは、マジックで殴り書きされたような乱雑な文面。
『むしろ一般人こそ、歯は命』
・・・・歯?
まるで覚えのない文章は、壁に無造作に貼られた画用紙に書かれていた。それだけでは無い。壁という壁、天井、本棚の柱、なんとドアノブにまで、隙間なくしかし雑多に張り紙が貼付されている。その書かれている内容全てが、・・・・幼時期道徳レベル。あまりにもお粗末なもの。
『あいさつは、心の身だしなみ!』
『人様に向けてのオナラ厳禁』
『目上には無条件でへりくだれ!』
あいさつに関しては、ちょっと上手い事つぶやいてみた気取りが窺える。
かと思えば、『お前は誠実な漢だ!』『医学科の彗星になれ!』など、時代錯誤な激励類まで揃っている。とりあえず、全てを見るのは後回しにして、というか、未来永劫トワに後回しにすると心に決めて立ち上がる。
軋まない、床上から。
嫌な予感は当たるもので、廊下に出たところでも、地獄絵巻ならぬ、張り紙草子は見渡す限り、永遠と続いていた。
そのあまりにも異様な光景に、これは夢かもしれないと希望的観測を抱き始めていた僕の思考を、急遽頓挫させる文章が目に飛び込んできた。
『お前の大好物は、茶碗虫!』
その文章を見つけたとたん、何故だか分からないが、突然胸をわし掴みされたようなムズ痒い懐かしさがこみ上げてくる。
この文章には、覚えがある…!覚えがあるぞ!へんな虫!
「グッモーニンー!!すっばるぅ!」
気まぐれに吹き荒れる神風のように、突然、僕の視界を遮って現れたのは、ツインテールの少女。白い歯をのぞかせ、満面の笑顔で唖然とする僕の胸に飛び込んでくる。――と言えば聞こえがいいが、実際は、興奮した闘牛さながらの猛突進を受け、僕のあばら骨が冗談では済まされないダメージを負う。ついでに、呼吸筋も麻痺したようで、僕は一瞬だけ呼吸困難に陥った。
「すばるちゃんったら大袈裟ぁ。これくらいの寸止めでー」
寸止めって、皮一枚隔てるって意味ですけど!隔てられて無い場合は、只のみぞおちですけど!
息をするのがやっとで文句も言えないが、人を瀕死に追いやった張本人に脳天気にキャッキャされると、殺意が芽生えるものだと理解する。
「これくらい避けれなきゃ、花蓮ちゃんの相棒は務まらないぞ?」
ええい、女相手だが、法律破って殴ってやりたい。
「・・・・お前さ」
「お前じゃないよ!花蓮ちゃんだってば」
「・・・・花蓮ちゃん・・って誰?」
僕の質問は、実に的を射たものだった。――はずだった。それなのに、彼女ときたら、ひどく傷ついたと言わんばかりに目頭を熱くさせる。泣きたいのは、むしろこっちだってのに。
「ひどいっ・・・すばるちゃんったら、あの夜を忘れたなんてっ・・・」
「・・・・おい」
何か、変なスイッチ入った?
「男って、みんなそうなのっ!?みんな、起きたら夢が覚めたみたいに、隣に眠る女のことなんて綺麗サッパリ記憶にございませんって開き直るのねっ!男ってやっぱ最っ低っ!!」
「・・・おーい・・・」
初対面相手に、やっぱは無いだろ。
お前は、あれか?当たり屋か?
それとも、重い妄想癖があるどっちかって言うと、可哀想な分類に入るあっちの御方か?
三流芝居も良いところな一人劇を演じた彼女は、ー通りやり終えて満足したのか、改めて僕に向き直る。
「まぁ、それはそれとして」
―――それは、置いておかないのね。
「私が誰かって質問の前に、もっと他に大事な質問があるでしょうが!この鈍ちん」
そう言って、我が子をめッと叱る激甘な親のように、コツンと頭を小突かれる。
正直――――見ず知らずの赤の他人に、出会い頭の挨拶と言わんばかりにタックルされ、みぞおちを強打された僕としましては、あなたの正体が今一番輝いて気になるところなのだが。
「その顔はぁ・・・まだ思い当たってないな。こりゃー先が思いやられるわぁ・・・」
「他に質問って・・ああああ、なんで僕の部屋にはベッドが無いんだよっ!」
「ありゃま、そこに食いつきますか」
「知ってる顔だな・・・」
「私が、知らない・・・と言ったら?」
「無理矢理にでも聞くさ・・・力づくでもな!」
とか、三流芝居に入隊してどうする!!!
落ち着け!!!
自分を見失ったら、よく分からん内に引き摺りこまれるぞ!
彼女は呆れたようにため息を吐くと、口をすぼめながらかぶりを振った。
「もっと根本的なことよ。じゃあ、あたしから訊いてあげる」
そこで、もったいぶるように一息入れた彼女は、突如挑発的な視線で僕を視た。
「あなたは、誰?」
―――僕は・・・誰だって?
浅はかな質問だ。そんなの決まっている。
「僕は――――・・・!」
―――――――――信じられない。
言葉が・・・続かなかった。
「3択にしてあげよっか?1番、鶏頭昴流くん。2番、奇人変態昴流くん。3番、記憶障害の昴流くん」
ああ、ツッコミどころ満載なのに、何も思い付かないなんて。
あああ、それどころじゃないよな。
冗談じゃないぞ。
自分の名前すらピンと来ないなんて・・・僕は、一体どうなってるんだ?
「・・・記憶障害、なのか?僕は」
「さっすが昴流くん。冷静だね~。可愛くないね~相変わらず。ここは、もうちょっと取り乱してほしいところよねー」
そう言いながらも、何だか嬉しそうな顔をする彼女に、僕は再度問いかける。
「記憶障害なのか?」
「ま、そう焦んなさんな。その話は追々としてあげる。まずは、日課だから歯を磨いてね。その間にあたしが、軽く問診しまーす」
「おい、花蓮、いつまでもふざけてるなよ!」
思わず、彼女の肩を乱暴に掴んでしまった僕に、彼女はキツネにつままれたような顔をした。恐らく、僕だって鏡のように同じ顔をしていただろう。
今、自然に彼女の名前が出た・・・?
「大丈夫だよ」
ふわりと。
安堵した声が降ってきた。見れば彼女が心底嬉しそうに、弾けるような笑顔で僕を見つめていた。
「昴流ちゃんは大丈夫。だって、あたしがついてるもん」
そう言って、まるで大切な贈り物をその胸に抱くように、僕の身体を優しく強く抱きしめる。
「あたしの名前は、茅野花蓮。あなたの幼なじみだよ」