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2-5. 消えた桐箱

 初日に親族を紹介されたときの茶の間で、佑香(ゆうか)さんが人数分のお茶を出してくれた。俺とシロさん、和孝(かずたか)さん、スーツの男性、女性の五人。佑香さんはお茶を出した後、昼食の準備をするらしく台所へ引っ込んだ。

「すみません、妹を駅まで迎えに行っていて……」

 姿が見当たらなかった理由をそう説明した和孝さんは、俺たちに初対面の二人を紹介してくれた。スーツ姿の男性は弁護士の武田(たけだ)さんと言って、孝蔵(こうぞう)さんとは公私共に長い付き合いだったそうだ。白髪混じりの頭に、顔には深い皺の刻まれた年配の男性だ。今日は俺たちが桐箱について話を聞けるよう、わざわざ呼んでくれたそうだ。武田さんは柔和な微笑みを浮かべ、腰の低い態度で俺たちに挨拶してくれた。

「遺品整理って、お父さんの本とか売っちゃうの?」

 チラリと俺たちを見てから、和孝さんに質問したのは妹の和美(かずみ)さんだ。顔はあまり兄二人には似ていない、三十歳くらいのショートカットの女性だった。今は結婚していて、旦那さんと山形市内に住んでいるそうだ。

 弟の和幸(かずゆき)さんのような露骨な敵対心は感じないが、遺品整理業者と紹介された俺たちを胡散臭いと思っているような困惑した様子は感じられる。

「いや、前に話したが、父さんの大事にしていた桐箱のために呼んだんだ。昨日から探してもらっている」

 武田さんと和美さんは少し驚いた表情を浮かべたが、納得したような相槌を漏らしただけだった。

 あくまで遺品整理業者として紹介はしたけれど、二人には正直な理由を明かしている。俺たちがその様子を意外だと思ったのが伝わったのか、和孝さんは俺とシロさんへ向けて話を続けた。

「私はこの二人が桐箱を持っていったとは考えていません。そう言ってしまうと、昨日紹介した中にいると考えている、と言ってしまうようで心苦しいのですが……」

 そう言って少し言葉を区切ると、

「私はあの桐箱の中身が何だったのかは知りませんが、父が大事にしていたことはよく分かっているつもりです。お伝えしたとおり、我が家の守り神的な存在だった。だから、この家で暮らしていくにあたり、私も手元に置いておきたいと思っています。父はあの世に持って行きたいようでしたが……」

 と、武田さんを見た。武田さんはその視線を受けて、「遺言状にはそう書いてありましたね」と、うなずいた。

「私もあの中身については、はっきりと何だったかは知りません。聞いても教えてはくれませんでした。ただ、たしか生前奥様と付き合い始めてから手に入れたもので、手に入れてからというもの何事も上手くいっているように見えましたね」

 思い出を懐かしむように、武田さんは穏やかな口調で続けた。

「よく『力が湧いてくるんだ』と言っていたのを覚えています。『これを見ると頑張れるんだ』、とも。ですが、決して幸運の壺だとか、水晶やパワーストーンのような曰くありげなものでは無かったと思います。これは私の勝手な推測というか、感覚のようなものですが……話すとき、どこか照れ臭さを隠すような、溢れる喜びを隠しきれていないような、そんな感じがしました」

「そうですか……私はてっきり、何か開運のお札とかが入っているのかと」

 和孝さんはちょっと意外そうに瞳を大きくし、その反応を見た武田さんが慌てて顔の前で手を振った。

「いえ、あくまで私の印象です! 何かを購入した、貰ったという話を聞かなかったので。もしかしたらそういう類の物だったかもしれません」

 二人の会話を、「話の途中で失礼」とシロさんが遮った。

「武田さん、孝蔵さんが遺言状を作られたのはいつですか?」

「亡くなる約一年ほど前です。生前整理はもっと以前から、少しずつ行われていました。それが何か……?」

「いえ、それくらい前なら、亡くなる直前に気が変わってご自身で処分された、またはどなたかにあげてしまった、という可能性もあるのかなと。和孝さんは亡くなる二週間前に桐箱を見たとおっしゃっていましたが、無くなったことに気づいたのは亡くなってから数日後、つまりその間約二週間ちょっとの間、桐箱がいつどのタイミングで無くなったかは分かりません」

 あ、そっか。亡くなったときのどさくさに紛れて盗まれたとは限らないのか。

 探偵みたいな喋り方をするシロさんに対し、和孝さんは納得いかないような表情を浮かべた。

「はぁ……ですがその間、父が外に出ることはありませんでしたし、誰か知り合いが訪ねてくることもありませんでしたよ」

「そうですか。……和美さん、あなたはよくこちらにいらっしゃるんですか?」

 急にシロさんに声をかけられて、和美さんはほんのちょっとだけ肩を揺らした。

「いえ、……たまに、ですね。家も遠いですし」

 和美さんがシロさんから目を逸らしたのが、俺にも分かった。

 シロさんの視線から逃れるみたいで、明らかに怪しくて、なんだか気になってしまう。微妙な空気を察したのか、和美さんは口を開いた。

「父が体調を崩しがちになってから、時々お見舞いには来たんですが、なんか、その……帰った後、私も少し体調を崩してしまうことが多くて。あっ、具合悪いのが移ったとかそういうわけではないんですけど」

 気疲れしちゃったのかな、と和美さんの声は自信なさげにだんだんと小さくなっていった。

「なるほど。ではお父上が体調を崩される前は、もっと頻繁にいらしてたんですか?」

「えっ、ええ、まぁ、そうですね」

 シロさん、なんか尋問してるみたいで、事情聴取みたいになってきたな……。今は探偵っていうより警察みたいだ。

 和美さんの話を和孝さんが否定しないということは、おそらく言っていることは間違っていないんだろう。居心地悪そうに答えた和美さんは、その後昼食の準備を手伝うと言って台所へ向かった。

 和美さんがいなくなってからも、和孝さんと武田さんと少し話をしたけど、特別手がかりになりそうなことは得られなかった気がする。ただ二人との会話の中で分かったことは、孝蔵さんは貧乏な家の生まれだったが、一代でこの大きな家を建てるほどに成功したこと、堅実に実直に生きた人格者で友達や知り合いが多かったこと。しかし奥さんが亡くなってからはしばらく落ち込んで、事業を徐々に縮小していったこと。後年は財産のほとんどを一緒に暮らしていた和孝さんに譲り、静かに余生を過ごしていたそうだ。

「孝蔵さんのお友達やお知り合いは、よくこの家を訪れていたんですか?」

「ええ。ですが数年前に体調を崩してからはあまり……見舞いに来てくれようとする人はいたのですが、父が断っていました。和幸と、それに博兄さんたちはよく来ていましたけど」

 あの博さん家族もよく来てたんだ。どうしても感じの悪い態度の印象が強くて、しょっちゅう見舞いに訪れるような心優しいイメージには結びつかなかった。

「失礼ですが、(ひろし)さんのお父上は孝蔵さんの弟……たしか(しげる)さんとおっしゃいましたよね。そちらは今?」

「茂叔父さんは、五年ほど前に亡くなりました。父と茂叔父さんはあまり仲が良いとは言えなかったのですが、博兄さんたちは昔からよくうちに遊びに来ていました」

「孝蔵さんと茂さんの、不仲の原因をお聞きしても?」

「……借金の申込みです。父と違って、茂叔父さんは自分の事業があまり上手くいっていなかったようで。何度かお金を貸したことがあるそうなのですが、返ってきたことはなかったみたいです。詳しい話は、私もよく知らないのですが……」

 そう言って、和孝さんは武田さんを見た。武田さんはうなずくと、「身内の話なので、公的なやりとりはしていなかったんです。友達として、時々愚痴は聞きましたが」と言って、少し困ったように笑った。

 和孝さんは少し言いにくそうにしながら、

「博兄さんはたまに『うちにもあの桐箱があったらなぁ』と言っていました。父の成功は、あの桐箱の幸運にあやかったものだと知っているようでした。父にも、何度か『中身を見せてくれ』『自分も同じものが欲しい』と強請っていたようですが、見せてもらったことはないようです」

「そうですか」

 シロさんは一瞬台所のほうへ視線をやってから、俺たち四人にだけ聞こえるくらいに声のトーンを小さくした。

「……財産はほとんど和孝さんが受け継がれたとのことですが、和幸さんや和美さんから反発はなかったんですか?」

「和美からは特に。この家でずっと同居しているのは私でしたし、自分は結婚して家を出た身だから、と特に気にする様子はありませんでした。和幸は……」

 言いづらそうに言葉を詰まらせた和孝さんに、初日を思い出す。和幸さんと険悪な言い合いをして、そのあと離れでも、たしか様子がちょっとおかしくなっていた。

「元々、和幸は昔から私や父とそれほど折り合いがよくありませんでした。自分で言うのもなんですが、和幸は比べてしまうとあまり成績が良くなくて、目立った特技などもなく、本人もそれをコンプレックスに感じていたようです。大学からは一人暮らしをしていて、この家にもあまり寄り付かなかったのですが……父の具合が悪くなり始めた頃から家を訪れるようになりました。最初は純粋に心配して様子を見に来たようでしたが、訪れる頻度が徐々に増え、いつの間にか彼女を連れてくるようになりました。それから来るたびに遺産について口に出すようになって、なにかと私に突っかかってきて……」

 離れでも、和孝さんはそんなことを言っていたような気がする。あのときは集まってまとわりついていたものに負の感情が引っ張られたのかと思っていたけど、言っていたことは本心で事実だったみたいだ。

「そうですか。……今、和幸さんと恋人の赤木(あかぎ)さん、それに博さんご家族が滞在されていますが、和孝さんがいてほしいとお願いしたわけではないんですよね?」

 シロさんの問いに、和孝さんは虚をつかれた表情をした。が、一瞬逡巡したのち、「はい」とうなずいた。

「そうです。葬儀の片付けを手伝う、と言ってくれているのですが、正直、やることはもうあまりないので、帰ってもらっても大丈夫だと伝えたのですが……」

 和孝さんは依頼に来たときに、親族が弔問客の対応のため滞在していると言っていた。頼んだわけではなく、自分達から言い出したのか。

「ただ、桐箱が無いことに気付いてからは、もしかしたらと思って……見つかるまでいてもらったほうが良いかと思い、滞在に関しては何も言っていません。妻や子供たちには申し訳ないと思っているのですが……」

 暗に、和孝さんは和幸さんか博さんのどちらかが桐箱を盗んだ、もしくは居場所を知っていると思っているようだ。家の雰囲気が悪くなっていることも承知のうえで、滞在を許可している。一番大変なのは、家事をする佑香さんなのかな。

 最後はちょっと、重苦しい雰囲気になってしまった。けれど、佑香さんがちょうど昼食の準備ができたと告げに来て、その場は一度お開きになった。


 昼食前に一旦荷物を置いてくることにした俺とシロさんは、離れに戻ってきていた。

 ちょっとだけ汗かいたから着替えたい気もするけど、泊まりが長引くならまだ我慢したほうがいいか……体は空腹を訴えていて、さっさと食事にありつきたがっていた。

 レインコートと軍手は処分するつもりでビニール袋に押し込んでいると、シロさんが狐狸(こり)(はこ)をバッグにしまっていた。

「……シロさん。結局、武田さんと和美さんはその箱に全然反応してませんでしたね」

 玄関先で鉢合わせた時、シロさんはわざとらしくビニール袋に入ったそれをひらひらとさせて見せたのだ。和孝さんに何していたのか聞かれて、「床下のゴミを拾いました」なんて言いながら。和孝さんは「そうですか」と少し不思議そうにしていたけど、桐箱を探す一環だとあまり気にしてはいないようだった。武田さんと和美さんは訝しげな表情を浮かべていたけれど、狐狸の箱そのものではなく、むしろそのときはまだ得体の知れない俺たちのことを不審がっている様子だった。

「ああ。もしあの二人のどちらかが犯人だったら、あんなに平然とはしていられないはずだ。二年経っているとはいえ、わざわざこんな物放り込んで忘れているとは考えづらいからな。あの二人がこれを持ち込んだ可能性は無いだろう」

 シロさんはコートを脱ぎながら、淡々と答えた。

「孝蔵さんは知り合いも多かったって言ってましたよね。病気になる前は、家にもよく来てたみたいですし。知り合いの誰かがその箱を置いて、その後は来てない、って線もあるんですかね」

「んー、その線も考えられなくはないが、限りなく薄いだろうな。こんなもの持ち込むくらいの恨みがあるなら、ちょくちょく様子を見に来てもおかしくない。そういう来客があれば、和孝さんの印象に残ってるはずだ」

「じゃあやっぱり和幸さんか、博さんですか。……武田さんの話だと、博さんの家は借金を断られてたって言ってましたよね」

 亡くなった孝蔵さんと、その弟の茂さん――博さんの父親。兄弟でありながら、一方は成功し、一方は事業に失敗して借金を重ねる。博さんは子供の頃からこの家に出入りしていたようだったし、自分の家と孝蔵さんの家の豊かさを対比して見てきた。 自分も桐箱が欲しいと口に出すくらいには、その差を感じていたのか。

「和孝さんの話では博さんは幸運をもたらすものの正体を知りたがっていた。でも見せてもらえず、教えてももらえなかった。行き過ぎた妬み、というのは動機としては充分すぎるな」

「弟の和幸さんより、博さんのほうが犯人っぽいですかね」

「どうだろうな。和孝さんの話では、父と兄のどちらとも折り合いは悪かったようだしな。見舞いにくるくらいだ、親子仲は言うほど悪くなかったのかもしれないが……」

「そうですね……」

 孝蔵さんと和孝さんは、良き父であり良き息子だった。けれど和幸さんにとっては必ずしもそうではなかった。

 弁護士の武田さんが孝蔵さんのことを話していた時の、思い出を懐かしむ表情は嘘には見えなかった。孝蔵さんとは会ったこともないけれど、悪い人ではないイメージを持ってしまう。

「武田さんが、箱の中身のことも話してましたよね。幸運の壺とか、水晶やパワーストーンじゃない、って」

「彼の憶測だけどな。でも、大方合っているんだと思う。力が湧いてくるもの、なんて人によるだろ。君、こないだ梨奈(りな)が事務所で騒いでいたのを覚えてるか?」

「梨奈さんですか?」

 急に何で梨奈さん? こないだ? なんかあったっけ……事務所で梨奈さんが、一人はしゃいでいたことを思い出す。

「あ、ライブのチケットが当たったって話ですね! すごい喜んで大騒ぎしてました」

「そうだ。なかなか当たらないチケットが当たったってんで、『家宝にする!』って言いながらチケットを崇めていただろう。それで、ほら、プラスチックの……」

「プラスチック? ああ、えっと、アクリルスタンドでしたっけ」

 手のひらくらいの高さの透明なアクリル板に、梨奈さんの好きなアイドルがプリントされているやつ。机に置いて眺めてたっけ。

「そう、それだ。見られてると頑張れる、とか言ってただろ。君あれが飾られて、力が湧いてくるか? こないだろ。傍から見たら『そんなものが?』っていうものが、その人にとっては何より大事なものだったりするんだ」

「ふーん……」

 たしかに、武田さんは「照れ臭さを隠すような」とか言ってたような気がする。誰かに貰った物とか、個人的な思い出の品なのかな。

「あ、そういえば和美さんは孝蔵さんが体調を崩すようになってから、来る頻度が減ったって言ってましたよね。自分も体調を崩すって……それも、野狐(やこ)の影響ですかね」

「それはあるだろうな。影響の受けやすさは人による。俺や君ほどじゃなくても、感じやすいタイプだったら、だんだんとこの家の気配が気味悪くなっていったんだろう」

 和孝さんともそうだが、昼食の手伝いに行ったところを見ると、佑香さんとの関係も悪くなさそうだしな。そう言って立ち上がったシロさんは、「さて、もう行こうか」と俺を促した。


 母屋の茶の間に入った瞬間、俺は思わず足を止めた。

 そこには、昨日の初対面時よりもさらに険悪な空気が、澱みのように溜まっていた。テーブルを囲んでいるのは、和幸(かずゆき)さんとサキさん、和孝(かずたか)さん、そして和美(かずみ)さん。和美さんは縮こまるようにして居心地悪そうに箸を動かしているが、向かいの和幸さんは何が気に入らないのか、カチャカチャと音を立てて皿を突っついている。その隣に座るサキさんは、美しい顔を隠そうともせずに不機嫌そうに歪めていた。

「おや、和幸さんとサキさんもお揃いで。お邪魔します」

 シロさんがいつものにこやかな調子で声をかけたが、二人は俺たちの方を見ようともしなかった。返ってきたのは皿を置く荒い音だけだ。

「……すみません、お気になさらず」

 和孝さんが申し訳なさと疲れが混じったような顔で、小さく溜息をつきながら俺たちを促した。シロさんは「いえいえ」と全く気にせず笑顔のままだが、俺は気まずくて視線を泳がせてしまう。

 和幸さんはともかく、サキさんは昨日はもっと、こう……愛想良く笑っていた気がしたんだけど。今日はまるで別人みたいに人相が悪い。つり目をより吊り上げて、口元も歪んでいる。それに、彼女に寄り添われている和幸さんは昨日より顔色が悪く、少し頬が削げているように見えた。

 席が空いていなかったので、俺はサキさんから出来る限り(と言ってもこぶし三つ分くらい)間を空けて隣に腰を下ろした。俺のすぐ隣にシロさんが滑り込むように座る。

「あれ、武田さんは昼食をご一緒されないんですか?」

「仕事の電話がかかってきて、急遽戻られました。何かまだ聞きたいことなどあれば、連絡しましょうか?」

「そうでしたか。いえ、今のところは大丈夫です」

 シロさんと和孝さんの会話が終わるとちょうど、台所から佑香さんが俺とシロさんの分を運んできてくれた。

「お待たせしました。温かいうちに食べてくださいね」

 昼食はソース焼きそばだった。湯気が立ち上る濃いソースの香りは本来なら食欲をそそるはずだけど、この凍てつくような空気の中では、なんだかそこだけ浮いているように感じた。

「ありがとうございます。いただきます……」

 俺がお礼を言って割り箸を割った、その時だった。

「あっ! おじさん、お兄ちゃん」

 廊下からパタパタと足音が響き、夏美(なつみ)ちゃんが茶の間に顔を出した。

「夏美、ご飯は子供部屋に持っていくって言ったでしょ」

 佑香さんが嗜めたが、夏美ちゃんの手には何やらカラフルな紙の塊が握られていた。彼女は俺たちのほうへ駆け寄ると、和美さんの姿を見て「あ!」と声をあげた。

「和美おばちゃん、来てたんだ! ぷち、元気?」

「うん、ぷちは元気だよ。夏美ちゃんも元気そうだね」

「ぷち?」

 シロさんが聞くと、和美さんが「飼っている犬の名前です」と教えてくれた。小柄な柴犬を飼っているそうだ。

「ねえ、これあげる」

 夏美ちゃんが俺とシロさんの前に、小さな手を差し出した。手のひらには折り紙で丁寧に折られた、二匹の犬が乗っていた。

「さっき見てたでしょ。また折ったからあげる。おじいちゃんの部屋のそうじ、頑張ってね」

「ありがとう、夏美ちゃん。大切にするよ」

 シロさんが受け取ると、俺も「ありがとう」とそれを受け取った。

 ――ガシャン!

 突然、隣で激しい音が響いた。

 ビクッとして見ると、サキさんが自分のコップをテーブルに叩きつけていた。中のお茶が激しく飛び散り、テーブルに広がっていく。

「……うるさいわね、さっきから」

 サキさんはジロリと射抜くような冷たい視線を夏美ちゃんへ向けた。その瞳は怒りというよりは、何かおぞましいものを忌み嫌うような、どす黒い感情に満ちていた。

「子供は部屋で静かにさせておきなさいよ!」

 夏美ちゃんから俺の手の中にある折り紙へ視線を移し、彼女は汚物でも見るような目で睨みつけていた。

「……っ」

 固まっていると、すぐそばで息を呑むような声が聞こえた。夏美ちゃんの顔が、恐怖で一瞬にして強張った。大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。

「ちょっと、っ!」

 佑香さんが夏美ちゃんに駆け寄り、肩を抱き寄せた。震える娘を隠すようにして、逃げるように茶の間から連れ出していく。廊下からパタパタと足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

「怒鳴る必要はないだろう!」

 和孝さんが強い口調でサキさんを非難した。首元が赤く染まり、声が少し震えている。怒っているようだが、俺やシロさんの手前堪えているのかもしれない。

 しかしサキさんは和孝さんを睨みつけるだけ、代わりに和幸さんが口を開いた。

「うるさいのをうるさいと言って、何が悪いんだよ」

「お前……! うるさくなんてなかっただろ、ここは俺の家だぞ、文句があるなら出ていけ! 大体、葬儀の片付けを手伝うと言いながら、何もしないで部屋に引きこもってばかりじゃないか! 何しに来てるんだ!」

 和孝さんは余裕がなくなったのか、立ち上がって怒鳴りつけている。負けじと言い返す和幸さんも立ち上がり、怒号が飛び交う中、俺はただ呆然と座っていることしかできなかった。

 和美さんはどうしたら良いか分からないようで、震える手で箸を握りしめながらオロオロと視線を彷徨わせている。シロさんはといえば、嵐が過ぎ去るのを待つように静かに座り、その鋭い視線は和孝さんでも和幸さんでもなく、じっとサキさんの横顔を観察していた。

 サキさんは煩わしそうに和孝さんを睨みつけていたが、ふとその視線が隣にいた俺に移った。

 その時、俺の鼻を強烈な匂いが突いた。

 それは床下で嗅いだあの不快な獣の臭い。だけど、あの時よりもずっと濃く、生々しい。彼女の体から噴き出しているように感じた。

 サキさんは和孝さんを睨みつけたまま、低く、喉を鳴らすような声で言い放った。

「……もういいわ。和幸、行きましょう」

 サキさんは食べかけの焼きそばをそのままに、乱暴に椅子を引いて立ち上がった。和幸さんも糸が切れた人形のような足取りで、彼女の後に続く。

 バタン、と廊下の向こうで襖が乱暴に閉まる音が聞こえ、茶の間には重苦しい沈黙だけが残った。

 和孝さんは力なく椅子に座り込み、額を押さえて深く溜息をついた。和美さんは何も言えず、ただ自分の膝の上を見つめている。

 俺は手のひらの中にある小さな折り紙をそっと見つめた。 夏美ちゃんがくれた、茶色の折り紙の犬。よく見るとシロさんが高そうだと言った柄の折り紙で折られていた。


 和幸さんとサキさんが出て行ったあとの茶の間には、重苦しい沈黙だけが残った。

 気まずい……というか、あまりの豹変ぶりに驚いたし、まだ心臓が落ち着かない。

「和孝さん。午後も引き続き敷地内を調べようと思いますが、買い出しにも行くため少し出かけると思います。調査に必要なものがありまして」

 シロさんが声をかけると、和孝さんは「あ、ああ……よろしくお願いします」と、魂が抜けたような声で答えた。さきほどのやりとりで疲れているようだった。和美さんはまだ焼きそばが残っていたが、小さくごちそうさまを言うと皿を持って立ち上がり、台所のほうへ行った。

 せっかくの焼きそばも、もうすっかり冷めてしまっていた。味もよく分からない食事を早々に終え、俺とシロさんは足早に茶の間を後にした。

 廊下に出て、玄関へ向かう角を曲がったところで、俺は堪らず声を潜めて切り出した。

「シロさん。さっきのサキさん、あれ、もしかして」

「気づいたか? まぁ、あんなに露骨に獣臭をさせていたら、バレバレだな」

 シロさんは足を止めずに、事も無げに言った。

「やっぱりそうですよね。人間に化けてるってことですよね、昨日は全然気づきませんでした……」

「化けるのはなかなか上手いようだが、感情が昂ると詰めが甘くなる。……和幸さんの様子がおかしいのも、彼女のせいだろうな」

 このまま気づかなかったらと思うと、ゾッとする。

 玄関から出ると、シロさんは「さて、俺はちょっと街まで行ってくる」とポケットから車のキーを取り出した。

「さっき言った通り、野狐を追い出すための殺鼠剤を買いにな。君は残っててくれ」

「えっ、一人でですか?」

「どうしても危険を感じたら逃げてもいいぞ。野狐はたいして賢い妖怪じゃないし、直接命の危険があるほどの危害は加えられないはずだが……君は妖怪には好かれやすいしな。……でも、子供たちの様子が気になるだろ?」

 シロさんはそう言って、自分のポケットから、夏美ちゃんがくれたばかりの折り紙の犬を取り出した。

「そうだ、これは君が持っていたほうがいいな」

「え、何でですか?」

「何でって……俺は出かけるから、君が持っている方が役に立つかもしれないだろ」

「はぁ……」

 よく分からないが、引っ込める気はないようなので受け取った。俺のとは柄が違う、黄色と白色の和柄で折られた犬だった。

「すぐ戻る。もし何かあったら連絡してくれ」

 シロさんはそう言い残すと、ひらひらと手を振って、門から出て行った。エンジンがかかる音が聞こえ、白いSUVが動き出したのが見えた。

 遠ざかるエンジンの音を聞きながら、俺は一人、玄関先で立ち尽くした。

 手の中にある二つの折り紙の犬。

 シロさんがいなくなった途端、背後にある巨大な屋敷が、急に呼吸を止めた化け物のように不気味に静まり返っている気がした。

 振り返って室内へ戻るのを、ちょっとだけ躊躇ってしまった。

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