表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却の残月  作者: ysk
1/7

名を喰らう都

まえがき


春は、匂いから来る。


雪がほどける匂い。

芽吹きの匂い。

人が生きている匂い。


だが、ある年。

その匂いが消えた。


山里から始まった異変は、やがて都へと流れ込む。

鬼は人を喰らうのではない。


名を喰らう。


呼ばれたはずの名。

確かに在ったはずの記憶。

そこにいた証。


それらが静かに削り取られていく。


残されるのは、説明のつかない空白だけ。


朔という少年は、その空白を胸に抱えている。

なぜ涙が流れるのか。

なぜ刃を振るうのか。

なぜ胸が痛むのか。


理由だけが、抜け落ちている。


彼の持つ退魔太刀「白焔」は、鬼を斬るたびに記憶を映す。

それは鬼となった者の痛みであり、

名を呼ばれなかった者の孤独であり、

忘れられた存在の残響である。


鬼とは何か。

都とは何か。

そして、人が人である証とは何か。


この物語は、

消された名を取り戻すための物語であり、

空白と向き合う少年の旅である。


春の匂いが戻るその日まで――。

【平安中期 長保三年卯の刻 山城国・北山の麓の小村】


夜明け前の空は淡く白み、山の端にわずかな紅が滲んでいた。


昨夜の雪が畑も屋根も覆い、村は静まり返っている。


少年は凍りついた若芽に触れ、指先を見つめた。


「……匂いが、ない」


背後で老婆が言う。


「春の匂いが消えたのじゃ」


少年は振り向く。


「匂いは、消えるものなのか」


「人の心と同じよ。抜け落ちることもある」


少年は胸に手を当てた。


「……鬼の仕業、ということか」


「三日前から山に影が出る。気をつけるのじゃ」


少年は静かにうなずいた。


「確かめてくる」


第一章 残された刃


【平安中期 長保三年卯の刻 山城国・北山の麓の小村】


夜明け間近の村は静かだった。


東の空は、わずかに白み始めている。


冷えた朝気に、血の匂いが重く沈んでいた。


朔は立ち尽くしていた。


崩れた家屋。

裂かれた障子。

倒れ伏す人影。


呼びかけても、返事はない。


握り締めた太刀だけが、やけに重かった。


それは父の形見――退魔太刀「残月」。


鞘から抜けば、淡く鈍い光を帯びる刃。


そのとき。


倒れた者の影が、ゆらりと揺れた。


肉が裂け、骨が軋み、

それは“人だったもの”の形を失っていく。


鬼。


黒ずんだ皮膚。濁った眼。

だがその奥に、かすかな揺らぎがあった。


「……さむい……」


低く、掠れた声。


朔は踏み出す。


恐怖より先に、怒りがあった。


鬼が嗤う。


地を蹴り、跳躍。

振り下ろされる腕。


朔は無我夢中で刀を振るった。


刃が肉を裂く。


その瞬間――


流れ込んできた。


飢え。

凍える夜。

誰にも呼ばれなかった名。

捨てられた記憶。


朔は膝をつく。


これは、鬼の感情。


胸が裂けるように痛む。


叫びとともに、もう一度刃を振るう。


深く。


首が落ちた。


鬼は黒い霧のように崩れ、朝の光に溶けて消える。


静寂が戻る。


残月は重く沈黙していた。


朔は荒い息を整える。


涙が流れている。


だが――なぜ泣いているのか、わからない。


何かが、ひとつ、胸の奥から抜け落ちた気がした。


だが思い出せない。


何を失ったのか。


足元に、血に濡れた紙片が落ちている。


滲んだ文字。


「……都へ」


誰が記したのか。


鬼か。

それとも、別の何者か。


朔は東の空を見上げる。


朝日は、容赦なく昇ろうとしていた。


村には、もう何も残っていない。


残ったのは、刀だけだ。


「……行く」


小さく呟く。


都へ。


鬼の源を断つために。


そして、自分が何を失ったのかを知るために。


朔は歩き出した。


振り返る理由があったはずなのに、それを思い出せなかった。

第二章 山道の影


【平安中期 長保三年辰の刻 山城国・北山を下る山道】


朝日はすでに山を越えていた。


朔は一人、山道を下っていた。


振り返らないと決めたはずなのに、足がわずかに止まる。


だが、振り返る先に何があったのか――思い出せない。


胸の奥に空白だけが残っている。


残月の重みが、現実を引き戻す。


鬼を斬った感触。

流れ込んだ感情。


あれは夢ではない。


山を下りきった先、小さな辻堂が見えた。


戸は半ば壊れ、供え物は荒らされている。


人の気配はない。


だが。


「……誰か、いるのか」


かすかな物音。


朔は刀の柄に手をかける。


堂の奥、暗がりの中。


痩せた男が、壁にもたれ座り込んでいた。


足元には黒い血だまり。


「鬼が……出た……」


掠れた声。


「娘を……連れていった……森の方へ……」


朔は目を伏せる。


娘。


その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。


だが、なぜ胸が痛むのか、わからない。


「どれほど前だ」


「夜……まだ、遠くへは……」


男の声は震えていた。


恐怖だけではない。


守れなかった者の、重い後悔。


朔は静かに立ち上がる。


森を見る。


風はない。だが梢がかすかに揺れている。


鬼は、近い。


残月を抜く。


刃は光を吸い、淡く沈む。


「……待っていろ」


誰に向けた言葉か、自分でもわからない。


朔は森へ踏み込む。


木立の奥、腐臭が漂う。


やがて見つけた。


少女を抱えた影。


人の形を保ちながら、顔だけが歪んでいる。


鬼はゆっくりと振り返る。


その目は、まだ濁りきってはいなかった。


「返せ」


朔は低く言う。


鬼が口を歪める。


「……返せと? 俺は、ただ……腹が……」


言葉は途中で濁る。


理性と衝動が絡み合った声。


朔は駆けた。


鬼が少女を投げ捨て、両腕を振るう。


刃が閃く。


腕を断つ。


血が飛び散る。


その瞬間――


流れ込む。


飢え。

家族を失った夜。

盗み、追われ、石を投げられた日々。


朔の視界が揺れる。


違う。


こいつも――元は人だ。


刹那、躊躇が生まれる。


鬼の牙が迫る。


咄嗟に身を捻り、首を薙ぐ。


重い手応え。


鬼は崩れ、黒い霧となって消えた。


森に静寂が落ちる。


朔はその場に膝をつく。


胸が締めつけられる。


息が荒い。


少女の泣き声が、遠くで響いている。


さきほどまで胸にあったはずの何かが、思い出せない。


何を失ったのか、わからない。


朔はゆっくり立ち上がる。


少女を抱え、森を出る。


辻堂の男は娘を抱きしめ、地に額を擦りつけて声を上げて泣いた。


朔はそれを見つめる。


温かな光景。


だが、どこか遠い。


「……都へ」


小さく呟く。


鬼は偶然ではない。


生まれている。


増えている。


ならば、その源を断つ。


山道の先、都へ続く道が伸びている。


朔は歩き出す。


残月の重みとともに。


胸の空白が広がっていることに、まだ気づかぬまま。


第三章 朱雀門の噂


【平安中期 長保三年巳の刻 山城国・都へ続く街道】


都へ向かう街道は、人の往来が絶えなかった。


牛車。

旅僧。

荷を背負う商人。


朔はその流れの中を、静かに歩いている。


視線が刺さる。


年若い少年が太刀を帯びているのだ。


だが誰も声はかけない。


この道は、鬼の噂が絶えぬからだ。


前を歩く商人たちの声が耳に入る。


「また消えたらしいぞ」


「どこだ」


「朱雀門の近くよ。夜回りの下人が」


朱雀門。


都の正門。


朔の足が、わずかに止まる。


「門のそばで影が立っていたとよ」


「影?」


「月もない夜に、影だけが伸びると」


笑い声が混じる。


だが、その奥に怯えがある。


朔は歩を早めた。


都は近い。


やがて瓦屋根の連なりが見え始める。


【平安中期 長保三年未の刻 山城国・平安京外郭】


都は広い。


そして、匂う。


人の欲。

妬み。

飢え。


村や山とは違う、濁った気配。


朔の胸の奥で、残月がわずかに震えた。


鬼は、ここにいる。


門前で立ち止まる。


朱雀門。


堂々たる構え。


だがその柱の影が、不自然に濃い。


陽は高いはずなのに、影が揺れている。


朔は目を細める。


見間違いではない。


影の奥に、もう一つの影。


人の形をしているが、厚みがない。


「……見えるのか」


低い声が、背後から落ちた。


朔は振り返る。


黒衣の男が立っている。


年は三十ほど。


鋭い目。


だが、腰に刃はない。


「何がだ」


朔は答える。


男は薄く笑う。


「門の影だ。あれはただの怪談ではない」


風が吹く。


門の影が、ゆらりと伸びる。


それは一瞬、朔の足元まで迫った。


残月が、かすかに鳴る。


低く、鈍い音。


鬼よりも重い。


男が呟く。


「都ではな……鬼は人を喰わぬ」


朔は眉をひそめる。


「なら、何を喰う」


男は朱雀門を見上げる。


「名だ」


沈黙が落ちる。


「都ではな、名が消える」


下人。女房。童。


夜ごと、一人ずつ。


死体は出ぬ。


血もない。


ただ――


その者が、この世に在ったという痕だけが消える。


朔の胸がざわつく。


それは、己の空白に似ている。


「都へ来たのなら、引き返せ」


男は言う。


「ここは、山より深い」


朔は残月を握る。


「源は、ここにある」


男はしばし朔を見つめた。


やがて小さく息を吐く。


「……ならば、生き延びろ」


黒衣の男は、人波に紛れて消えた。


朔は再び門を見る。


影が、揺れている。


それはまるで、都そのものが呼吸しているかのようだった。


朔は一歩、都へ踏み入れる。


胸の空白が、都の影に応じるように疼いた。


第四章 影を失くした都


【平安中期 長保三年酉の刻 山城国・平安京】


都は、夕暮れに沈みかけていた。


朱塗りの門、整えられた大路、牛車の軋む音。

人々は行き交い、商いの声も絶えぬ。


――それなのに。


どこか、色が淡い。


人は笑っている。

だが、声が薄い。


音はあるのに、温度がない。


「都ってのは、もっと騒がしいと思ってた」


朔は小さく呟いた。


白焔が答える。


「騒がしさと、生気は違う」


その意味を考えたとき、

朔の視線が止まった。


大路の端。


一人の少女が立っている。


年は朔と同じくらい。

白い小袖に薄紫の袴。

長い黒髪が風に揺れる。


しかし――


足元に、影がない。


夕陽は確かに照っている。

周囲の人々の足元には、長く影が伸びている。


だが、彼女だけが、何も地に落としていなかった。


朔は無意識に歩み寄る。


「……お前、ひとりか?」


少女はゆっくりと顔を上げる。


瞳は澄んでいる。

だが、奥に揺らぎがあった。


「影が……ないの」


朔は黙る。


「いつからだ?」


少女は首を横に振る。


「……長いあいだ」


「家族は?」


「わからない」


風が吹く。


その瞬間、朔の足元の影がわずかに揺れた。


いや――揺れたのではない。


濃くなった。


不自然に。


白焔の声が低く響く。


「離れろ」


朔は少女の腕を掴み、後ろへ引く。


地面が波打つ。


影が盛り上がる。


人々は誰一人、気づいていない。


影だけが、生き物のようにうごめく。


「……な……まえ……」


低く、擦れた声。


地面の奥から。


影の奥から。


朔は刀を抜く。


刃に白炎が走る。


「お前の正体はなんだ」


影が裂ける。


黒い塊が立ち上がる。


人の形をしている。


だが、顔がない。


ただ、闇がある。


「名を……返せ……」


少女が震える。


「わたしの……名前……」


朔の胸が締め付けられる。


――名を奪われた鬼。


白焔が告げる。


「これは山の鬼ではない」


「……ああ」


朔は構える。


「都に棲む鬼だ」


黒い影が朔へ襲いかかる。


朔は踏み込み、横薙ぎに斬る。


白炎が闇を裂く。


悲鳴のような音。


だが、影は消えない。


分裂する。


増える。


「厄介だ……!」


白焔が低く言う。


「名を呼べ」


「は?」


「奪われた名を呼べ」


朔は少女を見る。


「お前の名前はなんだ!」


少女は苦しそうに目を閉じる。


「……あ……」


闇が迫る。


刃が震える。


朔は叫ぶ。


「思い出せ! お前の名前だ!」


少女の唇が震える。


「……暁」


風が止まる。


「暁……!」


その瞬間、白炎が強く燃え上がる。


影が揺らぐ。


朔は一閃。


闇を、断ち切る。


影は裂け、地に吸い込まれ、消えた。


静寂。


人々は何事もなかったかのように歩いている。


少女――暁は足元を見る。


そこに、細く伸びる影があった。


彼女は朔を見上げる。


「……ありがとう」


朔は刀を納める。


「都は、厄介だな」


白焔が静かに告げる。


「鬼は姿を変える」


朔は夕闇に染まりゆく空を見上げた。


山で斬った鬼とは、まるで違う。


これは、もっと深く、静かな闇だ。


その背に、夜の気配が落ちる。


都の闇は、まだ終わらない。


第五章 夜に仕える者


【平安中期 長保三年亥の刻 山城国・平安京】


夜が落ちた。


都は静まっている。


それは眠りではない。


息を潜めているだけだ。


朔は大路を外れ、細い路地へと入る。


暁は少し後ろを歩いていた。


「家は……思い出せそうか」


「……まだ」


そのとき。


屋根の上から声が落ちた。


「その娘から離れろ」


朔は即座に刀へ手をかける。


月明かりの下、黒装束の男が立っている。


細身の刀が静かに光った。


「何者だ」


男は屋根から跳び降りる。


着地の音は、ほとんどない。


「都を守る者だ」


朔は目を細める。


「聞いたことはない」


「聞く者は少ない」


男の視線が暁へ向く。


「その娘には鬼の気配が残っている」


暁が小さく震える。


朔が一歩前に出る。


「鬼は斬った」


「斬ったのは“器”だ」


男の声は低い。


「都には、影を喰う鬼がいる」


朔の目が鋭くなる。


「名を奪う鬼か」


男の視線が一瞬だけ動く。


「知っているのか」


「さっき斬った」


沈黙。


風が細く通り抜ける。


男はゆっくりと刀を納めた。


「ならば話は早い」


朔は警戒を解かない。


「で、何だ」


「我らは都守みやこもり


男は静かに告げる。


「都に棲む鬼を狩る者だ」


暁が息を呑む。


「だが、都の鬼は山とは違う」


「どう違う」


「斬っても終わらぬ」


朔の眉がわずかに動く。


「なぜだ」


「都の奥に“主”がいる」


白焔が、かすかに熱を帯びた。


朔はその震えを感じ取る。


「強いのか」


男は月を見上げる。


「姿を見て生きた者はいない」


静かな言葉だった。


だが重い。


「名を奪われた者は増えている」


朔は暁を見る。


影は戻っている。


だが、まだ薄い。


「そいつを斬ればいい」


男はゆっくりと首を振る。


「主は、人に寄り添う」


「欲、嫉み、恐れ」


「それらを喰らい、都に根を張る」


朔は刀の柄を握る。


「なら、根ごと斬る」


男は朔を見据える。


「名は」


「朔」


「刀は」


「白焔」


その名を聞いた瞬間、


男の表情がわずかに変わった。


「……古い記録にある」


「何だ」


「かつて“主”を斬った刃の名だ」


空気が張り詰める。


白焔が、微かに鳴いた。


朔は低く言う。


「なら、ちょうどいい」


男は静かにうなずく。


「都守は協力を求める」


「断れば」


「敵にはならぬ。だが助けもしない」


短い沈黙。


朔は刀から手を離す。


「行く」


男は踵を返す。


「都の底を見せてやる」


その瞬間。


遠くで、女の悲鳴が夜を裂いた。


三人は同時に振り向く。


白焔が囁く。


「始まったな」


朔は駆け出す。


闇の奥へ。


そのさらに奥で――


何かが、静かに笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ