第9話 もう一つの家
エルヴァイン公爵が公表した事柄によって、ヴォンドラ伯爵家は窮地に立たされているらしい。
その事実を聞いたエルガドは、複雑そうな顔をしていた。彼の中には、まだヴォンドラ伯爵家に対する思いがあるのかもしれない。
とはいえ、彼もすぐに気持ちを切り替えたようで、私達に涼しい顔でついて来た。それは、バルハルド様の元で生きていくことを決めたということだろう。
「さて、こちらに来るのはリメリア嬢も初めてだな」
「ええ、ここが……」
「ああ、レスティア商会の本拠点だ」
ベルージュ侯爵家の領地の町、ラプリードの一角にバルハルド様の商会の本拠点はあった。
今回ここに訪れたのは、エルガドを案内するためだ。ただ、私も何れはここに来る必要があるとは思っていた。これは良い機会だったといえるだろう。
「レスティア商会、ですか……その名前って」
「ああ、俺の母の名前だ。端的に言ってしまえば、父への当てつけでつけた名前だな……しかし動機はともあれ、この名をつけたことに後悔はない」
「はい、良き名前であると思います」
バルハルド様のお母様の名前は、ここにこうして根付いている。それはなんというか、良きことであると思う。
そこで私は、同時に重要なことに気付いた。私はまだ、バルハルド様のお母様に挨拶していないのだ。
よく考えてみれば、それはとても失礼なことである。後日そのことをバルハルド様に謝罪して、きちんと挨拶の場を設けてもらった方がいいだろう。
「エルガド、そういえばお前の母親のことは聞いてなかったな」
「僕の母親、ですか?」
「ああ、俺の母親は俺が幼い頃に亡くなった」
「……僕も同じです。色々と苦労させてしまったからか、早くに亡くなりました」
「そうか」
そこでバルハルド様は、エルガドと言葉を交わした。
同じような境遇にいる二人の会話に、私は入らない。それはきっと、二人にしかわからないことだからだ。
「エルガド、お前はこれからここで自分の力で生きていくことになる。もちろん俺も手助けはするつもりではあるが、お前がだらだらと生きていくことを許すつもりはない。そんなことになったら、俺はお前を容赦なく切り捨てる」
「肝に銘じておきます」
「良い返事だ。その返事が嘘などではないことを期待している」
バルハルド様は、エルガドに対して突き放すような言葉をかけていた。
甘えることは許さない。バルハルド様はそういうことが言いたいのかもしれない。
ただ彼は、努力する者に支援は惜しまないだろう。そしてエルガドは、きっとそれに応えてくれるはずだ。
◇◇◇
バルハルド様は、以前はラプリードで暮らしていたようだ。
その彼の家は、今でもまだ残っているらしい。レスティア商会の本拠点に赴く際は、そちらを利用しているそうだ。
その家に、私とエルガドは招かれた。宿を取っても良かったそうだが、私ができればこちらの家に泊まりたいと言ったため、そうなったのだ。
「長く利用していないみたいですけれど、とても綺麗ですね……」
「その辺りは、人を雇って掃除してもらっているからな」
「まあ、当然といえば当然ですね。ほったらかしにしている訳はないのですから」
ラプリードの家は、とても綺麗だった。
管理した人も、つい最近来たばかりなのではないだろうか。そう思えるくらいに、家の中は掃除が行き届いている。
「さてと、それでは早速始めるとしようか」
「え、えっと……」
そんな家の厨房に、現在私達は集まっていた。
これからバルハルド様が、料理をするらしいからだ。
ここに来るまでの道中で、彼は食材を買っていた。それで何かを作ると聞いた時は、私もエルガドもひどく驚いたものだ。
「バルハルド様は、料理が得意なのですか?」
「得意という程ではない。人並みにできるというだけだ」
「それでも、すごいと思ってしまいます」
「平民であるなら、普通のことだ。料理人や家政婦など雇える訳もないし、いつも外食という訳にもいかないからな」
「そういうものですか……」
貴族である私は、基本的に料理をする必要はない。
一応嗜みとして習ったこともあるのだが、それが身に着いているかは微妙な所だ。正直、ほとんど覚えていない。
エルガドも、料理に関しては疎いようだ。お母様が生きていた頃は作ってもらっており、軟禁生活でも食事は運んでもらっていたらしい。
「さて、エルガド、今回はお前に知恵を授けるために、俺が作るという方法を選んだ。お前にも手伝ってもらうぞ?」
「はい、もちろんです」
「それから、リメリア嬢も手伝うということでいいのか?」
「あ、はい。この機会に学んでおきたいと思っています」
「なるほど、まあそれ程難しいことはない。二人とも肩の力は抜いておけ」
私とエルガドは、バルハルド様の言葉に顔を見合わせることになった。
正直な所、不安でいっぱいだ。本当に私達は、無事に料理を終えることができるのだろうか。
「本当に大丈夫でしょうか……」
「リメリア嬢は、料理をなんだと思っているんだ」
「一歩間違えたら、大惨事になると聞いたことがありますが……」
「エルガド、そのようなことは断じてない。少なくとも、今日用意した食材は安全だ」
不安な私達に対して、バルハルド様は呆れたような笑みを浮かべていた。
そんな感じで、私達は料理を学び始めるのだった。
◇◇◇
結局、料理の大半はバルハルド様がやったといえる。
私もエルガドも、大したことはしていない。食材を洗ったりだとか、炒めたりだとか、そういったことくらいしかしなかったのだ。
「それだけできていれば充分ともいえる。後は包丁の使い方を学び、レシピなどから味付けを学べば良いだけだ。基本的にはそれくらいでできる。プロを志したりするなら、話は別であるだろうが……」
「そういうものなのでしょうか?」
「そういうものだと認識しておいた方がいい。特にリメリア嬢やエルガドはな……」
できた料理を口に運びながら、バルハルド様はそのようなことを述べていた。
今日のメニューは、シチューである。バルハルド様の味付けもあって、とても美味しい。ルヴァーリ伯爵家やヴォンドラ伯爵家の料理人達にも負けないくらいではないだろうか。
「そもそも、俺の料理の腕も大したものではない。単に一人暮らしで必要にかられて学んだだけのことだ。故に大そうなことを言える訳ではない」
「え? こんなにも美味しいのに、そうなんですか?」
「エルガド、それはお前が贔屓目で考えているからだ。自分が関わったものだからこそ、美味しく思えることもある。もっとも、それは最初の内だけだ。何れはそういった感覚はなくなっていく」
「な、なるほど……」
バルハルド様は、淡々とした口調で料理の評価をしていた。
彼が言っていることは、もっともであるような気もする。自分が関わった。それはきっと、美味しさを増す要素であるだろう。
ただ、バルハルド様の料理の腕が大したものではないというのは、謙遜なのではないだろうか。料理の手際なども良かったし、充分に料理上手と言っていいはずだ。
「エルガド、世知辛いことではあるが、自炊するというのは大事なことだ。節約することを心掛けろ。まあ、お前も平民として暮らしていたのだから、その辺りは理解できているだろうが……」
「ええ、それはもうよくわかっています。貴族の暮らしなどよりもそちらの方が馴染みがあると思っているくらいです」
「そういうことなら心配はいらないか」
バルハルド様とエルガドは、何やら庶民的な話をしていた。
そういった話は、貴族である私には理解できない。できれば言葉をかけたい所なのだが、特に言えることもなさそうだ。
「バルハルド様、何から何までありがとうございます。あなたのお陰で、僕はこれからもきちんと生きていけそうです」
「ふ、俺の助力など微力なものだ。何度も言っているが、重要なのはお前自身の努力なのだからな」
バルハルド様は、少し嬉しそうに笑みを浮かべていた。
エルガドは、どこまでも真っ直ぐな好感を持てる性格をしている。同じような境遇であることも含めて、そんな彼を導けることがバルハルド様にとっては、とても嬉しいことなのかもしれない。
◇◇◇
「夜分遅くに、申し訳ありません」
「いや、別に俺は構わない」
夕食や入浴を終えた夜、私はバルハルド様の部屋を訪ねていた。
彼とは、一度話しておかなければならないことがある。そのための話をしたいずっと思っていたのだが、色々とあってこんな時間までもつれ込んでしまったのだ。
夜に婚約者の部屋を訪ねるということには、少々の緊張がある。しかしバルハルド様は平然としているし、あまり気にする必要などはないのかもしれない。
「実はどうしても話しておきたいことがあって」
「ほう、重要な話であるようだな?」
「ええ、重要な話です。その……バルハルド様のお母様のことで」
「む……」
私の言葉に、バルハルド様は彼にしては珍しい程に、目を丸めていた。そんなに意外なことなのだろうか。
いや、そうなのかもしれない。今まで私から、そのことに触れたことはなかったのだから。
「母とは、俺の生みの母と認識していいのか?」
「ええ、ベルージュ侯爵夫人の話ではありません。実は、バルハルド様のお母様に挨拶をしていないということに気付いて」
「挨拶?」
「申し訳ありません。本来ならもっと早くに気付くべきことだったというのに……」
バルハルド様は、呆気に取られたような表情で固まっていた。
それも彼にしては、珍しい表情だ。お母様に関する話だからだろうか。今の彼には、いつものような冷静さがない。
「……なるほど。リメリア嬢が何を思っているかは、理解できた。もちろん、そういうことなら母に挨拶する機会は設けよう」
「そうしていただけると、助かります」
「しかし、それは別に気に病むようなことではない。あなたがするべき挨拶は、ベルージュ侯爵家の範囲で終わっている。それ以上は蛇足というものだ」
「だ、蛇足だなんて、そんな……」
「ああいや、今のは大袈裟な言い方に過ぎない。もちろん、リメリア嬢の心遣いは嬉しく思っている」
バルハルド様は、なんというか温かな笑みを浮かべていた。
家庭的とでもいうのだろうか、貴族や商人としてではない彼の表情が見られた気がする。それが私は、少し嬉しかった。
「それはまあ、大切なことですからね。だからこそ、失念していたのがとても申し訳ないと言いますか……」
「気にするなと言っているだろう。そうだな……明日にでも俺の故郷に行くとするか。母の墓はそこにある。ここからそんなに時間はかからない」
「そうなんですね。わかりました。それなら、明日挨拶させていただきます」
バルハルド様の提案に、私はゆっくりと頷いた。
無事に挨拶の日程が決まったため、私は安心する。これで気掛かりだったことを解決できそうだ。




