第8話 隠されていた子
「……ウルガド兄上は、愚かな人間でした。義姉上の献身にも気付かず、一人で思い上がり、あなたを切り捨てた」
エルガドは、ゆっくりと言葉を発していた。
そこにある感情は、悲しみであるだろう。兄に対するウルガド様への侮蔑なども、あるかもしれない。
しかしそれは、裏返しであるように思えた。ヴォンドラ伯爵家を守る者として、エルガドは兄に期待していたのではないだろうか。
「お義母上は、僕のことを疎んでいました。しかしそれは、当然のことです。彼女の感情に対して、思う所はありません。ひどい扱いを受けたことに関しては、不満がないという訳ではありませんが……しかしながら彼女も結局、愚かな選択をしたといえます」
「前ヴォンドラ伯爵夫人は、少々気性が荒かったからな。それを上手く制御できていたのは、前ヴォンドラ伯爵だった。彼が早逝したのは、私も残念でならないよ」
「色々と考えて、僕はヴォンドラ伯爵家から逃げ出すことにしました。それで、父上が生前渡してくれた手紙に従って、エルヴァイン公爵を訪ねたのです」
エルガドは、懐から一通の手紙を取り出した。
それが件のヴォンドラ伯爵の手紙ということだろうか。
それを見ながら、エルヴァイン公爵は目を細めている。そこに何か、重大なことでも書いてあったのだろうか。
「前ヴォンドラ伯爵は、自分が亡くなった後にエルガドがどうなるか気掛かりだったのだろう。その手紙には私に対する懇願が記されていた。友人の最期の頼みを無下にすることはできない。例えそれが、ヴォンドラ伯爵家を追い詰めることであっても」
「追い詰める?」
「父上は、僕に関することを公表するように手紙に記していたのです」
「なっ……」
前ヴォンドラ伯爵の手紙は、凡そ正気ではないように思えた。
いくら息子が大事だからといって、家を蔑ろにするなんて、驚くべきことである。
不憫な暮らしをしていた息子への手向け、ということなのだろうか。それをエルガドは、あまり望んでいる訳でもないように思えるのだが。
「……僕の存在が見つかってから、父上と義母上の仲は険悪になりました。故に父上は、母上との子供である兄上がヴォンドラ伯爵を継ぐことを快く思っていなかったのかもしれません」
「まあ、この手紙にそれが記されていなかったとしても、私はエルガドが私の元に来た時点で事実を公表することに決めていたのだがね。ウルガド達のエルガドに対する扱いには憤りを覚えている。存在を隠していたことはともかくとして、それ以外の面でね」
エルヴァイン公爵の視線は、エルガドの体に向いていた。
その視線により、私は理解する。彼がどのような扱いを受けてきたのかを。
まさかヴォンドラ伯爵は、そこまで予測して手紙を残していたのだろうか。それはなんというか、あまりにも悲しい事実である。
「……事情はよくわかりました。しかしエルヴァイン公爵、少しよろしいでしょうか?」
「む?」
話が一区切りついた時、今まであまり言葉を発していなかったバルハルド様がゆっくりと口を開いた。
彼の表情は平坦である。今回の件にはほぼ確実に思う所があるはずなのに、彼は冷静を保っているようだ。
「その件を公表するということは、エルガドを苦しめることになるかもしれません。私自身、己が出自によって苦労した故に、少々心配です」
「ふむ、もちろんそれはわかっている。しかし、このままヴォンドラ伯爵家を野放しにしている訳にもいかない。彼らの凶刃が、いつ他者に向けられるかわからない以上、黙っておくことなどはできないのだよ」
バルハルド様の言葉に、エルヴァイン公爵は淡々と言葉を返していた。
エルヴァイン公爵は、お優しい方だ。当然、バルハルド様が懸念していることも、考えてはいるのだろう。
しかし公爵は、同時に血気盛んな所がある。非道には制裁を、そういう人だ。ヴォンドラ伯爵家を逃がすつもりはないだろう。
「ならばせめて、エルガドのことは私に任せていただけないでしょうか」
「ほう?」
「彼と俺の身の上には通じる所があります。無論、俺は彼に比べて恵まれた環境にいた訳ではありますが、それでも多少は理解できるつもりです」
「ふむ、それはもちろんそうだろう。君に預けることに、特に異論はないよ」
バルハルド様の提案に、エルヴァイン公爵はゆっくりと頷いた。
彼はそれから、エルガドの様子を伺う。本人の意思を確かめようとしているのだろう。
「……バルハルド様、あなたの提案はありがたい限りです。しかし、本当に良いのでしょうか? 僕はバルハルド様の役に立てる人間という訳ではないと思いますが」
「役に立つ立たないなどは、今決まることではない。お前が努力し、力をつける意思があるのなら、それはいくらでも覆せることだ」
「……わかりました。それなら、お言葉に甘えさせていただきます。僕自身も、これからどうして行くべきなのかは、決めかねていましたから」
エルガドは、バルハルド様に対してゆっくりと跪いた。
彼の意思も、固まったようだ。それにエルヴァイン公爵は、嬉しそうに頷く。
バルハルド様なら絶対に悪いようにしない。それを理解しているのだろう。
「ふむ、それならエルガドのことは君に任せよう、バルハルド。そうしてくれるなら、私としても安心だ」
「お任せください、エルヴァイン公爵。このエルガドは、私が責任を持って導きます」
エルヴァイン公爵の言葉に、バルハルド様は力強く頷いた。
彼が何を考えているのか、それはわからない。ただ私は、何をするにせよバルハルド様を支えていくつもりだ。それが妻となる私の役目なのだから。
◇◇◇
ヴォンドラ伯爵家が隠し子を有していたという事実自体は、それ程重く受け止められた訳ではない。
体裁的には悪いが、それでも取り返しのつかない悪評などにはならなかったはずである。それは貴族として、そこまで珍しいことでもないからだ。
問題だったのは、それを公表したのが社交界でも名高いエルヴァイン公爵であり、また隠し子に対して暴行を働いていたということだろう。
「エルガドめ、なんということをっ……母上、どうしたらいいのですか?」
「そ、そんなことを私に聞かないで頂戴!」
息子であるウルガドからの言葉に対して、レルーナはゆっくりと首を振った。
自分達が追い詰められているということは、レルーナにもわかっている。そういった時の対処法も、心得ていない訳ではない。
しかし、いくら考えても答えが出てこなかった。レルーナは冷静に考えて、自分達が無傷でいられないことを悟っていたのだ。
「こ、こんな主張は出まかせだと言えばいいのではありませんか。証拠なんて、どこにもない」
「あのエルヴァイン公爵が味方についた時点で、そんなことはできません。彼のことは、あなただってよく知っているでしょう。その影響力は絶大で、彼の言葉を嘘だと思う者なんてまずいない……」
「そ、そんな……」
屋敷から出て行ったエルガドのことを、二人はもちろん捜索していた。
彼の存在は、ヴォンドラ伯爵家にとって不利益だったからだ。
だがそれでも、どこか楽観的な部分はあった。エルガドに自分達を揺るがす程のことができるなんて、思っていなかったのだ。
「エルヴァイン公爵は、どうしてこのようなことを……」
「考えられるのは、あの人よ。私の夫でありあなたの父であるあの男が、エルヴァイン公爵に何かしらの手紙を頼んでいたとしか考えられない」
「なっ、父上が……」
「忌々しい。あの人にとって大事なのは、私達ではなくあの妾の子だったというの……」
レルーナは、自らの夫のことを思い出していた。
既に亡くなった彼に後ろから刺されるなんて、彼女は考えていなかった。何より、彼が妾の子を取ったという事実に、彼女は屈辱を覚えたのだ。
「どうして、こんなことに……まさか、エルガドが言った通り、リメリアと離婚したことが全ての始まりだったとでもいうのか?」
そんな母親を見ながら、ウルガドは茫然としていた。
彼は思い返す。妻だったリメリアや、友だったファナトのことを。
しかしいくら思い返しても、もう遅かった。彼が失ったものは、もう帰ってこないのである。




