1-4. 記憶の無い男
化粧台を寺へ受け渡したあと、俺たちは相談所に戻った。
ワカコさんと男子高校生を下ろした白椛さんは、俺を送ってくれると言う。
「すみません、ありがとうございます」
「いやいや、俺が付き合わせたんだ」
今日一日乗っていて思ったが、白椛さんは運転がかなり上手い。車の間を縫うように、ストレスなく軽快な運転で街中を走る。
「急に誘って、連れ回して悪かったな。……ところで、君が見てる男二人について聞いてもいいかい?」
白椛さんは少しだけ真剣な口調になった気がする。俺が返事をする前に、「二人はどんな男なんだ?」と質問された。
「どんな、って」
「化粧台の鏡には何も見えなかったと言っていただろ。となると、やっぱり男二人とはよっぽど波長が合うのかもしれない。どんな男たちが見える? 年齢や服装、性別以外に分かることは?」
「年齢……俺と同じくらいに見えます。どっちもたぶん二十後半くらいですかね」
俺自身が何歳なのか、正確には思い出せないが。
「服装はその辺にいる感じ……デニムに古着っぽい緑のチェックシャツ、中は黒で、茶色っぽい靴履いてます。もう一人は……カーゴパンツにグレーのパーカーで、黒いスニーカーです。あ、黒いキャップも被ってます」
思い出しながら、不快な笑みがちらついて嫌な気分だ。
「清潔さはどうだ? 髭が生えてる、服が皺だらけ、逆に襟も袖もピンと張ってアイロンをかけたばかりに見える、とか」
「………黒く、汚れてますね。全体的に」
近くでまじまじと見たことはないが、泥が渇いたような汚れで、服や靴、顔がところどころ黒く汚れている。
見えていたはずなのに、白椛さんに言われて初めてその特徴に気づく。嘲るような笑いを嫌で、なるべく見ないようにしていたせいだろうか。
「そうか」
そう言うと、白椛さんは数分だけ黙ったあと、ポツリと「生前の知り合いかもしれないな」と零した。
「男二人は実は君の知り合いだった、なんてこともあるかもな。……二人が誰なのか気になったことはあるか?」
「………宿泊所で見たときに、誰なのか聞いたことはあります」
見えてないと知って、聞いても意味がないと思っていた。
波長が合う、というのは知り合いだったり、俺と繋がりがあるということなんだろうか。質問してみたが、白椛さんは「さぁな」としか返してくれなかった。
宿泊所に着いたのは、十六時を過ぎた頃だった。
俺を下ろした白椛さんは、特に次の約束はせずにさっさと帰っていった。
虚しさを感じながら、宿泊所の自室へ戻る。夕食の時間にはまだ早い。俺のいる宿泊所では、毎日決まった時間に三食質素な食事が提供されていた。食費は生活保護費から差し引かれている。
着替えもせず、敷きっぱなしだった布団の上に寝転んだ。
ちょっと疲れたな。いつもなら病院の診察が終わったら、帰ってきてゆっくり休養を取る――ぼーっとしたり、テレビを眺めたりしていた。けれど、今日は移動距離も多く、久しぶりに職員や医者以外と話をした。
四畳の狭い室内を見渡して、ため息をつく。備え付けの家具は新品ではない。俺が入居する前、誰かが同じように使ったことがある。そう思うと、生理的嫌悪すら感じるようだった。
仕事を探して、生活を立て直さなきゃいけないと思っていた。早くここから出たい、と。
いつまでも生活保護を受けてこんなところにいるわけにはいかないだろう。記憶が無いこと以外、病気や怪我をしているわけでもない。
……いや、俺は精神病患者なんだった。
だから病院へ通っていたのだ。男二人が幽霊だったと知って病気じゃないと分かったが、医者に「幽霊が見えていただけだった。だから俺は病気じゃない」と言ったら、何と答えるのだろうか。
白椛さんは、たしかそこそこの腕時計をしていた。着ていた服や乗っていた車も、一般的な生活水準より少し上だ。もしあの相談所とやらで雇ってもらえたら、俺もそれなりの給料を貰えるんだろうか。
学歴や職歴も分からない上に、精神病と診断されている今、まともな仕事に就くのは難しい。だからと言って、清掃員や工場で単純作業をするような底辺の仕事はしたくなかった。
ままならない現状に、再度ため息をついた。
いつの間にかウトウトしていたようだ。
ドアをノックする音が聞こえて、意識を取り戻す。壁掛けの時計を見ると、一時間近く経過していた。
立ち上がってドアを開けると、女の職員が立っていた。五十代くらいで、いつも眉間に皺を刻んでいる。笑っているところを見たことがなく、俺を見かけると彼女はいつも病気のことを聞いてきた。
荷物が届いているから早く取りにこいと言われ、着いていく。春先とはいえまだ日は短く、日当たりの悪い施設内は薄暗くなっていた。
心の中で首をかしげる。パソコンもスマホも持っていないから通販もできないし、店先で注文した覚えもない。心当たりがないのだが、女が言うには俺宛だと言う。
「これ、さっさと部屋に持って行ってくれる? 邪魔だから。重くて持てないのよ」
「はぁ」と生返事を返しつつ、玄関すぐそばの受付前に置かれた荷物を確認する。腹の高さほどもある大きい段ボールだった。
「大きな家具を買うようなお金あるんだねぇ?」と隠さず嫌味をぶつけてくる女職員を無視して、送り先や依頼主の名前を探す。しかし見つからなかった。
「伝票は受け取ってますか? 荷物に心当たりがなくて……」
「えぇ? そんなの受け取って無いわよ。さっき、貴方宛だって持ってきたんだから」
いつも来る宅配業者よ、と女職員はあからさまに顔を顰めた。
そう言われても心当たりが全くないのだが、ここで女職員と問答しても意味がなさそうだった。とにかく部屋へ持ち帰るかと、持ち上げようとしたら重くて持ち上がらない。どうしたものかと途方に暮れていると、受付から俺の様子を窺っていた女職員がカッターを貸してくれた。
「段ボールは畳んでゴミ置き場に持っていって。他の段ボールと一緒にして、散らかさないでよね」
俺が散らかしたことなんか今まで無いだろう。受付へ戻る女職員へ、苛立ちを隠して礼を言い、カッターで段ボールを開ける。
中身は茶色い木で出来た、
「ひぃっ!」
俺は思わず声を上げた。咄嗟に数歩、後ずさる。
段ボールを観音開きに開けると、中にはあの化粧台が鎮座していた。
紫色の布はない。暗い箱の中で、鏡がこちらを向いている。
――女がいた。
いや、違う。女たちだ。
一人ではない。何人も。鏡の中に、びっしりと詰め込まれるように。
生気のない顔色。だらんと開いた口から血が垂れている。
ボサボサの髪。鼻血。血走った眼。
そのすべてが、俺だけを真っ直ぐに見ていた。
――「助けて、助けてください!」
――「いやあぁぁぁ! やめて、誰か!」
頭の中で女の悲鳴が響く。映像のように、血と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、懇願する映像が流れていく。
「ひぃ……」と引き攣った声を上げ、俺は震えが止まらなかった。女職員が何か言っていたがどうでも良かった。この場にいてくれるだけで、ありがたかった。
必死に鏡から目を逸らし、距離を取ろうとしたとき――。
ふと背後に気配を感じた。
振り返らない方がいい。
そう感じているのに、身体が勝手に上半身をひねるように振り返ってしまう。
……男が二人立っていた。
数歩分の距離しかない。口元を歪めて笑っている。
こんなに近くで見るのは初めてだった。
ニヤニヤと黄色い歯を見せながら、血の混じった涎を垂らしている。ゾッと背筋が寒くなった。
今までこの二人を怖いと思ったことはなかったはずなのに、込み上げてくる恐怖に吐き気がする。
声が聞こえてくる。
――「どうする? 今日もいつものやるだろ」
――ゲヘヘと、男が締まりのない笑いが耳を汚す。
――「おい、証拠残したらバレるだろ! だからお前みたいな頭の悪い奴と組むのは嫌だったんだよ」
――「悪かったよ、そんなに怒るなよ。なぁ、なんとかなるだろ?」
――顔色を窺うように、決まり悪そうな表情で口元に媚びるような笑みを浮かべている。
「やっ、やめろ!……ひぃ、来るなぁ!」
逃げようとして、足がもつれた。派手に尻餅をつきながら、鏡から、男たちから距離を取ろうと必死に体をばたつかせた。
誰か、何とかしてくれ!
誰か、誰か!
逃げたいのに、体が思うように動かず手が空を切る。力の入れ方が分からなくなって、立ち上がることさえ出来ない。
目の前の男たち、鏡に映る女たち。
俺はその両方に挟まれて、逃げ場を完全に失っていた。




