第6話 幸福な婚約
私は、バルハルド様とともにとある町に足を運んでいた。
仕事の都合でその町へ行かなければならないバルハルド様に、私が同行してきたのだ。
「いや、バルハルド様、奥様の影響というのはすごいものですね」
「ベルザス、リメリア嬢はまだ俺の妻になったという訳ではない。今はまだ、婚約者の段階だ」
「何れそうなるなら、良いではありませんか。しかし、ここまで上手くいくとは……」
秘書のベルザスさんは、以前会った時よりも興奮しているようだった。
それは今日の商談が、上手くいったからなのだろう。
その商談には、私も同席していた。お得意様が相手だったらしく、婚約の報告も兼ねていたようだ。
「婚約によって利益があったということはわかっている。やはり身を固めていた方が心証は良いということだろう」
「もちろん、その効果もあるでしょうが、リメリア様の出自も商談の成功には関係しているでしょう。英雄ラルバルースの子孫というのは、やはり強力です」
商談の相手に、私がラルバルースの末裔であるということを話すと、かなり盛り上がった。
どうやらラルバルースのファンだったらしく、サインして欲しいと言われたくらいだ。
末裔でしかない私のサインに価値なんてないと思ったのだが、バルハルド様の取引相手ということもあって、一応サインはしておいた。色紙に自分の名前を書くなんて、初めての経験だ。
「まるで舞台女優だとか、そのような扱いで少し驚いてしまいました」
「すまなかったな。俺のせいで、あなたには迷惑をかけてしまった」
「いえ、別に持てはやされることは不快なことではありませんから。むしろ、お役に立てて嬉しいと思っているくらいです」
ラルバルースの血筋という事実は、今まで何度も私のことを助けてくれた。それは今回も、役に立ったといえる。
ご先祖様には、感謝しなければならない。今度、お墓に好きだったとされるお酒でも持っていくとしようか。いや、それはファンの人達が既に持って行っているだろうか。
「いや、奥様はできた奥様ですな? バルハルド様は良き縁に恵まれたといえる」
「まだ結婚していないと言ったはずだが?」
「いえいえ、もう結婚を確定させておきましょう。リメリア様がいると、我らが商会はさらに盤石になるのですから」
「ベルザス、興奮し過ぎだ。それ以上喋られると、俺もその口を物理的に塞がざるを得なくなる」
商談の成功によって、ベルザスさんは冷静ではないのだろう。
年甲斐もなくはしゃぐ彼に、バルハルド様は少し怒っているようだった。
私としては、別に彼の言葉は嬉しいものだ。できることなら、このままバルハルド様の良き妻として生きていきたいものである。
◇◇◇
「リメリア嬢、すまなかったな。ベルザスも普段なら、あのように不躾ではないのだ。今日は予想外の収穫に、冷静さを失っているらしい」
「いえ、別に私はベルザスさんの言葉で不快になったりしていませんよ?」
「しかし俺は、あなたを商談のために妻を迎える訳ではない。あのようなことを言われるのは、正直不快だ」
「バルハルド様……」
私とバルハルド様は、とある場所に向かっていた。
そこに行くということが、私が今回同行した理由だ。その道中で、バルハルド様は嬉しいことを言ってくれた。
「でもバルハルド様、利用できる方は利用した方がお得ですよ。せっかく私を妻にするのですから、ラルバルースの名前は利用していかないと……」
「……あなたは中々に強かだな」
「貴族の令嬢ですからね。強かでなければなりません」
「そういうものか?」
「そういうものです」
バルハルド様は、商人としてとか、ラルバルースの末裔だからとか、そういった理由で私を選んでくれた訳ではないのだろう。
彼は、私の人柄をきちんと見てくれている。それは何よりも、嬉しいことだ。
ただ私は、ラルバルースの名前を使うことに躊躇いなどはない。むしろ積極的に利用していきたいので、それは理解してもらわなければならないだろう。
「……無論、俺も使えるものは使える主義だ。身を固めるべきだと考えたのも、その方が取引先の心証がいいからだ」
「ああ、そういえば、そんなことを言っていましたね……でもそう言いながらも、自分の出自で私が苦労することを心配してくれていました」
「いや、それは……」
「バルハルド様は、お優しい方です。一緒に過ごしていく内に、それがどんどんと理解できてきました。バルハルド様の妻になれることを、本当に嬉しく思っています」
婚約というものは、家のために行うことで、私はその相手についてそれ程深く考えていなかった。そうなるものとしか、思っていなかったのだ。
だけど今は、結婚に対して非常に前向きな思いを抱えられている。それはなんというか、不思議な感覚だ。
「……それについては、俺も同じだ。リメリア嬢を妻に迎えられることを幸福に思っている。良き縁に恵まれたということは、ベルザスの言う通りだ」
「そうですね。本当に良き縁です」
バルハルド様の言葉に、私はゆっくりと頷いた。
そこで頭を過ってきたのは、ウルガド様だ。バルハルド様との縁は、彼がもたらしてくれたものだといえる。
そう考えると、少々複雑な気分だ。急に離婚を言い渡した彼に対して、今になって少しだけ感謝の念が芽生えるなんて、思ってもいなかったことである。
◇◇◇
ヴォンドラ伯爵ウルガドは、窮地に立たされていた。
エルヴァイン公爵との一件をなんとか乗り切った彼だったが、今まで友好的に接してきた貴族達との関係が、悪くなったのである。
「どうしてこんなことになっているの?」
「母上……それは僕にもわかりません」
前ヴォンドラ伯爵であるレルーナの言葉に、ウルガドは苦悶の表情を浮かべていた。
彼自身は、実の所その理由に心当たりがない訳ではない。しかしながら、それを認めるのが癪であるため、口に出せなかったのだ。
「……兄上、理由などは明白でしょう」
「お前は……エルガド」
そんなウルガドの前に現れたのは、彼の弟であるエルガドだった。
亡きヴォンドラ伯爵の忘れ形見である彼は、普段は表に出て来ない。世間にも知られていない隠された存在である。
彼がわざわざ出てきたということに、ウルガドもレルーナも驚いていた。その行為によって、何が待っているか理解しているはずのエルガドが、出てくるはずがないからだ。
「義姉上との離婚が、全てのきっかけでしょう。義姉上の存在の大きさを兄上は履き違えていたのです」
「な、なんだと……」
「エルガド、自分の立場も弁えず出て来たと思ったら、何を言っているの? これだから、売女の子は……」
エルガドの発言に、二人は怒りを露わにした。
ただでさえ、二人はこの妾の子に対して敵意を抱いている。そんな存在が、自分達の行動を非難している。その事実に、二人の怒りはどんどんとヒートアップしていった。
「エルガド、お前はいくつも罪を犯した。一つは我々に断りもなく、出てきたということだ。もう一つは正しい行動をしたこの僕を侮辱したことだ。これは許されることではないぞ」
「あなたのような聞き分けのない子には、しつけが必要ね……まったく、私の手を煩わせないで欲しいものだわ」
父親であるヴォンドラ伯爵が亡くなってから、エルガドはそれまでにも増して苦しい生活を送ることになっていた。
世間に存在をひた隠ししていたものの、ヴォンドラ伯爵がいる間は、彼の庇護によってまだ平和に暮らすことができていたのだ。
その庇護がなくなってからも、エルガドは必死に耐えていた。それは、自分が血を引くヴォンドラ伯爵家を守りたいという思いがあったからだ。
「申し訳ありませんが、僕はもうこれ以上ここにいる気はありません」
「何っ?」
エルガドは、隠していた煙玉を地面にたたきつけて、煙幕を辺りに引き起こした。
そのまま彼は、ゆっくりと後ろに下がっていく。このヴォンドラ伯爵家から、抜け出すために。
「兄上、母上はまだしも、あなたにはまだやり直せるチャンスがあった。良き友人や良き妻に恵まれたというのに、どうしてあなたは間違いを犯してしまったのですか?」
「何を言っている?」
最後に一言を残して、エルガドは逃げ出した。
彼はヴォンドラ伯爵家を断ち切り、生きていくことを決めたのである。




