名前を呼んでくれるだけでよかったのに。
聖女の仕事は過酷です。
聖女に選ばれる事は名誉な事である、と誰かが言った。
私欲を捨て、人々の安寧の為に神に祈りを捧げる存在が聖女である。
聖女として巡礼の旅を行い、各地の教会で祈りを捧げる。
旅が終わる頃に聖女は次代を指名して俗世に戻る。
そうして、凡そ60年周期で新たな聖女が巡礼の旅を始めるのだ。
「わたし、聖女になんてなりたくないわ」
先代の聖女が指名した、夏の終わりの生まれで北の大地に生まれた見事なピンクブロンドの髪と青い瞳の持ち主である姉はそう言った。
巡礼の旅は10年かかる。
華の10代を私欲を捨てて、人々の為に祈り続けるだけの時間にするなど真っ平御免だと言って、どうにかならないかを両親に聞いていた。
「そうね、やっとロックハート伯爵家との縁談が纏まったばかりですもの」
貧乏な我が家と縁戚になる理由は、先代が指名した聖女の生まれる家系だからだと聞いた。
還俗した聖女は、子孫3代苦労しない程の財を王家から賜るのが慣例だ。
まあ、要は聖女のおこぼれに預かろう、と言う訳だ。
巡礼の旅に出る前からそんな風に扱われても娘を聖女と言う生贄として差し出せば豊かな暮らしが約束されているのだから、両親は今のうちから皮算用をしている。
「そうだ、あんたが代わりに聖女になりなさいよ」
姉は名案を思い付いたと言わんばかりに明るい口調でそう言った。
確かに、私も夏の終わりの生まれだし、この北の大地の生まれだ。
だけれども、ピンクブロンドと青い瞳とは程遠い明るい栗色の髪と黒い瞳はどう誤魔化すつもりでいるのだろうか。
「どうせ60年も前の指名なんて、誰も正確に覚えてなんかいないわよ」
「そうだ、ナタリアの言う通りだ」
両親は姉に甘い。
昔から、姉の我儘はなんでも通して来ていた両親だが、まさか、聖女のすり替えに疑問を持たない程だとは思わなかった。
そんな家族を何処かで諦めて受け入れている私も私なのかもしれないけれど。
そんな訳で、先代からの引き継ぎの儀式に私はなるべく偽物だとバレない様に振舞った。
聖女らしく、敬虔で、私欲なく、人々の安寧の為の巡礼に出る15歳の私の背中を姉と両親はチラと見る事もなかった。
それでも構わないと思った。
私はどうせ、両親が溺愛する姉とは違い、替えの効く存在なのだ。
◇
聖女の巡礼は滞りなく。
しかし、各地の異変は鳴り止む事を知らない。
歴代の聖女で尤も勤勉で敬虔な聖女ナタリアは王国の誇りである筈だった。
先代の聖女カトリーナも太鼓判を押している。
だからこそ、王太子オリバーは自分の目で確かめる為に聖女の逗留する土地に足を運んだ。
栗色の髪に黒い瞳の聖女は民衆の声に真摯に耳を傾け、救いの手を差し伸べていた。
それでも異変は終わらない。
神に深く愛される聖女の巡礼において、今迄に有り得なかった出来事である。
神像に祈りを捧げる聖女の姿は神々しく、誰もが涙を流した。
艱難辛苦も、聖女の巡礼に依って救われる。
一般的にはそう伝わっているが、実際には少々異なる。
聖女の巡礼の旅の始まりは王家が精霊に対して犯した罪に対する贖罪の旅であり、初代の聖女が誕生してから2000年、精霊は1度たりとも姿を見せていない。
即ち、2000年を経てなお、王家は赦されてはいないのだ。
故に、60年に一度、聖女は巡礼の旅に出る。
聖女の巡礼によって、凡そ60年の間は魔物の暴走も起きず不作に悩まされる事のない平和が約束される。
しかし、聖女ナタリアが巡礼を始めて3年。
確かに巡礼は滞りなく進んでいるにも関わらず、国のあちこちで不満の声が上がっている。
「貴殿が、聖女ナタリアであるか?」
オリバーの問いかけに、祈りを捧げていた聖女ナタリアは顔を上げる。
ひゅ、と、オリバーは思わず息を飲む。
ガラス玉の様な瞳。細い、を通り越して痩せぎすの身体。
立っているのもやっとなのであろう事は見てとれた。
「―――待て。キミは、何処かで見た事がある」
オリバーは記憶を手繰り寄せる。先代の指名した聖女と、生まれた頃と生まれた土地は同じでも、髪色と瞳の色の異なる少女。
ティムール・ベクマンベトフ男爵に、確かに汝の家系に生まれると信託を受けた乙女であるか、と言う問いかけに、男爵夫妻は
「間違いなく、この娘でございます」
と言った。
髪色や瞳の色は、成長により変質する事も稀にあると聞く。
だから、誰も新しい聖女・ナタリアに疑いを向ける事など考えもしなかった。
「―――…ルカ。そうだ、其方は、私の7歳の誕生日に、中庭で出会った、ルカであろう」
聖女ナタリアの黒い瞳が大きく見開かれた。
「いと尊き王太子殿下。ただの一度、城に上がった見窄らしい私の名を、覚えていらしたのですか」
先代の聖女が指名した聖女の生まれる家系であり、生まれた頃と生まれた土地、髪色と瞳の色が合致する娘、と言う事もあり、幼い頃に一度だけ、聖女ナタリアは王城に両親と妹を伴って登城した事があった。
ナタリア嬢と男爵夫妻は王家に取り入ろうと必死だった。
そんな3人の傍らで、手持ち無沙汰にしていたのが聖女ナタリアの3つ下の妹だった。
『何をしている?』
『星告草を見ています』
この草があれば、領地で解熱剤が調合出来るのだと、娘は言った。
『ベクマンベトフ領では星告草は自生していないので手に入らないのです』
北の大地である男爵領では暖かい場所に群生する星告草はなかなか手に入らず、ただの風邪を拗らせて命を落とす領民もいるのだと、舌足らずな言葉で娘は言った。
『お姉様が聖女になれば、私の故郷にも星告草は咲くのでしょうか?』
幼いながらに領民を思いやる娘の姿を見て、オリバーは娘について探りを入れた。
名前はルカ。
男爵の祖母に似た容姿をしている、と言うそれだけの理由で両親から蔑ろにされていて、姉のナタリアも両親に便乗している。
性格も、男爵の祖母に良く似ているらしい。
―――そのルカが、何故、聖女ナタリアとしてこの場にいるのか。
オリバーは確かめる事にした。
◇
「聖女様、お加減は如何ですか?」
聖女付きの侍女であるミーシャは痩せ細った聖女の身体を支える事を誇りに思っていた。
ミーシャの身体には精霊と人と世界を繋ぐ種族と呼ばれるエルフ族の血が半分程流れている為、聖女の侍女に選ばれた。
先代のカトリーナ、先々代のリリーナと続いて3度目の侍女就任。
ミーシャはナタリアを今迄仕えた聖女の中でも最優であると認識し、ナタリアと共に巡礼の旅を歩む事を喜ばしい事であると考えている。
巡礼の旅は過酷だ、旅の始まりには女性らしい身体付きをしていた聖女ナタリアは食が細い事も手伝って礼拝の時間以外は床に伏せる程に細い。
木乃伊、と言う言葉が頭に過ぎる。
手のひらを口元に当て、微かに呼吸がある事に安堵する。
教会の関係者が「今迄に見た事が無い」と驚く聖女の状態を、だからこそ、巡礼が終わる時には王国に繁栄が齎されるのだと皆一様に口にする。
(いつ死んでもおかしくない状態なのに、辛うじて生命を繋いでいらっしゃる...)
聖女ナタリアの周囲には、強い力を感じる魔素が巡っている。
医師は、「恐らくこの強い魔素が、聖女様の生命を繋いでいるのでしょう」と言った。
それ以外に、聖女ナタリアが生命維持が出来ている理由が分からないと言っていた。
人間族が魔素で生命を繋ぐなど、ミーシャは今迄に見た事がなかった。
それは本来、エルフ族の特性である。
エルフ族が精霊と繋がる種族であるのは私欲なく、精霊と共に生きる事が出来る性質―――即ち、本来人類が持ちえる三大欲求が排除されている存在だからである。
聖女ナタリアは、人間でありながらエルフ族に近い境地に至っている。
彼女こそ、真なる聖女であるのだ、とエルフ族の長老が口にしていた。
国の各地で起きている異変は、真なる聖女の誕生への祝福であるのだと。
長い苦難の時代は終わりを迎え、人類は未曾有の繁栄を得る事になるだろう、と長老は王家に伝えた。
「もうすぐ、旅も終わりを迎えますね」
薄らと開いた瞳はガラス玉の様だ。
ミーシャは、人生で最優の主君であるナタリアにそっと水差しを差し出すのだった。
◇
―――聖女ナタリアが帰郷する。
そうか、もう10年が経過したのか。
時の流れとは速いものであるな、と考えながら男爵は帰郷の報せを受け取った。
本物のナタリアはロックハート伯爵家に輿入れし、この10年の間に4人の子宝に恵まれた。
ナタリアの子供達―――男爵の孫達は皆床に伏せがちだ。
替わりとはいえ聖女が帰郷すれば、それもまた癒えるだろう。
慣例に従えば、聖女が帰郷から3代苦労しない王家からの支援も得られるのだ、何の問題も無いと男爵は考えていた。
暫くすると、男爵領に聖女が入ったとの一報も入る。
「―――王太子殿下が?」
「はい、聖女ナタリア様は王太子殿下に伴われて療養なさっていらっしゃる、と...」
地味で目立たず、それでいて女の身の上で領地経営に口を挟む祖母に似た厄介な次女を、男爵は嫌っていた。
だからこそ、ナタリアが次女に聖女の役目を代わって欲しい、と言った時には男爵はその提案をすんなり受け入れた。
聖女の巡礼の旅が過酷を極める事はこの国に住む誰もが知っている、可愛いナタリアに聖女と言う、名前だけは立派な苦労しかない人生を遅らせる訳にはいかないと思った。
すり替えの後、ナタリアとして次女が旅立ったのと入れ替わりにナタリアは次女として、ロックハート伯爵家に嫁いだ。
「髪色と目の色はどうしたのか」
「ルカ嬢は薬草学に長けていた筈であるのに、初歩的な調合をミスし、現場で混乱が起きている」
「帳簿を読む事も出来ないとは、男爵家ではどの様な教育をしているのか」
様々な伯爵家からの苦情も、あの娘が帰って来たのであれば問題ない。
あの日と同じ様に、ナタリアと次女をすり替えれば良いのだ。
婚家で肩身の狭い思いをしていると嘆くナタリアを救うにはその方法しかない。
ナタリアは男爵家に戻り、元聖女として豊かな生活が約束され、あの娘はロックハート伯爵家で肩書きだけの伯爵夫人としての生活をすればいい。
男爵は本気でそう考えていた。
王太子が領地に来ている、と言う事は、元聖女に対する謝礼の話をするつもりなのであろう、と男爵はほくそ笑んでいた。
男爵は夫人と、たまたま帰郷していた本物のナタリアを連れて、聖女ナタリアの療養先に意気揚々と向かうのだった。
◇
...私が、巡礼の旅を苦難だと思わなかったのは、故郷である北の大地に住む領民達の為だった。
例え偽物でも、聖女として巡礼を完遂させる事が出来た時、領民が今より少しだけでも豊かな生活を送る事が出来る様にと、聖女へ支払わる謝礼は私の望む様に動かす事を約束して下さる、とオリバー王太子殿下は仰った。
全てが明らかにされて、私も、お父様達の首が飛ぶ事になっても構わないと思いながら10年、ずっと歩いてきた。
私がいる療養院に両親と姉が姿を見せている。
ほんの10年で、私の家族は随分と老け込んだ様に見えた。
『―――あの者達を、この娘に近付ける事は許しません』
私の傍らに、美しい碧色の髪を靡かせた女性が立って、そう言った。
古い文献で、見た事がある。
彼女は水の精霊で、本来とても穏やかな精霊なのだが、そんな彼女が私の為にそう言ってくれた。
私の周りには他にも、巨大な山椒魚に似た姿で、熱い焔を纏った火の精霊、流れる金髪に美しい虹色の翅を持った風の精霊、小さな身体で自分よりも大きなツルハシを抱えた大地の精霊がいた。
『偽物の聖女でいいの?』
初めて彼等の姿を見た時、私は思わずそう呟いた。
『私達は、貴女が良いのです。
歴代の、聖女の名を持つ者達の中で唯一、貴女だけが私達を蘇らせる事が出来たのですから』
形骸化した聖女の祈りは決して、精霊には届かず精霊を蘇らせるに至らなかった。
けれど、真摯に土地で生きる者達と向き合うルカの声は精霊達に届き、精霊を蘇らせた。
精霊達は私を10年、ずっと守ってきた。
額には、精霊の王である証がハッキリと浮かんでいた。
『此処に、2000年の贖罪は果たされました』
彼等が言うには、私の前世である彼等の王はこの国の、当時の国王に輿入れした。
だけど、精霊と人間の間に子供を持つ事は出来ない。
それが分かっていて王を妻として迎えたにも関わらず、王を蔑ろにし、最期には謂れの無い罪で毒杯を賜らせた。
王を喪った精霊は世界から姿を消した。
精霊のいない大地は腐り果てて死んでしまう、と神託を受けた当時の王家は2000年の永きに亘り、神に選ばれた聖女を代理として立てて贖罪を続けた。
その贖罪が、やっと精霊に届いた、と言う訳だ。
私は、生きながらにして死んでいる。
だからこそ、この10年で人間としての私は機能を停止し、精霊の肉体へと生まれ変わった。
精霊の王の権限を以て、大地に祝福を与える、ただそれだけの為に姿を世界に現しているに過ぎない。
王太子殿下は憐れむ様に私を見ている。
今、世界で唯一、「ルカ」と、私の名を呼んでくれるからこそ、私は辛うじて人の姿で故郷に足を踏み入れる事が出来ているのだ。
「―――聖女の名前?」
王太子殿下の問いかけに、両親も、姉も口篭る。
私が、ほんの僅かな間、再び人間として生きる為には両親が正しい名前で私を呼ぶ必要がある。
両親も姉も、私が精霊へと変生している事を知らない。王家が、私が先代から指名された聖女ではないと把握している事を知らない。
ここで私の名前を出せば首が飛ぶ事を恐れている。
ロックハート伯爵家に、10年もの間、嫁入りした筈の次女が指名された聖女である事を詳らかにされる事を恐れている。
「―――ナタリア、に、ございます」
思い返して見れば、私は両親からも、姉からも、名前で呼ばれた事は無かった。
「あれ」
「次女」
「スペア」
...他にもいろいろと呼ばれてはいたけれど、「ルカ」、と呼ばれる事は一度たりとも無かった。
私の婚約者として婚約を打診したロックハート伯爵家嫡男、リィンハルト様も私を
「聖女の妹」
と呼ぶ事はあれど、名前で私を呼ぶ事は終ぞ無かった。
『行きましょう、我等が主。我等が王。人の世を離れ、その行く末を見守りましょう』
私は、精霊達の手を取って世界に溶け込んだ。
私が新たな精霊の王となり、精霊が蘇った事で国は恒久的な繁栄を手に入れる事となる。
次代の聖女はもう生まれない。
私が世界に溶け込んで数年で、両親と姉は伯爵家からの縁が切れた結果、家財の殆どをそのままに、逃げる様に夜の闇に消えたと風に乗って聞こえてきた。
嗚呼、せめて。
名前を呼んでくれるだけで良かったのに。
偽物だった筈の聖女が本物になり、精霊の王となる。
世の中は不思議なものです。




