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3-4. 蜘蛛の糸

 視線を上げれば、空にぽつんと浮かんだ丸い月が見下ろしていた。その光は遠く、辺りは暗い。視界の左右に、その奥を隠すように並ぶ木立が作る影、足下にある土や小石の地面があるような感覚だけが、妙に生々しく伝わってくる。

 真っ暗闇というわけではないが、自分たち以外にはっきりと見える物はない。数メートル先は吸い込まれるような暗闇だった。耳をすませば、時折木々の葉の擦れるような音や水の流れる音、自然の鼓動が小さく聞こえる気がする。誰かが囁くような声もうっすら聞こえる気がするのに、その存在はどれも視界には映らない。

 おそらく俺は、以前にもここへ迷い込んだことがある。ここは、この世から少しズレた曖昧な道だ。あの世でも、この世でもない、けれどどちらにもつながっている場所。

 幽霊や怪異に惑わされて、意図せず入り込んだことは、たぶん数回。ただ、これまでは必ず誰かがそばにいた。祖父や父、そしてシロさん。彼らがいたから、俺は自力で脱出する必要も、その方法を知る必要もなかったのだ。

 ……だが今は、誰もいない。

 代わりに、正体の分からない男が俺の腕を掴んだまま、意味のわからない話を続けている 。

 ふいに、腕を掴む手のひらの感触が、刺すような冷たさで肌に染み込んできた。

 ――やけに冷たい。

 四月の夜風のせいではない。まるで氷の塊を押し当てられているような……石灯籠や水鉢を洗っていたときのことを思い出す。命の熱を一切感じさせない、無機質な冷たさだ。

 同時に、俺の体の中でじわじわと嫌な熱が広がり始めた。額にはうっすらと汗が滲んできている。

 ……見えないと分かっているのに、俺の視線は男の影を探していた。

 人間である証拠が見たかった。男の様子と、手のひらの不自然なまでの冷たさ。

 おそらく、彼は……。

 もし、彼が本当にこっち側の住人ではないとしたら、下手に刺激しないほうがいいかもしれない。

「……あの」

 俺はしゃべり続ける男の言葉を遮るように、恐る恐る声をかけた。絞り出した声は、情けないことに少し震えていた。

「ここがどこか、わかりますか?」

 男はハッとしたように言葉を止め、初めて周囲を見渡した。ふちなしの眼鏡の奥にある瞳は、どこも映していないかのように虚ろに泳いでいる。

「いえ……ここは、どこなんでしょうか。私は……」

 男自身も、自分がなぜここにいるのか理解していないようだった。記憶が混濁しているのか、あるいは自分が死んでいる(かもしれない)という事実さえ、この霧のような暗闇に紛れてしまっているのか。

「……とりあえず、歩いてみますか。じっとしていても、仕方ないですし」

 俺は努めて冷静を装い、震える足で一歩を踏み出した。この場から動くことが正解なのかは分からない。ただ、じっとしているのは耐えられなかった。

 あてもなく、ただ地面の感触だけを頼りにゆっくりと歩き始める。月は変わらず、遠い空に浮かんでいた。

 男は俺の腕を掴んだまま、俺につられるように歩き出した。

 数歩歩くと、また何かに取り憑かれたように独り言を再開した。

「母には、何度も言ったんです」

「探さなくていいって。妻も息子も、もういないんだからって……」

「私はずっと、母に言われたとおりに頑張っていたのに……」

「どうして出て行ってしまったんだろう。どうしたら良かったんだろう……」

 男の早口な独白を耳にしながら、脳裏に、相談所でシロさんから聞いた話が蘇る。

 火事で焼け残った裁縫箱。訪ねてきた老婆の幽霊。老婆は、自分の息子の、出て行った妻と子供を探していた。

 ……話に出てきた老婆の息子って、もしかして今、隣で冷たい手をしているこの男なんじゃないのか。

 そっと男の様子を伺うが、変わらずに独り言を続けている。

 いや、そうだったとして、何の意味があるんだろう。仮にこの男が、話に出てきた男だったとしても、それが元の道に戻れるヒントにはならない。何で俺のところへ現れたのか。

 どこへ向かえば元の道に戻れるのか、見当もつかない。どうしよう、どうしたらいい。焦りが脳内をかき回すが、隣を歩く男の冷たい手がそれを許さなかった。

 男の話はいつの間にか、ひらすら自分の半生を語り続けるものに変わっていた。俺に話しているのか、独り言なのか、よく分からなかったけれど。

「……子供の頃から、母さんの言うことだけを聞いてきました。……父さんは何も言わない人だった。母さんが、私の世界のすべてだった」

「学校に友達はいなかった。……何をするにも時間がかかる子供だったけど、言いつけさえ守れば、母さんは喜んでくれた」

「……テストの点が悪かった夜は、母さんはひどく落胆した顔をするんです。それが辛くて、夜遅くまで必死に勉強しました」

「母さんが近所の人に私のことを自慢している声を聞くたび、誇らしいはずなのに、なぜか胸が締め付けられるように苦しかった……」

 男の言葉に、俺は相槌すら打てなかった。耳を傾ける余裕を奪うように、足元の感覚が変わり始めていたからだ。

 ――ぬかるんでる?

 さっきまで土だったはずの地面が、一歩ごとに柔らかく沈み込む。湿った泥のような、あるいは重たい水のような感触。暗くてよく見えないが、足を踏み出すたびにピチャリ、と何かが跳ねる音がした。

 嫌な匂いはしない。ただ、無色透明の何かに足元を掬われそうな、不気味な感触だけがあった。

「……就職活動も苦労しました。なんとか地元の小さな会社に拾われましたが、すぐに行き詰まった」

「営業成績はいつも最下位。……上司には、毎日叱責される」

「でも、母さんには言えませんでした……」

 男の声は、感情を失った機械のように淡々としている。その不穏なトーンに、背中の悪寒はさらに強まっていった。

「母さんに急かされるまま、お見合いで結婚しました」

「……妻には、仕事が上手くいっていないことは伏せていた」

「そのうち、息子が生まれたんです。息子が生まれて、母さんが喜んでくれた」

「母さんは毎日家に来ましたが、妻は……それを嫌がっていました」

 ぬかるみは、いつの間にか俺の足首を隠すほどに深まっていた。歩きにくい、足が重い。それなのに、隣を歩く男は抵抗など一切感じていないかのように、一定の速度で進み続けている。

「仕事で、取り返しのつかないミスをしたんです。……そのまま、クビになりました」

「……母さんにも、妻にも、言えなかった」

「毎日、仕事に行くふりをして家を出ました。給料の代わりに、借金をして、生活費を渡していました」

「でも、少しして、妻にはバレた。……妻は、子供を連れて出ていきました」

「母さんは……妻を激しく罵りました。孫を連れ去った悪い女だ、必ず探し出して取り返してやると、そればかり憤っていました」

 男の独白は、次第に自責の念に塗り潰されていく。男の辛さが伝わってくるように、足元が重くなっていく。でも今この状況で、かわいそうに思う気持ち以上に、焦りで心臓がバクバクと音を立てながら冷えている。俺には、彼の話を聞いても、どうすることもできないから……。

「でも、私は本当のことを言えなかった。……クビになったことも、妻が出ていった本当の原因も」

「母さんは毎日家に来て、俺に孫を探しに行こうと、言ってきました」

「ずっと……ずっと、苦しかった……」

 その言葉が空気に溶けた瞬間、前方に違和感を見た。

 真っ暗な視界の先に、一筋の光る糸が見えた。空の途中から垂れ下がっているような、中途半端なところから生えているようだ。

 細く、銀色に輝くその糸は、微かに揺れながら俺たちの行く手を指し示しているように見えた。

「蜘蛛の、糸……」

 思わず独り言が漏れた。俺の足が止まると同時に、二の腕を締め付けていた男の手がふっと緩んだ。

 男もまた、その光る一筋を見つめていた。

 虚ろだった瞳に、すがりつくような、異様な熱が宿る。

「蜘蛛の糸……?」

「あれを……あれを掴んで登っていけば、私は……私は、ようやく楽になれるんでしょうか」

 男は取り憑かれたように呟くと、俺の腕を完全に放した。もつれるような、おぼつかない足取りで、光の筋へと吸い寄せられていく。

 自由になった腕に血が通い始めるのを感じて、俺は安堵の溜息をついた。

 けれど、その直後、冷や汗が背中を伝う。

 もし、本当にあれが救いの糸なのだとしたら。あの男があれを登り切り、この世界から消えてしまったら、俺はどうなる?

 出口も分からないこの暗闇に、一人きりで取り残されるのか。

「待っ……」

 俺はたまらず、男の背を追った。

 奪い取って、自分が先に登りたいわけじゃない。そんなことは絶対に考えてない。

 でも、一人取り残されるかもしれないことへの恐怖が、勝手に足を動かした。

 ビチャリ、ビチャッ。走るたびに水に足を取られるけれど、必死に追いかけた。

 男が糸のすぐ側まで辿り着いた。男は手を伸ばし、その細い光を両手で掴み取る。

「これで……これで、私は……」

「今まで、頑張ってきたんだ……」

 震える声で希望を口にしながら、男は懸命に体を引き上げようとした。だが、糸が垂れ下がっている位置は絶妙に高かった。手で掴むことはできても、足をかけて体重を預けるほどの長さが足りない。

 男はまるで宙を泳ぐように、不格好にもがいている。その必死な様子を数歩後ろで見つめていた俺は、ふと、ある違和感に気づいて息を呑んだ。

 ――光って、ない?……糸じゃない。

 男が掴んだ途端、神秘的な輝きは霧散していた。そこにあるのは、何の変哲もない、一本の麻のロープだ。

 男が悪戦苦闘を続ける中、その向かい側で何かが揺れているのが見えた。男がもがけばもがくほど、その影は激しく、不自然にゆれ動いている。

「くそっ……重い、なんだこれ……っ」

 男の呻き声が響く。よく見れば、男の向かい側で揺れているのは、苦悶に身をよじる人間のシルエットだった。

 心臓が早鐘を打ち始める。

 ロープは、男の目線より三十センチほど上の暗闇で、まるで見えない梁か何かに折り返されているようだった。そして、その折り返されたロープの先が、一つの大きな影を吊るし上げている。

 それが何であるか気づいた瞬間、俺は声が出そうになって、咄嗟に自分の口を両手で押さえた。

 そこにぶら下がっているのは、他でもない、目の前でもがいているこの男自身だった。

 男もまた、同時に気づいたようだった。向かい側で、ロープに首を預けて揺れている自分の姿に。

 もがくのをやめた男の全身から、力が抜けていく。男は虚空を見つめたまま、静かに、すべてを受け入れたような声で呟いた。

「そうか……そうだ」

「……私は、死にたかったんだ」

「ずっと……ずっと苦しくて……ただ、楽になりたかったんだ……」

 男から、だらんと力が抜けた。抵抗をやめ、己の終わりを受け入れたその姿は、あまりにも脆く、そして静かだった。

 その様子を見届けるのと同時に、足元に溜まっていたはずのぬかるみが、ものすごい勢いで水嵩が増し始めた。

「――っ!?」

 冷たい感触がふくらはぎを叩き、膝を越え、瞬く間に太ももまでを濡らしていく。驚いて逃げようとするが、全方位から押し寄せる水に、どこが道だったのかさえ分からなくなった。

 水は止まらない。腹を、胸を、そして喉元を、容赦のない冷たさが飲み込んでいく。

 なすすべなく水に飲まれるしかなくて、体が浮力に翻弄されて浮かび上がった。肺の空気が漏れ出し、体の芯まで凍えさせるような水温に歯の根が合わなくなる。

「うっ、……げほっ、……!」

 口に入ってきた水を吐き出して、顔だけはなんとか水面から這い出す。

 暗闇の水面が、時折淡い月の反射で光っているが、どこまでも続いているように見える。

 なんとか辺りを見渡したとき、視界の隅で、ゆっくりと沈んでいく男の姿が見えた。

 先ほどまでの、苦悶に身をよじっていた表情はもうどこにもない。そこにあるのは、眠りにつく子供のような、安らかで穏やかな微笑みだった。

 一瞬、その手を掴もうと手を伸ばしかけ――けれど、俺はそれを止めた。

 これからどうすればいい。泳げば出られるのか? でもどこへ向かって? 寒くて冷たくて、思考がまとまらない。

 その時、少し離れた場所に、再び天から光る糸が垂れているのに気づいた。

 また、か……?

 必死に水をかき、その光を目指して近づく。けれど、恐怖と疑心が胸を刺す。もしあれもまた、さっきと同じで近づいたら、ロープかもしれない。掴んだ先にあるのが、変わり果てた自分自身の姿だったら……。

 けれど、震える手で掴んだその感触は、麻のザラつきではなかった。

 糸ほど細くはない。指先に伝わるのは、しなやかで力強い繊維の感触。それは、暗闇の中でうっすらと緑色に光を放っていた。

 ロープ、じゃない……?

 これはなんだ。見たことがある。この感触を知っている。

 それが何なのかを思い出す前に、また水が爆発したような勢いでせり上がってきた。緑の光を離すまいと必死に掴んだまま、俺の意識はごぼごぼと濁流に飲まれていった。


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